45番街の坊主に、招待メールをくれろと頼んでみた。

ありがとうございました。 で、ひとしきりソーシャルネットワーキングシステムの話になった(絵はなんの関係もないが、「決済」というのはなんであれ気持ちが良いものだ。半年間で1500円というのは手頃だ。しかも独自ドメイン。30万ユーザというから会社もそこそこやっていけるわけだ)。ミクシーは、「不特定」ではなく、「特定」260万人のマーケットであると、坊主は言う。


ブログなんて屁だと。誰もこねえだろ、だと。来てるさ。でも呼びにいけないじゃん。

そんなこたあない。てことは何か、アメブロのスクラップブックに近い?

プルとプッシュの違いだろ。ま、そうは言えるかもしれん。


IDを立てる。プロフファイルを書く。写真は載せても載せなくても。

何、じゃ紳士録みたいなリスト? まあね。

どこが面白いの?

悪玉率が低く、仲間を集められる。匿名か本名かというのは、悪玉善玉の基準にはならん。

ミクシーは本名を推奨してるが、90%ハンドルだそうだ。しかし、悪玉は圧倒的に少ない。

最初は運営者のトップ自身が身近なところを招待して広がってった。ネズミ講(笑)みたいなもんだ。

だからSNS。ヤフオクで招待メアドが売りに出されるくらい、だそうな。


なら自分ちで同じことやればいいってことじゃん。

ウィキみたいなオープンソースなんかな?

オープンソースって何?
話はここで終わった。

隣の若者の現代詩の話にうつろってった。

荒地派でおわってっだろうが。

でも作品はぽこぽこ出てくるんであって。

だから運動としての現代詩は荒地で終わったんだよ。


鈴木 瑠璃子
まぼろしの荒地―エリオットの見た現代

『経済学・哲学草稿』は第一草稿[一]労賃に始まる。

おそらく著者がこれを書いた年齢に近かったころに一度読んだ記憶とは全く異なる書き出しであることにまず驚いてしまった。昭和42年の旧版である。

記憶では、仕事の場と家族の生活の場が分離(疎外)される事態から書き起こされていたはずで、今回読み直始めた「労賃」の記述のような激越さはなかった。もっと静かな印象を、つまり哲学側から滑り出す構成だったという記憶になっている。

読み直し始めたこの版は、まさに当時の「工場労働」という人類が初めて体験する新しい労働の怒濤のドキュメントのようである。

「資本」が玉突きの最初の一撃の如く、人の生活や意識を加速度的に変えていく瞬間を切り取った「衝撃のドキュメンタリー」のように読める。資本の爆発、ビッグバンの活写。それはすさまじい勢いであったのだ。

執筆されたのは1843年から45年の間とされる草稿に登場する「労働者」とは工場労働者であり、資本家とは、まさに投資家に近い姿を以て登場している。

株式を売買するより直接に、工場を運転するための設備投資をするわけだが、不思議にこの資本家たちは、今日の投資家に似ている。

「もはや彼は利子では生活できないから、彼の資本を食い尽くしてしまい、したがって資本家たることをやめるか、あるいは、みずから事業に手をつけ、自分の商品を富んだ資本家よりも安く売り(中略)高くなった労賃を支払うか(略)みすから破滅するか・・・」

といった記述が出てくる。

チャートは国民経済学者が作成する諸表である。

そして「金持ち父さん・貧乏父さん」などは「哲学なき労賃草稿」であることがはっきりしてくる。


立春大吉に雪が降る。鼻水も出る。

久々にリブロに寄ってみた。昔の西武ブックセンターの流れを汲む本屋さんだ。

まだ優れ者の書店員さんがまだ現役でいるようで、ディスプレイが良い。

眺めているだけで元気になる。日本もまだ捨てたもんじゃないと思わせてくれる品揃えで、

本の小さな塔が構成されている。

あっという間に、今こそ読みたいと思わせる本が二十点ほどは目に飛び込んでくる。

ただいま現在は金欠で一冊も買えない。


記憶に残った本に、平積みになっていた橋本治の『乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない』がある。

立ち読みしただけだが、例の勝ち組・負け組という物言いの歴史をさらって、これを相対化してしまおうという魂胆の本のようだ。サブタイトルもなかなか刺激してくれる。

追って詳述したい。


後は藤原正彦の『国家の品格』

ニートと言うな! てな本も目に飛び込んできた。


革命など確かに死語である。もともとが生きていなかったかもしれない。

だがその歴史をたどろうという意識まで死んでいいはずはない。

団塊の世代の自慢げな「武勇伝」めく与太話が邪魔をするところもあるかもしれない。

まあそれはどうでもよい。

『ロシア革命』というビジュアル本、審問官?スターリンだったか、の大著も読んでみたい。


雪とは言え、やはり立春大吉である。


さてもさてもで遅まきまがらの恵方巻


橋本 治
乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない

いまだ文献は見つからないが、それは「革命的祖国敗北主義」と呼ばれたもので、「祖国」が「帝国主義戦争」をおっぱじめようとする時機に応じて「内乱」を起こし、これを以て革命戦争に転じようというもの。やはりテンポラリーな戦術論であってマルクスの根幹をなす考えではない。


臨戦時の物言いとして、「青年に対し、祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国呪詛(じゅそ)の精神を扶植(ふしょく)することが革命の近道だ。」なる言葉は確かにぴったり来る。

しかし、この言葉、マルクスではなく、レーニンではないのか? ロシア革命戦争前夜の。


だが、日本の戦後においては、マルクスよりも何よりも、米国のGHQがあったのだ。

ナショナリズムではなく、どの国であれ、普通の感情として持っていて当然の「国」の文化や伝統を口にするさえ恐ろしいことのように喧伝したのが、「民主主義」の名の下に行われた教育というものだった。


マルクスでもレーニンでもいいのである。あの言葉から「革命」などきれいさっぱり消え去った状況における「祖国敗北主義」なら今にも通じそうではないか。


カミ仏の祖国を呪詛する風潮は確かに存在したし、呪詛とまではいかずとも、それを知らずにどこが悪いという風潮はほぼ完璧に浸透した。


思えばかつて「革命」を標榜した政党によって「革命」という言葉もコケにされたのである。

この国にあっては。ロシア革命も中国革命も死んだのであるから、いまは歴史の審判として、その「革命」は葬送されて当然であったといえる。


しかし、経済学から哲学を批判し、返す刀で今度は哲学から経済学を批判するというハイテンションな力業をやってのけたマルクスの仕事の意義は、未だに失われていない。


マルクス, 城塚 登, 田中 吉六
経済学・哲学草稿

先のエントリで、ライブドアは糞だが、東証も糞であろうと書いた。
で、これは社会的犯罪であるとも。
市場の混乱が殺人を引き起こすことはあり得る。
いまでは便利な「自己責任」という、これも糞のような使われかたをする言葉があるけれども、ブラックマンデーのころにこんな糞語は存在していない。
ビルから転落死した人物に同情することは恥ずべきことなどではなかった。
いま同情される可能性がある者とはどういう者たちか。
追証くらって死ぬかも知れない個人凍死者、いや投資者である可能性がもっとも高い。
で、こういう者に対してのみ自己責任という言葉は使われる。
ライブドアはとりあえず法人である。堀江氏はその最高責任者である。
どんな企業であっても責任者が留置拘置される可能性はゼロではない。
そんな事件はこれまで腐るほど起きてきている。

交通警察のネズミ捕りに似ている。確率戦にライブドアは負けたのである。
似たことをやっている会社が他にもある可能性は高い。
だが、なぜいまライブドアだったのか。生身の人間は、「粉飾」によって、株の売りぬけによって誰一人として傷ついてはいない。
被害者はいないのである。いや被害者となる可能性のある予備軍はいるだろうが、とりあえず「犯罪」かも知れないと嫌疑のかかっているその行為によって被害を蒙ったものはまだいない。

市場が大混乱したことが最大の被害であり、最大の被害者は市場である。
それだけの犠牲を払ってでも、いまこの時期に、ライブドアにガサを入れたというのは、どういう了見なのか?
誰が利益を得るのか?

すなわちライブドア事件の主犯は誰なのか? 何なのか?
ライブドアの肩を持つ気などさらさらないが、日本の検察特捜は、アメリカで言えばFBIのような役割を担うことがある。

このことは忘れないほうがいいだろう。

何を検索していたのか、記憶がいまとりあえずないが、こういうマルクスの言葉に出会った。

{マルクスの言葉

青年に対し、祖国の前途に対する希望の灯を奪い、祖国呪詛(じゅそ)の精神を扶植(ふしょく)することが革命の近道だ。」}


恥ずかしいことに出典が何か、にわかにはわからない。一瞬、本当にこれがマルクス?と思った。

が、「難民化計画」にとってこの言葉はかなり本質的なものである。これ以上のものはないと言っていいほどにである。


但し、「革命の近道」だけは今日的には意味をなさないのではあるけれども。

そこそこに知恵はあろうが、人並みはずれた慧眼を持っているわけではなく、拳銃の扱い方も知らず、先陣切ってディアスポーラした父祖や兄弟、親類縁者もなく、貴金属を身に付けて移動する術も持たない。

弱々しいだけのボートピープル。これが日本人難民化の像である。


用語について。「流民」という言葉もある。難民とは似ているが非なるものだ。とりあえずどちらでも良い。鍵はディアスポーラである。吉田一穂という詩人は「散在体」と訳している。


もう20年近くも前のこと、80年代後半、昭和天皇崩御の一年ほど前だったと思う。ある総合商社の知人が、「別に日本という国があってもなくても俺らは仕事をしていける。そういう気がする」と言ったことがあった。なぜか気になる発言で、忘れたことがない。リバタリアンはもうこの頃、萌芽していたのかと思う。けっこうこういうこと日本人はやりそうだと妙に納得してしまうから嫌になる。自分はできない。カネにあかせて海外永住を決め込む連中もかなりいるだろうと思う。


用語は難民でもいいが、もっと近いのは流民かとも思う。何によって、どこが、何が困窮したのか、そして逃れさる場所が安全であるとも限らない点で、難民化では不十分である。だらしのなさからすれば流民だろうが、どんな、どの程度の混乱なのかを定義しなければならない。しかし、どちらでもいいのである。

何かがそのように、日本人をして祖国を離れて良し、とまでは言わないまでも、どこだっていいという世間知らずの極楽トンボ感覚、なんとかどこでも食っていける、国がなくても、という意識を中枢から注入され、今度は経済的混乱によってそのように事実、海外に追い立てられるような状態に追い込むような計画を進めている存在の影を感じることがあるということであって。


従って、音のよさから「流浪の民」だって良いのである。問題はそのように追い立てる勢力はなんであるのかということなのだから。

そして本質的なのはディアスポーラである。そしてユダヤはなぜ国を作ったのか? である。


この国には、ディアスポーラにとっての旧約聖書にあたるものがあるのだろうか?

華僑たちの「中華」にあたる確固たる信念があるだろうか?


いま思い出したが、検索語は「日教組」だった。上記マルクスの言葉の後に、「日教組は忠実にこれを実践してきたのではないか」とあるページに遭遇したのだった。


「反ユダヤ」ではなく、「対ユダヤ」へ。


と考えてみようと思う。対ユダヤの立場。日教組に対しては、それは断固たる極右として現前する。しかしながら、上記のようなマルクス半可通読み(おそらく)に対しては、真っ赤な(もしくは真っ黒な)新左翼として登場する。そういうことだ。


もっともインターナショナリズムに誤読があったとすれば、あのマルクスの言葉、半可通読みどころか本質的である。そして、日本で起きたすべてのブ左翼の態度、言説が忠実にマルクスの言葉どおりであったことになる。原典をあたらざるを得ない。おそらくアジビラの類に書いたものではないかと推測するのだが。明らかに、時に臨んでの戦術論のひとくさりに違いないと思えるのだが…。


横山 三四郎
ロスチャイルド家―ユダヤ国際財閥の興亡
デイヴィッド グロスマン, David Grossman, 千本 健一郎
ユダヤ国家のパレスチナ人

中野署から拾得物の葉書が届いた。

薬、手帖、本、名刺。

どうやら今はあまり使っていない名刺が手帖のなかに挟まっていたらしい。

これは必ず出て来るとは思っていたが、人の記憶とはこんなにもいい加減なものか。

今日も帰り道で、「あんた鞄なんか持ってなかったよ」の目撃証人4人めに出会ったばかり。

ということは、店がはねたあと店員の誰かが、交番に届けてくれたのだろう。

小物なら、たとえば傘とか携帯とか、ブリーフケースの類なら店に置くかもしれないが、

嵩張る鞄を置く場所もない。トラブルのも迷惑だし賢明な処置ではある。

あそこでは一度、携帯を忘れたことがあって、そのときは「忘れ物だよ」と翌日、手ずから渡してもらった。

鞄は初めてのことだ。

目撃証人4人目は、当日もそこであった同じ場所でまた会うというご縁。

今日はそこにいつも座っている手相見と立ち話しているところだった。

手相見はアリス・ミラーのあまり知られていない、しかし絶対的名作である、

『魂の殺人』を教えてくれた人物。

「親は子どもに何をしたか」という、一見なんてことのないサブタイトルが、

その深淵さを物語る。そいういう本質を突きすぎて、学界から遠ざけられてしまったドイツの心理療法家の本である。日本では唯一、斎藤学がまともに取り上げているという。

A.ミラー, 山下 公子
魂の殺人―親は子どもに何をしたか

恩師の死、女児殺害事件、市場の混乱、女系天皇問題、また市場の混乱…。

鬱陶しい、憂鬱の虫にたかられっぱなしの年末年始。

散々な一月だった。

が、お陰様で仕事だけはうまく走っている。

相変わらず種銭はお寒い限りであるが、

引いて眺めていればいいのであって、

こういうときは焦慮が最大の敵である。

上手に「忘れる」、というのも才能の一つだろう。


ビー玉の74歳になる店主は、最近「日本は後30年持たんな」と、こればっかりいう。

中国に席巻されるくらいなら、しっかりアメリカの旦那にくっついて第51州にでもなんでもしてもらったほうがましだと。情けないことこの上ないが、悔しいことに事実、現状であるので、情けなさを噛みしめるしかなかろう。なんだか今年はずっと冬のまんまかも知れぬなどと暗澹たる気持ちになる。がそれはそれでいいのである。から元気だして風邪ひくよりは、一陽来復を祈りながら、ガタガタ震えてでも耐える技量がいま必要だ。

うまくやろうなどと考えてはいけない。本来無一物、山河だけがあるのだ。


が、その山河が危ないのだとしたら、いったいどうすればいいのか。堂々巡りである。

これは日本に限ったことではないが、この山河にどうしてこんな変ちくりんな大型獣が生息することになったのか、そしてなぜこんなことを綴っているのか。

そういう素っ頓狂なことまで考え出す始末。


もう7年ほどになるだろうか、高尾で首をくくったF先輩が、いま生きていたら、おそらくやっぱり割腹かなんかして、生きてはいなかったろうと思う。この長い冬はもうあの頃から始まっていたのだと思えば、いまさら愁訴したところで遅い。みんなで渡れば怖くない壮大なゼロをここまで来てしまったのだ。


いまこそ話したいと思う人は、見回せばみんな亡くなっている。


だが、何もないのでもない。安藤忠雄設計の表参道ヒルズなどは、最近珍しく良い仕事だ。

氏自身が「心の風景」という言葉を使ったあのケヤキ並木は、見事に保存されたのだ。


それにしても今年ほど節分が待ち遠しいと思ったことはない。

少しだけ温もりが戻って来る。

あと5日ほどの辛抱である。

金宮が効いた。効き過ぎるくらいに、しかも自覚的に。鞄の中に大したものは入っていない。

漢方薬以外は。


寝てしまった形跡はない。財布も、通帳も印鑑も携帯も無くなったものはない。だいたいあんな寒風のなかで道で寝ていたら半死状態だろう。

みっちゃんに200円のケーキを届けたときすでに鞄は持っていなかったのではないか。そんな気がするが。


金宮状態がいかに凄いかということ。鞄が軽くなっていたせいか?

四文屋か?すでに四文屋で忘れていたという気がする。テーブルから移動したとき置いたままにした可能性。日教組の店で激昂してそのまま出た可能性。

坊主で鞄をどこかに置いたか? 端っこに座って。


気付いたのは路上だった。電信柱に寄りかかって立ったままうたた寝をした可能性はある。で、覚めて、その瞬間に「鞄がない」。その瞬間に金宮状態を抜けた。ということは大いにあり得る。


金宮、恐るべし。

ライブドアは糞だろうが、IPOで上場企業らしきものを粗製濫造中の証券取引所の親玉である東証も糞であろう。


今回の件では、たかが数百万とは言え、個人投資者が信用取引を許されたがために、莫大な、というのは割合としてであっても、3倍以上の追証を受けて、借金が増え(これは含み損ではなく、実際に返さなければならないカネである)、返済に窮して、首をくくるという事態が頻発しかねない。


そういう社会的犯罪であることを肝に銘じるべきである。


難民化については後日。