一番大切なものは何ですか。 -2ページ目

範を示すということ

「最近の子は、可愛げ気がないわ・・・」


学生のときに良く通っていたパン屋さんを、久しぶりに先日訪れた時のことです。
店主である名物おばちゃんが、私にこぼしていました。



店を訪れる学生のほとんどが

店に入ってきたとき、出て行くときに

挨拶はしない。


もちろん笑顔もない。

「ああ・・・」「ううん・・・」―

問いかけても、答えは必要最小限。



頭だけが立派になってもね・・・



客のほとんどを学生が占めるそのパン屋さん。

時代の流れとともに移り変わる子供たちを、そのおばちゃんは最前線で見つめてきたことでしょう。

ため息混じりに私に話すその顔には、いつもの笑顔はありませんでした。




「自分は金を払ったっている客なのに」 ―

なんであいさつせなあかんねん


「自分は金を払ったっている客なのに」 ―

なんで「ありがとう」なんて言わなアカンねん


金を払ってやっている俺に感謝しろ― 





かつてIT時代の寵児と呼ばれながら、不正を重ね摘発された某氏を彷彿させるような

この非常に貧困な感性は、社会における個々人の孤立を助長させ、さらなる道徳的退廃を

招くことはあっても、社会環境の改善につながることはないでしょう。



私も、十年来、教育業という立場から子供たちを見ていて思うのですが

権利を主張することを最優先に教え込まれた子供たちは、前述の人物のように

人を思いやる感性が非常に乏しい傾向にあります。




しかし振り返れば、今日の子供たちに見られる現象は

今日のこのような大人たちのあり方をそのまま映したものなのです。




ブランドに対する消費者の信頼を逆手にとって儲けようとする、

唾棄すべき貧困なまでのあさましい精神が露見した食品偽装問題―


指示した方々にも子がいるでしょうに。


まさか、したり顔で「他人を欺いてまで、自分にええようにしたらアカン」

教育していたのでしょうか。



後を絶たない、教職員による生徒への犯罪行為―

教育に対する信用を極限にまで失墜させながら、今だなお留まるところを知りません。

教育に携わるものの責任は、他に比べて非常に重いことを彼らの多くが属する

教職員組合は周知しているのでしょうか。


今や、教師全体に対する不敬は

子供たちの間で完全に蔓延しているというのに・・・




このように

大人が率先して、「己が欲望のためにしか」動かないことの

大切さをアピールする―



そこには、未来を担う子供たちの視線を意識する「先輩」としての誇りなど

微塵も存在しません。




かくして子供は

大人を敬意を払うべき対象から密かに外していくのです。



子供は非常に感化されやすいもの。この現象はあっという間に伝播します。


学ぶべき範が周囲に存在しない、このような悲しき状況下で

強制や義務を排した「権利」を無条件に与えられた子供たちは、やがて自らの未熟な

倫理観のもとに独自の社会基準を形成し、それに従って行動するようになっていきます。


心の奥で密かに自動的に進められるその行為は、たとえそれが歪んでいたとしても

止めることはできません。



畏れるものがない、範とするものがないままに成長すること―


その重篤な危険性に対する認識は、非行のように一見して分かるものではないだけに

巷ではほとんどありません。


そして巷で気付いたときには、もうそれらは人格として完成された形で出現した時なのです。


学校などで、無理難題を他人にふっかける

「モンスターペアレント」呼ばれる、幼児のごとき大人たちの出現はまさにそれでしょう。


芯の通った哲学なき教育の不存在によって

まさに日本の教育は死に絶えようとしています。






どこを見渡しても、信じられるものがこれといってない―


このような異常な社会状況下で、唯一範を示してあげられる存在―

それは「親」でしかあり得ません。


だから今、私たち子を持つ親は、「範」足りえる行動をとらねばなりません。


そして親たる責務を全うしようと一生懸命に努力する背中を子供たちに見せることこそが

子供たちに親への「畏敬」を喚起することにつながるのです。



自分の人生を子供の人生と不可分のものとしながら、

文字通り「一生懸命」子育てに取り組む―



その姿勢は、必ず子供に通じます。

そしてそのことは、今問題になっている「命の大切さ」をもまた、

伝えることにつながるのです。


・・・というより、命の大切さは言葉で教えるだけで伝わりません。

学問のように能書きを垂れるような「楽」なことでは到底伝わらないのです。








範を示す― 


そうはいっても、確かにしんどいですね。


しかし、子供たちに次代を託し、命をつなぐということはそういうものではないでしょうか。

私たちも先人に今を繋いでもらったのなら、自分たちもそうあるべきだと私は思います。






自戒を込めて・・







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読者でいていただいている皆様、通りがかりの皆様へ


前回からかなり間の空いた更新になってしまい、申し訳ありませんでした。


ただ、ブログとはいえ、自分の意見を表する以上、気ままに書くわけにもいきません。

塾の移転・妻の出産と、加えて追い込みの時期を迎え、

自分の考えを整理しながら短くとも毎回2時間以上要するこの作業に

気力を割く余裕がないこの数ヶ月でした。


しばらくまたスローペースでの更新となりますが

ご容赦いただき、気長にお付き合いいただければうれしく思います。


宜しくお願いいたします。


                            kun










ありがとう

10月9日午前2時13分。


緊張と不安を突き破るかのように、元気な赤ちゃんの泣き声が

病院の廊下に響きました。


3280グラム、元気な男の子―


我が家に3人目の子どもが誕生しました。


検診のときに、4Dエコーを見ていた妻は女の子とばかり思い込んでいたそうで・・・

私も妻からそう聞かされていたので、びっくりしました。


外で待っていた私は、看護婦さんに招き入れられ、赤ちゃんを見つめました。


私の親指くらいの小さな手に、小さな爪がしっかりと生えています。


彼は


数分前に生まれたばかりなのに、もうつぶらな瞳を開けて、これから

生きていくこの世界を見回していました。


数分前にはおヘソを通じてお母さんから酸素を吸収していたのに

もうそれは肺からしかできません。


数分前にはおヘソを通じてお母さんから栄養を吸収して過ごしてきたのに

もう口を大きく開けて、自分からおっぱいを探していました。


自分で生きぬくために必要なこと。

それはもう既に刻まれているのでしょう。



そう思ったとき、「ありがとう」

その言葉が口をついて出ました。


生まれてくれた子どもに。

そして母としての大役を果たしてくれた嫁はんに。






名は「謙志郎(けんしろう)」と付けました。


他人をたて、自らは謙虚に、そして優しく。

そうありながら、自らの志はしっかりと持ち

男らしく、そして強くあれ。


その想いを託しました。


今、心地よい責任感に包まれ、自分はいます。

しかし、間もなくそれが重責となってのしかかってくるであろうことも知っています。

でもそれが父親である自分の役割。

常に子どもたちに見られている自分の背中。

しっかりとその責務は果たさねばなりません。


またしばらく、忙しくなりそうですね・・・

ゆとり教育からの転換

中教審が先般、小学校における授業時間数の増加の方針を固めました。



偏差値教育批判に始まった、教育施策の迷走はようやく

あるべき方向へ落ち着きそうな気配です。



北欧などの教育を引き合いに出し、


「時間を増やせばそれでいいというものではない」


と批判的なメディアも多いようですが、何をかいわんやです。





特殊な才能を持った人は別として

大部分の人にとって勉強は


quantity (量)  quality(質)


双方が揃って初めて納得のいく効果が出ます。



ただ、「質」は子供たち個人の有する理解度によって効果基準が一様ではないので

学校のような多人数指導の場合は、一定の「量」が必要になります。


その量をゆとりを持って確保するためにも、明らかに不足している現在の

授業時間数を増加させることは必須事項であるのです。


その上で考える力を養えばいいのです。





学生・社会人問わず、高学歴の犯罪者が増加してきたことを背景として

量をこなす教育は「詰め込み教育」と揶揄され批判にさらされてきましたが、


そもそも勉強の基礎は、反復による蓄積という名の「詰め込み」であって

それを否定しての学力向上などありえません。


高学歴の犯罪者の増加は

家庭内における道徳教育の崩壊と社会道徳の退廃が原因であって、

勉強が問題ではないのです。






巷で批判の多い安部政権でしたが、

この数十年、悪化の一途を辿っていながら、誰も手を付けようとしなかった

一番国の要の事業である学校教育の見直しに着手したということは

歴史の残る、非常に大きな功績だと思います。





楽しく、一生懸命学ぶ― 



学校本来の姿がいち早く取り戻されるよう

失速することなき今後の教育改革に期待したいと思います。