日曜日は主の日?聖日?福音書以降には日曜日は8回だけ記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

先週の記事の続きです。福音書以降には、週の第一日目=日曜日についてはたったの8回しか記されていませんが、シャバット=第七日目は84回も記録されているのです。

1)マタイ28:1  2) マルコ16:1, 2    3 ) マルコ16:9  

4 )ルカ 23:56    5 )ヨハネ20:1    6)  ヨハネ20:19 

 

7.  1コリント 16:1 聖徒たちへの献金については、わたしは

ガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。

16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時に

なって初めて集めることのないようにしなさい。

 

この箇所、日曜礼拝の席上で献金集める話をしている証拠の箇所であ〜る!と、西洋宗教の礼拝日、献金の慣わしを想像して考えるから完全に誤解する良い例でもあるのです。

自分の慣れ親しんだ西洋宗教文化に照らし合わせて、古代1世紀

ヘブライの世界、モーセの五書を生きている人達の事を考えても

パウロの書簡に書かれているは正確には読み取れないのです。

 

第一に、この箇所は日曜日をシャバット=安息日として集って

いる事などの話では一切ないのです。もしもそんな事が書かれていたり、そんな事をやっていたら重大な問題、議論が起きるでしょう!なぜなら、パウロ=モーセの五書に100%忠実である!

と宣言して<使徒21:21>、神が異邦人へトラーを教える

代表として選ばれたパウロが、もし神の言葉に違反する事を

教えたり実践する、そんな事をしたら、即座にインチキ偽教師!と判定されるからです。1世紀のユダヤ人の世界ではあり得ない話!あり得ない空想話の解説が異邦人の中では無数に編み出されて、聖書の解説であると伝えられてしまっているのです!

この事に気が付かない教師は無数にいます。なぜ?彼らが神の言葉ではなく、人の思想=神学=デイスペンセーション神学や

置換神学を信じてその思想のプリズムで神の言葉を曲げて解説しているから、気が付けない、だから聖書だけに戻り、書いてある内容を再検証する事が不可欠なのです。

 

この箇所は人が聖日〜シャバットとして集まる話でもないのです。日曜日はシャバット=安息日ではないと言う聖書の事実を

認めない場合には、神が伝える真実はその人には伝わりません。

 

それぞれ個人個人が自宅、家庭で、日曜日=労働日である普段の日、聖日=主の日ではないから、だからそれぞれがエルサレムの人達に捧げる献金を手元に取り分けておいてと書いてあるのです。

聖日=主の日=シャバットには、商売、金勘定や、現金受け渡しなどなどを絶対にしない!と言うトラーに記された神の仰せが

あるからです。異邦人には分からないでしょう。なぜなら、神の言葉を捨てたら、その意味が分からないからです。

だから普段の日=週の最初の日にお金を取り分けてとパウロが

指示しているのです。これモーセの五書=神の教えに馴染み無い異邦人にはピンと来ない神の永遠の教えでもあります。

使徒15章の異邦人と同じ。

イエシュアを信じながら神の前にトラーに記された汚れた罪が

何か本当に純粋に分からないまま罪をやり続けていた、やっていた、それと同じ事です。

 

そしてトラーでは週の第一日目は労働日であり、神が聖別された神の記念日、祝日、主の日、聖日ではない!

カトリック、ローマ教が日曜日=聖日である!と神の教え=永遠に祝われるわたしの記念日と神が言われた第七日目のシャバットを退け勝手に日時変更を決めただけであり、神は神のシャバットを第七日目から第一日目になど変更していない、これからも永遠に変更しないからです。1世紀後半以降異邦人が安息日を土曜日から日曜日に変更した!この事実にいち早く目が開かれる必要があります。

神の仰せ、教えが何であるのか、聖書を正しく読まない学ばない弊害、最初の75%に触れない、学ばない、神の言葉の意味を

考える訓練が無いならば、神の教えの知識がない=イコール神の教えトラーに精通していない異邦人には、簡単に自分達の宗教世界の教えでパウロの書いている書簡の内容を勝手に読み解き誤解した不真実な解説をしているだけなのです。

 

西暦 321年 3 月 7 日、コンスタンティヌス大帝は初の民事日曜日法を公布し、農民を除くローマ帝国の全国民に日曜日の休息を強制しました。 これは、日曜日に関してコンスタンティヌスによって制定された他の 5 つの民法とともに、当時から現在に至るまでのすべての日曜日に関する民事法の先例となったのです。
4 世紀、ラオデキア公会議はクリスチャンに対し、可能であればその日は仕事を控えて日曜日を尊重するよう促し、安息日には仕事を控えることを禁止しました。

 

結局事実は永遠にそこにある。神が神の教えやシャバットを変えたのではなく、異邦人〜ローマ帝国、ローマ教として取り入れられた人が創作した教え=神の言葉に差し引き付け足し手を加えた教え=宗教の教えを生きる様に異邦人は路線変更した!

そして16世紀に、ルターがそれは聖書では無いと気が付いた

数々のカトリックの教理に反対してプロテスタントなるものを

作りましたが、ルターでも結局聖書に完全に戻る!と言うことが

無いまま、彼は最後は、神に敵対する反ユダヤ主義、反トラー思想を持ちながら、ヒットラーにホロコーストを起こさせる動機を

与えた残念な結末になってしまったのです。

 

8. 使徒20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくため

集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

この”週の初めの日”とは、と言う言葉はギリシャ語原典には

無い言葉を挿入しています。この箇所は、これがいつの出来事か

分かり、神の記念日の暦、日程表を理解する人なら容易に分かる

事が記されています。

 

使徒20:6には、”除酵祭”と書いてあります。それって何?とクリスチャンには馴染みがない祭りなので、考えもしないと思いますが、これは、過越の祭の日から始まる7日間の種無しパンを食べる週の祭りの事なのです。

クリスチャンはこの神の創造された大事な祭りを祝う事をやめたから、聖書に記されている神の祭りの意味、日程、中身が分からないのです。

そして、この週の真ん中で”復活の命”=イエシュアの贖いの血で与えられた新しい人の実態を祝う、”初穂”を捧げる日があるのです。イースターと言う名前ではない祝い日です。

この日はイエシュア=初穂に連なった新しくされた人を表している記念日なのです。復活祭とは、西洋宗教が決めた名前、日ですが、復活の命を祝う日は創造の最初から神がデザインして、神の子らが代々永遠に祝う日としてこの除酵祭り=種無しパンを祝う日を設けられているのです。

そして、ここからです!週の最初とは、この過越からの7週の間

を、”穂を数える7週”として過ごすと言う知識、実践がある人なら簡単に理解出来ます。

 

パウロがどうして、この除酵祭りが終わった時に他の場所に移動する事が記されているのか?それは春の祭の最初の部分=7日間の祭りが終わり、シャブオート迄の7週=オメルを数える7週が始まった最初の週にピリピを出て、トロアスへの旅に出る前の晩の事が記されているのです。

過越種無しパンの祭りの間は、移動したりしないでその場所で

仲間とその週を祝い過ごす事が普通であり良い事だからです。

 

そして、ここで”パンを裂き”とありますよね。

これ異邦人クリスチャンの世界の聖餐式の事ではないのです。

聖餐式もローマ教が神の教えを変えて作った儀式であると知っていますか?元の本当の儀式は何ですか?イエシュアがされたものは、過越の祭の晩餐の中で行う儀式であり、種無しパンと贖いの杯で表される儀式の事であり、カトリックが変形した聖餐式とは違うものです。毎週毎週やるものでも無い、種ありパンでも無い。

日本人でも毎週お屠蘇を飲んで正月まがいの祝いをしないでしょう?

お屠蘇を飲むとは正月にする特別な儀式だからです。悪い事ではないけれど、儀式にはその時に叶った特別な意味があり、それをいつやるのかで意味があるのです。

 

本物は、過越の祭の中晩餐の祝いの中で行う”種無しパンと

ワイン贖いの杯”の儀式の事である事をまず知って下さい。

これは当時のパリサイ派達の過越の祭の晩餐の祝い方でもあり

当時の人々、今もそうですが、過越の晩餐を祝う人達なら

誰でもイエシュアがされた事を読んだり、聞いたりしたら、

これが何の儀式でいつ行われるのか直ぐに理解出来るのです。

イエシュアが掲げたパンは、種無しパン=マッツアであり、

これは、罪が削ぎ落とされて新しくされた人を表すものです。

出エジプトの時、鴨居に屠った子羊の血を塗り、種無しパンを

急いで食べて、エジプト=奴隷であった場所を直ちに脱出した事

の一連の出来事を過越の晩餐の中で、食べてものを通して皆で

回想し、語り、考える事をするのが過越の晩餐の醍醐味なのです。しかも夜遅く、夜通し祝われるのです。

 

ユダヤ人の世界には、過越=種無しパンの週以外は、

シャバットが始まるの金曜日の晩には、二日分のマナがシャバットの前に神が降らせて人を養った事を表す2つのパン〜ハラー

種ありパンを裂いて皆で祝う晩餐を行うのです。

そして土曜日の晩、シャバットが終わる時には、同様に集まれば、前日の残りのハラー(種ありパン)を裂いてシャバットが終わりその後の6日間をシャバットの状態で過ごすことを思い出すことをするのです。

 

その様な下知識があれば、パウロ達が日曜日に聖餐式をして集まったなどと言う聖書の事実とは異なる解説をする事を免れるのです。自分の頭の中で考える創作の空想の解説ではなく聖書に書いてある内容を忠実に読み取り、他者にも作り話ではなく、聖書の真実を伝える責任があるのです。

 

本物生粋、使徒20に記されたパウロ達やイエシュアや弟子や

1世紀当時のユダヤ人や、ユダヤ人異邦人イエシュア信者達全て

神の創造された記念日を祝っていた人達には、ここに何が書かれているのか理解出来る、分かるのです。

 

もう一つ、”パンを裂いて”などと書いてあったり、集まってと

書いてある場合には、何もそれが過越の祭の種無しパンで祝う

過越の晩餐のあの儀式とは異なるものがあるのです。

 

そして日本人が米を食べる様に、パンを食べるなら、パンを裂いて、皆に順番に回す事をします。それは頂く食事を提供してくださった神を祝福して感謝して、頂くのは普通の慣わしなのです。

 

ここは種無しパン=除酵祭が終わった後の日に集まっていたと

書かれています。パウロが次の日トロアスに出発するから集まっていたとあります。

たとえこれが週の初めの日の晩としても、それは今のグレゴリオ暦では、土曜日の晩の事なのです。グレゴリオ暦では土曜日の

晩ですが、聖書の暦では週の第一日目の晩とはイコール週の第一日目=日曜日が始まる夕方〜晩なのです。混乱するでしょう。

聖書の下知識が無いと混乱しますが、1つ1つ考えて行けば見えてきます。

イエシュアが昇天されたのは、グレゴリオ暦の土曜日であると

言う事かもしれないのです。でも昇天の日時は、神のシャバット

記念日とは関係のないものなのです。何曜日にイエシュアが復活しようとも、神のシャバット=第七日目は変更不可だから。

もし神がイエシュア昇天以降、創造を全部やり直し、第一日目

に止まり=シャバット、そして第2〜第7日目を創造の業をされたと創造の工程を塗り替えるなら別ですが、そんな事されるわけないしする必要もないし、シャバット=第七と言う意味は福音を

伝えている重要な意味、要素があるから変更不可なのです。

 

簡単に言うと、第七日目の安息日=シャバットは創造主である

イスラエルの神が造られて、これは神との関係にある婚姻の印!

として神の子ら=信じる者全てに与えられた目に見える形で

表される記念日であると伝えています。

一方、第1日目は、人間が作った記念日。西洋宗教=西洋人が

2世紀以降その日に変更しようと言いだし、4世紀にローマ帝国で正式にその日を、ローマ・カトリック宗教の礼拝日とした!

その違いです。

 

神が創造されたオリジナルの記念日、永遠に祝われる聖日=第七日目か、人=西洋人=異邦人が作った宗教の記念日、

その違いを聖書から理解すれば良いだけなのです。

 

いつ集まっても自由!でも神が指定する聖日=主の日は神が人に

伝えた通り永遠に変わらない!こんなシンプルな事実が分からなくなるのは、はじめの愛から離れたから、それが神が人に伝える

神の呼び出し日が不明になり、祝われなくなった本当の原因

なのです。

 

続く