正しい理解から逸れて誤解するパウロの書簡  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神が与えた契約の意味、内容を理解すると、

神が伝えている永遠の事実が見えてきます。

アヴラハムの肉の子孫〜種から出た人、又は遺伝的生まれは

アヴラハムからではない異邦人であっても、同様に同じ契約が

与えられているのです。1 アヴラハムの契約これを受けた人が 2モーセの契約を与えられているのです。

 

アヴラハムは世界の民族の父となると神が言われたからです。

イスラエルだけが、神の子らではない。イスラエルは契約を受け取る代表として選ばれただけです。

 

アヴラハムも元々異邦人です。しかも親が異教の神々を拝む人。アヴラハムが選び出されるまでは、ユダヤ人とかイスラエルは無い。ノアも異邦人。

 

アヴラハムの子孫、イサク、ヤコブ=イスラエルの息子ユダから出る”メシア”イエシュアに信仰により加えられて連なる人達は、皆イスラエルの大家族の一員なのです。私達はローマの神の教えではなく、ヘブライ=イエシュア=ユダ=イスラエルの神の教え=契約を生きる様に召されている!この事実をはっきり聖書の記述から認識する必要があるのです。

 

どうしてアヴラハムが(イスラエルが)選ばれたのかその理由は

人が知らなくても良いから聖書には書いてない。でもイスラエルの神の大家族の代表として選ばれた、その神の目的は、全世界の人に、同じ神の祝福を与えるため!同じ信仰義認、同じ契約に

加えられ、神の子ら、天の国籍を得て、同じ相続を受けて、神との関係の中に戻る!そのためにイスラエルが選ばれたと書いてあります。

もちろん、今の地上で異邦人が”私もイスラエルです”と言って

自由にイスラエルに移民は出来ませんが、同じ天の相続を受け取る同じ家族とされた事実は神の前に変わりません。来たる世界では違うでしょう。イエシュアが世界をエルサレムから統治するからです。

そして、アヴラハムの契約と同じく、モーセの契約もイスラエルが代表として受け取ったのです。出エジプト=奴隷から脱出させられて、初めて”イスラエル”と言う国家民族が誕生したのです。

 

それまでは神は個人個人に現れて、神の教え=トラーを伝えそれを聞いた人達が周りに伝えたのです。

でもシナイ山では、”文字として”正式な婚姻契約書として、神との関係に入った永遠の証拠としてイスラエルと言う国民が代表で受け取ったそれがモーセの契約なのです。

この契約は、信仰により贖われて義とされ新しく創造された人達にもれなく与えられている契約です。神との関係にある事実、

土台、証拠はこのモーセの契約の上に成り立っていると言う永遠の事実を考えれば見えて来ます。

 

クリスチャンの世界で誤解されているのは、アヴラハムの契約を受け取った後の、次の段階に入る事なのです。詰まり、”救われた”=新しく生まれた=信仰によるだけ!これがアヴラハムの契約で表されているものです。

でも神に娶られた人達=最高の宝とされた人は、神の提示する

生き方をしてください!とはっきり神が人に伝えているのです。

これがモーセの契約=婚姻契約であり、今迄と違い文字で記されたものが証拠として与えられているのです。

神の教えを救われた人は昇天以降生きなくて良いなどとクリスチャンは言ってこの契約の意味を理解しないままを誤解しているのです!!

行いにより義とされない〜これはアヴラハムの契約の性質であるのにその事実をも考えていません!!!

神の贖い、救いを受けるために、努力しても無駄!受け取るだけ!と神が教えているのです。

そして、アヴラハムとモーセの契約の違いがあるのに、それを

混同しているのです。

いやその前に神に贖われ、神との関係に入った、その人は神の

契約の実態=モーセの契約=婚姻契約の実態を生きる!と言う

この2つの契約を通して成立していると言う事も理解しないと

ならないからです。

 

アヴラハムの契約=信仰義認であり、無償の譲渡契約です。

そして新しくされた事実を受け取った神の家族とされた人達には、次に条件付きの契約=婚姻契約=シナイ山でのモーセの契約が与えられている!!!!

この2つの契約の内容、意味、性質を混同しているのです!!!

信仰により義とされる=人の努力や行い、神の教えを生きる事では獲得できない!!!

これと、婚姻関係に入る決意をした人〜新しく創造された事実

神の民となった人は、神が提示する神の家の生き方を生きて!!!この違いがはっきり見えれば、どれほど混同した教えを

聞いて勘違いしているのか、気が付いて行きます。

 

神の提示するモーセの契約=婚姻契約書は、条件付きです!

神の言葉に違反して生きるなら、刈り取る結末がありますよ!と

神が伝えているのです。

神の教え=命を選び生きる人は、神との関係、祝福を享受出来ます!好き勝手に、何しても今は自由?そんな訳ないのです。

聖霊により教えられるから?聖霊に教えらている事を知る手掛かり、基準は聖霊により書かれた神の言葉=トラーです。

そうですよね。神の言葉に反して生きるとは、本来の人間の生き方に反しているから自分に周りに害、破壊を及ぼすからです。

それに気がつかせるために、刈り取る結末と言う訓練が付きまとうのです。契約の中にあるから。

訓練があるのは、子が孤児ではなく父のものであるから訓練すると書いてあるでしょう。ヘブル12:4−11

他人の子供をしつけませんよね。神の子らが神の教えに反する

生き方をする=それは汚れ、破壊、サタンに付け狙われて、崩壊してしまう要素があるから、ダメである!と神が言っている事に

気が付かないとならないのです。

 

何しても良い、信仰だけで、行動はいらない! 

そんな事神は1度も言ってなどいません。人は神の言葉を生きないと言うならば、それは、神の伝えていることに反する生き方をしている!と言うことに気が付けば良いのです。

メシアを信じたら、トラー=イエシュア=父の教え=モーセの

五書に記された教えは無効です!なんて神が言う訳ないのです。その反対をずっと聖書の中で語っているでしょう。ちゃんと

預言書やイスラエルの歴史、そして福音書以降にもイエシュアが

トラーを生きた!それを生きよ!と教えているのに、

クリスチャンの世界では、イエシュアがトラーを生きたのでもう

私達は神の教えを生きる必要がなくなりました、などと聖書に

1度も記されてなどいない人が考えついた教えを唱えているのです。

神の言葉を生きようとも生きないとも、人は自分で考えて日々、今の時も何かを行動しているでしょう。神が伝えている事を無視して生きるのは恵の生き方でもないし、聖霊が教える生き方などではありません。聖霊=神の言葉=トラーだからです。聖霊は神の性質に反した事を教えたり、人を神の言葉とは異なる、神の言葉に敵対する誤りの教えに導いたりしません。

それは、人が神の言う事に対して無頓着、知らないまま勝手に

生きてる、誰かの教えの、自分よがりの礼拝や自分よがりの生き方!と神は伝えています。”わたしが伝えた通り!”とずっと神は

言われています。

神の教えを生きる理由は、それは神がデザインし創造された神の

似姿通りの、本来の人=イエシュアが示された通りの生き方を

神が人に伝えている、それがトラーなのです。

 

これをクリスチャンは誤解して、古い教えは厳しい律法〜などと

言い続けているでしょう。神さまからのラブレターと言うのは

福音書以降だけ?でもそこに書かれているのはモーセの五書の内容が短く記されているだけなのですよ。そしてそこには、神の教えに反して生きよ!などと書いてありません。

その事実に気が付いていないのです。本当に。

 

大元の完全版で全部書かれているラブレター=婚姻契約書、

その完全版はモーセの五書!なのに、それに気が付いてない。

そして、神との関係=婚姻関係にある神が与えた”印”はシャバットである、神と人との間に永遠に存在し祝われる日=主の日=聖日と神が教えているのに、異邦人は2世紀以降ローマ帝国地場宗教、大衆に馴染みのある受け入れやすい日、昇天を記念して日曜日にシャバットが変更したなどとしてしまったのです。ヤラベアムの罪と書いてあるそれと同じ、神の記念日勝手に変更。

第七日目のシャバットは神から与えられた永遠の”婚姻指輪” 

目に見える印!

イスラエルの神との関係に入った人に与えられる特別な印!

だから、異邦人はイスラエルの神の独特な記念日を祝ったり、

独特な聖別された生き方をしないのです。

 

しかも昇天した時はグレゴリオ暦の日曜日ではないかもしれないのです。不明。そして昇天の日時と、神の記念日は関係がないのです!と言うことも聖書から知らなくてはならないのです。

 

古い教え=律法=人が生きられないもの=昇天以降はそこから

解放され、キリストの律法、自由の律法=恵の聖霊時代とクリスチャンは言います。

それは、キリストの十字架の死、復活で可能になり、罪の許しが

与えられ、神の言葉=律法を生きる事からも解放されたとクリスチャンは信じていると思います。

これが大きな誤解なのです。神は神の言葉を生きる事から人を解放したなんて言うとてもおかしな思想は伝えていません。

なぜなら、神の言葉は人を守る”保護ガード” ”悪魔から身も安全に守る城壁”だからです。それを自ら壊すとは愚かな行為です。

 

アヴラハムも神から口頭でイエシュアの贖いの血、救い、許し、そして新しくされた人を受け取った事実が記されています。

そしてアヴラハムはイエシュアを知っていた!イエシュアが未来に地上に来られて永遠からあるこの新しくされている事実、そして神の家族がイエシュアを知り住まう日を見て喜んだとイエシュアが言われました。

2000年前に初めて福音が伝えられて、稼働した贖い救い許しではないからです。永遠から同じ福音、同じ救い=イエシュア。

 

彼らは神のトラーを神から教えられて知っていた敗退した腐った

世界に一人神の教えを生きてたノアの記録でも分かる通りです。

ノアの義とされその実態を生きていたのは、同じイエシュアによる救いを受けていたからです。

神は太古から預言者達ノアやアヴラハム、その他諸々の人達に口頭で直接彼らに同じ神の教えを伝えていた!直接対話し教えている記録が書いてあるのです。新しい教え、新しい救いや贖い、

罪からの解放が2000年前の昇天以降初めて可能になったと

考えてるから聖書の永遠普遍の事実が見えてないだけなのです。

 

しかも聖書の最初を学ばないならば、至る所に子羊の血の贖い、

復活のメシアのことが記されていても、それに全く気が付く機会もないし、ヘブライ語の言葉自体の中にも様々に記されて見えるのです。

だから神の言葉を捨てたら、何を神に教えられているのか知る事が出来ない、よって人の教え=宗教の教えが出てくると言う悪循環が存在しているのです。学校の教科書持っていても、その本を開いて学ばなければ、その中身に何が書かれているのか分からないのと同じです。

聖書だけに戻ろう!と言うならば、本当にそうするべきです。

中途半端な戻り方、16世紀の様に、中途半端ではない、全部

丸ごと神が言う事を知ろう!誰も主を知ろうと言わないとある

みたいに。

聖書に戻ろう!聖書は完全なる神の言葉!と言いながら、同時に

矛盾した置換神学、デイスペンセーション神学と言う聖書ではない異邦人思想を取り込み続けて、その思想を土台に聖書=神の言葉の方を曲げて考えているので、矛盾に気がつかないま聖書に

反する事を語り続けてしまうのです。人の教えを混ぜたら神が

伝える真実が覆い隠されて見えなくなるからです。

目の前に書いてあってもその通りに読み取れない!

だから永遠〜一時的、終了、7を1と読んでいるのです。

 

贖われて救われました!(アヴラハムの契約) 救われた人は

自由の律法、キリストの律法を生きて、以前の古い契約=モーセの契約は終了して、今からは聖霊に導かれる自由の律法時代

恵の時代になりましたとクリスチャンは教えられているのです。

 

はっきり理解しないとならないのは、福音書〜黙示録は100%

モーセの五書(モーセの五書を解説する預言書、詩篇=諸書)

の短い短い後書きの付属の解説でしかないのです。モーセの五書を塗り替える、又はごっそり削除、又は一部=儀式的な面は全部自由もしくは排除、そんな事は聖書のどこにも書いてません。

しかも衣食住も儀式的な事を通しても神は神の伝える”聖別”の

実態の生き方を神の子らに教えているのです。

異邦人含め全ての人に。

キリストの死復活で、律法の支配から外れました!などと言う

聖書解説者の教えは聖書に記されている事ではないからです。

 

 

続く