【ネタバレ気味につきご注意ください】

 人の営みは、むなしく聞き流されてしまった言葉の亡骸であふれかえっている。

 死にかけていながら艶やかに色を変え、あてどもなく、無数に舞い落ちてくる枯れ葉のように、音となって発せられたそれは、頼りなく感覚をかすめただけで、あっけなく地べたに張りつき、ひろい上げられることもなく朽ち果ててゆく。

 でも、この映画は、聞き逃してはならない声だけを緊密につなぎ合わせたモザイクのようにつくられている。

 

 

 

 

 時と場合によって感情の裏打ちを強引にはがされていたり、沈黙から聞こえてくる声なき声であったりもする言葉が、映像を張りつめさせ、情感を支配している。

 原作となった、村上春樹の同名短編小説の中で、真実の声について書かれた一節を敷衍した設計思想でストーリーが組み立てられ、オリジナルのエンディングに案内される。

 その一節は、俳優である主人公の家福(かふく)が、亡き妻を寝とった高槻という同業の男と、とあるバーで語り合うことになる、訳ありのシーンにあるモノローグだ。

 「高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった」

 青白く燃える炉心のような心のコアから、何重もの隔壁を突きやぶって聞こえてくる、ありのままの言葉を、どうすれば、虚構のセリフが交わされる演技で表現できるのか。

 そんな理不尽にも思える課題を意識の通奏低音にしながら、何人もの男と情交を重ねていた理由を問い質せぬまま妻を病で唐突に失い、魂の内奥に空洞を抱えこんでしまった家福の救済譚を構築している。

 映画で創出された新たな設定で、家福は、ドラマの脚本家だった妻が急逝した2年後、広島国際演劇祭で上演されるチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」の演出を頼まれ、東京から愛車サーブ900で南下する。

 

 

 

 広島では、演劇祭の規約で車の運転は控えるよう求められ、専属のドライバーが手配されていた。名を渡利みさきという、無口で、むやみに煙草を吸う23歳の女性だった。

 継ぎ目のないチューブの中を滑るように車を走らせる彼女のシフトチェンジのテクニックとハンドルさばきはピカイチだったが、運転中、能面が張りついているように表情がなく、質問されない限り口を開こうとしなかった。

 まるでAIよりも無機質な、人間ばなれした自動操縦システムになりきろうとしているかのように。

 だが、やがて、北海道の北辺に故郷がある彼女の痛ましい生い立ちが問わず語りに明らかになり、ふたりはともに、車でひたすら、その地をめざして北上し、心のブラックホールをふさぐ旅へ駆り立てられる。

 原作では、タイトルとセリフの一部が引用されているにすぎない「ワーニャ伯父さん」は、映画では、韓国手話も交えた多言語の劇中劇になり、不測の事態が生じて、みずからワーニャを演じることになった家福の終幕の芝居が、彼自身の自己再生と絶妙に重なり合うように仕組まれている。

 

 

 そこで語られるソーニャ(ワーニャの姪)のセリフ、「仕方がないわ、生きていかなければ!」「もうしばらくの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……ほっと息がつけるんだわ!」は、家福にとっては虚実の境界など曖昧にする、まさに聞き逃してはならない声にほかならなかった。

 なにもかもあきらめ、うなだれたままソーニャの慰めの声に耳をかたむけるワーニャ=家福を、みさきが客席から恍惚とした面もちで見つめている。

 ふたりは内なる対話を続けながら、ともに生き直そうとしていた。

 

 

 

 

 

 

《2021年/原作:村上春樹「ドライブ・マイ

・カー」(文春文庫「女のいない男たち」所収)/監督:濱口竜介/脚本:濱口竜介、大江崇允/音楽:石橋英子/撮影:四宮秀俊/照明:高井大樹/出演:西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいか、パク・ユリム、安部聡子、ジン・デヨン、ソニア・ユアン/第74回カンヌ国際映画祭脚本賞・国際映画批評家連盟賞・エキュメニカル審査員賞・AFCAE賞》