小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」 -49ページ目

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

今日は久々に淑徳大学のエクステンションセンターの公開講座に行ってきます。午後からです。
ドイツ式と言われる日比谷庭園やドイツの法務省赤煉瓦館を訪ね、ドイツ式庭園と喧伝している根拠に言及。逆になぜ法務省がドイツのネオバロックなのか外装材や屋根、フォルムから見極め方を伝授します。今日は見どころ満載。「すっごい、知識が増えた~!」と感激しながら帰って、でも自宅に帰ったら、「あの見極め、なんだっけ~」なんて忘れられてしまうかも知れませんが、それはそれでご愛敬。楽しいフィールドワーク、久々に心ワクワク!
来週水曜日には朝日カルチャーセンター千葉主催の公開講座で築地を歩きます。これも誰でも参加できるオープン講座です。

今日の「日刊ゲンダイ」に同僚の寺本の新書『東京の花と緑を楽しむ小さな旅』が紹介されていました。なんと写真3枚入り!

みなさん、見てあげてください!

第1回「横丁・小径学会」[千住遊歩]を行いました。
参加者は、23区内の商店街を完全踏破された方や写真家、不動産鑑定士の先生、それに大学のデザインの先生やエクステンションセンターの講師など。スタートは、京成線「千住大橋」
から。茨城県からいらした方もいらっしゃったので、ちょっと観光気分で最初に隅田川を渡る千住大橋を訪ね、芭蕉の矢立初めの地を探訪。
そのあと、橋戸神社で伊豆の長八(伊豆長)の鏝絵を鑑賞。伊豆の長八は江戸時代の生まれで谷文晁の弟子・狩野派の喜多武清から絵や彫刻を学んだ左官屋です。仕事で使うコテを使って漆喰壁に彫刻(レリーフ)を描き、漆喰絵の世界を構築したことで知られています。通常は、蔵の妻や平側上部に施主の家紋を描いたり「水」など火除けの文字を入れたりという程度ですが、伊豆の長八は絵画の世界。この千住のほか、わずかに北品川の神社にも残っています。
橋戸神社では祭りなど、年数日しか本物は公開されませんが、そのほかでも神殿前にレプリカを展示してくれています。今回はこのレプリカを観賞。狐の親子の情愛を映し出した見事な鏝絵です。
その後、江戸の三大やっちゃ場の一つ、現在は東京都中央卸売市場足立市場を探訪。午後3時近くなっていたため、取引は終了していましたが、「鮨商買出人組合」といった看板が掲げられている駐車場や場内の食堂、神社(干潮金毘羅宮:千住のやっちゃ場は隅田川に隣接)など、魚河岸の雰囲気を満喫しました。
この後、本来の横丁・小径学会スタート。旧日光街道の街路とそれに沿って出きた町割りと横丁、それに路地を探検しました。
横丁と路地は次回にて。

「横丁・小径学会」遊歩の際に使用するカードができあがりました。

遊びである以上目一杯、一生懸命、遊びましょう!(仕事のときも?)

第一回目の今回は千住遊歩です。興味のある方、一緒に歩きましょう。

ご連絡ください。



小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-横丁学会カード

「ガード下学会」を一掃し、今週の土曜日、

第1回「横丁・小径学会」の遊歩を行います!
日時:9月8日(土)
時間:午後2時~
集合:京成本線「千住大橋駅」改札口前
コース予定:千住大橋→旧日光街道→千住駅前のラビリンス→江戸商家(出桁造りや看板建築も見られます)等。
参加できる方、お気軽にご連絡ください。楽しい、まち歩きです。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-千住飲み屋横丁

国会議事堂建設については、設計当初からもめにもめました。

その理由は、日本を代表する国家プロジェクトだったから。当時、明治を代表する設計家には、日本銀行や東京駅を設計した辰野金吾と官庁営繕に強い妻木頼黄がいました。辰野金吾は後の東大に当たる工部大学校の校長になったアカデミックな分野に強い設計家。どちらも学校と役所を代表する双璧で、ゆずらなかったことから、議事堂建設の話が生まれてからできあがるまで、なんと50年もの歳月を費やしています。

今日は、この国会議事堂の写真です。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-国会議事堂全体


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-国会議事堂正面

日本で最初に鉄道が敷設されたのが、1872(明治5)年。横浜―新橋間。というのはどなたもご存知のとおり。これは住民に迷惑の掛からない地べたの上や海の上に鉄道を敷設したもので、横浜港に荷揚げされた荷物を都心にまで運ぶ役割をになっていましたが、その先、新橋―有楽町間への延伸には40年近くの歳月を費やしました。

そこに誕生したのが鉄道高架橋。これがわが国で初のガード下になります。

設計者はドイツ人のバルツァー。かれは、母国ドイツのベルリンでベルリン・シュタット・バーンという鉄道高架橋建設に関わったエンジニア。そのため(?)日本にできあがったのはベルリンの高速鉄道網とソックリの煉瓦アーチ高架橋。こんなことから、新橋―有楽町間の高架橋は異国情緒ただようガード下になっています。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-有楽町02


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-有楽町01


かつての花街「十二社(じゅうにそう)」を訪ねました。

新宿中央公園の奥(西寄り)には、熊野神社があり、かつては瀧も備えた景勝地として知られていたそうで、ボート遊びができるような池まであったそうです。

十二社は大正時代には二業地として栄え、その後三業地へと発展(?)(置屋、料亭+待合い。料亭も待合いもともに芸者を呼べ、見た目は黒板塀だったりして見分けはつかないが、料亭は料理スタッフを抱え、料理をつくって出してくれるところ。待合いは席貸しのため、仕出しでかつ宿泊できる。大正時代の神楽坂の例では、料亭は2軒、残りの50軒弱程度が待合い。花街というより実は色街)

戦後は、三業地というより飲屋街として栄えましたが、池の埋め立て(段階を経て1968年の埋め立てですべて消滅)とともに、いまではひっそりした中央公園裏の街に。そして「十二社」「角筈」「淀橋」という町名も消失しています。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-十二社01


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-十二社02


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-十二社03


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-熊野神社

銀座は路地と横丁の宝庫。5丁目の三原小路を訪ねました。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-三原小路01

三原小路は再開発されましたが、もとの街並みが再現されています。

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-三原小路03


コロ石の石畳が風情を醸し出していました



小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-三原小路02


銀座は商業の街。あちらにもこちらにも稲荷神社が祀られています。

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-三原小路隣り01
三原小路の隣の横丁は昭和の面影を残し続いていました。

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-三原小路隣り02


この三原小路の前、銀座コアのビル内には路地が再現され、通り抜け可能。

机上の論理ではなく、かつてあった横丁を取り込んだビル、というのも粋。

それが、数十年も前にできている、というのに敬服させられます。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-銀座コア

銀座の中央通りからあづま通りに抜けられるビルの中の路地。

内藤大助さんで有名になった京成の立石を訪ねました。印刷所に原稿を入れるため、30年前にちょっと訪ねたことはありましたが、実質50年ぶりの訪問です。

ボクの立石のイメージは、駅前から奥戸街道まで続く華やかな仲見世商店街。背の高いアーケードがあり、肉屋に八百屋それに魚屋があって、みんながそれらの商店に買い物に行って生活していた街です。

ところが、肉屋は花屋に変わり、その花屋はラーメン屋に変わり、そのラーメン屋は韓国の焼肉店に変わって営業。八百屋も飲み屋に。今、この商店街はほとんど飲屋街。しかも昼間から呑める飲屋街です。昼間から呑めるのは嬉しいことですが、商店街が滅びていく姿を見るのは辛いです。

少し、視線をあげてこの商店街を歩くと、欄間看板が行灯看板になっているのに気づきます。昭和30年代には日が暮れると蛍光灯がつき明かり採りをかねたオシャレな看板でした。

飲み屋が増えると再開発計画が生まれるのか、再開発計画が頭をもたげると飲み屋が発生するのか、商店街→飲屋街→打ち壊しの据え、再開発ビルの誕生という数式が見えてくる。

立石の仲見世が飲屋街になったのはここ数年のことのようですが、これで思い出したのは、赤羽の商店街。商店街が今や昼から飲める飲屋街に変わってしまっています。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-立石01


         駅前の商店街は昼間から飲める飲屋街!


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-立石02

           商店街の行灯看板は今も健在!

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-立石03


        商店街を彩るあでやかな街飾り。アーケード内を明るくしている!


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-立石04

                   呑んべい横丁

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-立石05

        呑んべい横丁にはかつて衣料品店だった看板も残っていた