信じたら神の教えを生きなくて良いとクリスチャンが誤解している箇所 ガラテヤ4:24-27 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

新生体験をしたクリスチャンならば、理解出来る事を、パウロは、

コロサイ、ガラテヤ、ローマの人々に話しているのです。

やってみれば、分かりますが、何かしたから、神の教えをやったから、新生体験、聖霊は内側に受け取れないこと、逆噴射するだけで、何も実態は得られません。

それでは、人の肉の虚しい修行と同じ、異教徒が異教の神にアプローチするやり方と、全く同じことになるのです。

そして、神との生きた関係の中に入れないままになるのです。

神が内側にすまない、自分も神の中に戻って住まえない状態です。

家の外にいて、窓から中を眺めるだけ。

行いで手に入らない贖い、父の元に戻れないから、イエシュア=子羊の血が永遠の中から屠られて用意されたのでしょう。

イエシュアに個人的に出会った体験をした人なら、誰でも理解出来る

ことなのです。

いくら神の言葉をやってみても、聖霊は受け取れないよ!その場合、

新しく生まれる実態がないから、ずっと呪いの下=トラーが教える

神と切り離された状態〜罪の奴隷のまま、呪いの下にとどまるよと

パウロが教えているのです。

この点、よくよくずっと考えてください。そうすれば、パウロが話している内容が正しく見えてきます。早合点して読み、律法の下〜

神の教えを生きるのは良くない!などとクリスチャンはそう教えられ、パウロの書いている意味を完全に勘違いしているのです。

クリスチャンの世界で語られるパウロの意図、諭しを、正しく理解しない解説だけを聞いたら、パウロの書簡の内容を、勘違いしたままになるのは否めません。

これは、ガラテヤ人への手紙の他の部分や、ローマ人への手紙でも

パウロが「律法の下にいる」と使っている内容と、全く一致していることを覚えておいてください。

救いは、新生体験は、行いにより獲得できない、信仰により義とされることだけしかない!それがガラテヤ人への手紙の主なテーマなのです。

中世のカトリックでは、免罪符を売り、それを買えば罪許されるみたいなことをしてたのと同じです。イエシュアの贖いの血以外、どんなものも動物の血も罪を赦す効力もなければ、神の元に戻れることも

出来ません。

そして、義とされた人は、イエシュアと同じ行いをする!生きる事はキリスト、キリスト=トラーだからです。救われた人は、その後の人生は、トラーを生きる!この2つの性質の違いを、はっきり理解して、区別してください。

先ず、生まれ変わる〜義とされるその目的の為に、トラーを生きても聖霊は受け取れない!だから、生まれ変わらない状態では、罪の赦しも、責めからの解放も無いまま、トラーに記された「呪い」の状態に留まります!でも、イエシュアと出会い、信仰により義とされ、

救われた人は、トラーに記された呪い〜罪の責め、その代償は死から、イエシュアにより免れさせられたので、トラーに記された責めの下にはもういません!

イエシュアがその責めを全て負って下さったからです。救われた人は、そこから始めて、イエシュアの命=トラーに記された本来の人間の生き方を、罪に縛られず自由に生きれます!と聖書は教えているのです。この点、神の言葉が伝える真理が、クリスチャンの目には覆い隠されて、聖書とは違う解説をし続けているのです。

パウロは、神が自由に与えてくださる相続財産を得るため〜義とされるため、救われるために、行いに頼る人々に話しかけて、諭しているのです。この一節を「自分の行いによって義とされることを望む者たちよ、私に言ってください。トラー(神の教え)は何と言っているか」と言い換えているのです。

トラーに記された神の言葉は、あなたに何と教えていますか?

という問いをパウロは彼らにして、ガラテヤの人に、正しい答えを

トラーから得ることを考えさせているのです、そうです。

人は、自分のどんな行い、手柄によってでは、救いは得ることは出来ません!パウロたちは、モーセの五書、預言書、諸書しかないのです。聖書の完全版は、トラー=モーセの五書だからです。

その中に、イエシュア、贖い、子羊の血の許しが与えられている事実が全部記されているのです。福音は1つ!同じです。永遠から永遠に同じ。イエシュアは永遠の中に既に、贖いの子羊として屠られているからです。

ここでパウロは、肉の行いによって救いを求めることは、それ自体の行動が人を束縛する事に繋がる、やってもやっても義、救いは得られないからです。相続財産〜永遠の命は神の約束、つまり神の恵みによってのみ受けられることを示すために、トラー記された実際のことを、記述して解説しています。

パウロは、自分の育ち方から、トラーの教えをミドラッシュ

(解説、解釈)して、パウロは自分の主張を述べます。

ローマ10 章の議論では、ミドラッシュとはヘブライ語聖書の教えの

解釈または推論であり、それによって、そこに記されたテキストを

より深く、意味をより分かりやすく示すものであることを思い出してください。ここでパウロは、ハガルとサラの物語を使って、行いに

よる義認は奴隷制にしかならないが、神の約束は相続につながること

次に示しています。

ストイケイアが人間からの偽りの教えや伝統を指すという見解は、

文脈上ガラテヤ人への手紙だけでなく、パウロがこの同じ語句を使っている、コロサイ 2 章からも証明されています。

この箇所は以前に記事に書いたので、参考にしてみてください。

この箇所では、ユダヤ人伝統の教え〜先祖の言い伝え通りに、彼らの

しきたりに沿って、シャバット、祭り、新月、を祝わなくてはダメだと強要されていたのです。パウロは、人が編み出したやり方や、

彼らのしきたり通りにしなくてよい!と言っているのです。

これを、クリスチャンは、パウロの書いている意味を丸ごと勘違いして、新月、シャバット、祭りを祝わないことを誰からも批判されるな!などと言っていますが、これ、本当に聖書から完全にズレた空想の解説であり、ヘブライ人で、パウロのように100%モーセの五書に忠実に生きていると、神殿の請願を通して公に証明している人が、

人に神の教え、記念日を破って汚してもよい、いつでも今は記念日さ!などという、神の言葉を捨てた異教神思想背景の西洋人のような異教徒思想は、頭脳のDNAにどこにもないことを、覚えておいて下さい。

そして、「手洗いの儀式」のように、異邦人の市場から帰ったら、

伝統の「手洗いの儀式」をしないと、その手で触れた食べ物(きよい

動物)も汚れる。又は、偶像に捧げた肉のように、偶像に捧げた肉は

汚れているなどの、当時のユダヤ人が編み出した思想のことであり、レビ記11章に違反する教えなどパウロは1000%しません!下矢印

コロサイ2 2:15-17 レビ記11章食規定 シャバット 祭りは変更になっていない

2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

l 2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。<影〜目に見えない実態を表すものであり、本体と一体、

同じ実態です。>

 

偽教師の教え、この世の哲学、神秘主義、悪霊とのチャネリング、

天使礼拝、それらをパウロはガラテヤでも指摘しているのです。

同じことを、コロサイの人にも伝えています。

イエシュアの贖いの血で救われたのに、虚しい人間の教えに、どうしてもどるのか?

トラー=神の言葉に戻るのか?クリスチャンは、律法(古い神の教え)に戻るのか!と言いますが、そんな事はパウロは決して言いません!

コロサイ 2:18 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を

見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、

2:19 キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。

このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。

2:20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのならなぜ、なおこの世に生きているもののように、

 2:21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

 2:22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

2:23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。

<はっきり書いてあります。神の教えではなく、人間の規定や教え!救われてもなお、古い生き方、人間の教えのそれに戻るのか!と

パウロが言っているのです。>

これらは、確かに、自分勝手に作った宗教や禁欲主義、肉体に対する厳しさを促進する点では賢明なように見えますが、肉の放縦〜罪の法則の下に縛られている状態を止める点では何の価値もありません

(コロサイ2:8、13-15、20-23、)。

 

パウロは引き続き、ハガルとサラを例に出して、パウロの解説をしています。

アブラハムには二人の息子がいました。一人は奴隷の女から、もう

一人は自由な女から生まれました。

しかし奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女の子は約束によって生まれたのである(4:22-23)。と言っています。

 

ハガルとサラの物語は​​創世記16章から21章に記されています。

神はアブラハムと妻サラには子供がいなかったが、アヴラハムから

多くの民族が生まれると約束しました。

しかしサラは何年もの間不妊のままでした。約束が果たされるのを

見れないアヴラハムに、サラはアブラハムをサラの女奴隷ハガルを

通して跡継ぎを作ろうと決めました。創世記16:3

その後すぐに、ハガルは身ごもってアブラハムに息子を産み、

イシュマエルと名付けました。しかし、神は約束された息子は

イシュマエルではなく、サラが一年後に産む息子であり、その子は

イサクと名付けられると言われたのです(創世記17:20-21)。

神はこの約束を果たし、サラは不妊であったにもかかわらず、

1年後に男の子を産み、イサクと名付けました。

この箇所は、クリスチャンならご存知の内容です。

 

1)神はアブラハムに相続人を約束し、その相続人を通して多くの国々が生まれる。

2)アブラハムとサラは自分たちの行いによって相続人、約束の子を

得ようとした。アブラハムは別の女性(ハガル)に与えて、サラは

不妊であったため、彼女は肉体を通して息子を産んだ。

3)神は、約束された相続人はハガルの息子(肉体の行いによる子孫)ではなく、不妊であったサラから生まれるだろうと言っている。

彼女が妊娠するのは神の力と恵みによるのだ。

 

4:24-27に記されている内容です。

この節を解釈する前に、約束、相続人/相続財産、行い、奴隷制というガラテヤでパウロが示しているテーマに注目してください。

パウロはガラテヤ人への手紙全体を通して、正にこれらの問題に関して論じてきました。

パウロは何度も、救い、つまりキリストに於ける私たちの相続財産は神の約束を通してだけ得られると強調してきました。

これは、神が一方的に与えたギフトであり、人の手柄で得るものではありません。

対照的に、行いを通して相続財産を得る事を求めることは、奴隷制につながります。エッサーが先に述べたことを思い出してください。

「このように、『世の法則、要素』は、キリストに啓示された生ける神以外に人が信頼を置くすべてのものを覆い隠してしまいます。

人の教え、この世の法則や哲学、思想は、それらを信じる人の神々となり、その人たちは、人の教え、世の教えの奴隷となります」と

言っています。その通りです!人造宗教の教えがそれです。

 

24節でパウロは、ハガルとサラが、それぞれ2つの契約を表していると述べています。

ハガルはシナイの契約、つまりモーセのトラーを表しています。

パウロは、この契約は、奴隷として子供を産むと述べています。

パウロはこれによって何を意味して言っているのでしょうか。

モーセのトラーに従うことは、自分自身を奴隷にすることだと、

パウロは言っているのでしょうか?

これは重大な問題であり、絶対に正しく理解しなくてはならない、

重大な点なのです。なぜなら、多くのクリスチャンが、正にこれらの聖句を使って、私たちはトーラーに従う必要はないと教え続けてきたからです!!!神の伝える真理とは異なる教えは、人の教えであり、

永遠に真実にはなりません!嘘、虚偽です。イスラエルの神=聖霊から出た教えではありません!

中には、もし神の教え(トラー)に従えば私たちは束縛されることになるからトーラーに従うべきではないとまで言うクリスチャンもいます。殆どのクリスチャンが異口同音に、神の言葉に反した教えを神に逆らう行為であるとも、聖書=神の教えから気がかないまま、信じ

こみ、主張しているのです。矛盾だらけの思想。

本当に、神の言葉から永遠にかけ離れた、世界の果て程、真理から

距離のある、別の思想に成り変わった教えをしているのです!

 

この箇所では文脈が重要で、そうでないと誤った結論や誤った適用に至ってしまいます。ハガルは、死を通して命をもたらすという神の約束(死んだ子宮を通して生きる子供を産もうとしている - 人間には不可能なこと)です。神に頼り、神を信頼することとは対照的に、

アブラハム自身の行いを通して、神の約束を達成することを表していることを思い出してください。

 

パウロは、私たちがトラーに従わない自由があると言っているのではありません!むしろ、相続を得る為の目的、義とされる目的の為には、自分の行い、神のトラーへの従順、それさえも頼ってはならないと言っているのです!

分かりますか?詰まり、自分の行いで聖霊は受け取れません!

新生体験したクリスチャンなら分かるでしょう。

聖霊を受けたのは、教会に言って、彼らのいう礼拝を守り、何十時間も修行したり、祈ったり、奉仕したり、大金献金したり、良い事をやったからではなない、そんな事と全然関係ない、ただ気が付いた!

神に出会った!それが分かった!信仰により受けとっただけでしょう!?

それをパウロが言っているのです。何かをしたら、それがたとえ

神の教え〜トラーを生きる事だとしても、そんな事では、義、新生体験聖霊を内側に受ける、そんな事は出来ない。

人は自分で自分を生み出す事は出来ないでしょう。それを言っているのです。トラー自体を人が生きても、それは義=新生体験=聖霊を

受ける事は、出来ない、人の努力ではできない、ただ神が分かっただけでしょう?

異邦人ルツが、姑ナオミと暮らしていく中で、ナオミの神〜イスラエルの神〜救い!イエシュアを、自分も分かり出会い、その神について行こうと決意し、告白した、それだけでしょう?

救いは、神の約束によってのみ、もたらされます。アヴラハムへ

与えた、信仰義認〜契約、その契約の証拠、印が「割礼」なのです。

どの時代の人も、100%神からの贈り物、信仰により義とされ新しくされる事実、約束を神は一方的に与え、人間の努力では受け取れないこと、アヴラハムが信仰義認えた時、儀式で表されているでしょう。

2つに裂かれた動物の間を通ったのは、神だけであり、アヴラハムは

眠りに落とされました。イエシュアが通られた!これは、イエシュアが全ての負債、責任を負っていることを、表しているのです。

創世記15章。

なぜなら、この儀式は、契りを交わした両者がどちらでも、その契約を破るなら、裂かれた動物のようになります!という誓いだからです。詰まりこの約束は神は破られません!という意味の儀式だからです。

それは私たちへの神の賜物であり、たとえそれが善良で従順な行いであったとしても、私たち自身の行いによって獲得したり達成したりすることはできません。それは救いではなく、救うこともできません。

 

続く