トラー 神の言葉 教えには様々な目的 役割 側面がある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

クリスチャンの中に恒久的に浸透する聖書では無い教えが、

聖書であると勘違いした認識がされているその1つ1つに聖書の

事実に基づいて光を当てて考えて行く事を続けると、神の言葉の永遠普遍である事実にはっきりと気が付けます。

 

聖書はそれだけで完全な存在であり、完全なる調和を保ち保存されていて、聖書の中で互いに敵対する、相反する違う教えなど

どの箇所にも1つも記されてなどいない、これが神が伝える神の言葉の永遠普遍の真実なのです。これは神の権威によるもので、人が神の言葉に手など付けられないものなのです。人が神の言葉を変えて解説しようとも神の側ではバッチリ証拠として記した

ヘブライ語の文書、婚姻契約があるのです。天と地を証人に神が

与えた契約書が存在する事!シナイ山で天が降りてきて、

イエシュアまで登場し、契りを結んだ祝宴を開き証拠として

記されて残されている記録まであるのです!

 

だから、たとえ人が神の言葉を変えて不真実な解説をしていても、変化する神の言葉や2つの契約と言う思想=それは聖書とはまるで関係の無い単なる人の思いついた教えなのです!

 

2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 
聖書=神の言葉=霊感、聖霊により書かれとあるのに、どうして
その聖霊である言葉が呪いの縛りの律法で歴史の途中で無効になったとパウロがいつどこでそんな事を自分の書簡に書いているのでしょう?これ本当に異邦人異教徒思想の考えである!と分かります。ウルトラマン一家の内部分裂!
 
ここに書いてある”聖書”とはモーセの五書、預言書、諸書のみを
指してパウロは、聖書と語っているのです。その当時福音書〜
書簡は聖書として記録途上、聖書として認識されていない、
手紙が送られた人、群れだけが読んでいたものであり、
それらが聖書として認識されたのは5世紀以降の事だからです。
福音書〜黙示録=霊感により書かれた聖書ですが、
それらは、聖書とパウロが言う、モーセの五書、預言書、諸書の
短い短い後書き、注解書であり、最初の部分の聖書を否定する様な教えなど1つも記されてなどいません。
クリスチャンの中で語られる、古代は律法を行い義とされていた2000年以降はそれが終了し、恵の聖霊時代、キリストの
律法になったと言う教えがあります。
でもその思想は聖書が語る事からズレた的外れな聖書理解、
解説、解釈です。
 
キリストの律法とは、モーセのに五書の教えである事に全く気が付いてないまま、あたかも新しい教えが出現したと信じているのです。
キリストの律法と言うならそれはモーセの五書、それはエレミヤ31章、イエシュアが過越の晩餐で語られた同じ”新しい契約”、その新しいと言う言葉の意味は、同じモーセの五書=婚姻契約が
更新されたもの!でもその同じ婚姻契約を生きる人の状態が違う!頭脳に割礼がされイエシュアを通して新しい命を頂いた人達が受け取り生きる中身は同じ父の教え=モーセの五書の事!と
言う、イエシュアやエレミヤが語った内容を正しく把握しないまま、モーセの五書とは違うキリストの律法=恵の聖霊時代の教えなどととんでもない誤解をしているのです。
もしも、クリスチャンの世界で教えられる様に、モーセの五書とは違う新しい教えが出現したのならば、それは聖書を創世記から全部書き直さなくてはならないと気が付いていますか?
 
人間の契約書でも契約書の中身が変更されたら、2人以上の証人と文書での変更がなされ認証されないとならないのです。
新しい契約〜新約聖書と勘違いしているのは、聖書の最初の部分を正しく理解していないからです。神は契約を破棄できない!
変えられない!と言う事実を忘れてはいませんか???
 
書き直された新しい婚姻契約書=新モーセの五書など存在しません!福音書以降、新約聖書と名付けてますが、それは新しい契約書などはありません!福音書以降の中身は同じモーセの五書の超短い版の後書き解説に過ぎないのです!
聖書は全部調和して1つ神の性質も1つ以上で全く1つエハッド
聖書=神の言葉を分断する思想は、イスラエルの神の性質に反した事を語る人の思想なのです。
その原則を無視したのが、ヘブライ聖書を知らない2世紀以降の
西洋人、教父達、神の言葉を踏みにじって勝手に創作した教えを
作り続けた人の教えの産物である事実なのです!
 
神がどうして人にトラーを与えたのか?トラーの目的は何なのか
はっきり理解する必要があります。
神の言葉は今の自分には無用とする人は、どこまで言っても神が教えている教えが見えなくなります。神は永遠であり、私たちはその神を神の言葉を通して知る様に神が創造されているのに、それを端折れば、当然見えない部分が多く、人の教えに取って変わってしまうのです。神が人に伝えている永遠をかけて知る、その手掛かり=神の言葉をざっくり捨てて、真相が見えないままになる。
代用品、代理品、エデンの園の蛇の言葉は人に本物ではなく
代用品にすり替えて生きる様に仕向けた、それです。
本来食べるべきものから食べないで、食べるな!と言われたもの
を蛇は代用品として取り入れる様に提案したそれです。それが
ずっと行われている。それを神が偶像礼拝、高き所の混ぜ物の
礼拝=姦淫の罪と教えているものなのです。

 

神が人にトラーを与えた目的は色々あります。

その事を正しく把握しなくてはなりません。

トラーは神の言葉はするしない掟リストや、メシアが地上に来るまでの仮の教えなどでもありません。

現に福音書を正しく読み取れば、メシア イエシュアが教えたのは、”父の教え”父の教えを破棄しに来たなどと思うなかれ!とも言っているでしょう。そして、使徒やパウロ1世紀聖書に登場する人達が生きていのも、モーセの五書であり他の教えなどでは無い。

メシアが教えた教えは、父の教え=モーセの五書を正しく解釈し伝えて生きるとはどうかを実際に地上でお手本を見せられたのであって、メシアが今までに無い新しい教えをしたのではないのです。

1つの大きな違い新しい体験は、誰も体験したことのない生き方〜トラーに記された真髄通りそっくりそのままを丸ごと教え生きて貫いて見せたのはイエシュアが初めて歴史上1人です。完全なる姿、生き方、それ以前には誰も体験した事のない生き方をした人に遭遇した事がないからです。

でもそのイエシュアが生きた中身は父の教え=モーセの五書=

婚姻契約に記された詳細なのです。ここをはっきり把握しないと

ならないのです。

神の教えは生きて義を獲得するために与えられたものではありません。だから、クリスチャンの世界で語られる、太古は律法を

生きて義とされ許された!と言う教えは間違った教えなのです。

 

でも神のどんな教えでも神が伝える事とズレた事をしたら不具合であり、それはハター=的外れな生き方なのです。それは本来の

神の似姿の人の性質には合わないずれた生き方だからです。

そして、アヴラハムの契約〜信仰により義とされた体験がない人に対して、トラーがどんな作用をするかパウロが書いています。

 

義とされた体験がない、神に罪赦されると言う事が分からない

人達に対しても、トラーには罪が何であるのかの詳細が書かれていますから、トラーを知れば自分の罪が光の中に照らし出されます。

でもそれはただ”罪の性質”を知らされるだけで、神の前に新しくされた経験自覚が無い人には、自分の力で罪の赦しや解決が無いから、神の言葉で責め立てられますよね。

誰一人神の前に行いにより義とされない!と書いてあるでしょう。エデンの園から今、そして未来もずっとそれは同じです。

だからアヴラハムの契約がモーセの契約の前にあるのです。

贖い出されて新しく創造された人達に与えられたのが、神の契約=婚姻契約=モーセの五書!その事実をはっきり理解しないと

ならない点です。

 

でもトラーには、神をまだ知らない人にもある目的を果たすものである事が書かれています。

神の言葉を読めば、そこには人の本来の生き方が書いてありますから、罪が何かが読むと分かるのです。

そして、救いを得てない人が読めば、罪悪感から正しく生きようと努力しても、どうしてもその責めから逃れられないことに気がつくだけになります。完全なる罪の赦しと言う事を実体験で

受け取っていない状態だからです。

だからパウロがトラーは救われていない人には

ネガテイブな作用をすると話しているのです。

 

一方、トラーには信じない人にももう一つの役割をする側面が

あります。神をはっきり知らない人でも、神を知るに至るまで

神の教えを生きる人達に囲まれていれば、自分も周りの人の様に

生きる様に学んで、そう生きてれば、安全に守られますよね。

神に出会うその日まで。

ガラテヤ3章でパウロが説明しているのが、その様なトラーの

役割の側面なのです。これは以前にも説明していますが、

パウロ達が生きていた1世紀、古代グレコローマの世界では裕福な家庭には、ペデゴーゴと言う家庭教師と訳される役割の子供を

お世話する人が居たのです。でもその人の役割は家で子供の世話をするのであって、直接教える訳ではありません。

そのペデゴーゴは、子供を教師の元に安全に連れて行く役割をしていました。詰まりパウロが、トラーが担う役割のある側面を、そのペデゴーゴになぞられて話しているのです。

 

トラーは神を知らない人に取っても、神を知るまでは、神ご自身を知らないままでも神の教えを生きたら安全に守られるのです。

そうでしょう。トラーに記された事は人を保護する安全鎧兜だからです。神に伝えられた生き方をしたら罪、ズレた生き方から

守られるからです。

 

そしてトラーは人を神に出会うことに導く役割があると言っているのです。神の言葉=聖霊ですから、神の言葉=聖霊を思い巡らし考えて生きる事をする人は、いつかその中身=神ご自身に出会う体験をするでしょう。

でも一旦人が神に直接出会う体験を得たら、ペデゴーゴの役割の

部分は終わるのです。神のもとに導く役割のその面は終わる!

 

でもそれは神の教えが終わったと言う意味ではなく、トラーが

神を知らない人にも、その中身を知れば、生きていれば

神に出会うまでの導きになる!一旦神に出会ったら、神に導かれ役割の面は終わると言っているのであって、トラー自体が終わるなんて話などパウロはしていないのです。この違いをはっきり

区別すれば見えます。トラー終わりありきで読む人にはパウロの書簡は正しく読み取れなくなっているのです。

神に出会うための役割であったトラーが今度は神に人の生きる

真髄をトラーから更に深く教えられる、頭脳に割礼が与えられた人は神の教えを聖霊により深く理解して、命にあふれた生き方をトラーの中に見出せる!と言うことなのです。

 

ガラテヤやローマでは、パウロの言葉を本当に誤解して読み込みしている良い例がたくさんあります。

 

前にも書きましたが誤解されているパウロの言葉の箇所、

ガラテヤを再検証します。

 

 

続く