デヴィッド・リンチ:アートライフ
さんさんとふりそそぐ、さわやかな陽光に満たされた朝の食卓で、男は日ごと確実に繰り返される習慣をいつくしみながら、かぐわしいコーヒーの香りをかぎ、ゆったりと朝刊に目を通し、かいがいしく立ち働く妻のうなじの後れ毛をぼんやりと眺めている。 ふと目が合えば、空中で抱擁するように、視線をねっとりとからませるのだ。 幸福の絶頂が永続するかのような、ひととき。しかし不意に、玄関の呼び鈴が鳴る。 からみついた視線を、なごり惜しそうにほどきながら、妻は玄関へ歩み寄り、ドアを開けるが、いるはずの来客はどこにも見えない。困惑しながら振り返ると、そこにあったはずの食卓は消え去り、鮮血を塗りたくったような真紅のうつろな部屋がある。 そして、やはり赤い正装を身にまとった、しわだらけの小人のカップルが、退廃的なバラードに身をゆだねて踊っているのである。 前ぶれもなく出現するフリークス。それはデヴィッド・リンチの世界に欠くべからざるアイテムだ。 突然、世界がリンチ化するような状況に出くわしたら、「リンチが来た!」と叫ぶ。それが、我われリンチマニアの合言葉である。 さて、世界のリンチ化のステップ2。 言葉を失ったまま立ちつくしている妻に小人たちは1通の手紙を差し出す。震える指でびりびりと封を破き、視線を走らせた妻はわなわなと口を開いて、なにごとかを叫ぼうとするが言葉にならない。 小人たちは、「なにをいまさら……」「知ってたくせに……」と吐き捨てるようにつぶやいて、赤い部屋を立ち去ろうとする。バタムとドアが閉まると、そこに赤い部屋は、もう存在しない。 震えが止まらなくなった妻を案じている男が腰を浮かせかけている。だが、見えざるものに理由もなく追われる者となった妻は脇目もふらずに洗面所に飛び込み、鏡にガンガン額を打ちつけながら意味不明の呪詛の言葉を一心不乱に吐き散らすのだった。 世界をリンチ化する第2の鍵は、突然、壊れてしまう肉親、あるいは、とても近しい存在の人々である。他に、内臓の一部(標本も可)、頭のない犬、燃える虫などの不気味な小動物、医療器具(特に光るもの)のような小道具が充実してくると、その世界はリンチのものである。 リンチ的なるものとは、エントロピーの増大が不可逆的であるのと同じように、腐敗、崩壊、苦痛は絶対に不可避だという世界観を表現している。愛するものは必ず傷つけられる。愛とは、その偽装の被膜をはぎとってしまえば、加虐と被虐の相関関係でしかない。 たちの悪い不死身のストーカーにつきまとわれているように、乾いた異臭をかすかに放ち続ける不可解な悪夢から、なにゆえ、終生逃れられないのか。全編、みずからの生い立ちと、完成に5年をついやした長編第1作の「イレイザーヘッド」を撮るまでの青年期を追憶するモノローグで構成された本作で、リンチは自己分析を試みている。 米国北西部のモンタナ州ミズーラに生まれたリンチは、農務省研究職員の父と母、兄弟のいるノーマルな家庭で、なにひとつ不自由な思いをさせられることなく育てられた。リンチによれば、父親は生まれながらの正直者で、かたくなに我が道をゆくタイプの、飾りけのない男だったという。 少年時代に知りえた「世界」は、家を取りまいている、いくつかの街区の中に限られていたが、そのころから、まがまがしい記憶となる出来事が身辺に起こっていたという。 そのひとつは、夕間暮れどきに現れた奇妙な光景だった。まるで異界からの侵入者のような、異様な女を見かけたのである。奇妙な足どりでふらついている彼女は全裸で、口のまわりが血塗られていた。成人女性の裸体を見たのは、そのときが初めてだった。女は近づいてくるにつれて途方もなく巨大化し、かたわらにいた弟は、恐怖のあまり、身をすくませながら泣き出していた。 リンチの、クリエイターとしての実質は、「画家」である。映画を撮ったのは、「自分の絵を動かしてみたかった」からだった。 存在の不安の表現に全力を傾けているような画業において、「家」は重要なモチーフのひとつだ。それは突然、傷だらけの木になったり、ねじれた手が前を通り過ぎたり、発狂して、肥大した陰部をさらけ出したママが待ちかまえていたりする。 安息と至福の時は、腐敗と崩壊と苦痛の始まりでもある。だから、家族が満ち足りて、くつろいでいる家には、暗黙のうちに、夜が明ければ、見るも無残に壊滅しているのではないかという強迫観念が充満しているのだ。 リンチに言わせれば、「アートライフ」とは、「コーヒーを飲み、たばこを吸い、絵を描きながら、ひたすら創作の喜びを極めようとする生活」を意味する。 十代の最後にペンシルバニア州フィラデルフィアにあるペンシルベニア美術アカデミーに入ると、リンチは、念願のアートライフを手に入れた喜びに胸を躍らせた。その高揚感には、フィラデルフィアの街の病んでただれた魔都のたたずまいも作用していたようだ。 本作でリンチは、こう回顧している。「フィラデルフィアは、いわば、貧しいニューヨークだった。(中略)重苦しい雲のように恐怖が垂れこめ、病と腐敗の気配がはびこっていたけれど、その一方で、火花のような(アートスピリットの)輝きがあった」 フィラデルフィアでも、リンチ好みの狂気をふりまくイメージが、これみよがしに日常にまぎれこんでいた。「近所に、頭のイカれた女が両親と暮らしていたんだ。彼女は、雑草が伸び放題になった裏庭で四つんばいになって、鳥のような声で、『私はチキン!』と叫んでいた」。路上で出くわすことがあると、彼女は乳房をわしづかみにして、「乳首が痛いの!」と訴えながら、にじり寄ってくるのだ。「イレイザーヘッド」 そのころリンチは、自宅の地下室で、ネズミの死骸をラップにくるみ、腐敗してゆく過程を観察していた。それをたまたま見かけてしまった父親は、息子の人格に残虐性が潜在していると誤解し、「おまえは一生、子どもを持たないほうがいい」と忠告したという。 かくしてリンチは、忌まわしい夢魔の群れを精魂こめて飼いならし、孤高の悪夢使いになりおおせた。かすれてしまって鼓膜には届かない叫び声を、映画館で聞くために。 《2016年/米国・デンマーク/監督:ジョン・グエン、リック・バーンズ、オリヴィア・ネールガード=ホルム/出演:デヴィッド・リンチ》デヴィッド・リンチ:アートライフ [DVD]Amazon(アマゾン)3,798〜14,744円イレイザーヘッド デイヴィッド・リンチ リストア版 [DVD]Amazon(アマゾン)945〜6,979円エレファント・マン [Blu-ray]Amazon(アマゾン)5,200〜9,510円ブルーベルベット (オリジナル無修正版) [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]Amazon(アマゾン)7,808〜8,207円ワイルド・アット・ハート [Blu-ray]Amazon(アマゾン)1,070〜3,477円ツイン・ピークス Blu-ray ザ・テレビジョン・コレクションAmazon(アマゾン)7,845〜34,392円ロスト・ハイウェイ デイヴィッド・リンチ リストア版 [Blu-ray]Amazon(アマゾン)1,966〜7,959円ストレイト・ストーリー リストア版 [Blu-ray]Amazon(アマゾン)2,364〜16,331円マルホランド・ドライブ 4Kリストア版 [Blu-ray]Amazon(アマゾン)3,250〜14,840円インランド・エンパイア 通常版 [DVD]Amazon(アマゾン)886〜7,990円