今週翻訳作業に没頭しなければならなくて、忙しくブログも書く時間がありませんでした。プラス風邪ももらってしまって引きこもり中です。
世の中、気が付けば、悪を善、善を悪<イザヤ5:20>と言う世界が堂々と表に現れて来ました。我が祖国も正義なんて本当に無いのか〜と思わされる、既得権益の数々の事を見聞きします。
世も末です。悪者は必ず刈り取る結末があるのですが。
<詩篇1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。>
金と権力を握ると人は腐るチャンスがたくさんあるのです。
嘘でも良いなどともう思えない、嘘と分かれば分かる程、その嘘を生きる事が虚しく、バカバカしく、ズレている事が分かり、
大人になったら子供のことはやめました!の世界に移行するのは当然の事なのです。
今や意図的なフェーク偽情報も巷にはたくさんたくさんありますが、反面事実を探り当てて行く事も出来る時代になりました。
正しい情報の点と点だけをずっと繋げて行けば、やがて正しい
答えに辿り着く事が出来るからです。
ユダヤ人の教育の世界は、質問する、そうすると答えを探そうと
探求し始めて、やがて正しい答えに辿り着く。聖書を読んでいても、神が人に質問している場面がいくつもあるでしょう?
それって人に考えさせて、正しい答えに辿り着かせるためのもの
なのです。神が答えを知らないから、人に質問して聞いているのではないのです。
今やクリスチャンでなくても、12月25日はキリストの誕生日では無いと多くの人達が知っています。どうして?
ネットで、クリスマスの裏にある数々の異教の神々の既存の祭りが冬至の時期にたくさん存在していて、カトリックがその祭りに便乗して、キリストの誕生日をその日に決めたからです。
ケルト人の悪霊祭りをハロウイーン〜万聖節と言う、オールセインツデー〜カトリックの聖人の祭りに変えた、それと全く同じ
手法をやったからです。ザビエルが日本人にカトリックを
仏教の一派の”天竺教”ですと紹介した、それと同じです。
勘違いしているのでしょう。聖書を。ギリシャ人にはギリシャ人、ユダヤ人にはユダヤ人の様になんて言う箇所を、異邦人には、異教徒の教えを混ぜて伝えてもOKさ〜なんて言う勘違いをしているからこんな事が起きてしまったのです。
神は混ぜ物を最大限の拒絶=忌み嫌う!と言うとってもきついヘブライ語で表現し拒否しているのに、異邦人にはそれが全く通じないのは、もともと異教神思想が混じった状態のままだからです。
そして、キリストの誕生日は、冬である訳が無い理由の方が確実に多くあるからです。更に決定的な事は聖書には12月25日にキリストが生まれたなどと書いてもない!聖書に書いてもないのにどうして、12月25日又は1月7日がキリストの誕生日なんて言い続けているのでしょうか?
聖書に根拠の無い半分嘘<半分本当=イエシュアが人として生まれた>を言うのは、やめようよって思ってしまいます。
言うなら丸ごと100%真実を語る、これが神の仰せであり
イエシュアに繋がる人のする事であるのです。
これは又後ほど考えたい内容ですので、置いておきます。
聖書を読んで行くと、神〜創造主は、はっきり人に、どの様に
生きるか、いつ神との特別な会見の日が設けられているのか?
どの様に神との関係を持つのか、どの様に神に近づいて欲しいのか、いやどの様に神の前に出るのかをはっきり人に伝えています。
詰まり、人が神に対して、自分の考えで作り出した方法で神の前に出て欲しく無い事を、ものすごくはっきりと人に伝えている事が分かります。わたしの言った通り!これを高き所の礼拝として、イスラエルの辿った混ざった教えの礼拝を通して教えているのです。ヤラベアムの罪に気が付く。
自分の気持ちが、情熱が、神への熱心さが大事!そんな事神は
1つも言っていないのです。気持ちがあれば何でもやって良いなんて神は言いませんでした。マタイ7:21-23
"はじめの愛"なんて書いてあるのを読むと、あの最初の頃の熱烈な気持ち、感情〜なんて考えますし、そう解説していますよね。クリスチャンの教師で誰一人として”はじめの愛”モーセの五書=婚姻契約を生きる愛なんて教えませんよね。ヨハネは、はじめの愛〜モーセの五書=トラーをさして語っているなんて、トラーに知識がない異邦人には、夢にもつゆにも想像出来ませんが
当時のユダヤ人はヨハネの黙示録の隠語をはっきりと理解して
読んでいるのです。はじめの愛=婚姻契約=モーセの五書!
聖書<ヘブライ思想の古代ヘブライの世界のヘブライ聖書>は、自分の文化の現代の思想や外国語言語で考えていたら見えない
事実がたくさん記されているものなのです。
では神が言う、はじめの愛とは何なのか?ヘブライ聖書で語る
愛とは一体何のこと?愛が大事てその愛とは何??
それには、神が提示した生き方に同意する花嫁の生き方とは何か?神との関係は何を根拠に成り立っているのか?と言う事を知らないとならないのです。
私達が子羊の血の代価で贖われた、救われたのは、神の一方的な
恵、譲渡によるものです。それを信仰により受け取った、これだけしか救いを受ける方法は無いのです。人の努力、手柄、行いで、救われる事など出来ないからです。これは受け取る以外にない!この点はっきりしないとならないのです。
クリスチャンは信じるだけで良いのですと言っているのがそれであるとはっきり認識する必要があります。そうです!信じて受け取る以外、神が一方的に提示した贖い、救いは受け取れないからです。
そして次にクリスチャンの世界で完全に混同している事は、神との関係は、神が提示した契約の上に基づき成り立っている!と
言う事実を理解していない事なのです。
そして、神への愛とは、自分のふわふわ感情が土台ではない、
そんな時により変化する頼りないものではない。
ヘブライの聖書では、神への愛とは、神の伝える事を生きることへの忠誠である!と書いてあるのです。愛があるなら態度で示そうよ!の世界がヘブライの世界なのです。感情は後から付いてくるもの。誰かを愛するなら、愛する人の言葉を大事に受け止めて、それを実際に実行して生きることをする!それが神が伝えている愛!神が伝える愛はそれなのです。
その神が伝える愛を生きる内容をどこで知ることが出来ると考えてますか?
その愛を生きる詳細は、モーセの五書の中に記されているのです。福音書以降は、ほんの少ししか、愛の実態は書いてません!!!なぜ?モーセの五書とその付随の解説の書、預言書、
諸書に完全版として記されているから、福音書以降はほんの短い
タナックの抜粋しか記されていないからです。
そして、先ずはっきり知らないとならないのは、最初にアヴラハムの契約があるのです。クリスチャンが”信じるだけで良いんですよ〜”と言っているのは、このアヴラハムの契約〜神が与えた贖い救いの事実〜新しくされた事実を受け取る=聖霊を受け取ることは、信仰により受け取るとだけしかない!言うことを言っている事に気が付いてください。創世記15:6
アヴラハムに神は直接神の教え=トラーを口頭で教え続けました。これはモーセに伝えられた教えと同じ、いやエデンの園の
アダムとハワに伝えられた教えと全く同じ教えです。神は変化の神ではない、神は言葉の神であり、神=聖霊=言葉=イエシュアと聖書に書いてあるのは、神=言葉一体である!と言う意味だからです。
そして、クリスチャンが多大に混同しているのは、シナイ山の
婚姻契約=モーセの五書に関してなのです。
アヴラハムの契約〜新生体験、新しく生まれ変わった事実が無い人に、モーセの契約は与えられていません!!!新生体験を受けた人=花嫁とされた人に婚姻契約が与えられているのです、
そして、この婚姻契約は、アヴラハムの契約と性質が違うものなのです。無条件ではない!条件付きなのです。だから、神が言われたでしょう。神の言葉を受け取り生きる事=命を選ぶ、神の言葉を無視して生きる事〜死に繋がると。そして、神はあなたは
命を選びなさいと言われたのは、人が神の言葉を生きるのか
生きないのか、選択する余地があるからです。神の教えを生きる時に祝福を享受することが出来る!条件付きです。
だからクリスチャンが、信じるだけで後は神の教えを生きる事は恵みを無駄にする生き方ですよ〜などと言っているのは、何を
一体言っているのか、気が付いていない人が語る教えだからです。プラス、ユダヤ人だけ生きれば良い教えです〜この教理は
1世紀後半から出現して現代に至るまで引き継がれた異教徒思想の非聖書的思想なのです!!!聖書ではありません!誰でも
イスラエルの神にイエシュアを通して繋がれた人は、同じ天の家族の相続人!と書いてあるでしょう?ちゃんと書いてある通りに読み取らない人達が、神の言葉を分裂させ、分解し、神が伝えてもいない非聖書的な教えを解説し続けて神の言葉に対しての
大冒涜を行い続けているのです。
神が人に伝えている教えは途中で変化しません。なぜならモーセの五書は私達神の性質に似せて造られた人のDNAが記されているからです!あなたは神にこう造られました、この様に生きる様に造られました、だからあなたはこれこれあれこれを生きます!と神が教えているのです。そして、あなたは私の性質に似せて
造られたから、私の性質に反する、あれこれそれを生きる様に
造られていません!だからそれらをするなかれ!と書かれているのです。そして神の教えを生きるのは難しくない!と神が伝えています。申命記30:11-15 なぜ?それは私達の本来の性質だからです。
私達の本来のDNAだから。だからそれを生きるのが当然。
私達の本来の性質とは違う事を生きる時、人は痛み、傷つき、後悔し、悲しむ。。ズレ、罪が本来の人の性質ならそれを生きる時性質ぴったりだから、何も傷つかないし、後悔もしない。でも
ズレた生き方が本来の性質とは異なるから、DNAが悲鳴をあげるのです。
だったらもうそう言うズレた生き方はやめよう!て事でしょう。でもそれには、以前の別の性質、神の性質とは異なる事を学習したから、それら偽物の生き方に引っ張られる!だから注意して、思索の全てをキリストイエスにあって捉えて!
つまり、自分がどう考えて行動するか立ち止まり考え続けて行動するとパウロが言っているのがそれです。1コリント10:5
正確に言うと、モーセの契約は、ペデゴーゴ=家庭教師としての役割〜人がイスラエルの神=イエシュアに出会うための手引きを
する役割の側面がトラーにはある事をペテロがガラテヤで解説しています。ガラテヤ3:24−25この箇所も誤解して解説されていますが、
神が贖われた人達に対して与えられた婚姻契約をクリスチャン達はを呪いの律法、廃れた教え、無効、恵なし、生きる必要なし、などと勝手に言っているのですが、気が付いていますか?
もしシナイ山の契約が無効ならあなたと神との関係の土台はありません!無効です!と言っているのに、その事に全く気が付いていないまま、人の作り出した教えを考えないまま単に復唱し続けてしまっているのです。神のスポークスマンではなく、サタンのスポークスマンになってしまっているのです。
考えたら分ってきます。サタンは最初から嘘つきで、大事なものを人から隠そう隠そうとして、事実そうしているのです。神の言葉を隠そう、無効だと思わせよう!なぜ?神の言葉はパワフルで
生きていて、すごい効力があるから!!!
だからそれを忘れさせよう〜と、エデンの園の最初からサタンは神の言葉を攻撃している事に注目して下さい。
クリスチャンのグループでも出エジプト20章の十戒と呼ばれる
ヘブライ語では、10の言葉と言う、聖書のタイトル、項目が
書かれたものを読み上げますよね。
聖書のタイトルと言う意味は、この10の項目を、モーセの五書全部で解説しているからです。
このタイトルの中で神は、人が生きる全ての内容、側面を網羅してインストラクションを与えて、教えているのです。
人の生きる詳細をモーセの五書の中で全て記して解説しているのです。
神がご自分の指で石の板に刻まれた神の言葉、教えの要約が
与えられたと言う意味を考えてみないとならないのです。
神は人に対して、後で終了、訂正する教えを与えた!とクリスチャンは人の作った教えを本気で神の言葉であるなどと信じていますが、それって”えせ”です。似非〜似て非なるもの。まがい物。
いや神の言葉に似てもいない!
神は途中で変化する教えやインストラクションを人に最初から
与えていません。神の言葉は完全!永遠普遍!と神が言っているのにどうして人の教えに耳を傾けさせられているのだろう?と
考え始めれば良いのです。聖書に基づき。
続く