クリスチャンの中に恒久的に浸透する聖書では無い教えが、
聖書であると勘違いした認識がされているその1つ1つに聖書の
事実に基づいて光を当てて考えて行く事を続けると、神の言葉の永遠普遍である事実にはっきりと気が付けます。
聖書はそれだけで完全な存在であり、完全なる調和を保ち保存されていて、聖書の中で互いに敵対する、相反する違う教えなど
どの箇所にも1つも記されてなどいない、これが神が伝える神の言葉の永遠普遍の真実なのです。これは神の権威によるもので、人が神の言葉に手など付けられないものなのです。人が神の言葉を変えて解説しようとも神の側ではバッチリ証拠として記した
ヘブライ語の文書、婚姻契約があるのです。天と地を証人に神が
与えた契約書が存在する事!シナイ山で天が降りてきて、
イエシュアまで登場し、契りを結んだ祝宴を開き証拠として
記されて残されている記録まであるのです!
だから、たとえ人が神の言葉を変えて不真実な解説をしていても、変化する神の言葉や2つの契約と言う思想=それは聖書とはまるで関係の無い単なる人の思いついた教えなのです!
2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
神が人にトラーを与えた目的は色々あります。
その事を正しく把握しなくてはなりません。
トラーは神の言葉はするしない掟リストや、メシアが地上に来るまでの仮の教えなどでもありません。
現に福音書を正しく読み取れば、メシア イエシュアが教えたのは、”父の教え”父の教えを破棄しに来たなどと思うなかれ!とも言っているでしょう。そして、使徒やパウロ1世紀聖書に登場する人達が生きていのも、モーセの五書であり他の教えなどでは無い。
メシアが教えた教えは、父の教え=モーセの五書を正しく解釈し伝えて生きるとはどうかを実際に地上でお手本を見せられたのであって、メシアが今までに無い新しい教えをしたのではないのです。
1つの大きな違い新しい体験は、誰も体験したことのない生き方〜トラーに記された真髄通りそっくりそのままを丸ごと教え生きて貫いて見せたのはイエシュアが初めて歴史上1人です。完全なる姿、生き方、それ以前には誰も体験した事のない生き方をした人に遭遇した事がないからです。
でもそのイエシュアが生きた中身は父の教え=モーセの五書=
婚姻契約に記された詳細なのです。ここをはっきり把握しないと
ならないのです。
神の教えは生きて義を獲得するために与えられたものではありません。だから、クリスチャンの世界で語られる、太古は律法を
生きて義とされ許された!と言う教えは間違った教えなのです。
でも神のどんな教えでも神が伝える事とズレた事をしたら不具合であり、それはハター=的外れな生き方なのです。それは本来の
神の似姿の人の性質には合わないずれた生き方だからです。
そして、アヴラハムの契約〜信仰により義とされた体験がない人に対して、トラーがどんな作用をするかパウロが書いています。
義とされた体験がない、神に罪赦されると言う事が分からない
人達に対しても、トラーには罪が何であるのかの詳細が書かれていますから、トラーを知れば自分の罪が光の中に照らし出されます。
でもそれはただ”罪の性質”を知らされるだけで、神の前に新しくされた経験自覚が無い人には、自分の力で罪の赦しや解決が無いから、神の言葉で責め立てられますよね。
誰一人神の前に行いにより義とされない!と書いてあるでしょう。エデンの園から今、そして未来もずっとそれは同じです。
だからアヴラハムの契約がモーセの契約の前にあるのです。
贖い出されて新しく創造された人達に与えられたのが、神の契約=婚姻契約=モーセの五書!その事実をはっきり理解しないと
ならない点です。
でもトラーには、神をまだ知らない人にもある目的を果たすものである事が書かれています。
神の言葉を読めば、そこには人の本来の生き方が書いてありますから、罪が何かが読むと分かるのです。
そして、救いを得てない人が読めば、罪悪感から正しく生きようと努力しても、どうしてもその責めから逃れられないことに気がつくだけになります。完全なる罪の赦しと言う事を実体験で
受け取っていない状態だからです。
だからパウロがトラーは救われていない人には
ネガテイブな作用をすると話しているのです。
一方、トラーには信じない人にももう一つの役割をする側面が
あります。神をはっきり知らない人でも、神を知るに至るまで
神の教えを生きる人達に囲まれていれば、自分も周りの人の様に
生きる様に学んで、そう生きてれば、安全に守られますよね。
神に出会うその日まで。
ガラテヤ3章でパウロが説明しているのが、その様なトラーの
役割の側面なのです。これは以前にも説明していますが、
パウロ達が生きていた1世紀、古代グレコローマの世界では裕福な家庭には、ペデゴーゴと言う家庭教師と訳される役割の子供を
お世話する人が居たのです。でもその人の役割は家で子供の世話をするのであって、直接教える訳ではありません。
そのペデゴーゴは、子供を教師の元に安全に連れて行く役割をしていました。詰まりパウロが、トラーが担う役割のある側面を、そのペデゴーゴになぞられて話しているのです。
トラーは神を知らない人に取っても、神を知るまでは、神ご自身を知らないままでも神の教えを生きたら安全に守られるのです。
そうでしょう。トラーに記された事は人を保護する安全鎧兜だからです。神に伝えられた生き方をしたら罪、ズレた生き方から
守られるからです。
そしてトラーは人を神に出会うことに導く役割があると言っているのです。神の言葉=聖霊ですから、神の言葉=聖霊を思い巡らし考えて生きる事をする人は、いつかその中身=神ご自身に出会う体験をするでしょう。
でも一旦人が神に直接出会う体験を得たら、ペデゴーゴの役割の
部分は終わるのです。神のもとに導く役割のその面は終わる!
でもそれは神の教えが終わったと言う意味ではなく、トラーが
神を知らない人にも、その中身を知れば、生きていれば
神に出会うまでの導きになる!一旦神に出会ったら、神に導かれ役割の面は終わると言っているのであって、トラー自体が終わるなんて話などパウロはしていないのです。この違いをはっきり
区別すれば見えます。トラー終わりありきで読む人にはパウロの書簡は正しく読み取れなくなっているのです。
神に出会うための役割であったトラーが今度は神に人の生きる
真髄をトラーから更に深く教えられる、頭脳に割礼が与えられた人は神の教えを聖霊により深く理解して、命にあふれた生き方をトラーの中に見出せる!と言うことなのです。
ガラテヤやローマでは、パウロの言葉を本当に誤解して読み込みしている良い例がたくさんあります。
前にも書きましたが誤解されているパウロの言葉の箇所、
ガラテヤを再検証します。
続く