判例時報2378号で紹介された事例です(大阪高裁平成30年3月8日判決)。

 

 

本件は,不動産の売主が媒介契約書に署名はしたものの契約する意思がなかったことから押印はしていなかったとの主張に対し,一審(簡裁),二審(地裁)は,主張を退けたのに対し,上告審(高裁 簡裁事件の場合の上告審は高裁になります)は,不動産売主の主張を認めたものです。

 

 

民事訴訟法では,ある文書に署名又は押印がある場合,署名と押印に使用された印鑑が文書の作成者のものであれば,当該文書の作成者がその意思で押印したものと推定され(一段目の推定),さらに,その文書に記載されている内容の意思を表示したものと推定される(二段目の推定)ことになっています。

あくまでも「推定」なので,一段目の推定を覆す事情として印鑑が盗まれたものであるとか預けていたのを勝手に冒用されたといった主張,二段目の推定を覆すものとして後から別の内容が付け足されたと(変造)といった事情の主張がされることになります。

 

 

(文書の成立)
民事訴訟法第228
4項 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。

 

本件は,売主が媒介契約書に自ら署名したこと自体は認めているので,それにも関わらず,記載されている内容(業者に媒介を依頼すること,その報酬を支払うこと)の意思はなかったとして二段目の推定を争ったということになります。

 

 

率直に言って,なかなか難しい主張というのがほとんどの裁判官や弁護士の感想というところなのですが,本件では次のような事情から,売主には署名はしたものの媒介契約をする意思はなかったと認定しています。

・もともと,当該売主は不動産を2500万円で売却することを業者に依頼して媒介契約を締結していたが売却に至らなかったため更新せずに契約終了としていたが,その後業者の側から連絡を入れて1900万円での売買契約が締結されたものの売主にとっては不満が残る内容であったこと。

・売主は売買契約書や重要事項説明書などの他の書類には署名も押印もしていたのに媒介契約書にだけは署名のみで押印はしていなかった。

・売買代金の決済においても,売買代金から媒介報酬が控除されず,業者に支払われることもなかった。

 

 

確かに言われてみれば,そうなのだろうというところもありますが,なかなか難しい主張と思ってしまうのは,実務上,書面に署名や押印がされている以上は,「そんなつもりはなかった」と主張してもほとんど取り上げられることはなく処理されてしまったいるのが実情だからです。本件の場合,署名はされているが押印はされていなかったという事情に一つの特色がありますが,判例時報の解説でも「署名のある私文書について作成が否定された事例は見当たらない」「きわめて珍しい事例」とされています。法律上は「署名又は押印」とされているので署名があれば押印と同等の効力があることになりますが,押印されていなかったことを文書の作成を否定する一つの事情としてとらえていることからすれば,署名よりも押印のほうにより重きを置くという根強い社会的な慣習があるものということもできます。