一番大切なものは何ですか。

出口の見えない閉塞した教育界に飛び込んだ元営業マン。

街の小さな進学塾塾長として

そして3児の親父としての目線で日本の教育のあるべき姿を考えます。




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2008年04月04日(金)

さくら咲く

テーマ:徒然テーマ


sakura



近所の学校に植えられた桜が満開でした。




世の人々の新しい門出を祝福するかのように


毎年春のこの時期に咲き誇る桜―


その身に纏う「ドレス」の美しい色は、どこから出てきたのでしょうね。





手を引く娘が言いました。


「お父さん、さくら、ピンク色、きれいやなあ・・・。

でも、何でピンクになんの?何で春しか咲かへんの?・・・」



「それがさくらさんの仕事なんやろなぁ」


「ふーん」







自然という秩序の中で


それぞれが、


与えられた時間で


与えられた役割を演じ


一生懸命「生」を燃やすその姿は美しい。


たとえそれが華美でなくとも。


自分の役回りは何なのか。彼らは知っているのでしょう。




私達人間は自然のサイクルから飛びぬけたように

勘違いしていても、やはり自然の一部。


一人ひとりが果たすべき役回りも、きっとあるのでしょうね。


2008年03月18日(火)

理解という名の無理解

テーマ:教育

まだ入試態勢は崩せませんが、少しばかり落ち着いてきました。。

相変わらず不定期更新ですが

お付き合いいただけましたら幸いですm(_ _ )m




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さて、先頃、福岡県の中学校での荒廃の様子がニュースになっていました。

校内にはタバコの吸殻が散乱し

来校者にはツバを吐きかけ

校舎の窓から放尿し

校長室に押し入っては、備品を壊す


当該生徒達の保護者と学校側は対策を協議したものの、改善が見られず

心労で体調を崩した校長と教頭は学校を休んでいるというものでした。


学校の対応と保護者の対応の不手際―

もちろん責められなければなりません。
しかし、根本的原因に迫る議論が全くなされないことに、



この社会の病弊があるように思います。



それは


この何十年もの間、家庭も学校も、


「社会=国」をどう教えてきたのか。

「権利」と「責任」、「義務」をどのように教えてきたのか。

「社会規範」を守ることの大切さをどのように教えてきたのか。



ということ。




今年31歳になる私は

残念ながら学校でそれらを教わった記憶は全くありません。


学んだことは


「人権を大切に」 

「憲法を大切に」 

「平和を大切に」


あたかも

既得権益かのごとく

しかも

願えば空から降ってくるかのごとく


教えられました。


恐らく皆さんもそうかと存じます。



しかし、実際にそれらを保障するのは自分達であって、

それらを得るためには

多大な犠牲や努力、責任が必要であることなどは

学びもしませんでした。



私達の世代はそういった「責任喪失」世代です。



こういったことは家庭が率先して教えるべきことなのですが

私達は意図的に自分達の先人を貶めるような病んだ教育と情報操作によって、

世代間での信頼を既に断絶されています。


自らのルーツを否定した教育は、倒錯した超個人主義を育み

「しつけ」や「規範教育」といった家庭教育を通じた、「命の伝承」を

軽視する今日の憂慮すべき風潮を生み出しました。



これまでの日本にはなかった


異常な数の虐待

育児放棄、

家庭教育不在


これらの「異常」は、その産物なのです。




マスメディアと教育界が一体となって数十年に渡り刷り込んできた

この「社会退廃システム」から抜け出て

子ども達を豊かに育むための秩序回復を成すことはもはや難しいのでしょうか。




「子どものライン」を越えた、無分別な「子ども」に対して

教師も親も、摩擦を忌避するあまり正面から向き合わず


逆ギレを恐れるあまり卑劣な行為を見逃し、

「理解」と「愛」の名の下に機嫌を取る―



その、無軌道な子どもが振りかざす権利の前に打つ手なくひれ伏す姿は


ひたすら個人の利益と保身を追求する大人の姿は



荒れ狂う子の無軌道な道に基準を与えるものですらなく



真面目に生きようとしている

心ある子ども達までをも失望させるのに十分なものです。







ある心理学者の講演会の演題はこうでした。

「いい子じゃなきゃいけないの?」




身勝手を認めることと、価値観の多様性を認めることとは違うのですよ。

人間は自分ひとりで生きているわけではないのです。




真面目で一生懸命で正直であること―



たとえ自らの現状がそうでなくとも

そこに価値を見出すことを是とし、そこに向かわせる気力を持たない

社会に未来はありません。



自戒をこめて。





2008年03月05日(水)

私達への請求書

テーマ:社会事情


雪がちらつく郊外の駅のホーム。

私は電車を待っていました。



親子連れが私のそばに立ちました。 


歳は私と同じくらいでしょうか、

母親と思しきその女性の肩にはブランドショップの大きな紙袋。

手にはキャリーバックを引いています。


彼女の足元には4、5歳の小さな女の子がいます。



空いた手は幼子の手を握るのではなく、携帯を握り忙しそうに操作しています。

おそらくメールを打っているのでしょう。



そのとき、女の子が


「ねえねえ、お母さん・・・」


小声で話しかけました。

その姿と声は明らかに母親を気遣ってのものでした。


しかしその母親は子どもと目も合わせず、画面を見据えたまま


「お母さん、今忙しいねん!黙っといて!」



と怒鳴りつけました。

女の子は何も言いませんでした。



しばらくしてから、彼らの前を親子連れが通りかかりました。


女の子は彼らを指差して


「あっ、●●(キャラクターの名前)や!」


と、また小さな声でいいました。



それを聞いた母親は


「よそ人を指ささないの!いつも言ってるやろ!」



と強い口調でそれだけ言うと、また携帯に目を戻しました。

子どもはそれからはもう、何も言いませんでした。





しばらくして普通電車が来ました。



乗り込む彼らの背中を見やると、

女の子は、母親のコートの裾を握りしめていました。




冷淡にされてもなお

彼女がその小さな手で握りしめていたもの―



それは、本人にしか見えぬ、親との絆。



あると信じて、懸命に掴む。


かの母親に、その思いが伝わることは果たしてあるのでしょうか。







個人の幸福追求権が声高に叫ばれるのと比例して、

このような異様な光景が「日常」になってきました。






国民を「市民」と意図的に呼び換え、

国家を矮小化させることに腐心してきた人々、メディアは


本来転嫁できるはずのない人間としての、国民としての責務「国」や「社会」に転嫁し、

権利、社会保障という「甘い汁」をこぞって吸うことを勧奨してきました。



まるでそれが、21世紀に生きる「良識人」の要素であるかのごとく。







しかし、元来より「国家」「社会」は

別物などではなく、カタチあるものでもなく


それは紛れもない、国民である「自分達自身の投影」。




ネズミ講的責任転嫁をし尽くし、破綻を間近に迎えたそのとき、


私達は、処理しきれないほど膨大な「請求書」を突然、突きつけられます。


「社会」の一員として。




しかもその請求書の発行者欄には、自分達自身の名前が書いてあるのです。





親は空いた手でケータイを握り締め、

子どもに罵声を浴びせる。


行き場のなくなった幼子の小さな手は

それでも乾いた親のコートの裾を掴む。




その光景は、紛れもない私達大人への「請求書」。

発行者は私達。


次代に背負わすものではありません。



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