行いにより新しく生まれ変わる事はできない ガラテヤ4:9−21 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤのパウロの書簡に記された、この群れの問題は、簡単に言うと、偽教師の教え〜「この世の思想哲学、神秘主義、悪霊、占い」

そして、ユダヤ人の中にあったモーセの五書=トラーではない、

口頭トラー、口伝律法と訳されていますが、現在でもタルムード、

ミシュナなどに記されている、聖書ではない、モーセが神から口頭

伝授で聞いたとされている(そんな証拠はないし、ラビにより解説が違うのですから、もちろん聖書ではないのは明らかです。)

ユダヤ人が主張する数々の教え、掟、ルールがあります。

パウロがここでも、コロサイでもローマでも問題にしている

その中の一番の代表が、「改宗儀式」です。

この改宗儀式をしないと義とされないと、ユダヤ人たちが主張していたのです。だから、弱い人〜信仰が浅く、神の教えをしらないガラテヤの人は、そんな人の思想は、聖書ではないと、トラーから識別、

認識、理解していなかったのです。

そのことに関して、パウロが諭しているのです。

 

「ユダヤ教」という言葉を聞くでしょう。

それらは、1世紀当時も、トーラー=モーセの五書ではなく、

パウロの時代の「ユダヤ教」(今もそうですが)は、モーセの五書〜トーラーに基づいた教えの事ではなく、口伝律法など、神の言葉に

付け加えられた人間の教えを含んでいたことを忘れてはなりません。

ユダヤ教、ローマカトリック教、キリスト教という、教がつく宗教は、イズムなのです。聖書=神の言葉は宗教ではないのです。

聖書には、純粋な神の言葉、教えしか書かれていません。

それを、人間が手を加えて、人間の思想を入れて、神の言葉の方を

変えて作ったのが西洋宗教です。

ユダヤ教は、神の言葉は曲げませんが、神の言葉をどう生きるのか?という実践の部分で、人間の解釈を加えて、トラー=神の教えにないことを、伝えているのです。イエシュアがマルコ7章で議論した

ユダヤ人の伝統、先祖の言い伝えの「手洗いの儀式」もその1つです。マルコ7章は、きよくない動物がきよくなり、食べられますなどという話は、イエシュアは一言も言っていないし、そんなことは一切書かれていませんし、書いてあったらそれは聖書ではなくなります!この箇所は前に記事を書いたので今は重複しません。

 

宗教。神の言葉の中に、人間の教えが混じったものが宗教なのです。ユダヤ教の場合には、彼ら伝統のトラーの解釈の他、人間が編み出した掟、ルール、鉄則、教えがあるのです。

でもそれらは、トラー、神の教えではありませんし、トラーには

書かれていません。

同時に、カトリック(プロテスタントは、カトリックに信条を土台として、基本は同じ)は、神の言葉=トラーが終了!という、

これ又、神の言葉の根幹、土台を覆す思想であり、人が編み出した

教えを土台にした、純粋な神の言葉=トラーを土台としていない人造宗教です。

パウロは、人の思想、哲学、人が編み出した教え、神秘主義、悪霊に繋がる実践、今で言えばスピリチュアル系の教え、そして、ユダヤ人の中にあったトラーとは異なる異邦人は、ユダヤ人に改宗する儀式をしなければ、義とされない、神の国の正式な1員になれないという、割礼党の教えがあったのです。

この考え、儀式を、「割礼」という名で呼んでいるのです。

アヴラハムの契約の印の割礼とは異なる、「改宗儀式」の呼び名です。これらの問題が、正にパウロがガラテヤ人への手紙で言及して

いることなのです。

パウロ研究の学者である C.E.B. クランフィールドは、ガラテヤ4:3 と 4:9 のストイケアは「律法=トラーそのものではなく、律法主義的な誤解と誤用〜人の思想、解釈」を指していると述べています (860)。

異邦人は、ユダヤ人に改宗すべきと主張する教えがやって来て、

「救われるためには、には行いが必要」だと教えましたが、神は教えていないし、神の言葉のどこにも、そんな事など言っていません。

出エジプトした時の、過越の晩、神の言葉をモーセから聞いたユダヤ人と、そして異邦人も!家の鴨居に子羊の血を塗ったのです。羊なんてエジプトでは忌み嫌われる動物で、そんな動物を異邦人は家の外に

持ってきて、そして屠って、神が言う通り鴨居に血を塗ったのです。

神の言葉を信じて、義とされる。これは異邦人も同じ!

異邦人は、ユダヤ人にこの時もその後も、改宗儀式をしなければ

共にイスラエルと一緒に出エジプトして、神の聖なる民とはなりません!などと言っていません。イスラエルと一緒に異邦人も12部族に

加えられ、イスラエルと共にシャブオート=シナイ山のふもとで、

婚姻契約を受け取って、神の教えを生きます!と宣言したでしょう。

聖書をちゃんと読んで、そこに記されている歴史の事実を通して、

福音を神が教えている事を理解してください。

パウロたちは、タナック=モーセの五書、預言書、諸書だけが聖書であり、その中に記されている完全版の、イエシュアの業を理解して

教え、生きていたのです。

ユダヤ人になる改宗儀式、これは人間が付け加えた教えであり、

トラーの誤用であり、偽りの神々を崇拝するのと同じく有害です。

なぜでしょうか。それは、神の言葉に反して人間の教えを聞くと、

何が正しいか、どのような慣習や宗教的慣習を守るべきかなど、

神の代わりに人間の教えを、神の教えの上置いて、人の教えを基準としてしまう間違いの道に入ってしまうからです。

それが、クリスチャンの世界にもあるのでしょう。

神の教えではなく、人の教えにすり替えられている数々のこと。

神の教えを捨てて、人間が作った宗教の教えで、神の言葉を曲げ

神が創造された記念日を捨てて、人間が作った記念日を祝っているのは、それが原因なのです。

そして、救われるため、義とされるために、神の言葉を行うという

思想、意識自体がズレています。

でも、贖われ、救われ義とされ、聖霊を受けた人は、花嫁とされたので、神の言葉、教えを生きる!これを、クリスチャンの世界では

完全に勘違いしているのです。救われるために、神の言葉を生きても

義、新生体験はしませんよ!という事実と、イエシュアを通して

神のもの、聖なる人にされた人〜神の家の一員になった人は、

漏れなく、神の言葉を生きる!と神が教えていることを、正しく

理解しないで、この2つのことを混同し続けて語っているのです。

 

シャヴオート(ペンテコステ)の祭りは、出エジプトし、子羊の血で

贖われ、救われた人に、正式に神の婚姻契約が与えられた祭りであり

そして、収穫祭でもあるのです。この祭りの意味を理解せず、

聖霊降臨祭などと、違う名前で呼ぶから、この祭りの意味、意図が

見えないままなのです。

花嫁とされた人が正式に神の家の一員となり、神の教えを生きる、

荒野=この世の旅路を歩むことを教えているのです。

 

エッサーはこう述べています。「このようにして、『この世の要素』

人の教えは、キリストに現された生ける神以外に人間が信頼を置くすべてのものを覆います。それらは信じる人、人の教えが神となり、

その人達は、神ではなく、それら人の教えの奴隷となります」(453)。

4:16 それだのに、真理を語ったために、わたしはあなたがたの敵になったのか。

彼らがあなたがたに対して熱心なのは、善意からではない。

むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから

引き離そうとしているのである。

 

偽教師は、自分たちを偽教師、偽の教えを人に教えているとは全く

思っていないものなのです。

当然です。自分たちは、人に真理を伝えている!と純粋に考えているからです。世の中に蔓延る異端や、その他、皆それぞれ自分は正しい教えをしている!と心の底から信じているのがそれです。

異端的教えとは、聖書から逸脱する思想や教え全て!であると、

知っておいて下さい。

神の教えに敵対する人たちが、神の教え=トラーを直に人々に教えたパウロに対して、神の言葉、教えから引き剥がそう、パウロから引き剥がせば、その教えを聞かないで、自分たちが信奉している教えを、このガラテヤの人たちに吹き込めるからです。自分たちの教えに、

熱心にならせるためとあります。これ本当分かります。

宗教の教えは、自分達の教えが絶対であるから、他のグループと交流して、別の教えは聞いてはいけないと教えます。

トラー=神の教えは廃らない!という真実をパウロと同じように伝えても、これは異端の教えだ〜と、一般のクリスチャンには言われると思いますが、一体どれが、何が異端的な教えなの?と聖書から検証すれば良いのです。

考えたら良いのです。どんな人でも、もし、神の言葉を否定した教えを信仰の根拠、土台にしているなら、どのみち、その思想は、みんな重要な部分が歪んでいるのです。聖書は完全なる神の言葉と言いながら、同時に神の言葉を否定する思想、それは聖霊、聖書ではないのです。

砂の上〜人間の教えの上に築いた思想であり、聖書ではない教えは、どこまで行っても、嘘!神の言葉、聖霊から出たものではない、

こんな簡単な事実が見えなくなって、神の言葉を否定すること、

正義!恵!聖霊!などと、頓珍漢な教えをし続けているのです。

パウロが、ガラテヤ、ローマ、コロサイでも伝えたかったことは、

それです。偽の教え、人間の思想、哲学は、神の言葉とは異なる!

 

4:18 わたしがあなたがたの所にいる時だけでなく、いつも、良いことについて熱心に慕われるのは、良いことである。

4:19 ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。

ここでも分かるように、諸外国にいた群れは、テモテのような人とは違う、神の教え=トラーに根付いた背景を持つ人々、成人ではない、幼い頃から、トラーに親しみ、教えられ、成長した背景がない人が

大衆なのです。

つまり、神の教えに根付いて生きていないから、偽教師の教えに

引きずられ、ちょっと魅惑的、肉にアピールする思想を語られたら、そっちに教えに、簡単にひっぱられて行ってしまうのです。

 

これ、20世紀のクリスチャンの世界でも、あったでしょう。

いや1世紀後半から、ずっとそうなのです。

聖書ではない教えなのに、それに移行したのです。

神の言葉、モーセの五書は廃れた!それを生きてはダメだ!と

唱えた、ローマ帝国と、西洋教父達の思想、教えを今も継続して継承しているのです。

そして、現代ではあるスローガンやある思想が流行ると、皆その

ムーブメントに飛びつき、聖霊の働きだ〜などと賛同して言うのと、同じことです。

ムーブメントから、ムーブメントへ飛びつく。不思議や現象や、

新しい教えに飛びつく。ある教えだけを、取り出して、それを強調

して教える。その時々流行するスローガンを唱える。

流行歌のように。流行って、廃れて、又別のものが流行る。

ヤベツの祈りなんてのもありました。祝福を得るため?

それは、シャロームではない、神の教えを全体で1つとして捉えていない、偏った聖書の読み方、学び方であり異邦人思想の宗教の特徴でもあります。

神の言葉が満遍なく、原典に記された通りに正しく教えられ、神の

言葉に根付いて落ち着いて日々新しい人として成長し、自分の場所で生きることよりも、誰かの考えた宗教活動に邁進させられ、

その他のムーブメントに魅了されていく。

アメリカなど、聖書とは逸脱する教えをするメガチャーチが無数に

ありますが、実を見て木を知るです。

主の名を唱えながら、中身は真実とは程遠い。

規模が大きい、人が集まるそんなことを基準として、神に祝福されているのだと考えるならば、資金潤沢で、大きな建物の異教の神々の

宗教の方が、もっと多くの人が、参加しているでしょう。それは、

神が認めて、祝福しているからでしょうか?違います。

狭き門。本物の羊飼いの声〜神の言葉を正しく教えられ、神の教えに

根付いて安全に生きる、お互いをガードして生きる、そういう人々は安全に守られ、世界の中でキリストの香りを放ち生きることをしているのです。人は、誰かの生き様を見て、目に見えない神を知るからです。

ガラテヤ4:21 トラーの下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたはトラーの言うところを聞かないのか。

 

パウロは「トラーの下にいることを望む者たちよ」と言っていますが、それはどういう意味で、パウロは言っているのでしょうか?

クリスチャンは、神の言葉を生きること、それが律法主義、悪いことだと完全に、パウロの言葉、解説を勘違いした教えを刷り込まれています。

神の子らとされた人は、全て漏れなく、神が伝える教え=トラーを生きる!と聖書に書いてあるに、そのことを全く理解しない盲目状態なのです。

神の言葉を、どんな意識で生きるのか?得に、パウロが問題にしているのは、最初の部分です。救われるという事実を、人の手柄、行いにより得る!それは、ズレている!不可能!と言っているのです。

 

パウロは、私たちが自らの行いによって義とされることを求める時にそれは、トラーのもと、すなわちトラーに記された呪いの状態に

縛られたままになりますと、すでに述べています。(3:10)。

それは、人は神の教えを生きて義とされないから、そのような思考回路で、義とされよう、救われようと神に近づいても、結局、命を得ないまま、新しく生まれ変わらず、聖霊を受けていない、死んだ状態のままになるので、トラーに記された呪いの下、新しい命を得ていない状態になる!とパウロは話しているのです。

 

ここでも、パウロが「トラーの下にいる人々」について言及しているとき、パウロは自らの行いによって義とされることを求め、したがって神と、神がメシアを通して約束する相続財産から切り離されている人々のことを言っていのです。

クリスチャンは、この点を完全に多大に誤解した解説のみを聞かされているのです。だから、パウロが言っている真意が、丸で理解できないまま、別の解説、思想を語り続けているのです。

パウロが語っている問題点、パウロが語る文脈を理解すれば、正しく理解出来るのです。問題は、人が行いで手に入れられないもの、

「子羊の血の贖い」を信仰により受け取るだけしか方法がないのに、それではなく、人の努力自分が神の言葉を生きて、その事実を受け取ろうとアプローチすること、これを律法による行いにより義とされると勘違いした、間違ったやり方を、パウロは話しているのです。

 

続く