今日、うまくやりたいと思っててもうまくできない自分を責める感じになってしまっていたのですが、なんでだろう~と思ってました。


EFTする気もおこらず、ぼ~っと考えてたら、「タイミングはいつでもあるから、今やらなくてもいい」なんていうのがポロっとでてきました。


何、これ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ


さっそくこれてEFTやってみました。


そしたら、昔から欲しかったものが手に入れられなかったのは、これがあるからなのかなと思いました。


いやいや、タイミングなんてそんなにポロポロ落ちてません。


その時その時手に入れないといけなかったものをわたしは、「まあ、いいや~」という感じでほしがらずに諦めてきました。


欲しいモノが目の前にあったら「今だ!!」と食らいつくくらいの気力がないといけませんね。


でも、なんでその気力が持てないのだろう…と更にEFTを進めると、昔目の前にあった物を欲しがった時に母親に怒られたことを思い出しました。


その時の母親の怒りの顔は今だに思い出せる位怖かったのです。


無言で睨みつけるみたいな感じ。


あの無言での圧力感。圧迫感…。


今も思い出すとちょっと心臓バクバクする感じです。


同じ顔で怒られてきてるはずなんですけど、あの時は「自分がいけないことをやってしまったのだ」という子供ながら自分を責める感情がすごくあったのです。



あれからわたしは欲しいモノに対して「欲しいけど欲しがっちゃいけないのかな…」という迷いの感情を持ってしまっていることに気づきました。


母親から「OK」がでないとほしがっちゃいけない…みたいな。


これってある意味怖いことです。


母親から許可を得ないとこれからも欲しいものを得られないの??


いやいや、そんな人生いやすぎますし、いい年した女が何言ってるんだかというレベルの話です。


でも、子供の頃に自分で抱いてしまった思い込みというか、自分自身でかけてしまった呪いみたいなものって、結構ずっと持ってるものです。


このあたりもEFTしてすっきりして終了しました。


それにしても、今までどれだけ欲しいものを逃してきたことか…。


自分の人生何やってきたんだろう。


そんな選択の繰り返しが、今の自分を作っています。


自分が「欲しい」と思ったものは、「今だ!」と思った時に、「欲しいものは欲しい!!」と主張しないといけないし、これからはそういう選択をしたいと思います。

日記を書いていて、書き終わったところで記事を消してしまいました…。


書き直しです。


先日、最近人気急上昇中の若手俳優がテレビに出ていました。


その人は、松坂桃李くんです。


特別に好きなわけではないのですが(作品を見た記憶がない…)、初めて彼を知った時に、わたしは彼の名前に興味津々になってしまいました。


昨今の流行りのDQNネームとは違うものを感じたからです。


その後、彼の名前の由来を知ることになるのですが、今日もっと詳しく解説した記事をネットで見かけて、「こういう名前の命名をするご両親というのはとても教養があるのだな」と思うと同時に、こういうご両親に育てたれた彼という人は、きっと、彼自身ありのまま愛されて、彼自身もありのままの自分を認めて大きくなったんだろうなと思いました。


実際はわかりませんが、自分勝手な印象ですw


その記事に書かれていたのはこうでした。


一つ目の由来は、父親からのものなのですが、中国の史記にある「桃や李(すもも)はそれ自体は言葉を発しないけど、その花や実に誘われて人が集まり、自然と道ができる」という故事から来ているそうです。


直訳すれば上のような意味ですが、桃や李を徳ある人に置き換えて、「徳のある人というのは特に何かをしなくても、その人の人格を慕って人が集まり、自然と道ができる」という意味として解釈されるそうです。


彼の父親は、自分の息子に「徳のある人になってほしい」という思いを込めて命名したそうです。


更に、もう一つ命名の由来があるのですが、それは母親からのものでした。


『古今著聞集』に出てくる『桜梅桃李』という諺からとったそうなのですが、「桜は桜。梅は梅。桃は桃。李は李。それぞれが独自の花を咲かせるので、それぞれの良さを生かしていく」というような意味らしいです。


そこから、彼の母親は、「自分らしさを大切に育っていってほしい」という思いを込めて命名したそうです。


名前がその人の人格の全てを表現するということは思っていません。


でも、その記事を読んだ時、彼の持つ今時の若者とは違う好青年っぷりは、見た目のイケメンさからくるという部分もあるからかもしれませんが、それ以上にこういう両親の元ですくすくと育つことによって育まれる自己信頼感に裏付けされた落ち着きや安心感があるからなんだなと、なんとなく納得してしまったのでした。


今では彼自身よりも彼のご両親に興味津々です。


さて、少し話は変わりまして、この記事の頭の方で少し出てきたDQNネーム。


わたしの周りではこういう名前を付ける人は見かけないのですが(どうよむの?という名前はたまにあります…)、日本人なのかそうじゃないのかよくわからない名前があります。


一時期ネットで話題になっていた『泡姫』と書いて『アリエル』とよむ名前なんて最たるものだと思います。


ちなみに、泡姫はソープ嬢の別称であります。


日本人が大好きな「可愛い~」というノリでつけるのだと思うのですが、ベースに「日本人はイケてない」「日本はカッコ悪い」という日本人独特の自国嫌悪からくる、外国至上主義というか、「外国>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>日本」という低い自己評価からきているのではないかと感じています。(日本の自由じゃない感じ、抑圧された感じ、全体主義はわたしも好きじゃないけど)


そういうDQNネームを子供につけて喜んでいる人達と桃李くんのご両親の間には、それこそ超えられない壁を感じてしまうのでした。

今テレビで騒いでいるiPS細胞のニュース。


ノーベル賞を受賞した山中教授は、勉強もできて、運動もできて、イケメンで、初恋の人(?)と初チューしてその人と結婚して幸せな家庭もあって、研究の失敗や欝などの過去の挫折を乗り越えてあの若さですごい発見を成し遂げた方で、「すごすぎて、同じ人間と思えないわ~」のノリでニュースを見ていました。


その山中教授をあっという間に過去の人にしてしまった、iPS細胞で治療を行ったというなんとかという研究員。


結局はウソだったということらしいのですが、あれを見て、わたしは「うわ~~~~。自己の不一致って怖い」と思ったのでした。


中高と同級生だったという人のコメントを聞いていると、


①理想だけは高いが、理想高くて実現しない


②人を見下す


③自己顕示欲が高くて自分を実際の自分より立派な人にみせたがる(認めてチャンに通じる)


④狂言癖がある(?)


こんな感じの人なのかなと思いました。


京大の医学部を出て医者になると言っていたのに、結局行ったのは、別の歯科大学で、何故か歯科医師の資格ではなく、看護師資格を持っているだけという…。(看護師の資格がどうこう言っているわけではありません)


きっと、この人にとって「医師」という仕事は、山中教授のように、「人を救いたいからなりたい」職業ではなくて、「医者になったら親に褒めてもらえる」「医者になったら人からすごい人って思われる」そういうものだったのではないかと思います。


そのかつての同級生の話を聞きながら、すっごく嫌だけど、すっごく嫌なんだけど…。


「うわ~昔の自分とかぶるかも。危険w」と思ってしまったのでした…。


わたしはあそこまで極めてはないけどw、①②③の要素はあったかなと。


だから、なんだかあの人の気持ちがわかるというか想像出来てしまう自分にびっくりというか納得というかなんとも複雑な気持ちでした。


昔のわたしは自己不一致の自分を守るために、行き当たりばったりの対応として③を強化することで更に自分に辛い思いをさせていたのです。


昔のわたしなら、この人のことを馬鹿にしてただけで、自分と重ね合わせて「ちょっとかぶるところがある」と認識できなかったと思うので、少しは変わったのかなと思うのですが。


「人の振り見て我が振り直せ」とかいいますけど、これって自分が間違ってるという認識があるから直せるわけで、間違ってる、変だという認識がなくては、人の振り見ても直せませんしね(笑)


ありのまま認めてEFTを初めて半年以上経ちましたが、ありのまま認めた結果自分がどんな人間なのか今まで蓋をしてた自分の嫌なところに気づいて、「昔の自分って痛かったな」と冷静に思える今の私が好きです(*´ω`*)


ずっとあのままだったら、この研究員みたいに狂言癖まで出て、手に負えない状態になってたかもしれませんね。


今の私は、もう絶対あんなふうにならないという確信もあります。


というか、かつての自分に戻るなんて、しんどすぎて絶対嫌です(笑)


あの研究員みたいな状態になる前に、ありのままの自分を認められて良かったです。


今は、ダメダメな自分をそのまんま認めてるので、わたしってだめだめだなあと思うものの、理想の自分と現実の自分の差に苦しむこともなく、肩の荷が降りた感じがして、すごく楽チンです。


今回の山中教授ともうひとりの研究員の例は、自己一致している人と自己不一致の人のいい例を見させていただいたと思いました。(比較の対象が…ではありますが…)

昔心理学の勉強をしていた時に、講座の中で出てきたのがタイトルの『ゲシュタルトの祈り』でした。


講座の先生は結婚式の披露宴に呼ばれてスピーチを頼まれると、この詩をちょっと変えて新郎新婦に贈ったそうです。


その先生バージョンは忘れてしまいましたが、もともとの詩を掲載しておきます。


初めてこれを読んだとき、「へぇ~」と思って最後の一文で「へ?」と思ったのですが、ありのまま認めるEFTを知ってから読み返すと「ガツン!」ときました。


昔は全く理解してなかったのですね。


心地よい人間関係を築くためには必要な心構えかもしれません。


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『ゲシュタルトの祈り』


私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。


私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。


そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。


私は私。あなたはあなた。


でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。


たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。


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短い詩ですが、深いです。



誰かのために生きる必要はないし、誰かに縛り付けられて生きていく必要もない。


別々に生を受けた個々の存在として、お互いの尊厳を認めながら、同じ道を行くことになればそれはそれでいいし、そうならなくてもそれで良い。


もしそんな人間関係を築ける人がいるのであれば、同じ道を歩きたい気もしますがw、そういう人に出会うことに必死になってしまっては、本末転倒なのかもしれませんね。

前の職場を辞めて2年以上、その間、最初は旅行に行ったり、途中でやめていた勉強を再開したり、身近な観光地をフラフラしたりしていましたが、ずっとそんなことをしていられるわけではありません。


前の職場の経験から、どうしても就職という道は選ぶ気にはならないので、別の方法で収入を得ようと思って、チャレンジしております。


実はすでに1年半もの時間を費やしているのですが、全く結果は出てきません。(最初の一年はさほど真剣にやっていなかった)


こういう状態になって気づきました。


以前仕事をしていた時、仕事でうまくいかないと「●●のやり方が悪いからうまくいかない」「●●はいつも人の邪魔をする」と職場の人に愚痴っていました。


他人のせいにできたのです。


けど、今のこの状態だと他人のせいにできないのです。


連日うまくことを運べない自分にイライラして自分を責め(攻め)続けてしまいます。


今思えば、うまくいかないことを他人のせいにできてたあの頃は楽チンだったなあと思います。


けど、あの頃に戻りたいかといえばそうではありません。


全然うまくいってないし毎日自分に腹が立つのですが、昔のわたしより今のわたしのほうがどちらかといえば好きなのです。


なんでだか考えてみたのですが、おそらく、「被害者意識」と「執着」の違いでしょうか。


昔は、どうしても人のせいでうまくいかないと思い続けてて、「あいつがこの世にいなければ~」(ある意味怖い…)と思ってたし、「今の生活を守るためにこの仕事を失ってはならない」という執着があって、辛いはずなのに辞められなくて、自分を苦しめていました。


今はそうではなく、わたしは自分が心地よい生活を送るために、これをやっていると思っているので(何度も書くけどうまくはいってないw)、被害者になることなく、自分で選んだ道だと思えているからです。


とは言え、結果が出ないことには生活は成り立たず、貯金もいつまでもつかという感じの状態ではあるので、次のことは考えないといけないのかなとは思ってます。


でも、どうしても働く気は起きない自分がいます。


たまに、平日の昼間に外に出るとOLさんらしき人がお昼を買いに外にを歩いています。


それを見るだけで、何故か嫌悪感を感じるのです。


そして、「絶対にわたしには無理~~~」と思ってしまうのです。(雇ってもらえるかは別問題ですが)


これは何度もEFTで認めてるのですが、なくなりません。


こんな私にお金を稼げる日はくるのだろうか…と思いつつ今日もEFTをやってます。