何を検索していたのか、記憶がいまとりあえずないが、こういうマルクスの言葉に出会った。
{マルクスの言葉
「青年に対し、祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国呪詛(じゅそ)の精神を扶植(ふしょく)することが革命の近道だ。」}
恥ずかしいことに出典が何か、にわかにはわからない。一瞬、本当にこれがマルクス?と思った。
が、「難民化計画」にとってこの言葉はかなり本質的なものである。これ以上のものはないと言っていいほどにである。
但し、「革命の近道」だけは今日的には意味をなさないのではあるけれども。
そこそこに知恵はあろうが、人並みはずれた慧眼を持っているわけではなく、拳銃の扱い方も知らず、先陣切ってディアスポーラした父祖や兄弟、親類縁者もなく、貴金属を身に付けて移動する術も持たない。
弱々しいだけのボートピープル。これが日本人難民化の像である。
用語について。「流民」という言葉もある。難民とは似ているが非なるものだ。とりあえずどちらでも良い。鍵はディアスポーラである。吉田一穂という詩人は「散在体」と訳している。
もう20年近くも前のこと、80年代後半、昭和天皇崩御の一年ほど前だったと思う。ある総合商社の知人が、「別に日本という国があってもなくても俺らは仕事をしていける。そういう気がする」と言ったことがあった。なぜか気になる発言で、忘れたことがない。リバタリアンはもうこの頃、萌芽していたのかと思う。けっこうこういうこと日本人はやりそうだと妙に納得してしまうから嫌になる。自分はできない。カネにあかせて海外永住を決め込む連中もかなりいるだろうと思う。
用語は難民でもいいが、もっと近いのは流民かとも思う。何によって、どこが、何が困窮したのか、そして逃れさる場所が安全であるとも限らない点で、難民化では不十分である。だらしのなさからすれば流民だろうが、どんな、どの程度の混乱なのかを定義しなければならない。しかし、どちらでもいいのである。
何かがそのように、日本人をして祖国を離れて良し、とまでは言わないまでも、どこだっていいという世間知らずの極楽トンボ感覚、なんとかどこでも食っていける、国がなくても、という意識を中枢から注入され、今度は経済的混乱によってそのように事実、海外に追い立てられるような状態に追い込むような計画を進めている存在の影を感じることがあるということであって。
従って、音のよさから「流浪の民」だって良いのである。問題はそのように追い立てる勢力はなんであるのかということなのだから。
そして本質的なのはディアスポーラである。そしてユダヤはなぜ国を作ったのか? である。
この国には、ディアスポーラにとっての旧約聖書にあたるものがあるのだろうか?
華僑たちの「中華」にあたる確固たる信念があるだろうか?
いま思い出したが、検索語は「日教組」だった。上記マルクスの言葉の後に、「日教組は忠実にこれを実践してきたのではないか」とあるページに遭遇したのだった。
「反ユダヤ」ではなく、「対ユダヤ」へ。
と考えてみようと思う。対ユダヤの立場。日教組に対しては、それは断固たる極右として現前する。しかしながら、上記のようなマルクス半可通読み(おそらく)に対しては、真っ赤な(もしくは真っ黒な)新左翼として登場する。そういうことだ。
もっともインターナショナリズムに誤読があったとすれば、あのマルクスの言葉、半可通読みどころか本質的である。そして、日本で起きたすべてのブ左翼の態度、言説が忠実にマルクスの言葉どおりであったことになる。原典をあたらざるを得ない。おそらくアジビラの類に書いたものではないかと推測するのだが。明らかに、時に臨んでの戦術論のひとくさりに違いないと思えるのだが…。
- 横山 三四郎
- ロスチャイルド家―ユダヤ国際財閥の興亡
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- ユダヤ国家のパレスチナ人