主の日〜聖日とは神が定義した日 レビ記23章にある記念日の暦のみ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

それが真実では無いと知っていれば、それが本当であると偽証する事は、物凄く抵抗を感じるものです。

 

一旦はっきりと何が真実であるのか分かってしまえば、2度と嘘には戻れないと言うのをクリスチャンも経験があると思います。

 

ビッグバンで偶然にこの世界が出来たとか、今もビッグバンが

続いて限りなくこの世界が果てしなく広がり続けているとか、

人間は猿から進化したとか、そんな嘘、一旦嘘だと目が開かれれば、その嘘には2度と戻れないし、そんな事嘘でも他の人に言えなくなるでしょう。

 

世界には嘘、フェーク情報が満ちていて、それは意図的であるもの、気が付かないまま、嘘を本当だと信じ込んで、伝統で恒久的に伝えられている伝説、様々なものがあります。

 

今の世界を見ても、どれほどフェーク情報が意図的に流され、

又はそれが嘘であるとは知らないから、それが真実だと信じて

他者へ伝えていると言う事もあると思います。

一人の人が全ての真実を把握しているのではないし、この部分の

真実を知っていても、他の部分で騙されていると言うのは多く

あるものです。

 

神の言葉は変わらないと神が人に直接神の口から伝えた言葉を

聖書に記しているのにも関わらず、旧約時代は古い教え=教えを生きて頑張りましょうの世界〜、新約時代は、新しい恵の聖霊の時代で、古い教えから解放されたのだから、古い神の教えを今更わざわざを生きるのは恵を捨てた生き方、神の教えは終わりましたよ〜と言う。ではクリスチャンて一体何を生きると神に言われていると考えているのでしょう?人の生きる全貌が書かれている箇所はモーセの五書しか無いのです!!!

 

そんな教えは、聖書でも何でも無い教えであり、聖書を勝手に

読み込んでいた異邦人達、ヘブライ聖書、ヘブライ思想の背景や教育がまるでない、ヘレニズム化した異教徒上がりの人々が編み出した教えなのに、それが神が伝える真実だと思い込んでいるのは、聖書を知らないまま、何層にも重なった聖書では無い教えの層がたくさん氾濫した教えだけに日常常に触れ続けているからなのです。

殆どの異邦人クリスチャンの教師や牧師はその様な教えをしているでしょう。分断された聖書。律法から恵へ〜などと言う教え。そして、イエシュアが生きていた教えなどは教えないし、もちろん生きないし、シャバットや祭りがなんであるのかも分からない。学ばないし、実践もしないから、遠い外国の祭りなどと

あるパスターが解説していました。そうですね。遠い関係ない

でもイスラエルはイエシュアの国であり私達の国でもある

天の故郷に直結する地上で天を表す国として神が選ばれた国でしょう?

遠く遠くオリジナルの神の言葉や教えから離れてしまったのは

黙示録2:4 イエシュアが教えたモーセの五書=父の教えを捨てて、ローマ、異邦人は異邦人が作った宗教の教えに乗り換えたからであり、それが全ての問題の根なのです。混ぜたらダメと神が言われたのに人の教えを混ぜたから、分からなくなった。何が神の本当の教えで、何が人間の作り物の教えなのか、聖書からも見分けられなくなってしまった。

 

表向きに見たら、2000年前にメシア イエシュアが地上に

来られて全てが変化したと肉の目には思うでしょう?

でも、神は同じ福音をエデンの園から伝えている、見ずに信じるものは幸いとある通り、信仰により永遠の中に存在している贖いの事実を受け取り続けた人々〜残りの民の事がタナック=トラー

預言書、諸書には記録され書かれているのです。

 

神の贖いの業、救い、恵、許しは永遠から永遠に何も変わらない。契約も変わらない。再更新される事があったけれど、中身は同じ、シナイ山での婚姻契約。同じ!!!

 

クリスチャンの中には、日曜日=聖日=主の日=礼拝日と言う

聖書には記されてもいない定義を最初から教えられ、その教えが頭脳、思索を占拠、覆っているので、福音書以降この様な箇所を自分の中にある先入観で書いてある内容を完全に読み変え、読み込みしてしまうのです。

聖書では、日曜日は聖日でも主の日でも、シャバットでもないのです。普通の日!こんなシンプルな事実なのに本当に通じない、話しても通じない!聖書に書いてある事を見せても通じないし、日曜礼拝にキリスト教会と言う所に1世紀のユダヤ人達が集っていた事が書かれているなどと信じて、そう聖書を読み込んでいる。まさか聖書に書かれている事実が、第七日目のシャバットにユダヤ人会堂でモーセの五書を読み学び交わる事をずっと続けられていたことが書かれているのに、それが見えない。彼ら1世紀のイエシュア信者が祝っていたのは、日曜礼拝や、イースターやクリスマスではない、シャバット、新月、過越や仮庵の祭りであることを知らない。

不思議でしょう。先入観と言うものは人に神が伝えている真実を見せなくする幕、壁、目隠しを作っているのです。

 

第一日目は、聖書では普段の日であり、労働日であり、聖別された日ではない、止まる日でもない。

神は第七日目以外を特別に祝福し聖別せず、特別な記念日としてはない。第七日を他の日第一〜第6と区別しているのです。

 

日曜日は労働の初日!と言う神の言葉を認めない限り、神の言葉を退けて神の伝える真実に全く気が付かないまま行きます。

神の子らは何をいつ祝うのか、神が伝えているのです。

異邦人も同じです。ましてや、ローマが作った教え、人が作った

教えは単なる宗教の教え、伝統で継承されているだけであり、

神の仰せではありません。単なる宗教の伝統の祝い日。

 

今まで記した、福音書〜黙示録に書かれた週の第一日目の

どれを取っても、第七日目のシャバットが終了になって日曜日に

安息日としてその日が聖別された記録など聖書にはただの1度も

書かれていないどころか、聖書に登場する人、誰一人も日曜礼拝なんてしていませんでした。だから日曜=安息日変更で祝ったと言うその様な記録も勿論聖書には記されていない。

聖書には、神がシャバットは第七日目から第一日目に変更した証拠など明らかに記されていない!皆無であり、それは本当に

異邦人が勝手に決めて神の記念日を変更した!と言う事実しかないのです。

使徒行伝は古い教えから新しい教えの過渡期であるなどと勝手な

解説をM.テニー氏の様なアメリカの神学校の教科書の定番として使われる本に載っており、それを異邦人教師達が教えていますが神の言葉や神の記念日が現代の様に異邦人クリスチャン達の間で変化して、それら聖書には記されてはいない教えや記念日が語られ実践されている本当の理由は、イエシュアと使徒達の時代、

彼らがこの世を去った後に全て起こった事であると言う事が事実なのです。

 

神の言葉や記念日が人により変えられ、どのようにして起こったのかを知るには歴史の史実に目を向ける必要があります。

問題はクリスチャンの世界では、神が神の教えや記念日を変更したのだと聖書に記述の無い、人が創作した教えを神の教えだと

疑いもなく信じている事なのです。それは1900年の長い間

恒久的に浸透してしまった非聖書的教えや実践が大多数の異邦人

信者により実践されてきてしまったため、それが真実だと錯覚しているだけなのです。

 

第七日目のシャバット=安息日を祝いガードする事から日曜日のを安息日として変更したのは、福音書〜黙示録が完成し、すべての使徒が全て亡くなった後に行われた事なのです。もちろん神はそんな事人にせよ!などと命じるどころか、神の言葉や教えに付け足し差し引き、人間が創作したものを加えるなかれ!と永遠から永遠に命じています。神の安息日を汚すな!と。

 歴史の史実によれば、異邦人イエシュア信者は最終的に、

2世紀以降から始まり、第7日目の礼拝と休息=シャバットから週の最初の日=日曜日が礼拝、聖日であると言う西洋教父達の

教えに移行したと記録があらゆる所でされているのです。

 

しかもカトリックの質疑応答の書に、安息日=シャバットを第七日目から第一日目に変更したのはカトリックであると書いているのです。しかも初代西洋教父達の多くは反ユダヤ、反モーセの五書思想を持つ異教徒上がりの異邦人。ヘブライの聖書なども知らない学んだ事も無い人達だったのです。パウロの様な教師から

学んだ事がない、翻訳聖書しか知らない教師達。

 

ここで注意して考えないとならない事は、イエシュアが地上に

来られて処刑復活されたので、神がご自分の教えを古い律法で

廃れたから終了!新しい教え=キリストの律法、恵の律法、自由の律法=実はそれらの言葉で表されるもの全ては、中身の教えは実はモーセの五書以外には無い事なのです!

その事にも気がつかないまま、字面だけを読んで、新しい教えが

出現した〜と言う事を異邦人が1世紀後半から言い始めたのです。エレミヤ31章、イエシュアが過越の晩餐で語られた新しい契約の中身は同じモーセの五書!神の教えが変わるのではなく

それを生きる人の状態が変わる!頭脳に割礼がされた人達だけで

神の教えをガードして生きる大家族になる!再更新される同じ

契約!と言っているのです。

 

異邦人が”はじめの愛”=モーセの五書=婚姻契約に記された生き方から離れた本当の理由、動機は、ローマ帝国の迫害から逃れるため!そして、元々異邦人の中にある反ユダヤ思想、反トラー思想、馴染みのない教え〜自分たちの異教徒文化の生活スタイルとは全く異なる聞いたことも見たこともない異物の実践にドン引き

して、抵抗感を感じていたら、それを拒否する理由を作るために

神の言葉の方を曲げた!それほど単純な理由でそう言う事=神の言葉を差し置き、否定し、削除、終了、破棄する事をやってしまったのです。

「この問題の歴史を振り返ると、いくつかの地域では、実際に

安息日の休みが完全に廃止されたのは数世紀後になってからで

あり、その頃にはシャバット=第七日目の安息日の醍醐味を

日曜日とすり替えて、日曜日に体の休息を守る習慣がその場所に定着していました。

ヴィンセント・J ケリー、「禁じられた日曜日と祝日の職業」、15 ページ。

 

以前ヨーロッパに一時期住んでいた時に、その頃日曜日にはお店やデパートまでも完全に閉まり、(今は一部は営業していますが、大抵のお店やスーパーは日曜日には閉まっています。)

普通の家でも洗濯や掃除をしないで過ごすと言う感じでした。

シャバットの醍醐味、家族と過ごし神の言葉を読んで皆で集まり

楽しく過ごすと言う事はそのまま保存されていたけれど、その日をヨーロッパでは第一日目に変更してしまったのです。

神はシャバットは週のいつでも良いんだよ〜なんて永遠に言いません。

それならばどうして永遠に代々に第七日目を止まると言うのか?

どうしてシャバットを汚し破る事、なし崩しにする事、軽々しく扱う事が死に匹敵する罪と神が人に教えているのか?未来預言に

シャバットを守る異邦人は神の祈りの家で楽しませると書いてあるのか?イザヤ56:7しかも再臨以降はシャバット神の記念日を全世界が祝う様になるとまで預言されているのに。

ザカリヤ14:16-19

シャバットが神に取り、人に取りそれほど重要である!と神が

人に伝えているのです。

それは神が6日の間で全ての業を完了し、第七日目に止まった、その日を神が祝福し、聖別し神の子らは神が伝えるその日=第七日目の聖日に皆で集い神の前に出て過ごす日であると言っている、シンプルで永遠の奥深い真理が語られている日を人が無視するのかしないのか、それはその個人個人の神の言われる事、神に対する態度、意識の問題であるのです。

 

 

続く