原田眞人監督、大泉洋戸田恵梨香満島ひかり内山理名陽月華堤真一武田真治神野三鈴北村有起哉キムラ緑子木場勝己樹木希林山崎努出演の『駆込み女と駆出し男』。

原案は井上ひさしの「東慶寺花だより」。



天保十二年(1841年)、わけあって縁切寺である鎌倉の東慶寺に駆け込んだ女性たちと医者見習いで戯作者志望の男の交流を描く。


江戸時代繋がりで、先週観たアニメ『百日紅~Miss HOKUSAI~』に続いてこちらは実写の時代劇。

映画の冒頭近くで女体に絵を描いて堤真一演じる堀切屋三郎衛門と会話する絵師・渓斎英泉山路和弘)は、『百日紅』でヒロインに「ヘタ善」呼ばわりされていた居候の池田善次郎その人だったりする。

また山崎努が演じる曲亭馬琴(滝沢馬琴)の戯作には、一時期葛飾北斎が挿絵を描いていた。

繋がってますねぇ。

確かにここんとこちょっと「江戸時代モード」だったので観たというのもあるけど、実際いろいろと繋がってるんだなぁ、って思って、そのおかげでより映画に入り込めた気はする。

さて、大泉洋主演の映画はこれまでに何本もあるけれど、僕が映画館で観たのはこれが初めて(『アフタースクール』と『探偵はBARにいる』はDVDで鑑賞)。

まぁ、『清須会議』も後半は彼が主役みたいなものだったけど。

大泉さんについては、基本的にいつも演じてるキャラは同じだなぁ、という印象。コミカルな部分を多めにするか、シリアス風味を効かせるかの違いぐらいで。

たまに出るヴァラエティ番組でも見せる彼のあのひょうきんで巧みにイジられキャラを演じているところが魅力なんだしそれが悪いと言っているのではありませんが、けっして演技の幅が広い俳優さんではない。

だからその持ち前のキャラが最大限に活かされていると『アフタースクール』のようにハマるだろうし、そうじゃないと『探偵は~』みたいに違和感が残ることになる。

今回は果たしてどちらなのだろう、と。

井上ひさしの小説が原作だったり時代劇ということもあるんだろうけど、客層はほとんどがジジバ…年配のかたがたでした。

原田眞人監督の作品で僕が初めて観たのは『ガンヘッド』(1989)。




こういう映画撮ってた人が今、お年寄りも観る「人情時代劇」を撮ってるんだ、と感慨深かったりしてw

『ガンヘッド』は今あらためて観ると手作り特撮が楽しいかもしれないけど、劇場公開時にはとにかくまったく巨大感のないミニチュアのロボットたちにガッカリした覚えがある(特撮ファンの中には好きな人もわりといるみたいですが)。

人型(?)に変形する意味ほとんどないし。

高嶋政宏が演じる主人公のニックネームが“ブルックリン”とか…^_^; 一所懸命「カッコ良く」見せようとしているんだけど、それが全部裏目に出ているように思えた。エンディングの永井真理子の歌にも腰砕けで。タイアップ丸出しで映画の内容と全然合ってないんだもん。

ってゆーか単純に映画として退屈だった。

同時期に公開されていたシュワちゃんの『ツインズ』とどちらを観るか迷って、こっちを選んでスゲェ後悔した。

それ以来この監督さんの映画は長らく観ていなくて、前回はこの『駆込み女~』にも出演している同監督の常連俳優、堤真一主演の『魍魎の匣』(2007)。




突入せよ!「あさま山荘」事件』も『クライマーズ・ハイ』も『わが母の記』も未見(『あさま山荘』はTVでちょこっとだけ観た)。

だから印象が『魍魎の匣』の時のままで止まっていて、チャカチャカとせわしないカット割りと聴き取りづらい台詞の映画を撮る、観客を置いてけぼりにして自分の技法に酔う監督、という散々なものだった。

ご本人が俳優としてハリウッド映画の『ラスト サムライ』や香港映画『SPIRIT』で悪い日本人役で出てるせいもあって、なんかもうイヤな奴にしか思えなくて^_^;

そんなわけで今回も少々迷ったんですが、近作はわりと評判もいいようだし、予告篇観たらイイ映画っぽかったので(スイマセンね、何かいつも上から物言うようで)。

…そしたら意外に(重ねがさねスミマセン)よかったんですよね。チャカチャカしてなかったw

それではこれ以降はストーリーについて述べますので、未見のかたはご注意ください。



始まってしばらくはところどころ出演者の台詞が聴き取りづらい箇所があって「またかよ」と思ったんだけど、その後はさほど気にならず(大泉さんが早口でまくし立てる台詞はちょっとわかんないとこもあったけど、それはまぁ、雰囲気がつかめればということで…)、143分と結構長尺なんだけど退屈することもなくじっくり観られました。

あぁ、あの監督がこんなに落ち着いた映画撮るんだ、って。

僕は先月観た戸田恵梨香主演の『エイプリルフールズ』を思いっきり酷評したんですが(あくまでも作品に対してであって、戸田さんや他の出演者のことを批判したのではない)、今回の彼女は、最初は字が読めず夫からのヒドい仕打ちにもただ堪えることしかできなかった女性が、思い切って飛び込んだ尼寺での生活の中で字を覚え薬草の知識も身につけて自分に自信を持ち、人間として強くなっていく様子を誠実に演じていて“素晴らしかった”。

 


華奢な身体で満島ひかりを背負ったり荷車に乗せて引っぱったり大男と薙刀で大立ち回りをしたり、そして大泉洋を相手に繊細な目の演技も見せている。

これは紛れもなく戸田さんにとっての代表作になったのではないでしょうか。

このようにご本人の努力ももちろんだけど、そんな俳優の才能を生かすも殺すも監督の腕次第なのだ、ということがよくわかりました。

総じて出演者たちの演技がよかった。みんな“素敵”でした(この映画の中では“素晴らしい”とか“素敵”という言葉が新語として信次郎に紹介されている)。

ただし、“上から”ついでに生意気なことを言わせてもらうと、お吟役の満島ひかりさんはもっと出来る人だと思う。

眉毛を潰してお歯黒までして頑張っていたけれど、最初の方の江戸言葉がちょっとこなれてなくてぎこちなかったり病気で死んでいく女性の役にしては悲壮感が足りなかった。まだ元気に見える。

断食してガリガリに痩せろとは言わないけれど、彼女の実力を持ってすれば亡くなる場面ではもらい泣きせずにはいられなかったはず。

あそこは演出にももうちょっと頑張ってもらいたかったところ。いえ、いいシーンでしたけどね。

逆に満島さんが目立ち過ぎてしまうと戸田さんが霞んでしまうため、あれぐらい抑え目で丁度よかったのかもしれないし。

時代劇はともすると演技が力み過ぎたり逆に地味過ぎてお話に集中しづらかったりしがちなんだけど、ところどころにユーモアを挟み、現代にも通じるテーマも内包しているその物語を役者たちの演技によって引っぱっている。そのあたり、この映画は大いに評価されていいんじゃないだろうか。

この映画での大泉さんはいくらでもマンガ的に誇張して描けるキャラクターを、オーヴァーアクトを抑えて笑いのシーンでもシリアスなところでも大芝居に走らずに絶妙なバランスを保ち続けていて、他の誰にもできない役を見事に演じてみせている。

これは大泉さんの計算もあるんでしょうが、やはり監督の演出力によるところが大きいと思います。

現在作られる時代劇で違和感なく観られるものって貴重で、でもここ最近の同ジャンルの劇場映画としては僕はこの作品はかなりいいんじゃないかと(歴史考証の正確さなどはわからないので、あくまでも「それっぽい」かどうかで判断しています)。

ですから、ちょっと長いな、と思うところもあったけれど、もしも気になってて「どうなのかな?」と思っているかたがいらっしゃいましたら、ご覧になってみてはいかがでしょうか。


映画のタイトルについてですが、縁切寺の話だから「駆込み女」はわかるけど「駆出し男」ってなんだ?と思っていたら、ようするに「見習い」のことだったのね。

タイトルも違うし井上ひさしの小説が「原作」ではなくて「原案」という表記になっているのは、かなり脚色があるということなんだろうか。小説は未読なのでわかりませんが。

僕はしばしば現実の世の中に存在するさまざまな問題と「映画」を照らし合わせて感想を述べたりもしますが、基本的には映画を娯楽として捉えているので、何やら自分の思想信条に利用するために観てはいません。笑えたり泣けたり楽しめればそれでいい。

確かにたまには社会問題を扱ったものも観たりはするけれど、それも好奇心が刺激されてのこと。

ただし、「フィクションの中で描かれる女性像」に対する興味はあります。単なるスケベ心からですが。

世の中には「“女性”を描いた映画」はたくさんあって、そういう映画で僕が観ていない作品は山のようにあるし特に意識的に選んでるわけじゃないんですが、先週の『百日紅』に続いて結果的には女性についての映画を観ることに。

いろいろな想いや問題を抱えて縁切寺に駆け込んだ女性たちの物語なので、そこはどうしたって現代にも続く女性蔑視、女性差別について思いを巡らさずにはいられない。

主人公の信次郎をいわば狂言廻しにして、実は彼がかかわる女性たちを描いている。

本当の主役は彼女たちだ。

もう一つは、この映画の舞台となる1841年は南町奉行の鳥居耀蔵(北村有起哉)が老中・水野忠邦中村育二)とともに「天保の改革」を行なった年。

娯楽や贅沢、派手なものは禁じられ、それを犯した者は厳しく処罰される。戯作や南蛮の書物を燃やす焚書の場面もある。

これが何を意味しているのかは明白でしょう。

映画の冒頭で縄で繋がれて見せしめに市中を引き回される女性たちを見て、信次郎が人々の前で「彼女たちのどこが悪い」と異議を唱える、あの場面こそがこの映画のテーマのすべてを語っている。




信次郎自身が戯作者・曲亭馬琴に憧れて、密かにその道を目指してもいる。

人々からムリヤリ楽しみを奪う輩こそが市中引き回しの上、打ち首にでもなればいい。

なので僕はこの映画はてっきり男たちに酷い目に遭ってきた女性たちが最後にそういう男ども、ひいては彼らが牛耳る“体制”に逆襲する話だと思っていたのだけれど、想像していたものとは微妙に違っていた。

というのも、“じょご”(戸田恵梨香)の夫であからさまにクズとして登場する重蔵(武田真治)や、堅気の商売人に見えたがどうやらそうではないらしく妾のお吟(満島ひかり)に逃げられる堀切屋(堤真一)が最後に思いっきり叩きのめされて溜飲が下がる映画ではなかったから。

堪えて堪えて最後にぶっ殺す、そういうリヴェンジ物のカタルシスはない。

明らかに「悪役」然とした登場人物である鳥居耀蔵も水野忠邦も「遠山の金さん」の悪代官や悪家老のように最後に倒されることはない。

縁切寺との仲介役である樹木希林演じる三代目柏屋源兵衛は、武家の娘の“ゆう”(内山理名)に「仇討ちの手助けはできない」と言う。

さすがに“ゆう”の父親と夫を殺したゴロツキ侍(松岡哲永)は“じょご”によって成敗されるが、これは女性たちが「仇討ち」ではない方法で自分たちを傷つけてきた者を見返す話なのだ。

個人的には、クズな男どもが女たちにぶっ殺される姿をこれでもかとグロ全開で見せてほしかったけどw

でもこの映画はそちらの方には向かわずに、娯楽映画的な気持ちイイ復讐の場面はあえて入れない。

ゴロツキ侍の死でさえも残酷さを極力排して手早く処理する。

その“程のよさ”に品がある。


信次郎は、たたら場で炎に炙られながら働き続けて顔に火ぶくれができた“じょご”の傷を治療しようとする。

彼が治そうとしたのは“じょご”の顔の傷であるのと同時に、彼女が負った心の傷でもあった。

傷を治し、彼女を傷つけた者の前に正々堂々と出て、“あなた”がいなくても私は大丈夫、むしろあなたから離れたことで本当の自分を取り戻した、と宣言すること。

それが自分を傷つけた者への最大の復讐だ。

モラハラ(モラル・ハラスメント)やDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)によって傷つけられた女性が夫や恋人から逃げて、やがてそのトラウマから解放されてまた新たな人生を歩みだす。

ようするにこれはその江戸時代版である。

あれから170年以上経っていても世の中が、人間が、男が…いかに進歩していないか痛感する。

聡明な“じょご”に次第に惹かれていく信次郎は、別に武芸に秀でているわけでもなく、今まで誰の治療に成功したこともない一見頼りない医者見習いに過ぎないが、けっして暴力を振るわず、暴言を吐かず、体制に組せず、女たちへの敬意を忘れない、ある意味、理想の男性像なのではないか。イケメンじゃないけど。

もしも彼のような男しかいなかったら、世の中はさぞ平和に違いない。

でも実際には重蔵のようにギャンブルや女にうつつを抜かして女性を搾取する奴や、ゴロツキ侍の勘助のように暴力以外のコミュニケーション・ツールを持っていない歩く凶器みたいな奴、柏屋に乗り込んでくるチンピラヤクザ(橋本じゅん)みたいに女性をさらって売り払う犯罪者もいる。

世の中の男は全員クズなんじゃないか、と思えなくもないが、それでも世界は「女 vs. 男」「女=善 男=悪」という単純な構図にはなっていなくて、だからこそ「人間」とは面白く、そして愛おしい。

映画の冒頭ではお歯黒をしていたお吟は、寺に入ってからは色が抜けて白くなっている。

ここんとこしつこく例に挙げまくってる『かぐや姫の物語』でも姫がお歯黒から白い歯に戻る場面があるが(あんなふうにわずかな期間で戻るかどうかはともかく)、そこには明らかに悪しき因習からの脱却=「女性の解放」という表明があった。

一方で、お吟は実は堀切屋との縁切りを望んでいたのではなく、病いによって死にゆく彼女の姿に惚れた男が流す涙を見たくなかったから、という、まるで『風立ちぬ』のヒロインのような理由で東慶寺に駆け込んだことが判明する。

だからお歯黒をやめる必要はないのだが、一度俗世を離れて寺で生活するということは妾であった自分をも捨てることなので、白塗りの化粧もお歯黒もせずに生まれたままの姿になった、ということなんでしょう。

このお吟さんのこだわり、矜持というのはいかにも江戸の女らしくて現代の感覚ではちょっと理解しがたいのだが、戯作好きで馬琴の「南総里見八犬伝」の最終巻を読むのを楽しみにしていたお吟は、まるで自分が戯作の中の登場人物になったような気でいたのではないか。

愛する男にとって美しいままで死んでいきたい、と。

それと、何よりも彼女が掘切屋の正妻ではなく妾という立場だったことも大きいだろう。「2号」だからこそ哀れまれたくなどない、自分は生きたいように正々堂々と生きたのだ、という証しとしての惚れたイロ(恋人)からの逐電。




これは単に「か弱くて可哀想な女性たち」についての物語ではなく、尼寺という異界で生まれ変わったのちに今一度自分自身を貫く女性たちについての物語である。

あの寺にいた女性たち一人ひとりが自分の人生、自分の物語を持っていたのだ。

「妖怪」こと鳥居耀蔵の密偵として寺に潜り込み(あんな目立つ外見では怪しまれまくると思うんだが…)悪巧みの片棒を担いでいるように思えた玉虫(宮本裕子)が隠れキリシタンだったことが判明する終盤の展開では、彼女もまた救いを求めていたことがわかる。

お吟も玉虫も、途中で何か企てているのではないかと思わせて、実は彼女たちは愚直なまでに精一杯生きていたのだった。

また当然仏門に帰依しているはずの法秀尼(陽月華)が隠し部屋に西洋の書物やマリア像を隠していたのも、彼女には彼女の信ずるものがあったのだということを表わしている。

このように、この映画に登場する女性たちにはいろんなタイプがいて、そのすべてのエピソードが描かれているわけではないが、観客が想像することはできる。

彼女たちはまさしく現代の多様な女性たちそのものだ。

仏を拝みながら禁欲的な世界で生きていても男(信次郎)のニオイに色めき立ち、楽しそうに唄い、嫉妬から仲間(じょご)を吊るし上げようとする。実に人間臭い存在。

信次郎とじょごが会っているのを見てその影響で想像妊娠してしまい、信次郎による心理セラピー的な治療で事なきを得る“おゆき”(神野三鈴)のその後も気になる(“蜂蜜浣腸”の場面では笑いで肩がプルプル震えてしまった。必見w)。




陽月華演じる法秀尼をはじめとする尼さん役の何人かがタカラジェンヌやダンス経験者なのが面白い。




映画を観ている間は、もしかしてこの人たちはホンモノなのかしら、と思ったぐらいだもの。

尼寺のリアリティを出すための発想だろうけど、巧いなぁw

確かにこの映画の中の尼さんや寺入りした女たちは、ヅカの団員みたいだったから。

あまりにハマっているので、それ知っててあらためて観たら笑ってしまいそうですが。

しかし、どう見てもハゲヅラじゃなくてほんとに剃ってる女優さんたちがいたけど、この映画のために頭丸めたのだろうか。スゴいなぁ。


ところで、ちょっとよくわからないところがあって、それは“じょご”に助けられる前に山の中でお吟が怪我をするくだり。

彼女はメリケンサック(笑)や棒を使って男たちをしたたかに打ちのめしたのだが、あなた病人じゃないんですか?と^_^;

しかも僕が場面を見逃したのか台詞を聞き逃したのか、彼女がなぜ襲われたのかよくわかんなかった。

それともお吟は襲われたんじゃなくて、縁切寺に行くために自分から駕籠かきを襲ったんだろうか(もしそうだったら大問題ですが)。

映画を1回観たきりなので、そのあたりがちょっとわかんなくてモヤモヤしちゃいました。

ご存知のかたがいらっしゃっいましたら、ご教示いただけると幸いです。


最初は信次郎に助けられた“じょご”は、映画の終わり頃には信次郎を先導して歩く頼もしい女性に成長している。

まるで姉のような存在になったお吟との今生の別れのあと、彼女が好きだった「八犬伝」の作者・馬琴の家にたどり着いた“じょご”と信次郎は、閉塞的な世の中に風穴を開けてこれから新たな時代を切り開いていく存在に思える。

ここしばらく女性が主人公の映画を観てきましたが、『百日紅』でも感じたように、あの時代に生きた名もなき女たちの姿に何か熱いものが込み上げてくるようでした。

虐げられたり見下されてきた者である「駆込み女」たちの悲喜こもごもは、今に繋がっている。

これは年配の人たちだけでなく、ぜひ若い人たちにも観てほしい作品です。



※樹木希林さんのご冥福をお祈りいたします。18.9.15



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