TOEIC
5月29日TOEIC公開テストを受けてきました。
フォームは4HIC10でおそらくメジャーフォームだと思います。
久しぶりに受けました感想は、まあまあと言ったところです。
とりあえず公式問題集とは大分レベルが違ってきたなあ。明らかにPART1,2,7とか難しくなってきてると思います。そろそろETSにも新しい公式問題集を発売してほしいですね。
今回の各パートの難易度を自分なりに付けてみますと
PART1 普通
PART2 難しい
PART3 やや難しい
PART4 やや優しい
PART5 普通
PART6 優しい
PART7 やや難しい
といった印象を受けました。
新傾向の問題としてはmodelの言い換え問題ですね。
言い換え問題はPART7ではおなじみですが、今回は選択肢が一語ではなく句になっていました。
これからこういう問題も増えてくるんでしょうか。
この問題は前後の文から「model=モデルさん」にしたのですが、あっているのかあまり自信はないです。
あまり自身はないですが、TOEICスレ等を参照に覚えている範囲で私の解答を書きますと
PART1
噴水が水を吹き出している
カーペットが部屋に敷いてある
コンピュータが壁を背に置いてある
トラックが角を曲がっている
何人かのおじいさんが座っている⇒その後ろの丘に家が密集している
いくつかのポットが商用に並べてある
PART5
readily
some of benefits
media
acceptable
significant
seemed shocked
both
sheの後にhopes
have been ---ing
なんかの動詞+to
PART6
for now
as---as
series of ---
be encouraged to ---
TOEICやった後は、飲みに行って、TOEICの情報見て、達成感と不安を胸に寝るというのがやっぱりいいですね。
寝ます。
異邦人
異邦人についての読書感想文を気ままに書きます。
あらすじ
きょう、ママンが死んだ。
『異邦人 カミュ 新潮文庫』
主人公のムルソーは養老院で暮らしていた母の訃報を受け、その埋葬式に立ち会う。そこで彼は別段悲しんだ様子もなく、門衛からもらったコーヒーを飲み、煙草を勧めた。
門衛が食堂へ行って食事をするようにすすめた。が、腹がへってはいなかった。。そこで彼はミルク・コーヒーを持って来ようと申し出た。私はミルク・コーヒーが大好きだから、承知した。ーーー0今度は煙草をすいたいと思った。が、ママンの前でそんなことをしていいかどうかわからなかったので、躊躇した。考えて見ると、どうでもいいことだった。私は門衛に一本をやり、われわれは煙草をくゆらせた。
『異邦人 カミュ 新潮文庫』
その翌日、彼は海水浴に出かけそこで偶然、職場の元同僚の女性マリイに出会い二人で泳ぎ、コメディ映画を楽しんだ後、一夜を共にする。
その後、同じマンションに住む女衒を生業とする男レエモンに、彼が雇っていた売春婦への復讐に協力することを頼まれ、断る理由もないと思いそれを承諾する。数日後、ムルソーはレエモン、マリイと出かけた先の浜辺で、レエモンに因縁を持ったアラビア人とのいざこざに巻き込まれる。彼はそこでそのアラビア人の内の一人を銃殺する。
男は私を見つけると少し体を起こしポケットに手を突っ込んだ。もちろん私は、上着の中でレイモンのピストルを握りしめた。自分がまわれ右をしさえすればそれで終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち震えている浜辺が、私のうしろに、せまっていた。---陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。
私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、全てが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていたその浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たびち撃ち込んだ。弾丸は深く食い入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。
『異邦人 カミュ 新潮文庫』
彼は男を殺した理由を「太陽が眩しかったから」と答え、特に言い訳はしなかった。裁判官、陪審員からは母の葬式に際し、涙を流さず別段悲しんだ様子も見せなかったこと、またその翌日、海水浴に行き女と関係を結ぶということ等より、道徳性の欠如した残忍な人間であるとみなされ極刑を求刑される。
彼はそれを甘んじて受け、死刑の日を待つ独房の中で母のこと、マリイのこと等を思い出し、やはり自分は正しく生き、幸福であったと確信し、絞首刑に処されるその日に大勢の観衆が憎悪の叫びをあげて自分を迎えてくれることだけを望む。
感想
この小説は主人公ムルソーの母が死に、彼がその埋葬に立ち会うと言った場面から始まります。ムルソーは母の葬式で悲しんだ様子も、涙も見せずその翌日は、マリイとともに楽しい休日を過ごします。しかし彼は母のことを愛していると作中では語られています。
誤解をあたえるといけないので 強調しておきますが、彼はただ単に冷たい人間でも、残忍な人間でもありません。彼は浜辺、太陽を愛し、自分の感情を大切にする一人の人間です。しかし、世間一般の人と決定的に異なるのは彼が身の回りに起こる多くのことに関して無関心であるということであり、彼にとっては、母の死や、自分の裁判ですらもとるに足らないあまり重要でないことと考えているということです。
彼がこのような考えを持つにいたった経緯はわかりませんが、彼の根底には「全ての人はいつか死に、その死によってそれまでの全ての事象がひとしなみになる」という信念があると考えます。
実際、母の死と娯楽は完全に独立したものであると僕は考えます。自分の母親が死んだからと言ってその悲しみはいつまでも続かない、もしかしたら悲しみなど生まれないのかもしれない。たとえそれが最愛の母であろうとも。結局のところその悲しみの度合いは人によりけりですし、娯楽と葬儀は全く関係のないものであると思います。しかし、喪中に悲しんでいなければ周りからは薄情な人間、思いやりの心が欠如した人間であると見られてしまいます。
周囲の人のそのような考えは、社会に住む人々を無意識に支配する常識、モラルと言われている社会通念に起因すると考えます。常識、社会的モラルと言われるものを持たない人はその社会から異邦人として扱われやがて淘汰されるということはこの小説のひとつのテーマだと思います。
ムルソーは自分の信念に正直に生き、彼は死の間際にあっても自分の人生が幸福に満たされたものだと断言します。彼は、自分も、自分の恋人も、仲間も自分に神の教えを勧めてきた聖職者もいずれは死んでしまうと語り、聖職者の神の前にひれ伏す生き方を死人のような生き方であると言い放ちました。
人は遅かれ早かれいつか死ぬというのは当然のことですが、それを心の底から実感している人は割と少ないのではないかと思います。もし、それを自分の信念として持っていれば、周りの環境によって作られた規範に従って生きるのは多少むなしいことだと感じるかもしれません。そのような信念を持ってい生きるならば、人が定めた規範に従い生きることが、本当にその人のありのままの人生と言えるのだろうかと考えさせられます。彼の生き方を真似することが良い生き方だとは思はいませんが、ムルソーがこのように最後まで潔くありのままに生きることができたのは、人はいつか死んでしまうという彼なりの真理を捕えていたからでしょう。
人はどれほど社会の常識なるもの、構築された偏見に絆され、現実に起こったものを見ているのでしょうか、人が享受してきたそれらの脅威にこの小説は警鐘を鳴らし、自分もそれについて考えさせられましたが、社会に生きる以上それに従うほかになく、人間は社会を形成する。つまり、人が見出だす真理には、その社会と言う制約がつきまとう。個人の真理に従い生きることが人間がありのままの生き方であるとすれば、そのような生き方は不可能のなのではないのかと思っていしまいます。
異邦人
異邦人 アルベール=カミュ
社会通念、倫理観が欠如した人間ムルソーの生き方を描き、社会に生きる人間の根底にある常識がもたらす盲目状態をこの小説では考えることができる。
あらすじ
きょう、ママンが死んだ。
主人公のムルソーは養老院で暮らしていた母の訃報を受け、その埋葬式に立ち会う。そこで彼は別段悲しんだ様子もなく、門衛からもらったコーヒーを飲み、煙草を勧めた。
門衛が食堂へ行って食事をするようにすすめた。が、腹がへってはいなかった。。そこで彼はミルク・コーヒー を持って来ようと申し出た。私はミルク・コーヒーが大好きだから、承知した。・・・今度は煙草をすいたいと思った。が、ママンの前でそんなことをしていいかどうかわからなかったので、躊躇した。考えて見ると、どうでもいいことだった。私は門衛に一本をやり、われわれは煙草をくゆらせた。
その翌日、彼は海水浴に出かけそこで偶然、職場の元同僚の女性マリイに出会い二人で泳ぎ、コメディ映画を楽しんだ後、一夜を共にする。
その後、同じマンションに住む女衒を生業とする男レエモンに、彼が雇っていた売春婦への復讐に協力することを頼まれ、断る理由もないと思いそれを承諾する。数日後、ムルソーはレエモン、マリイと出かけた先の浜辺で、レエモンに因縁を持ったアラビア人とのいざこざに巻き込まれる。彼はそこでそのアラビア人の内の一人を銃殺する。
男は私を見つけると少し体を起こしポケットに手を突っ込んだ。もちろん私は、上着の中でレイモンのピストルを 握りしめた。自分がまわれ右をしさえすればそれで終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち震えている浜辺が、私のうしろに、せまっていた。---陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。
私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、全てが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていたその浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たびち撃ち込んだ。弾丸は深く食い入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。
その裁判では、裁判官になぜ男を殺したのかという問いに対して「太陽が眩しかったから」と答え、特に言い訳はしなかった。裁判官、陪審員からは母の葬式に際し、涙を流さず別段悲しんだ様子も見せなかったこと、またその翌日、海水浴に行き女と関係を結ぶということから、道徳性が欠如し、魂が空っぽの人間であるとみなされ極刑を求刑される。
彼はそれを甘んじて受け、死刑の日を待つ独房の中で母のこと、マリイのこと等を思い出し、やはり自分は正しく生き、幸福であったと確信し、絞首刑に処されるその日に大勢の観衆が憎悪の叫びをあげて自分を迎えてくれることだけを望む。
感想
この小説は主人公ムルソーの母が死に、彼がその埋葬に立ち会うと言った場面から始まります。
ムルソーは母の葬式で悲しんだ様子も、涙も見せずその翌日は、マリイとともに楽しい休日を過ごします。
このように彼は日常起こる様々なことをとるに足らない、あまり重要でないことと捉えています。
やはりムルソーは作中で裁判官や陪審員等が感じるように、社会で常識とされる倫理観が欠落した人間であると考えます。
彼がこのような考えを持つにいたった経緯はわかりませんが、彼は人間はいつか死ぬという真理を痛感しているのではないでしょうか。
ここについては、来るべき死が自分を捕えているのと同じように、自分はその死を捉えていると語っています。
実際、母の葬式と娯楽は完全に独立したものである。
自分の母親が死んだからと言ってその悲しみはいつまでも続かない、もしかしたら悲しみなど生まれないのかもしれない。
たとえそれが最愛の母であろうとも。結局のところ人による。
しかし、葬式の最中に悲しんでいなければ周りからは薄情な人間、思いやりの心が欠如した人間であると見られる。周囲の人のそのような考えは、社会通念に起因する。
これは、社会に住む我々を無意識的に支配する常識、モラルと言われているものである。
常識、社会的モラルと言われるものを持たない人はその社会から異邦人として扱われやがて淘汰される。
確かに社会的な常識を持ち合わせない人は、はっきり言って厄介なだけであろう。
しかしムルソーは自分に正直に生きた。彼は死の間際にあっても自分の人生が幸福に満たされたものだと断言する。
なぜそのような考えに至ったのか、それは彼がある一つの真理に捕えられ、自分もその真理をとらえているからだろう。
彼が掴み、心から信じるその真理とは、人はいつか死んでしまうということだ。
彼は、自分も、自分の恋人のマリイも、仲間も、自分に神の教えを勧めてきた神父も、そのうち死んでしまうと言った。
人は遅かれ早かれいつか死ぬというのは当然のことだが、それを心の底から実感していれば、周りの環境によって作られた規範に従って生きるのことは、むなしいことだと感じるかもしれない。
多くの人はこの事実から目をそらすために他者が作り出した娯楽、宗教、常識に身をゆだねるが、
人がそのありのままの自分を解放できるのは、その人の20年後か30年後か、もしかしたら数分後に来るのかもしれない死を直視することができたとき初めて達成できる。
というのは、誰かの哲学に似ている。
その考えが正しいどうかは私にはわからないが、
その来るべき未来、逃れようのない絶対的な真理から目を背けなかったムルソーは、自分で実感した信念に従った生き方ができたのかもしれない。
その真理の前では、日常起こる様々なこと、周囲の目や常識など取るに足らないこと、あれをして、これをしなかったから今の人生があるだけでそれ以上でもそれ以下でもないと彼は考えている。
しかし、彼は異邦人として殺される。大衆と彼らが作り出した規範によって。
他者が敷いた規範に従い生きることが、本当にその人のありのままの人生と言えるのだろうかと考えさせられる。
繰り返すが、彼の生き方を真似することが良い生き方だ6とは思はないが、ムルソーがこのように最後まで潔く、ありのままに生き、死刑を求刑されてなお幸福であったと確信できたのは、
彼が真理のために生きたからだろう。