佐藤信介監督、大泉洋有村架純長澤まさみ吉沢悠塚地武雅岡田義徳片瀬那奈徳井優ほか出演の『アイアムアヒーロー』。R15+

原作は花沢健吾の同名漫画。



かつて新人賞を獲った漫画家アシスタントの鈴木英雄(大泉洋)はそれから15年経つ現在も再デビューできず、同棲していた恋人の徹子(片瀬那奈)にアパートから追い出されてしまう。やがて彼女に異変が起こり、国中に謎の奇病が蔓延し始める。“ZQN(ゾキュン)”と呼ばれる感染者たちは肉体が死んだ状態で活動し人間や動物に噛みついて、町中に同じ症状の者が増え続けていた。英雄は逃げる途中で出会った高校生の比呂美(有村架純)とともに、ウイルスが生存できないといわれる富士山に向かう。


花沢健吾原作の映画は、これまでに『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を劇場公開時に観ています。

その後『ボーイズ~』はTVドラマ化もされて、そちらもなんとなく観ていました。でもどちらも原作の前半部分だけで完全に映像ドラマ化はされていないんですよね。

花沢さんの漫画は「ルサンチマン」が好きだったんですが、そちらはまだ映像化されていないようで。

とても共感できるテーマだったので、いつか映画化してほしいんですが。

で、この「アイアムアヒーロー」はいわゆる「ゾンビ物」という奴なんですが、正直、個人的に“ゾンビ”にまったく興味がなくてこの映画も最初は観るつもりがありませんでした。

実は原作漫画はちょっとだけ読んだことがあるんですが、でも最初あくまでも漫画の連載を目指す冴えない主人公の日常を描いた人間ドラマだと思っていたから、途中でいきなり「ゾンビ漫画」に変貌して驚いて読むのやめてしまったのでした。

非日常的なゾンビの話とかどーでもよく感じられてしまってガッカリした。

それにしても、『桐島、部活やめるってよ』でもフィーチャーされてたけど、みんなゾンビが好きですよね。

僕はこれまでにジョージ・A・ロメロ(※ご冥福をお祈りいたします。17.7.16)の『ゾンビ』や『死霊のえじき』(これは自分が初めてヴィデオレンタル店で借りた映画だった。友だちのチョイスだったんですが)、『ゾンビ』のリメイクであるザック・スナイダー監督の『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『オメガマン』のリメイクでウィル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の「バイオハザード」シリーズなどを観たことはあるから、怖かったり残酷だからゾンビが嫌とかいうんじゃなくて、単に興味がないんです。

だからゾンビ映画のパロディで評判のよかったエドガー・ライトの『ショーン・オブ・ザ・デッド』も未見。

ロメロが生み出した集団感染者、人肉食者としてのゾンビは人間のメタファーで、大量消費社会やヴェトナム戦争当時の政府への批判が込められている、というのは知識として知っているし、その要素が現在のゾンビ映画にも受け継がれていることは映画史的には重要だと思うんだけど、単体のクリーチャーとしてはゾンビはそれほど面白味があるわけじゃないし僕はもっと個性的なモンスターや怪獣の方が好きなので、ゾンビ映画を続けて何作も観たいと思わない。

ですが、こちらはいまだに観ていない『ちはやふる』二部作同様にちまたでの評判がいいので、ここのところ「邦画のレヴェルが低下している」などと批判されたりしているからこそ、このような多くの観客に支持されている最近の日本映画をちゃんと観ておきたい、と思って劇場へ。

ゴールデンウィーク中は映画館が混みすぎてて観られず、日を改めて鑑賞。

以上のように、僕はゾンビ映画への思い入れがないし原作漫画もちゃんと読んでいないので、そういう人間が書いた感想です。1本の独立した映画としての評価ですからご了承ください。

これ以降はストーリーのネタバレがあるので、未見のかたはご注意ください。



結論からいうと、面白かったです。娯楽映画として、スプラッタームーヴィーとして単純に楽しめる。

もちろん血しぶきとか脳漿が散乱したりする残酷描写が苦手な人はやめておいた方がいいですが、逆にそういうのが好きな人は全篇結構ド派手にぶちかましてくれるので満足できるはず。

リアルな特殊メイク、撲殺や刺殺、ショットガンでの頭部破壊など一見暴力的ではあるけれど、そのほとんどが一瞬でケリがつくので執拗でサディスティックに肉体的な痛みを感じさせる描写はほぼないし、1980年代のホラー映画のようにマニアックなグロというか、蛆が湧いたり臓物デロリの臭ってきそうな「汚さ」もないからそこんとこはホラーファンの間では好みが分かれるかもしれないけど、おかげでイヤァ~な後味を残さずに観られます。

ブリッジして変な動きをするスパイダーウォークみたいなキモ可笑しい場面もあって、ホラーコメディの要素も強い。




ただし、先ほど述べたように僕はゾンビ映画そのものへの愛着が薄いので、後半アウトレットモールでのゾンビ=ZQN(ゾキュン)たちとの戦いが延々続くと話が進まなくなって若干退屈してしまったのでした。

ショットガンの連発もあんなに長々とやられるとさすがに飽きてきて。あれは撮影に実銃を使ってるそうですが、意外とありがたみもなかったし。一人でどんだけ弾持ってんだよ、と。

岡田義徳演じるサンゴがZQNたちに囲まれて顎を引き裂かれる場面とか吉沢悠演じるクズ男の伊浦の目ん玉ブチュッなど『死霊のえじき』や『死霊のはらわた』っぽかったり、ゴルフクラブのフルスイングは『ゾンビランド』とか(あちらは金属バットだったが)いろいろと過去のゾンビ映画へのオマージュをやったりしているんだろうけど、そのあたりは知らない人間にとってはゾンビ映画ファンのような感動はないので。

なぜか下半身は白ブリーフのめちゃくちゃしぶとい“高跳びZQN”がやたらと記憶に残ったけど。




だからこの手のジャンル物が好きな人とそうでない人との温度差、評価の違いってのはあるでしょう。

80~90年代ぐらいの和製スプラッター物ってどうしても低予算なのが見え見えだったり技術的に拙い部分が目立つのが観ていてキツいものがあって、その後デジタル技術の進歩で安価で血しぶきエフェクトが可能になって、それでもどうしても全体に漂う安っぽさが拭えなかったんだけど、そういう意味ではこの『アイアムアヒーロー』はついに邦画でこのレヴェルの作品ができた、という記念碑的な作品だとは思う。

特に前半で町が大変な事態になっている様子などは、ロケ撮影の臨場感も合わさってとても見応えがある。VFXやゾンビたちの造形なども丁寧にされていて目立った粗がない。

何よりも見知らぬアメリカの風景などではなく、日本を舞台にした日本の映画であることに親近感や喜びも感じる。




町なかでのパニックシーンや車の横転シーンは秀逸でした




実際には韓国で撮影されている場面もあって、でも言われなきゃわからないのでそのあたりも成功してますね(三池崇史監督の『藁の楯』では新幹線のシーンを台湾で撮影していたが、日本にはないカラーリングの新幹線で海外ロケだということがわかった)。

僕はてっきり町なかでのパニックシーンが韓国でアウトレットモールは日本だとばかり思っていたんだけど逆だったようで、後半のアウトレットの場面は韓国で撮影されたとのことなので、そこは率直にスゴいな、と。

だってバックに富士山写ってたから。じゃああれは合成なんだろうか。

英雄が見上げる空にたくさんの飛行機が飛んでいる場面も、現実には不可能なことだから合成なんだろうと思うけど、まったく違和感のない出来でした。

そういう技術的、演出的に優れた点というのはこういうジャンルには疎い僕でもわかったし、ショボさを感じずに観ていられる安心感、安定感があった。

この映画が面白いのは、ホラー映画なんだけどどこかすっとぼけた部分もあって、それは主演の大泉洋に負うところが大きい。

駆込み女と駆出し男』でも見せていたような彼の飄々とした、シリアスな場面でも完全に二枚目になりきれないところが妙なおかしみを醸しだしていて、絶望的な状況なのに気が滅入らない。

主人公は冴えない男、という設定だけど、たとえば『ボーイズ・オン・ザ・ラン』のようなほんとのクズ男とまではいってなくて、報われないが真面目に努力だってしているし、何より下ネタに走らないので観ていて主人公に嫌悪感を抱くこともない。

そこも大泉さんのキャラのイメージに合ってて、だから視覚的には残酷なシーンが頻出するけど、あとを引かない。

クソ野郎は全員ぶっ殺されるから爽快だしw

恐怖というよりは、派手な人体破壊の気持ちよさの方が勝る。

思いの他女性のお客さんが多かったんだけど、極端な下ネタや直接的なエロ描写がないおかげで気まずくなったり不快な気分にならずに済む、というのはあるかも。皆さん観終わったあとで、お連れさん同士で笑いだしながら互いに「疲れた~^_^;」って呟いてて可笑しかった。

予告篇観たらゾンビ物だってことはわかるはずだから、結構女性でホラー好きな人は多いってことですかね。

だから普段ホラー系の映画を観ない僕も、観終わったあとに(昨年観た『ヴィジット』の時のように)後悔することはありませんでした。

多くの人たちがこの映画を高く評価したのはわかる気がする。


一方で、ではこの映画は一体何について描いていたのだろう、と考えてみる。

観終わってまず思ったのは、これはすべて主人公・英雄の妄想だった、というのも充分考えられるよな、ってこと。

彼は同じ職場のアシの先輩から見下されていて、そういう現実から逃避するために「妄想」したりする。漫画雑誌(ってゆーか『バクマン。』といい、漫画家ネタ多いな)の編集部では持ち込みの漫画を編集者から無造作につき返されて、恋人には愛想を尽かされ家を追い出されてホームレスと並んで夜のベンチに寂しく腰掛けたりしている。

 
同業者たちへの恨み節が炸裂

その延長線上として、自分をZQNという非日常的な脅威から女子高生を守るヒーロー物語の主人公に見立てて彼が脳内で「妄想」したのがこの一連のゾンビパニックだったのではないか、と。

まぁそう考えると哀しくてしかたがない話ですが、花沢健吾の漫画にしばしば登場する、主人公が執着する美少女と語調が強めな姐御っぽい女性キャラ、というのがこの作品にも出てきて、英雄にとっては彼女たちだけが真に守るに値する存在として描かれる。

映画で長澤まさみが演じた藪(=小田つぐみ)は原作では途中で死ぬそうだから、最終的に英雄が守るべきなのは比呂美だけということだ。

彼女たち以外の人々は、仮に善良な人間であっても英雄にとってはZQNであり、つまり奇病に感染した“その他大勢”の死体に過ぎない。

付き合ってるカノジョも彼に対して無理解なために醜く変貌して奇怪な動きをする気持ちの悪い生き物になる。そして英雄の漫画新人賞の記念トロフィーを粗末に扱ったために、最後はそれが頭にぶっ刺さって死ぬ。

逆に女子高生の比呂美はZQNの赤ん坊に噛まれても感染の速度はきわめて遅く、同じく恋人に噛まれた英雄も感染しない。

どちらも歯がない者に噛まれたから、という理由付けはあるが、他の者たちがあっという間に噛まれて速攻で感染していく姿を描きながら主人公とヒロインはけっしてそうはならずに無事、というのは都合がいいっちゃ実に都合がいい展開ではある。

だからそこはアメリカのアクション映画などと同様に、主人公たちが絶体絶命の危機に陥るサスペンスというのはさほど感じなくて、後半になればなるほどだんだんどうでもよくなっていってしまう。ちょっと単調にも感じたクライマックスの銃撃戦によってそれは加速される。

原作は今も連載中だし(※その後、2017年に完結)、映画の方もこのヒットを受けて続篇が作られるかもしれないので今後のことはわかりませんが、1本の映画としては描ききれていないところがあって、たとえばなぜ比呂美は人間とZQNの属性を同時に持ったままなのか、とか、「ヒーローとはなんぞや」という考察など、ゾンビ物でありながら深く掘り下げれば掘り下げられるテーマなので、もし続篇が作られるならぜひそこはもっと突き詰めていただきたいな、と。

僕は世間で評判のよかった『バクマン。』の映画化作品に対してかなり厳しめの評価をしたし、こういうこと書くとまた「みんなが“面白い”と褒めてるのに、そーやってなんでもかんでもすぐに文句言う」と思われるかもしれませんが、『バクマン。』での女子高生のヒロインの描写があまりに薄っぺらかったのが不満だったように、この映画版『アイアム~』の比呂美もやっぱり「制服を着た動くフィギュア」的に描かれているのが気になったりもした。

比呂美が女子高生であること、高校の制服を着ていることには付加価値が与えられていて、そこにこの国の制服姿の女子高生にこだわる男性たちの心性が垣間見えて興味深いんですが。試しに彼女が制服を着ていなかった場合を想像すると、おそらくそのキャラクター的な魅力は半減するのではないだろうか。

私服じゃ女子高生かどうかわからないから、まず「女子高生」であることが重要なんである。だからコスチュームとしての制服を着せる。

そりゃ僕だって、主人公の相棒が“おっさん”よりは女子高生の方がいいですけどね。

でもなぜ女子高生なのか。成人した大人の女性でもいいでしょうに。なんでみんな女子高生のことがそんなに好きなのか。

比呂美については原作にはある彼女の過去を描かずにほのめかす程度で敢えて謎めいた人形的な美少女にしたことで、英雄が考える「ヒロイン像」というものがより一層際立つところもあって、だからここで僕は単に批判しているのではなくて、日本における「女子高生」というアイコンは「ヒロイン」というものを考える時に結構重要ではないかと思うのです。

「目を覚まして!」と言って英雄を責め立てて追い出す現実的な女性である34歳の徹子と、「英雄(ひでお)君といると大丈夫な気がする」と言って無条件に彼を受け入れてくれる女子高生の比呂美(明らかに年上の男性を、なぜ彼女が“君”付けで呼ぶのかよくわからないのだが)。

どちらが彼にとって理想のヒロインとして描かれているかは明らかだ。

ZQNになりかけの比呂美は片目が変形していつもは表情の変化に乏しく昼間でも眠っていて足手まとい気味なところもある一方で、感染によって人間以上の身体能力を身につけていてしばしば英雄を救いもする。

その「守るべきかよわさ」と人間離れした超人的な力を併せ持つ“戦闘美少女”的な特徴もまた、日本の創作物のヒロインに散見するものだ。

そこにはそもそも原作者の花沢健吾が持つ女性不信というか、もっと言ってしまえば女性に対するコンプレックスやルサンチマンが高じていろいろこじらせてしまった男性特有の女性蔑視(彼がWikipediaに書かれているように「日本は“女尊男卑”」だと本気で思っているのならなおさら)の裏返しからくる、現実の女性を超越した巫女のような美少女への憧憬がある。

それはこの作品に限らず日本の創作物の多くに見られる、非常に幼稚な発想なのだが、そういう男性の画一的かつ一方的な願望、妄想に対する批判的な視点というのは残念ながらあまり目にすることはなく、この作品でも作り手自身に自覚がないから最後はそんな理想のヒロインとともに主人公は生き延びて映画は終わる。

繰り返すけど、これは英雄の「妄想」なんだよね。

だからハッピーエンドのようでありながら、ちょうど漫画「ルサンチマン」で描かれていたように主人公の願望が自分を信頼して無条件に受け入れてくれる女子高生ヒロインという「妄想」という形で現われて主人公を救う(救われたような気になる)、ある意味絶望的なラストでもある。

ずっと無表情な有村架純が時折見せる笑顔は、確かに魅力的ではあるのだけれど。

ここには日本の女性問題(それは実際には“男性問題”なのだが)についての興味深いサンプルがある。

アウトレットモールに君臨する伊浦の他人をゴミとしか考えていないところや藪への「俺とヤリたいんだろ?」という言葉に見られるような極端なゲスっぷりは、時にTwitterなどで露悪的な発言もする原作者の中にある世間と女性への怨念が反映されているんではないか、と勝手に想像。

 


伊浦のキャラも、ちょっと『死霊のえじき』に出てきた軍人を思いださせるが。

ZQNになって「マ~マ~、マ~マ~」と言いながら藪たちに迫ってくるとことかすっごくキモくて、あぁ“ゾンビ”っていうのは生身の人間の持つ気持ち悪さを増幅させた存在なんだな、って思った。

『ボーイズ・オン・ザ・ラン』でも、人間としてはゲスの極みだが「モテて仕事のできる男」とモテないダメ男である主人公が対比されていたけど、この映画版『アイアム~』では伊浦のクズっぷりと英雄の人としてのまともさが非常にわかりやすく比較されている。

人のよさそうな大泉洋の好演と伊浦を演じるイケメンの吉沢悠の薄気味悪さによって、ハッキリと「ヒーローかくあるべき」というメッセージが発せられている。

ただ、ダメ男が一念発起して頑張って最後にヒーローになる、という話を撮りたいのであれば、頼りがいのある女性の藪や美少女・比呂美をもっと活躍させたうえで彼女たちの危機についに彼が立ち上がる、というふうに演出した方がよかったんじゃないだろうか。

英雄は最初の比呂美との出会いの頃からわりと頑張りを見せるし、終盤でのヘタレぶりもあまり目立たない。だからそんなにダメな奴には見えないのと、彼がぎりぎりまで銃を撃つことを躊躇する理由がわからない。

全体的に映画版の英雄はそんなにダメ男としては描かれていなくて、自己実現できずにもがいてはいるが現実逃避しているという感じもしない。実は劇中で「妄想」も繰り返してはいないし。漫画家のアシスタントの仕事場での自分を奮い立たせるたわいない妄想を除けば(それと町なかでショットガンを撃ってZQNを撃退したと思ったら…という場面ぐらい)、あとはアウトレットモールで何度も頭の中でZQNたちの中を走り抜ける場面をシミュレートするだけで、あれは妄想というよりも単に可能性を予測しているだけだ。

たとえば女子高生の比呂美に対する卑猥な妄想だって描けたと思うが、そういうクズな性的妄想を彼は直接的に抱くことがない。お相手がアイドル女優の有村架純だからエロはご法度、ということもあるんでしょうが、さっき書いたように大泉洋のキャラクターもあると思う。

大泉さんって、下ネタほとんどやりませんから。

ところで、そんな英雄が比呂美の制服の首の部分から胸元を覗きそうになって思いとどまる場面があるが、その時に英雄は「淫行で捕まる」と呟く。




何気ない一言に対していちいち言葉尻を捉えるようでなんですが、彼は「捕まるからやらない」のであって、そういうことは人間として許されないからやらないのではないところに注目する必要がある。つまり、もしも警察に捕まらないのなら未成年相手に平気で性犯罪に及ぶ可能性がある(成人相手でも立派な犯罪ですが)ということ。彼に限らずそういう男は多いのだろう。

ここでも作り手が無意識のうちに多くの日本人男性の中にある性にまつわる問題点を露呈させている。

映画で英雄を必要以上に生臭くて嫌な男、つまり現実の男性のような欠点を持つ主人公にしなかったことで前述したように爽快感が残ることになった反面、問題が山積している現状を「妄想」によってチャラにして女子高生と出会いたい、という彼の邪まな考えは正当化されている。

本来、日常生活の中で35歳の男と女子高生には接点などないはずだ。

中年男が女子中学生や女子高校生を拉致監禁する事件が頻発するようなご時世に、その問題点については観る側はちゃんと意識した方がいい。

彼はヒーローにはなっていない。彼自身、最後に藪に「ただの英雄(ひでお)です」と名乗るが、それは本当にその事実を自覚したことを意味するのだろうか。

たかがゾンビを描いた娯楽作品なのにさっきから何言ってんだこいつ、と思われたかたもいらっしゃるかもしれませんが、劇中で英雄がぶっぱなしまくるショットガンは男根のメタファーだし、ゾンビをはじめ昔からホラー映画には性的な隠喩が多分に含まれている。

だからこの映画を観て、日本人男性の旧弊な女性観や女性蔑視について考えを巡らすことはけっして的外れな行為ではないと思います。

「バクマン。」の原作漫画における主要登場人物の女性観の問題点もそうでしたが、漫画という「日本が世界に誇れる文化」と劇中で英雄が豪語するメディアに(まるでZQNのように)蔓延する女性蔑視的な視点についての考察は今後はもっと必要になってくるでしょう。

要するに、クリエイターだけでなく日本人のすべての男性が意識を変えなければ、これからも女の子をフィギュアのように描いてそれを理想視する漫画や映画が量産されていくということ。それは世界に誇れることだろうか。

これの何が問題なのかわからない、という人はもうちょっとよく考えた方がいいと思う。ディズニーアニメの『ズートピア』で描かれていたのはまさしくそういうことでもあるのだから。

これからのヒロインは、男性だけに都合のいい「可愛いだけの美少女」や「エロいだけの美女」のような空っぽな存在ではダメなのだ。

僕は、英雄が真のヒーローになるのは、「女子高生」という妄想を捨てて“目を覚まして”恋人の徹子の許に帰っていくことじゃないかと思う。

あるいは最後に独りきりになるとかね。このクソつまらない日常から俺を救ってくれる美少女なんていないんだ、と気づくこと。

自分のためではなく、自分以外の誰かのために戦える人間になること。

ちょっと、自称スーパーヒーローの病んだコスプレおじさんが暴れるジェームズ・ガン監督の『スーパー!』に通じるものがありますが。

最初に書いたように、僕はこの映画を楽しみました。

迫力ある場面、ちょっと笑える要素、娯楽映画としての魅力が詰まっていた。

そして「何も考えずに楽しめばいい娯楽作品」だからこそ、そこには問題点も含まれている。

問題に気づき「考える」ことは「映画を楽しむ」ことの一環であって、そこからいろんな議論が生まれるのは結構なことだ。

エロや差別的な表現がダメなのではなく、作り手や観る側がそれをどれだけ意識しているのか、ということが重要。そこにどんな意図が、意味が込められているのかによって同じような描写でも作品の価値はまったく違ってくる。

「漫画」を本当に「日本が世界に誇れる文化」にするためには、僕たちには果たすべき課題があるということだ。


…なんか偉そうなこと書いてますが、全部自分に跳ね返ってくることだし、日本人の読者や観客として無自覚なまま恥ずかしい作品を自信満々で世界に送り出したくないので、そこは日本人である自分たちの意識の持ちようが大事なのではないか、と。

無い頭を使ってまたしてもあれこれ考えてたらほんとに疲れたので、次は変態仮面の感想を書きますよ。



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