アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、マイケル・キートンエマ・ストーンエドワード・ノートンナオミ・ワッツザック・ガリフィアナキスリンゼイ・ダンカンアンドレア・ライズボローエイミー・ライアン出演の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。2014年作品。PG12

第87回アカデミー賞作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞受賞。



かつてスーパーヒーロー映画『バードマン』の主演で人気を博した俳優のリーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、元妻との家を売って資金を作りレイモンド・カーヴァー原作の芝居「愛について語るときに我々の語ること」を演出・脚色・主演まで務めてブロードウェイでの成功に賭ける。しかし怪我をした出演者の代役で参加したマイク(エドワード・ノートン)が暴走してプレヴュー公演は混乱、付き人を務める娘のサム(エマ・ストーン)との間には溝ができたまま、そして映画界を憎む演劇評論家の大御所タビサ(リンゼイ・ダンカン)からは「酷評を書いて打ち切りにしてやる」と宣告されてしまう。追いつめられたリーガンに心の内の“バードマン”の声が聴こえてくるのだった。


“バードマン”のあとに続く「あるいは(なんちゃらかんちゃら)」みたいなスカしたような副題は、劇中で主人公たちが作るレイモンド・カーヴァーの短篇のタイトルから付けられているようで。読んだことないですが。

僕はこれまでイニャリトゥ監督の映画は『21グラム』しか観ていなくて、それもナオミ・ワッツとベニチオ・デル・トロが出てたこととなんか重い話だったことぐらいしか覚えていなくて、しかも全然別の映画だけどサンドラ・ブロックが出ていた『クラッシュ』と頭の中でゴッチャになってる始末。見ごたえがあったことだけは記憶してますが。あの時は、ナオミ・ワッツはいつも幸薄そうな役やってるなぁ、って思ったっけ。

『バードマン』というタイトルの映画についてはアカデミー賞云々言われる前に画像を見てて知っていて、バットマンみたいなかぶり物したヒーロー(?)とマイケル・キートンが道に並んでる姿に「これは観たい」と。

そしたらどうやら僕が想像していたようなヒーロー映画ではなくて、なんだかもっと実験的な映画みたいで。

 


この作品、賛否が結構分かれていて、「超面白かった!」と褒めてる人もいれば「アカデミー賞を受賞したというから観てみたけど、なんか難しかった…(困惑)」という人までさまざま。

僕が観にいった映画館にはいつものように年配のお客さんが大勢来ていて、やはりアカデミー賞効果なんでしょう、皆さん次々と『バードマン』のチケットを購入していく。

個人的には全篇ほぼワンカットに見える撮影がどんな感じなのか確認するためだけでも観る価値はあると思ったんで楽しみにしていましたが、インターネットには「何が面白いのかまったくわからない」とか「作り手の自己満足」とか「これを高く評価する人は自分を賢く思われたいだけ」なんて酷評まであったので、おじさんおばさん、おじいちゃんおばあちゃんたち、大丈夫かな、と他人事ながら心配になってしまった。

で、どうだったかというと、僕はかなり楽しめました。もう一回観たい。

でも観終わったあと、後ろの方で二人連れの年配の女性たちが「…まぁ、いろいろあるからねぇ」「なんだか狐につままれたような…」と戸惑った様子で微苦笑混じりに会話していて、あぁ、やっぱり…と(;^_^A

確かに撮影にちょっと変わった手法が使われているし、物語も状況や背景のすべてを説明しないので、定型の作品以外の映画を観慣れていない人や特にご年配のかたがたにはキツいかもしれないですね。

そこそこ映画に対するリテラシーが求められる作品ではあるでしょう。『タイタニック』とは違う、ということです。同じくアカデミー賞にノミネートされて受賞を譲った『6才のボクが、大人になるまで。』や『イミテーション・ゲーム』などの方がはるかに物語は理解しやすいし、人にも薦めやすい。

だから誰にでも楽しめる作品とはいえないけど、それでもこの映画を高く評価する人たちはみんながみんな難解で“芸術的”なものに憧れて賢いフリがしたかったり優越感に浸りたいわけじゃなくて、やっぱりほんとに面白いから褒めてるんですよ。

別に映画や演劇についてマニアックな知識がなくても(ハリウッドの最近のヒーロー映画については知ってた方がより楽しめますが)、これが人の「承認欲求」についての物語だと了解すれば内容を把握することは難しくないと思う。

そしてこの映画が、単に“俳優”という特殊な種類の人間たちを描いただけではないこともわかるんじゃないかな。

「愛」を求めて再び空に飛び立つことを目指す男の物語は、すべての人にかかわりのあることを描いているのだから。

それでは、これ以降ストーリーのネタバレがありますので未見のかたはご注意ください。



僕はかつてティム・バートンが監督してキートンが主演した「バットマン」2部作(それ以降は他の俳優が演じている)が好きで、バットマンといえばしゃがれ声のクリスチャン・ベイルではなく、真っ先にマイケル・キートンを思い浮かべます。




特に2作目の『バットマン リターンズ』は「ヒーロー物」というジャンルを越えて、これまで観た映画の中でもかなり好きな作品。

ただし、ここ最近の『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』『マイティ・ソー』などのマーヴェル・コミックス原作のスーパーヒーロー物と違って、ティム・バートンが撮ったバットマンはヒーローの活躍を描きつつも、むしろその奇形性が際立っていた。

マッチョで陽性の正義のヒーローではなく、世の中からはみ出した異形の存在。主人公のもう一つの人格ともいえるドッペルゲンガー(分身)の物語。

およそスーパーヒーローとはかけ離れたような印象のマイケル・キートンがバットマンにキャスティングされた時、原作ファンの中からはブーイングが飛んだんだそうな。

でも出来上がった映画を観たら誰も文句を言わなくなった。

彼が演じたブルース・ウェインは原作のイメージとは異なっていたのかもしれないが、まるで大富豪らしくない容貌でどこか浮世離れしているキートンが演じるブルースには妙な説得力があったし、バットマンの黒いスーツに身を包んだ彼の姿は妖しくてカッコイイんだけど変質者っぽくもあって、それはティム・バートンの意図した通りのものだった。

ちなみにマイケル・キートンの本名はマイケル・ダグラスだが、すでに同姓同名の俳優がいるためバスター・キートンの名前から芸名を頂いたというエピソードがあるように、もともと彼はコメディアンでバートンの『ビートルジュース』ではタイトルロールのお化けを白塗りの顔でハイテンションに演じていた。その流れで『バットマン』では彼が悪役のジョーカーを演じていてもおかしくなかった。

それを正反対のキャラであるバットマン役に抜擢したティム・バートンの発想の転換は素晴らしい。

もっとも、その後バートンはニコラス・ケイジをスーパーマン役に起用しようとしたぐらいだから、あの頃はちょっとどうかしていたのかもしれないが^_^;

この二面性を持つ怪人的なヒーローというのは、今回のキートンが演じるリーガン=“バードマン”ともろにカブるし、もちろんイニャリトゥ監督はそれを意識してキャスティングしている。

外見の類似以上に、『バットマン』の物語は『バードマン』に似ていた。

バットマンの宿敵ジョーカー(ジャック・ニコルソン)は自分よりもバットマンが目立つことが気に入らず、なんとかして人々の注目を浴びようとする。

その涙ぐましい“かまってちゃん”ぶりは『バードマン』のリーガンを思わせる。

つねに躁状態でゴッサム・シティを混乱に陥れるジョーカーと無口で感情を表に出さずに悪を挫くバットマンは、コインの裏表のような関係だ。

残念ながら映画本篇では流れないが、『バードマン』の予告篇に使われていた曲“Crazy”は、アメコミヒーローおたくが主人公の『キック・アス』でマスクを被った“なんちゃってヒーロー”キック・アスと相棒のレッド・ミストがレッド・ミストの愛車ミストモービルに乗って町を“パトロール”する場面で、カーステから流れていた。




『キック・アス』にはしっかりバットマンもどきの“ビッグ・ダディ”と名乗るおっさんが出てきてギャングたちを惨殺するが、彼を演じていたのがニコラス・ケイジ。

そして『キック・アス』は、空を飛べるはずなどない普通の人間が最後に空を飛ぶ映画でもある。

スーパーヒーローの象徴でもあるマスク=仮面というのは『バードマン』でも随所に出てくる。たとえば劇中で、しばしば「オペラ座の怪人」の看板が映る。

「オペラ座の怪人」のファントムもまた仮面の怪人だが、私見ながらティム・バートン版バットマンのキャラクター造形には「オペラ座の怪人」から着想を得てブライアン・デ・パルマが監督した『ファントム・オブ・パラダイス』が影響を与えていると思う。

『ファントム・オブ・パラダイス』(1974) 出演:ウィリアム・フィンレイ ポール・ウィリアムズ ジェシカ・ハーパー



これも僕は好きな作品ですが、『ファントム・オブ・パラダイス』も一種のドッペルゲンガー物で、悪魔と契約した主人公は不死身の怪人に生まれ変わる。

 
ファントムのコスチュームはおそらくダース・ベイダーにも取り入れられている(胸の装置とか)


…話があちこちに飛んでますが、リーガンのもう一つの人格である“バードマン”と、バットマンや『ファン・パラ』のファントムには大いに共通点がある、ということが言いたいだけです。あしからず。


バードマンがバットマンを連想させるのは当然狙いだけど、演じているマイケル・キートン本人は以前のように映画で主演を務めることは少なくなったとはいえ(だからこそこの映画に起用されたわけだが)脇役として映画やTVドラマにコンスタントに出演していて(昨年のリメイク版『ロボコップ』に悪役として出ていた)、けっして干されていたわけでもなければ消えてしまっていたわけでもない。

バットマンを演じたからといって、その後もキートンがビッグバジェットの大作映画に立て続けに出まくることなんてなかったし(リーガンの絶頂期は1992年、という台詞があるが、92年は『バットマン リターンズ』でキートンが最後にバットマンを演じた年でもある)。

だからかつて現実にハリウッドスターから転落したミッキー・ローク主演の『レスラー』のようにガチで俳優のキャリアと役柄とが重なっているわけではなくて、「ヒーロー映画で一発アテた俳優が落ちぶれて再起を図る」という話を作る際に、似たようなフィルモグラフィを持ち初老の俳優であるマイケル・キートンが適任と判断したからでしょう(キートンには映画の監督作もある)。

でも『アイアンマン』のロバート・ダウニー・Jr.がリーガンによって劇中でボロカス言われてるけど、キートンはしばしばヒーロー物の続篇への批判を口にしてきたようだから、キートンのパブリックイメージがリーガンに反映されているのは確かなんでしょうね。

ハート・ロッカー』でその演技が高く評価されて『アベンジャーズ』にも出ているジェレミー・レナーなんか、リーガンから「…誰だ?」とか言われてるし^_^;

アメイジング・スパイダーマン」シリーズにヒロイン役で出ていた娘のサム役のエマ・ストーンや『インクレディブル・ハルク』の出演後にハルク役から降板してしまい『アベンジャーズ』への参加が実現しなかったエドワード・ノートンがメタ的に描かれていて面白いんだけど、彼らの出演はただの出オチではなくて、その演技を観ればこの映画への起用の理由がよくわかる。

最近、日本のCMでも見かけるエマ・ストーンは、これまでその派手な顔立ちのわりには優等生的な役柄が多いイメージがあったんだけど、今回は演技の幅を広げていて、薬物依存で施設に入っていた女の子を好演。

 
伝線の入ったストッキングでさえキュートに見せてしまう“旬の女優力”


僕はこれまで観た彼女の出演作の中で、今回の演技が一番良かったと思います。

マイクを誘うようなそぶりをしてみせたり、父親に向かって彼の問題点をズバリと突いてしまう場面など、繊細さと思わず見入ってしまうあの目ヂカラのコンボで新境地を見せてくれている。

ゴージャスな美人やユーモラスな役もいいけど、僕はエマ・ストーンってこういう痛みを抱えながらも強がって生きている女性の役って絶対にハマると思うんで、今後もぜひこの路線を開拓していってほしいなぁ。

エドワード・ノートン演じるマイクはリーガンよりも若いが、世間での評価も知名度もリーガンより高い。これはそのまま演じているノートンとキートン(なんかコンビ名みたいですがw)の立ち位置そのもの。実際のエドワード・ノートンがどういう人なのかは知らないけれど、マイクは芝居の主演で演出でもあるリーガン相手に好き勝手やる。

芝居の最中に舞台の上でアソコがギンギンになってそのままナオミ・ワッツ演じる恋人のレスリーとヤッちゃおうとする場面で、おっ勃ってるブツがワンカットのまましばらくして再び画面に映るとおさまってもとの大きさに戻ってるのが笑いました。

 


本人のキャリアを思わせるキャラを演じたり台詞を言わせることでまるでセルフ・パロディを演じているように感じられたり、普段からハリウッド映画をよく観ている人たちにはニヤニヤできるネタが詰まっているのはもちろんなんだけど、それだけじゃなくて映画か演劇かにかかわらず“役者”という存在の「業」のようなものについて描いている。

俳優というのは、観客から愛されたくて仕方ないエゴイスティックな生き物なのだ。そしておそらく映画監督も。

その姿は僕たちの写し絵でもある。


プロデューサーでいつもリーガンをフォローする役回りのジェイクを演じるのは、「ハングオーバー」シリーズで最大の問題児を演じていたザック・ガリフィアナキス。




あのシリーズの彼はおっさんの皮を被った幼稚園児みたいにやりたい放題な暴走キャラだったので、最初この『バードマン』で普通に出てきた時には誰だかわからなかったほど。

今回は「ハングオーバー」とは逆にマイケル・キートン演じるリーガンに振り回される役というのが可笑しい。これだって監督は絶対狙ってるでしょ。

可笑しいといえば、『21グラム』では未亡人役でしんどそうだったナオミ・ワッツが、ここでもブロードウェイでの成功を夢見ながら現実の我が身に涙する女優を演じている。映画評論家の町山智浩さんも言われてましたが、この人、『マルホランド・ドライブ』でも『キング・コング』でもなぜかヒドい目に遭う女優さんの役ばかり^_^;

 


リーガンの別れた元妻シルヴィア役は、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』での“あばずれ演技”が印象的だったエイミー・ライアン。

 


彼女の出番はそんなに多くはないんだけれど、元夫のリーガンに溜息混じりに呟く「褒められることが愛されてることだと思っているのね」という言葉はこの映画の根幹にかかわる台詞でもある。

愛しているからこそ、時には厳しいことを言うこともある。

リーガンと演劇評論家のタビサのバーでのやりとりは、ジョン・ファヴロー監督の『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』でも同じような展開があった。

実際、あの映画とこの『バードマン』で描かれているのは同質のものだ。

『シェフ』でジョン・ファヴロー自ら演じる主人公のカールは、グルメ評論家に自分の料理をこき下ろされてブチギレる。評論家に対して「あんたらはなんのリスクも負ってない」という指摘は『バードマン』でもリーガンがほぼ同じ台詞を吐く。

リーガンもまたタビサから容赦ない罵倒を受けて『シェフ』の主人公以上に逆ギレする。「あんたたちは怠けている」と。評論自体がありきたりの表現ばかりで面白味がない、と。




だから『シェフ』も『バードマン』も“評論家”という存在に対する批評であり批判でもあるのだが、それでもなお両者とも評論家を悪者扱いしてやっつけるのではなく、彼らの言葉には思わず頷いてしまう説得力を持たせている。

ろくに演技の訓練も受けていない“映画スター”が箔付けのためにブロードウェイで芝居を打って評論家から好意的な評価を得ようとする。その浅ましさをタビサは嫌悪するのだ。

タビサ役のイギリス人女優リンゼイ・ダンカンは、『アバウト・タイム~愛おしい時間について~』で主人公の母親を演じていた。

あの映画でもインテリっぽい年配の女性役だったけど、こういう教養のあるキャラクターをイギリス人に演じさせる、というのはハリウッドじゃ定番なのかな。

どこかアメリカ人のイギリス人に対するコンプレックスを感じさせて面白いですね。

まぁ、監督のイニャリトゥはメキシコ出身の人だからそんなこと関係ないのかもしれないけど。


リーガンの現在の恋人で彼と同じ舞台に立つ女優のローラ役は、『オブリビオン』でトム・クルーズと共演していたアンドレア・ライズボロー。




ローラは「あなたの子を妊娠した」とリーガンに告げるが、それが事実だったのかそれとも彼の反応を確かめるための嘘だったのかは観ていてよくわからなかった。リーガンは芝居の成功と自分自身のことで一杯いっぱいなのでローラのことはあまり眼中にない。

しかもリーガンの元妻も楽屋に出入りしているので、彼女としては気が気ではないのだ。

そして、同じく不安定な状態のレスリーを抱きしめて、思わずその唇に熱いキスをする。彼女が「本当の自分」を発見した瞬間でもあった。

あるかたの感想で、この映画の登場人物たちはそれぞれがなにがしかの役を演じている、というような分析があって、なるほどなぁ、と納得。

そのことがわかれば、この映画が何を描いているのかもより明瞭になる。

人生の中では誰もが何かを演じている。そして「愛」や「名声」を求め、苛立ち、テンパって時に醜態を晒しもする。

「芝居」とは人生の縮図だ。

規模は段違いではあるものの奇しくも『幕が上がる』に続いて「演劇」を題材にした映画を観たわけですが、まったくテイストの異なる作品ながら両者に共通しているのは、「芝居」がただの芝居ではなくて人生を象徴しているもののように描かれていること。

『幕が上がる』がひたすら清々しいのに比べて、『バードマン』はもっと俗っぽくその結末は苦い。

『バードマン』ではエゴイスティックにただひたすら「俺を見てくれ、俺を愛してくれ!」という「承認欲求」を満たすためのツールとして「芝居」が使われる。


ところで、主演のマイケル・キートンはそもそもたいしたことない俳優、と斬って捨ててる感想を読んだんだけど、そうかなぁ。

まぁ、そういう意見が出るのはこのキャスティングが成功している証拠だと思うんですが。

シリアスと狂気を孕んだユーモア、そのどちらにも完全に振り切れていないどっちつかずな中途半端さ…もとい微妙なバランスを保った芝居は元バットマンという贔屓目だけでなく、なかなかよかったんじゃないかな。

飛行機事故に遭いそうになった時にその同じ飛行機にジョージ・クルーニーが乗ってて、もしこのまま墜落したら翌日の新聞の紙面にはクルーニーの顔がデカデカと載って自分は忘れられる、と思ったリーガンの話とか、クルーニーとマイケル・キートンのハリウッドでの力関係を連想させられてしまう(ジョージ・クルーニーもバットマンを演じてるし)。

マイケル・キートン本人は内心どう思って演じてたんだろう(;^_^A

まぁ、クルーニーがバットマンを演じた『バットマン&ロビン』は観客に鼻で笑われてますから(クルーニー本人にとっても黒歴史)。

何度も比較して申し訳ないけれど、同じバットマンを演じていてもイケメンのクリスチャン・ベイルよりも薄毛で面白い顔のマイケル・キートンの方が物思いに耽ってる時の顔とかイイ味出てるんだよね。

『バットマン』の時からそうだったけど、マイケル・キートンの表情には「揺らぎ」があって、彼が憔悴したり怒りをぶちまけたりする姿には妙に惹かれるものがある。

どうでもいいけど、よくキートンが劇中で晒すパンイチの裸体を「初老の緩みきった身体」みたいに表現してる文章を目にするけど、60代半ばであの肉体は普通に引き締まってる方でしょ。スイマセンが若輩者の僕の方がよっぽど腹出てますよ(;^_^A

リーガンが劇場の裏口の扉から出てタバコ吸ってたら締め出されちゃってパンツ一丁で人ごみを駆け抜けていく羽目に陥る場面は笑いますが、意外と不便なのね、ブロードウェイってσ(^_^;)


僕がこの映画を観る前にまず興味を引かれた「撮影」についてですが、予想していたような、映画の上映時間と劇中での時間経過がほぼ一緒の、たとえばヒッチコックの『ロープ』みたいな作品ではなかった。

だって映像の継ぎ目がわからないように加工・編集されているというだけで(そのために何度もテイクを重ねたそうだが)、しばしば時間は短縮されるし回想シーンさえ入る。

そしてキャメラはあくまでもそこには存在していないことになっているので、いわゆるドキュメンタリー風のPOV作品というのでもない。

あえていうなら、これは主人公のもう一つの人格である“バードマン”の視点で全篇を描いた作品、といえるかもしれない(終盤にバードマン自身が画面に姿を見せるから厳密にはそうではないのだが)。

この撮影でアカデミー賞撮影賞を獲ったエマニュエル・ルベツキは昨年の『ゼロ・グラビティ』に続いて2年連続の受賞だけど、たとえばやはり彼が超絶的な長廻し風の映像を生みだした『トゥモロー・ワールド』と今回の『バードマン』ではその効果は異なっている。

まず劇中でのキャメラの存在の有無の問題と、登場人物への接写の多用、時間の省略など、『ゼロ・グラ』を経た上でのものであることがよくわかる。

『ゼロ・グラビティ』では現実にはありえないぐらいにキャメラが主人公のサンドラ・ブロックに接近する。長廻しという手法が主人公の内面、その精神状態を表現している。

同じ疑似長廻しでも作品ごとに進化しているのだ。

この撮影監督がかかわる今後の作品にも目が離せない。


この映画のラスト直前を「都合が良すぎるハッピーエンド」と解釈した人もいるようだけど、そうだろうか。

ここで描かれたのはいくつもの「可能性」だし、芝居が大成功をおさめたあとの元妻シルヴィアとは対照的に落ち着き払ったリーガンの態度など、僕にはこれだって「そうだったかもしれない帰結」の一つに思えたんだが。

あれだけリーガンに辛く当たっていたタビサがコロッと態度を変えて劇評で大絶賛するのも不自然過ぎるし。

リーガンは手を触れずに物を動かす超能力を持っているが、映画の中で彼以外の人間がそれを目にすることはないし、空を飛んだ彼の姿を誰も見ていない。

あの飛翔シーンは『かぐや姫の物語』で姫と捨丸が飛ぶシーン同様、リーガンの空想だ。

ガリフィアナキス演じるジェイクは、完全に自信を喪失して荒れてヘコむリーガンに「この芝居を観るためにスゴい列ができてる。しかもマーティン・スコセッシが映画の出演者を探しに来ている」と嘘をつく。でも、最後にほんとにスコセッシが観客として来ていて例の早口で連れの女性にこの芝居を絶賛している、という描写があって笑わせてくれるんだけど、これだって現実にはありえない光景でしょう。まるでマンガのようなオチ。

僕は逆に「これは現実ではない」という哀しいシーンに思えたんですよね。

リーガンはあのまま身投げして地面に叩きつけられて死んだのかもしれない。だからそのあとの芝居でも彼は舞台の上で「俺はここにはいない」と言う(※町山さんの解説によれば、そういう意味合いで言われた台詞ではないようなのですが)。

それに芝居がウケたのは彼の才能や努力ではなく、本物の銃で自分を撃つという“アクシデント”のおかげだ。娘のサムが言った通り、観客はリーガンにも60年前に書かれた小説が原作の芝居にも興味がない。観劇後に食べるケーキの方が重要なのだ。名演技よりもブリーフ一丁でタイムズ・スクエアを突っ切る有名人のおっさんの方がよっぽど注目を浴びる。

こんな皮肉はないだろう。これを単純なハッピーエンドなどと言えるだろうか。一見主人公の自己実現は果たされたように見えるが、本当に彼の承認欲求は満たされたのだろうか。

愛を乞うていた元・鳥人はそれで満足できたのか。

銃で自分の鼻を撃って顔の上半分を包帯で覆われたリーガンは、まるでバードマンのようだ。

そして、まるでくちばしみたいな鼻を手に入れた彼は、病室の窓の外に立つ。

映画の冒頭とラスト近くに空から落下していく炎の映像が映る。

ギリシャ神話でイカロスは蝋で固めた翼で太陽に向かって飛び立つが、蝋は熱で溶けてそのまま彼は地上に墜落する。

『シェフ』の主人公は、自分にとって一番大切なものは何かを再確認してシェフとして復活する。一方で、リーガンはどうだったか。

だからこれは悲劇的な結末なのかもしれない。

どうあがいても求めたものを得られない男の哀しみと滑稽さ。


以上のように僕はこの映画の結末を悲観的に見たのですが、町山さんの解説では正反対のことが書かれているし、他のかたたちのレヴューでも同様にあのラストをポジティヴに捉えたものが多いので、僕は間違った解釈をしているのかもしれません。

ただ、僕はこの映画を結末よりも過程をこそ描いている作品だと思うから、ラストの解釈にはある程度の自由が許されるんではないでしょうか。

サムが最後に見たものは、父親が道路で血だらけになっている姿か、それとも再び大空へ飛翔していったイカロスの姿なのか。スクリーンの暗闇に小さく響く彼女の笑い声は父への祝福か、それとも絶望の嘲笑か。

それは観客である僕たち次第。映画館を出た瞬間から続いていく僕たちの人生の中で決めればいいことだ。






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