人の教えと神の教えを区別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉をどの部分でも否定する人の教え=フェーク情報を信じれば、神の言葉が伝える真実が見えなくなります。

その逆は、神の言葉に戻れば、神の伝える真実が見える様になり

人が伝える神の言葉を破棄した、修了された、終わった!と言う教えが完全にフェーク情報であることを聖書に照らし合わせて

確認できる、認識出来る、理解出来る様になります。

 

人の編み出した教え〜西洋宗教の神学教理が恒久的に異邦人クリスチャンの間に浸透してしまったお陰で、神の言葉が律法であると認定されそう呼ばれてしまい、そして聖書の最初の部分は今は廃れて無用になったと勝手にけりをつけられてしまいました。

神の言葉に対する様々な誤解の教えは、聖書ではない教えと言う覆いを何重層にもかけられてしまって、何を一体話しているのか

さえ混同してしまっているのです。気が付かないまま聖書とは

違うことを話しているのです。

 

1つ1つ神の言葉の真実を覆い隠して来た人の考えついた教えを

剥がして捨てて行って、神が伝えている事だけを繋げて行けば

やがて神が伝えている永遠普遍の真実は見えて来るのです。

 

先ず何度も書いてる通り、神の言葉を”律法”と言う言葉を使う事を直ちにやめる必要があります。何故なら、その翻訳は甚だしく不適切であり、ヘブライ語のトラーと言う言葉を全く反映しない翻訳であり、トラーを指して使うべき言葉ではないからです。

 

山田さんを鈴木さん、太郎君を健ちゃんと呼んでいるのと同じ事をしているのです。それでは一体誰の事を話しているのか不明になるでしょう。言葉とは意味があるのです。不適切な言葉で表現したら、それはその言葉が指すある事柄の本質が見えなくなって

しまう、そして不適切な固定概念を人に植え付けてしまっている。そう言う事がずっと今に至るまで翻訳の世界〜ヘブライ語ではない言葉を聖書で読んでいる世界で続いているのです。

 

翻訳で”律法”と訳している裏にある本物は=ヘブライ語のトラーと言う言葉です。このヘブライ語のトラー=神の教え、インストラクションと言う言葉をギリシャ語に訳した時に、様々な言葉に対応出来る多様性のある言葉=ノモスと言う言葉で訳してしまったから混乱が起きているのです。

ノモスと言うギリシャ語は神の言葉以外の他のいくつもの言葉に

対しても使われる言葉だからです。

机と車は違うと分かるでしょう。でもそれがもし1つの言葉で

表されていたとしたら、車か机か文脈、内容を読まない限り何を指して使っている言葉なのか判断出来ない、それがギリシャ語のノモスと言う言葉なのです。

 

多様性〜神の言葉、教え、物事の本質、性質、法的な規則、

物事の法則、主旨などこんなに多くの言葉を1つの言葉で

表したら、皆それぞれ意味が違うのに十把一からげで、”ノモス”

で表せるのです。だから、法的法則、物事の性質、罪の法則と、神の教えと言う別の言葉が”ノモス”と言う1つの言葉で表されてしまい、ノモスと言うギリシャ語を全部同じ”律法”などと言う

翻訳が充てがわれてしまったので、読者の側での読み取る問題、誤解が生じているのです。罪の支配の法則と、神の言葉を両方〜ノモスと言う同じ言葉で表されたらそしてそれを両方”律法”と

訳してしまったら、その文章の中でそのノモス=律法はどちらを意味しているのか、はっきり理解しない人には混同するでしょう!神の教えも罪の法則も区別出来ないまま、律法は廃れた〜

などと勘違いするのはその様なギリシャ語に対する翻訳の中身の理解の欠如なのです。

だから信じる人は既に”律法”の下にいないと読んで、”神の教え〜トラーの下”には既にいない、律法から自由になったのだなどと読んでいてそれは間違った読み方なのです。新しく創造された人は、トラーが伝える”罪の法則”の下に縛られていない言う事が

パウロが伝えている本当の意味なのです。

ギリシャ語の性質を知る人、神の言葉が変化しないと言う聖書の

事実を把握している人にとっては、ノモスと言う言葉も、その

文脈から何を話しているのかが読み取れますし、パウロが語る

内容を理解すれば、神の言葉が終わる!変化する!などの話は

一切していない事はクリアーに読み取れるのです。

 

そしてもう一つパウロの書簡自体が難しいのです。

何で難しいのでしょうか?それは人の電話を横で立ち聞きしても何を話しているのか、その語っている会話の内容を事前に知らない限り分かりにくいですよね。一人の人の話しか見えないまま、相手の話が見えないからです。それと同じ事なのです。パウロの書簡は、エルサレムのパリサイ派に属していた当時イシュア信者の中ではトップクラスのトラー学者であったパウロの元に、諸外国に居た主にユダヤ人で形成される群れからパウロに対して様々な質問を書き送りました。書簡での質疑応答は当時のパリサイ派の教育ツールであったのです。

それぞれの地域で起きていた群の中での問題、生活の中での問題を、パウロはモーセの五書の教えからどう生きるかの知恵を

伝授しアドバイスしていたのが、パウロが書き記した書簡なのです。だから、質問状に記された質問が何か全く書き記されていないまま、パウロの答えだけ私達は読んでいるので、一体どんな

問題がその群の中にあったのか、パウロが話している内容から読み取るしかないので不明な点があるのです。

でも間違いなくパウロは100%モーセの五書=神の教えから

彼らに知恵の回答を与えているのです。

そしてパウロの答えは、もちろんモーセの五書を全く否定したりなどしていないし、モーセの五書に反する教えなどもしませんでした。クリスチャンが誤解して読んでいるのは、パウロが

”割礼”に関して記している事を、割礼をパウロが禁じているなどと言いますがそんな事パウロが言う訳ありません。

使徒21章での請願、パウロが割礼(アヴラハムの)を禁じている、モーセの五書を否定していると言う噂が嘘であると証明したでしょう。ちゃんと事実だけ繋げて考えないとなりません。

その事実からも明らかにパウロはモーセの五書=神の教えのどの部分も否定していません。

この割礼は”改宗儀式”の事をパウロが話しているのです。

もっと簡単に言えば、クリスチャンの群れで、洗礼を受けさえすればそれで救われる、聖霊受けるとか、天の国の一員になれるとか、それでもう終わり!などと言う考えをしている人にどう説明し話しますか?

洗礼すると言う儀式で、あなたは新しく生まれ変わる事などできません!と言うのではないのですか?人は自分の中ではっきり

救い主を自覚し納得し気が付く、又はよく分からなくても、

神に出会う体験があってはっきりと自覚する、それがなくて只

水に潜っても形ばかりをやっても何も意味がないでしょう。

 

それをパウロが”改宗儀式”=ユダヤ人になる儀式をすれば、新生体験=神の国の一員になる資格が与えられるとズレた考えをしていた人達に諭しているのです。天の国籍を得るため、それが目的ならば、その場合割礼=改宗儀式なんぞしてはならない!と

パウロが言えば、あたかも割礼=この場合改宗儀式ですが、割礼と言う当時の改宗儀式に付けられた名称を読んでパウロが割礼を禁じている!などと早合点して読んでいるのです。

 

新生体験をする目的で洗礼など受けても意味ない!それならば、あなたには洗礼を授けられません!と言うのではないですか?

救われると言う意味、実体験をしてからやってとクリスチャンもそう教えるのではないのでしょうか?

神の言葉をよく理解しない人達に教える事と同じ事をパウロが

物事の本質を話して言っているだけです。

現代の世界に異邦人クリスチャンが1世紀当時の様なユダヤ人

イエシュア信者達との交わりはないし、しかも異邦人イエシュア信者達がユダヤ人の伝統のしきたりにあった”割礼”と名付けられたユダヤ人に改宗する儀式など強制される事などありませんから、その様な問題に遭遇したりしないので、パウロが話している内容が理解出来ないだけなのです。

 

コリント、コロサイ人への手紙などとありますが、彼らの群れはユダヤ人中心であり、ユダヤ人の会堂でシャバットごとにトラーを学んでいた群れなのです。

彼らは、西洋宗教の教えなど知らない!いや1世紀にはその様な

宗教はまだ存在していませんし、聖書に登場する人達は現代

一般に見聞きする異邦人クリスチャンの世界で教えられている様な事は考えたことも聞いたこともない人達である!と言う事を

はっきり把握する必要があります。それは神の言葉がまだ変化しない過渡期だからではなく、神の言葉は永遠に変化などしないからです。

パウロに関してはクリスチャンの世界では多大に誤解され、

パウロの書簡も同様に誤解されて読まれて開設されていますから

この内容は随時、正しく読み直す学習が必要なのです。

 

先ず、クリスチャンが誤解しているのは、古代の人=ユダヤ人は”トラー”を生きて義とされていたと言う人の仮説を信じている事です。そしてユダヤ人を通して、人はそれを生きれないと言う事が証明されたので、神は厳しい律法を終了して、キリストの自由の律法を与えたなどとそれらしい教えをしますが、何を言っているのか不明でしょう!父の教え=モーセの五書=婚姻契約以外の神の教えは存在しないからです。

キリストのトラー=自由のトラーとは、頭脳に割礼を受けた人に

与えられる同じ契約、中身はモーセの五書!の事なのです。

モーセの五書=婚姻契約が呪いの縛りの律法などと考えているから自由の律法〜聖霊を受けた人が神の教え=トラーを自由に

妨げられずに生きれる!と読み取れないだけなのです。

 

モーセの五書〜婚姻契約〜トラー以外の別の契約=キリストの

トラー、自由のトラーなんて聖書には書いてないのです。

キリストのトラー=自由のトラー=中身はモーセの五書!と言う事実に気が付いてないまま、別の教えが出てきたなどと考えているのです。キリストにより頭脳に割礼を受けた人は、神の性質=トラーを罪に束縛されずに自由に生きれる!

前に書いた記事の中に、アヴラハムの契約とモーセの契約の違いをはっきり理解しないと見えません。アヴラハムの契約が信仰

義認と言われる無条件譲渡契約です。これは例え神の教えに違反しても取り消されたりするものではないのです。

そして、アヴラハムの契約を受け取った人達だけが、モーセの

契約を受け取る事になるのです。

この違いが分かりますか?異邦人もイエシュアの贖いの血を

通して救われたら、それはアヴラハムの契約を受け取った事なのです。そして新しくされた人達は、次に神との特別な関係に入る

それがモーセの契約なのです。この契約は条件付きなのです。

この違いが分からなければ聖書が何を語っているのか不明になります。だから、太古は行いで義とされていたとか、ユダヤ人だけ生きればいいのだとか、今は無用などと言う勝手な人間の考え付いた教えが氾濫しているのです。

 

モーセの契約は”ケトウヴァ”〜婚姻契約書なのです。

これは、贖われた人達が神のセグロット(宝物複数)となった

だから、その宝〜聖別された人に相応しい生き方をすると神が

教えているのです。贖われる前は〜奴隷〜異教の神々の教えに

生きていた、その人達が1から神の伝える教えを聞いて、

神の性質に造られた人を生きる学習の旅が始まるからです。

これをクリスチャンは大いに誤解しているのです。

たくさんの層に渡る誤解なので1つ1つ理解して行く必要が

あるのです。

そして、クリスチャンの中で言われる”キリストの律法”とか

”自由の律法”これは、何を聖書が言っていると考えていますか?

律法〜神の教え、インストラクション〜神の教えはモーセの契約に記された生き方しかない!と言う永遠の事実に気が付けば

聖書の真実が見えて来ます。これは説明が必要なので、後で更に詳しく書きます。

先ず、神の教え=トラーはこれこれあれこれを生きて義とされるために与えられたものではない!

義とされるために一時的に与えられた律法と言う誤解を解いて下さい。

普通に考えて下さい。日本国憲法は、あなたの住む町の様々な

ルールや規則、法律は、家庭内の色々な決まり事はそれをやって誰かの前に良い人だとか義人だと思われるために存在しているのですか?違うでしょう。

それら人の生きる上で様々な規定やルールや道徳や常識が存在するのは、互いが安全に傷つけずに守られ平和に幸せに暮らすためにあるのではないのでしょうか?

それと同じです。でも神の子らは神が教える独特な生き方や

聖別があるのです。それを無視しているのです。

 

イスラエルの神の国には、神が教える神の国の子らの生きる生き方があり、それが神の創造された神の性質通りの人が生きる本来の生き方を神が人に伝えているのに、それが全くクリスチャンには伝わっていないまま律法は廃れた〜今は自由の律法、キリストの律法なのですとそれらしくて、意味が分からないままその様な教えを唱えて神の教えを人の教えとすり替えてしまっているのです。

そして、古い部分は呪いの律法〜古い律法などと言っているのは、聖書の中身が分かっていないからだと思うのです。

そしてイエシュアが教えて生きたのは、パウロや使徒達が教えて生きたのは、モーセの五書である!と言う事実に盲目だからだと

思います。神の教えは廃らない!と言う神が伝える事実が本当には分かってないからそんな人の教え=一時的、無効になった、

破棄された〜と言う教えを信じてしまっているのです。

 

 

続く