コロサイ2章 なんでも食べれる いつでも安息日 人から批判されるなかれと完全に誤解している箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

クリスチャンの中に浸透、蔓延した聖書に書かれていることとは

異なる読み込みの解釈、解説が多くあります。

それらを取り出して、神の言葉が変化した根拠である!などと

主張していますが、それら全て100%、神の言葉が変化した、

神の記念日は今はいつでも良いなどと、書かれてさえもいません!

 

神の言葉を無視している人の主張です。なぜなら、神は神ご自身も

変化しない、移りゆく影のように変化しない、昨日も今日も永遠に同じ!そして、神の言葉も同様に、永遠普遍で、変化しないと

はっきり神の口から人に伝えているのに、どうしてそれが途中で変形したのだ〜と考えるのか。それは聖書を書いてある通りに、正しく

理解していない人が、ズレて曲がった聖書解説をし続けて、それが

聖書に書いてある真実だと人に伝達され続けてしまったからです。

 

それこそ、神の言葉の進化論=嘘の仮説が浸透してしまっているのです。

コロサイ2章も、食べものや、神の記念日が変更になったと勘違いした解説をしている代表例とも言える箇所ですが、その前にガラテヤにあるように、1世紀当時、ユダヤ人の間にあった宗教背景、当時の彼らの実践や思想〜「先祖の伝統の言い伝え、戒めの律法」が何であるのか、はっきり把握する必要があります。

 

1世紀当時の宗教エリートたち。エルサレムからガラテヤへ下って、

神の伝える事とは違う事を主張していた人たちがいたのです。

これってどの宗教、宗派にもあるでしょう。キリスト教で言うならば、神の教えとは違う教えをしているのに、それらが神の教えと信じて、それを神の教えであると、人にそれをするように強要しているのに、全くズレた非聖書的思想に気がついていない。

例えば、牧師は、神と同等、神に油注がれた選ばれた人だから、逆らうなかれとか、そんなことを言う人もいるし、牧師を愛せよと人に

命令する人もいる。いや、それって、互いに愛し合いましょう〜神の言う言葉通りを生きて互いを破壊しない、シャロームをガードし合う生き方が、互いを愛し合うことであり、長老はその愛の生き方を実践して教える人であるはずなのです。

人間の世界に、職業上は上下がありますが、神の前に人間は皆平等です。役割が違うだけで、誰かは誰かより神の目には、偉いなんてありません!人が人を支配するような思想、夫婦、親子、上司、部下でもないのに、命令して何かをやらせるなど、異常と気が付くべきです。

それはさておき、1世紀当時、何が問題であったのか、「割礼」

いう言葉で表されている、ユダヤ人になる改宗儀式を、先ずはっきりと理解してください。

割礼〜アヴラハムの割礼ではありません。アヴラハムを通して神が

与えたのは、永遠の契りの印です。これは今も有効です。

神が伝えるその意味を知る人は、それを今も神が仰せになった通りにするのです。神がそう言われたからです。同じ契約に加えられた異邦人にも同じ教えです。これは、誤解されている別のトピックなので、別の枠で書きたい内容です。

福音書以降に記されている、議論になっている「割礼」とは、異邦人がユダヤ人に完全になること、改宗して、異邦人の世界と縁を切る、その儀式は複雑なプロセスと、難しいヘブライ語トラーの訓練、学びなど、又彼らの間にあるしきたりの教えを学ぶ事、長い長い期間を

かけて行われる、改宗儀式のことを指して話しているのです。

 

今もイスラエルには、その「改宗儀式」ギリシャ語では、プロセリトスがあるのです。

本当に大変なもので、それをクリアーするには長い期間がかかり、

やっとユダヤ人の仲間〜契約の中にある民として認められるのです。

それをすると、異邦人もイスラエルの国籍を取れる事になるので、

やる異邦人もいるのを、知っていますか?

ペテロの使徒15章で示された幻の意味、「犬、野生動物、汚れた豚」という言葉で異邦人に対して呼び、異邦人に対する偏見を持っているユダヤ人は、異邦人は契約の民ではない、汚れた生き方、汚れたものを無差別に食する動物のように悪食で、汚れた人種、神の契約の中にはいない人達とは付き合わない、関わらない、自分たちも彼らに触れたら汚れると、考えていたのです。

この意識、なんとなく分かりませんか?ある人々に触れたら、彼らは

蔑まされている人種だから、自分も植え付けられた偏見で、その人達をさげすむのです。日本人の中にも、そんな意識があるでしょう。

同和問題もそれでしょう。「えたひにん」という言葉、それは屠殺をする人たち、あるグループの人たちを、汚れた人という偏見を持っているではないですか。そして、その人たちは過去、孤立して暮らしていたでしょう。それと同じです。今もある人は、同和出身の人と、

婚姻してはならないと親が言う。同じ人間なのに、人間が人間を批評している、それです!

汚れた動物である異邦人は、神の契約の民ではない、でも、改宗儀式「割礼」という名前をつけた、当時のユダヤ人が編み出した聖書にはない儀式をすれば、神の前に義とされ、神の国の一員になれるという事を、主張していたのです!

クリスチャンでいうならば、洗礼受けない人は、救われていないとか、天の国に入れないとか、自分たちの正式な仲間ではない、

そして、過越の晩餐の儀式を変形した、種ありパンの聖餐式、

毎月1度日曜にする、カトリックは毎週する、それらは、聖書では

過越の祭りの晩餐の儀式であり、種無しパンと、4つの杯の3杯目の

ワイン〜「贖い」と呼ばれるワインで祝う儀式なのですよ。

全部変形しているのです。そして、その「聖餐式」と名付けた、

カトリックの儀式にも、洗礼を受けていない人は参加できないと言う牧師もいる。カトリックでは、カトリックの洗礼を受けないと、

カトリックの聖餐式には、参加できないルールになっているのです。

それらは、宗教が編み出した教えであり、聖書=神の教えではありません!

そして、厳しい改宗儀式をしたら、初めて神に義と認められる、救われる、天の国の一員として認められると、主張していた1世紀のユダヤ人宗教エリートたちの主張は、聖書ではない!それが、ガラテヤの

手紙に書かれた、パウロの論点なのです。

パウロは、アヴラハムの割礼は意味なくなったなどと、1言も言っていません。クリスチャンの世界に置き換えれば分かるでしょう。

洗礼受けなくても、自分の中で、イエシュアを救い主、神であると

聖霊に教えられたら!それだけが、唯一父なる神の元に戻る方法、

手段である!でも、洗礼は意味がないのではない!論点が違うのが

分かりますか?こんな簡単な事なんですよ。

それが、訳の分からないややこしい事に、議論にすり替えられているのです。

本質を見抜いてください。人が義とされ、贖われ、救われるのは、

イエシュアが永遠の中から払った子羊の血の代価による、それ以外

誰も、神のもとに戻る手段はない!そして、神のもとに、神が引き寄せてくださった人達全ては、義とされた通りの性質〜神が伝える本来の人間=イエシュアの性質通り=それがモーセの五書に記された

人間の生き方!それをする。だからイエシュアはザ トラー、

ハ トラー=生けるトラー=トラーが肉体を取って地上に来られたと

聖書には書いてあるのです。私たちはイエシュアが生きた通りを生きる。クリスチャンは、イエシュアが生きたから、もう神の教えを生きなくて良いなどと、これガラテヤ3章に記された内容を、完全に誤解して間違った読み込みをしているから、真実が見えないままになっているのです。全ては、聖書とは違う読み込み!誤解!

それをはっきり理解すれば、見えてきます。

そして、プラス!正式に契約の民と、彼らの間で認められたら、

その後も、当時のユダヤ人が編み出した、「先祖の伝統の言い伝え、

戒めの律法、負えないくびき」と、様々に説明されている、人間の

編み出した、口頭トラー、口伝律法などと言われていますが、それらの厳しい厳しい掟、彼らが定めた通りの生き方をしなくてはならないとやらされてしまっていたのです。

その1つの「改宗儀式」もそうですが、その他、食べ物、もちろん

きよい食べ物でも、彼らが認定する通りのやり方で、全てを取り扱わなくてはならない!手洗いの儀式をしなければ、きよい食べ物も汚れるなどという教えをしていたのです。

彼らの中には複雑な、先祖の伝統の言い伝えがあり、それらは本当

どうでも良い、馬鹿馬鹿しい事なのです。

例えば、靴の紐は右から結ぶとか、そんなの聖書に書いてありますか?それを説明する理屈を、聖書から何かを取り出して説明するのですが、人はそういう事をする、それが宗教なのです。カトリックも

プロテスタントも気が付かない間に、そのような事をしているのです。聖書では無い教えに、固執する。いや聖書では無い教えという

事さえも、気がついていないそれ以前の問題があるのです。

そして、改宗儀式ですが、イエシュアや使徒達が、それらの1世紀

宗教エリートたちと議論していたのは、救い、贖いとは、彼らが考える儀式をして、彼らが編み出した教えを生きる事で得られるものではないという、基本中の基本、贖い救いの単純さ、信仰により受け取り

義とされる!だけ!というのが議論の論点なのです。

 

そして、クリスチャンは、救われたら律法から解放されたので、

神の教えを生きなくて良いという、それこそ同じく人間の教えを

信じて、神の言葉から、完全に意識を逸らされているのです。

 

義とされた人は、信仰だけにより義とされました。義とされた人は

その後、神が定義するイエシュア=本物の人間=義の生き方をする!

この違い分かりますか?義とされた人は、以前のような、神の教えを

知らない、勝手な生き方をするのではない!神に贖われ、救われ、

新しくされた人は、一体何を生きると、神に教えられていますか?

神の言葉、教え通りを生きる!こんな簡単な事が、人の思想により

見えなくされて、はぐらかされ、聖書を誤解し続けているのです。

神の言葉を破棄して生きよ?サタンの声そのものです。

神の義を生きる唯一の方法は、イエシュアの性質そのものが書かれた、神の教え=言葉の意味通りを実際に生きる事以外に無いのです。

だから、生きる事はキリスト!と書いてある、その意味を、正しく

理解していないのです。

それを念頭に置いて、コロサイの中にあった問題も、書いてある通り「人間の編み出した規定、教え、ルール」に縛られて生きるなかれ!神の教えに縛られて生きるなかれなどと、誤解して読むから、

古い教え=律法は廃れ、今は自由の聖霊時代、それぞれが考えるとおり、示されたとおりを生きるなどと、勝手な教えを編み出しているのです。聖霊が示す教えの判定は、何が基準ですか?神の言葉です!

神の言葉に反する事は、聖霊は人に示しません!だから、汚れた動物を食べて良い、今はいつでも安息日などという主張は、聖霊から出たものではなく、エデンの園の蛇〜神に敵対するものの声であると

はっきり気が付かないと危険です。赤ずきんちゃんのお母さん

狼の声を聞いて、お母さんだ〜と自分の頭脳、魂の扉を開いて、

神の声、教えとは違うものを、招き入れている!という、危険に

気が付かないとならないのです。

神の言葉を否定する教えは、聖霊?神の言葉、教えを、どの箇所でも

一点一画でも、削除、変形、否定する教えは悪霊から来ているのです!

コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

16−17節は、当時蔓延していた、偽の教え、そして、彼ら宗教界のリーダー達が、神ではなく、彼らが考える通りのやり方で、食べ物、飲み物を扱い、そして、神のシャバットや新月、祭りの祝い方は、

彼らが決めた通りにやらないとならない!と主張していたのです。

彼らが認めないやり方で、やってはだめ!これは、クリスチャンの中にもあるでしょう。うちの宗派の礼拝のやり方、クリスマスやイースターの祝い方が正統派である!祈る時には、目を閉じて、両手を胸の前で組んで祈らないとならないとか。そんな事、聖書のどこに書いてありますか?常に祈れという神の教え、では1日中目を閉じてなくてはならないでしょう。そういう事、普通に考えないでやっている、

宗教の伝統のやり方〜それを彼らが認めるやり方でやらない場合に

コロサイの信徒は批判されたのです。人の教え、命令に惑わされないで、神の教えを生きれば良い!

この箇所、クリスチャンは、完全に読み違えています。

祭り、新月、シャバットを祝わない事を、批判されるなかれ!

これ完全に聖書から逸脱しています。パウロやイエシュア、聖書に

登場する人で、神の記念日を捨てて祝わない、そんな冒涜をする人

又は、別の宗教=人間が作った宗教の記念日、日曜礼拝や、クリスマス、イースター、万聖節など誰も知らない、考えていない、祝ってなどいないのです。

誰一人として、神の創造された永遠に祝われる、神が神の子らを呼び出したアポイントメント、モアデイムが廃れたなどという、非聖書的神に対する大罪冒涜を考える、実践している人は聖書に書かれれていません。そんな事をするのは、異教徒、又は逸脱した混ぜ物の教えをしている事だと警告されているでしょう。

聖書の読み方が、ズレているのは、1世紀後半の異教徒背景の西洋教父たちの編み出した、モーセの五書を否定した教えが本当の問題の

原因。そして、神の言葉から離れて、宗教の教えに異邦人は完全に移行した、はじめの愛から離れた、忘れた!シナイ山で花嫁となった人に与えられた婚姻契約=はじめの愛=父の教え=イエシュアが教えられたオリジナルの教えから、ユダヤ人信者、トラー学者、教師から、異邦人は完全決裂し、離れて、人間の思想で編み出した、モーセの五書を破棄し、反ユダヤ思想が盛り込まれた=律法に戻るのか〜信じたらユダヤ人やめなさい!という、違う教えに変形した西洋宗教を信奉し、今に至るのです。

そして、影という言葉の意味を誤解しているのです。

ヘブライ語では、ツエル、神の実態、本質、翼の影で覆われていると

表されているものです。神の実態の事!ギリシャ語では、スキア、目に見えない本体を表すもの、目で見えない。

これは神の言葉も同じです。目に見えない神=聖霊=言葉=イエシュア。目に見えない神を、神の言葉=影〜本体の実態を教えられて、神の語る事を知る、同じなのです。

影〜消えるなんて考えているでしょう。あなたが存在する限り、あなたの影も存在します。しかも光に照らされて初めて影は現れ出る!

光イエシュアの似姿を生きたら、その実態は地上で人の前に現れ出る。それがキリストの芳しい香り、生きること〜イエシュアの実態

そのものを生きる!そして、神が存在する、目に見えない神の実態は神の言葉で表され、イエシュアは神の創造された記念日で表され

教えられているのです。神の創造物も同じです!

人の本来の生き方、性質を教えている。それが聖別〜神の目的通りに分たれている、それを生きる!だから、汚れたものを食べる〜神の

創造の目的に反したものを食する〜人間のする事ではありません!

と教えているのに、異邦人は神の言葉を正しく理解していないのです。

本体=目に見えないもの、影=目に見えない本体の本質を表すものです。あなたが存在すれば、あなたの影はあなたとぴったり1つのシルエットを映し出すでしょう。あなたが存在しなければ、その影もありません。つまり、見えない世界=神と、見える世界=この地上で

人を通して表される神の性質、本質の生き方=それが影です。

目に見えない神の性質、救い、贖いの真髄、本質は、神の創造されたものを物理的な世界で、神の言葉=性質を生きる人達を通して、反映させているのです。

だから、聖別も、神の食べ物と記念日を通して、得に教えられているのです。神に造られた人は、清掃動物=ゴミ、菌、ウイルス、不肉食動物のような汚れた、きたないゴミ動物を食べるようには造られていない。そして、神の記念日は、イエシュアの業を教えるものであり、食べ物〜記念日は全てイエシュア、神の性質に直結する目に見える

形で表されているのです。

神の子らは、神が創造された通りの性質を生きて、神の創造された

性質に反して生きない!神の子らは、神が呼び出した特別に聖別され取り分けられた会見の日、アポイントメントの日、モアデイムの全ての日に、全員が神の前に出て、喜び祝う、それが神が創造された

人間の本来の生き方だからです。

よく深く考えて、何を神が教えているのか考え直す必要があるのです。クリスチャンの世界で教えられているのは、ある部分は聖書の

真実でも、神の言葉や記念日を捨てる行為、神の教え、神が禁じている生き方をするのは、完全に神に対しての叛逆であり、冒涜であり、聖別を汚す行為です。神が神の子らを招ている日を知らないまま

無視、拒否、終了して、今はなんでもありだ!という、人間が言った嘘を信じて、神の与えている特別な出会い、会見、喜びの祝福を奪われているのです。

本物と、偽物=コピー品とどちらを選びますか?という問いがあるのです。本物=神が伝える永遠の真実を生きる、それが神に造られた

人の本来の性質であり、神のみ旨に叶うトヴ〜神の意図通りの生き方だから。

偽物=コピー、神の言葉を否定する人の教えの中には、神の真実などはありません。それは、神が造られた本来の人間の生き方ではないからです。

すごくシンプルで明らかな真実が、神により伝えられているのに

人の編み出した嘘の教えで、それが隠されてしまっているのです。

宝を取り戻そう!

 

 

続く