パウロの書簡の中で、人は神の教え=トラーを生きる事で義を得たり、神の前に何かを得る事などないと言う事をパウロは説明しています。
パウロが語っている内容の本質、真髄が何か?を読み取る必要が
あるのです。そして聖書を読む大前提は、神の教えは変化ないと言うその大前提である永遠普遍の事実を揺るがしたら、神が伝える教えの実態が崩れて行きます。
前回書いた様に、クリスチャンの間にも、”洗礼を受ける事”
それ自体は良いことですが、洗礼を受ける意味が分からないままやればそれは何の意味があるのですか?と言う事。洗礼を受けて何かを得よう、水をかぶれば救われる?意味が分からないのに
取り敢えずやろう、そう言う意識状態〜救いが自分の中に体験的に分からない人には、その様な人には洗礼儀式は意味ないと理解していますよね。
又は洗礼を受けたとしても、神の教えを生きる実態がないなら、洗礼受けたという儀式行為は何の意味もない。
割礼を誇る人と言うこの場合、パウロが話しているのは、改宗儀式だから”ギリシャ人なのに割礼=ユダヤ人になる改宗儀式を強いられていない”テトス”とガラテヤ2:3書いてあるのです。
洗礼や改宗儀式=表向きの儀式が、人を神の国の一員にさせるのではない。大事なのは、表向きにある肩書きや資格ではない、
新しくされた人の実態を受けて神の言葉を生きている事”とざっくり言えばパウロが話している中身はその様なものなのです。
よくよくそこに記されている論点と、そして何が大事かの本質をパウロは語っているのであって、アヴラハムの割礼自体は、契約が永遠普遍である約束を与えた、契約が神が与えて存在している証拠、”印”であると神が伝えている、終了になどならない、
とても重要なものなのです。
しかもアヴラハムの割礼は普通は男子が生後8日目に受けるもの
両親が決断して与えられるもの、つまり両親の信仰によるもの、本人は気が付かない間に身につけられているものなのです。
<8日目以外に受けた人達の場合もかいてあります。トラーには。その理由も深い真理があります。>
以下はトラー=神の教え〜モーセの五書の役割のある1部の側面を話しています。
ガラテヤ3:21 では、トラーは神の約束と相いれないものか。
断じてそうではない。もし人を生かす力のあるトラーが与えられていたとすれば、義はたしかにトラーによって実現されたであろう。
イエシュアに出会う前は、神のトラー=教えは人に罪が何であるか教えるだけで、罪の赦しや解放はトラーを単に知る事だけでは
与えられなかったとパウロは説明しているのです。
2コリント3:6などもとんだ読み違えをしている箇所でもあります。
2コリント 3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、
霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
神のトラー=モーセの五書を律法と訳して、その箇所は終わり!
新しい契約=キリストの契約=モーセの五書を生きる事は終了で
キリストの律法〜自由の律法〜恵の聖霊時代の律法と言う解説を
クリスチャンの世界ではされていますが、それはパウロの話している事と全く異なります。
”新しい契約”と聖書に書いてある場合、モーセの五書とは別物の契約などと言う意味では全く話していないのです。そんな新しい別の契約書は実際に神が語っても伝えてもいない、その様な契約書は存在しないし、書き記されてなどもいません!
同じモーセの契約=婚姻契約=新鮮さ=再更新された中身は同じモーセの五書の契約内容!新しい契約=再更新されたモーセの
五書を生きる人達の状態はどんなものなのか?を話しているのです。神の言葉の中身が変化したのではなく、神の言葉を生きる人の中身が変化した!頭脳に割礼がある人々〜新しく創造された人で神の言葉を生きる人達の事を話しているのです。
この様な聖書の事実をじっくりと書かれている言葉の意味を
正しく把握して考えれば見えます。新しい〜新月の新と同じ言葉
再更新されると言う意味です。
エレミヤ31章とそしてその事をイエシュアも過越の最後の晩餐で話しているでしょう。復活の命=新しく創造された人の実態=
頭脳に割礼=神の目から見る通りを神の言葉から理解する人達
誰も互いに主を知ろう!などと言い合わなくても、神の教え=
トラーが頭脳に腹に刻まれてそれを生きる人達で構成される
”再更新された契約=新しい契約=婚姻契約=モーセの五書”を
生きる!と聖書では説明しているのです。
現にモーセの契約以外に、書き直された聖書など存在していません。聖書のどの箇所もモーセの五書を指して解説しているのです。そしてこの原則、聖書解釈の原則〜聖書は完全なる神の言葉であり、手直し、訂正、削除、変更などの余地はなく、聖書のどの部分も全て調和を保ち保存され、どの箇所も互いに敵対し合う教えなど記されていないと言う神が伝える大前提、原則に反した考えを取り入れてはならないのです。
福音書以降は、モーセの契約とは異なる新しい契約=キリストの律法でも恵の律法でもありません!
モーセの五書終わりありきでパウロの書簡を読むから、多大に
誤解するのです。そして1世紀当時のヘブライの世界で存在していた数々の宗教的な背景、事情、異邦人とユダヤ人の文化の違い問題などを理解しないとパウロが語る事は理解不可能です。
なぜなら、”割礼”と聖書で読めば、肉に付ける割礼の事を話していると考えるでしょう。でもそれは”異邦人がユダヤ人に改宗する複雑な儀式”の事、そしてもちろんその複雑な改宗儀式の一連の中にも肉の割礼も含まれるのですが。
でもどうして”ユダヤ人になる改宗儀式”をしなくては異邦人は
天の一員になれないと、ユダヤ人はその様に考えてそんな教えを〜律法の行い=伝統の人の言い伝えをしていたのかを知らないとならないのです。
ユダヤ人で神の言葉を神の目から見る通りに理解してない人達には、異邦人は蚊帳の外の人のごとく考えていた人達がいたからです。偽の教え、人の教え、偽教師。
異邦人〜元々契約の民ではない天の神の国に属さない人達、神が禁じる汚れた生き方を平気でして、神の教えを知らない聞かない人達、神に伝えられている聖別を汚す行為をする。使徒15章の様に異教の神殿で神に禁じられている汚れた動物を食べ、その
血を飲み、動物を絞め殺し、神殿娼婦と交わる、そう言う事を
イエシュアを信じた後の異邦人達がやっていたのだから、一般の異邦人イコール汚れた人達!とユダヤ人は本当にそう考えても無理ないのです。今もそう考えて異邦人と交わったり一緒に食事などしないユダヤ人達もいるのです。
そして、文字に仕えるものではなく、霊に仕えるなどと書いて
ある箇所を、文字=モーセの五書ではなく、霊に仕える、だから
聖霊時代は神の教えに仕えて生きる事から自由になった〜キリストの律法などと言って、実は中身は何?意味不明な事をそれらしく言い続けているのです。でも矛盾に気が付きませんか?
神の言葉は完全であり、廃らない、永遠に固く立つ、人は神の
口から出る1つ1つの言葉により生きると神が言ったのに、どうして神の言葉に敵対する教えが出現したと考えているのでしょう?
パウロが生きていた1世紀の時代には、現代と同じ偽教師が語る偽の教えが蔓延していました。それらの人は、”証書” ”資格”
”経歴” ”肩書き”などを振りかざし、どれほど自分達は権威のある教えをしているかと言う事を人に伝えて教えていましたが、
その中身は神の言葉の真実ではない教え満載でした。
ある部分は聖書でもある部分は違う!今と同じなのです。
それが”文字は殺し”〜人の教え、そして神の教えを間違った理解
間違ったアプローチ=義とされるために生きるなど、それらの事は人を殺し、霊=神の実態=神の教えは人を生かす!と言って
いるのです。
アメリカの神学校で権威ある聖書学者が、モーセの五書は終わりである!と神が語る永遠普遍、完全である神の言葉と言う事とは
真逆な教えを教えて、それが定番の教科書に載っていて神学生に教えられ続けている。
それが”文字”〜人の教えであり、それは人を生かすものではないのです。例え神学校の教科書に載っていたとしても。
文字は殺し、霊=聖霊=神=イエシュア=言葉は人を生かす!
でも変でしょう。神=言葉=聖霊=イエシュアなのに!
そう語っているのです。そして神の言葉を単にするしない掟リストとして読む場合も、人に命を与えるものではなく、
アプローチが間違えているので、逆噴射するのです。
神の言葉に対して取り扱い方を間違えば、命をもたらさない生き方になると言う側面だってあるでしょう。それを偽善者とか律法主義〜神の前にお手柄、、許しを請い、認められ特別な恵を得る。そう言う思考回路ずれているでしょう。神様ATM。
とにかく、古い律法〜モーセの五書、本当は、”神の愛の婚姻契約”神に娶られた人々に与えられた愛の生き方を神が人に伝えているのに、異邦人の世界では、神の婚姻契約に対して古い律法と言い、文字=神の教えは殺し〜などと解説しているのです。
神の言葉は永遠にかたく立ち、蜜より甘く、人を生かす!人の道を照らす光と言いながら、同時に神の言葉は呪いの律法で廃れたのであ〜る!それが解説不可なので、ある部分の教えは呪いで縛りの律法〜自由な律法へ解放された〜などと聖書ではない教えを
語り続けているのです。神の言葉が分解不可、神の言葉が永遠普遍という性質を全く理解していない初歩的な間違いなのです。
しかもキリストの律法て何?と聞いたら、聖霊により生きるとか
古い律法を生きる事をやめる事であるなどと解説するのですが、
律法とはその本当のヘブライ語の言葉の意味は、神の教え。
神の言葉、教えを生きるのをやめる!??
神の言葉=聖霊!神の言葉=トラー=イエシュアと聖書に記されている真理に盲目のまま、違う教えを語っている〜キリストの
律法と言う空想、勝手な思い込みで考えているのです。
どの時代にも内側に住む聖霊に導かれて神の言葉により教えられ、それは神の口から出た1つ1つの言葉〜聖霊〜により生きる!と書いてあるのに、その事実が見えないは、古い箇所の教え=律法=終わり!と言う人の思想に頭脳が占拠されて違う教えに騙されたままでいるから、神の伝える永遠の真実が見えてこないだけなのです。
ガラテヤ 3:22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
聖書=タナックの目的は人を閉じ込めて苦しめるためではありません。この様にネガテイヴな印象で書かれているのは、救いを
得ていない人には、単に罪を知らされても自分の中には解決方法がないまま、その中に閉じ込められたままである。でもその罪の中に止まっている状態が神を求めると言う状況を生みやがて
イエシュアを発見するに至るのです。
22節ですが、言語にはちょっと違う意味合いで書かれているのです。
最近ハマスに捕虜として取られられてしまった外国人含む220名のイスラエルの人達がいます。大分いたぶられ(病院の椅子に縛り付けられ、拷問された後殺害)殺されてしまった人達が
今発見されている所だそうです。
ハマステロリストから安全に身を守るためには、安全な場所に
身柄を拘束されて、かくまわれるのが一番ですよね。
それが<聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。>
と書いてある意味なのです。ちゃんと読めば分かるでしょう?
その目的は?その前に書いてある、<約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために>
この目的のためにたとえトラーを知らない人でも、神の教えを聞いて神の教えの中に生きれば、罪が何か分かる、それらを避けて生きる安全な場所にかくまわれる〜と書いてあるのです。
でもこの箇所を誤解し、否定的に読み、モーセの五書=律法=悪い!人を閉じ込める〜だから神の言葉を生きないと言う自由の律法になったのだ〜本当に早合点な読み方をしているのです。
神の言葉を捨てる〜即ち安全帯、安全な囲いを自ら破壊する愚かな行為であることに、神の言葉〜聖書から気がついてないのです。神の言葉を捨てるから、気が付けない。堂々巡りです。
続く