前回の続きですが、人の教えはこう言う事をやってしまっているのです。信仰により義とされた=アヴラハムの無償の譲渡契約=花嫁にされた事実は無償で信仰により受け取りました!
でも婚姻関係に入った後、花婿=イスラエルの神が提示する生き方は拒否します〜勝手に自由にやります〜何故なら自由の律法が与えられたから〜恵時代だから〜と神が言ったからです?と言うとんでもなく神の教えとは相反する、非聖書的教えを考えているのです。自由の律法、キリストの律法、恵の時代の律法〜と言う
その中身は実は全部同じ神の言葉=モーセの契約=婚姻契約=
父の教え=神の言葉、教え、インストラクション!と言う事に
気が付かないまま、2000年以降は、キリストの律法、新しい律法、自由の律法とそれらしく聞こえてもその中身は、神の提示したシナイ山の婚姻契約なのです。!
しかも神は人に神の言葉を自由自在に縛られる事なくその人の考えで削除付け足しして生きて良いなどと1度も言わない、それどころか、人が神の教えに勝手に付け足す削除することを絶対的に
禁じている!!!その事実に気がついていないのだと思います。
こう言うことをしているのです。
キリストの律法、新約聖書、自由の律法と書かれた本の前と後ろの表紙を聖書のカバーとして付けても、実はその中身に書かれていることは、クリスチャンが言う、古い律法〜モーセの五書、
旧約聖書なのです。なぜなら、モーセの五書=婚姻契約書以外の
聖書は無い!聖書の全てはモーセの五書を語っているから!
旧約聖書は律法?それでは箴言や詩篇も同様に古い廃れた律法と
なる事に気が付いていますか?なぜなら詩篇や箴言はトラーに記された知恵を生きる事を書いているからです。でも実際クリスチャンは詩篇や箴言は古い律法だ〜などとそんな事考えないでしょう。
しかもモーセの五書は終わり!と言いながら、十一献金などと
言う教えだけを取り出したりして利用しているでしょう。
とても矛盾した思考回路ではありませんか?簡単に言うと異邦人には馴染みのない、受け入れたくない、自分に都合の悪い教え
だけを、”律法”古い、廃れたと勝手に言ってるだけなのです。
又は西洋宗教の教えや、伝統のしきたり、記念日と違うことが
律法だなどと考えているだけです。それは聖書ではないのに。
その様な解説が矛盾している!と聖書に戻ればはっきり気が付く時が来ます。正しい情報の点と点だけを繋げていけば
神が伝える永遠普遍の言葉の方が真実である事がはっきり見えて来る日が来ます。問題は聖書に戻り聖書に書かれている通りを
正直に誠実に知ろうとしないで、キリストの律法〜新しい教え、呪いの古い律法〜旧約聖書、古い契約などと言う人が作った教えを信じて、人の思想に語らせているから、聖書に記された神の
言葉の永遠普遍の事実が見えないだけなのです。目に覆いをかけられて、いや魔法がかけられて聖書に書いてあるのに書いてある意味が頭脳には響いて来ないのです。
だから7が1、永遠が一時的で終了!と聖書に書いてある事とは違う事を信じて言うのでしょう?
聖霊は神の言葉のどの箇所にも矛盾した事を決して言わない、
人に神の言葉を捨てろとか削除しろとか、変化した終了、無用などと言う事や、神の教え=トラーに反した間違った教えに導かないからです。
なぜなら聖霊=言葉=イエシュア=神だからです。
結婚しました〜その後の生き方まで夫には指図されたくありません=それらの神の言葉は、キリストが来るまでの一時的な律法で悪い古い縛りの教えであり、私の夫は結婚した後は自由に生きて良いよ!と言う新しい律法を与えてくれたらです!とクリスチャンは言いますが、これは宗教教理の定番の教えであっても、
聖書の教えではないのです。
さて、契約は先ず最初にアヴラハムの契約があります。これ無しに、神の元に戻された根拠は無いのです。異邦人も”信仰により義”とされた事実は、このアヴラハムの契約があるから!
と言う事実を先ず理解する必要があります。
それでなければ、信仰により、神の贖いの業〜イエシュアの業〜永遠の中に完了済みの業を受け取る根拠、証拠がありません。
神がそう約束し契約を一方的に与えて下さったから信仰義認が
あるのです。創世記15:6 ローマ4:1ー3
そして信仰により”義”とされた人達にだけ、モーセの契約が与えられている!と言う事実を聖書から理解する必要があるのです。
だから、古代はモーセの契約を生きて義とされていたと言う異邦人教理は聖書ではないのです。その様な教えは最初から聖書が
語る事実とは全く異なる異邦人の教えなのです。
しかもモーセの契約は、人が神の教えの行いをして義とされるとか、神に認められるために与えられたものではないからです。
聖書を考える前提からしてズレているのです。
このモーセの契約=婚姻契約=神の教えの中身を、異邦人の世界では”無効になった!”と言っているのですが、それを信じてい
生きる行為、意味とは、異邦人クリスチャンは神との関係〜婚姻契約の中にある関係、証拠、神が人に伝えている生き方を破棄します、違反します、無視します!と言っている事に気が付かないまま、だたそう言って実行しているだけなのです。
では、なぜ神の言葉=教えが与えられているのか?と言う根本的な事を聖書から把握し、理解する必要があります。以下ゆっくりゆっくり考え続けて行けば、事実がはっきり見えて来ます。
トラー=神の教えがどうして与えられたのか、そのトラーの目的の側面がいくつかあるのです。前回、ガラテヤ3章の途中から
書いたのですが、1つは、神を知らない人達にも、神に出会うまでに、1)トラーを生きていれば安全に守られる=神の教えを
分からなくても生きていたら罪や破壊から守られると言う側面があるのです。2)そしてトラーの目的は、人が神に出会う事に導く役割をもしていると言うその側面も話しています。
トラーの目的の他の側面が更にありますが、先ずこの2つを
パウロがガラテヤ3章で説明しているのです。
ガラテヤ3:22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を
罪の下に閉じ込めたのである。
3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちはトラーの下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた
23節で、神の教え=トラーはキリストに出会う前は、神の教えの下で安全に隔離され守られるためのもの!と書いてあるのです。
トラーの目的の1つは、罪の自覚が生まれるためには、罪とは
何か?を神は人にはっきり知らせて、本来の状態とはズレた生き方は何であるのかを理解させる必要があると説明しています。
だから神はトラーに記された神が伝える”ズレ” ”罪” ”的外れ”な
生き方、思想、思考回路考えが、何かを伝えた!とあります。
そして罪を知ったら、これは自分の生き方ではない!とそこに
はっきり気が付いたら、人はその状態から抜け出したいと神を
求める様になるでしょう。
私個人も、人の中にはズレた罪〜汚いものと、同時に本来の神の似姿に造られているきよい性質を生きたいと言う両方が混在していて、その様な矛盾した状態から抜け出したい!と言う事から、神を求め始める本格的な探求の旅が始まったので、このパウロの言葉が良く理解出来ます。そして人の中にはそれを解決する方法が無いと気が付いた時絶望を感じました。この世には100%
純粋で清く完全な愛なんて無いんだ〜と思ってしまったからです。でもその解決がこのガラテヤ3:22に書かれている事でした。3年以上のその様な手探りの探求の後に、この言葉を読んで、はっきりと神と出会って変えられた体験をした事を今でも
忘れません。
ヨハネ14:6イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、
道=真理=命=イエシュアと書かれている意味がはっきり見えて
道=ズレた場所に居た、エデン=喜び=神の中から飛び出して、
真理=神に造られた通りの性質=それが神の言葉で表されている
その真理からズレて、命=本来の姿を失われて生きていた!と
言う事にはっきりと気が付いたのです。だから神の言葉は生きていて人の内側の隅々までをも探り、イエシュア=道=真理=命である事に気が付かせる、なぜなら、言葉=聖霊だからです。
聖霊に教えられるとは、神の言葉の真理とぴったり1枚岩なのです。聖霊が、神の言葉をどの箇所でも否定したり、終了させたり反する事を教えない!と言う永遠の真理を知らないなら、本当に人が神の言葉を何へんげの人間の教えに変身させる事が出来てしまうのです。思い出して!エデンの園の神に敵対するものが、
神の言葉を曲げて、歪めて、否定した事を人に伝えている!
最初からずっと今もそれが続いているだけなのです。なぜ?神の言葉を破壊したら人を本来の生き方から反らせて破壊出来るからです。
ヘブル4:12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣
よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し
通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
<しかも、全ては神の言葉により現れ出た、人間含め、全ては
神の言葉で造られ出来ているのです。>
11:3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
だから、トラーに記された罪の下に閉じ込められたのは、私たちにやがて神を求めてメシアを受け取る信仰を得させるため!と
はっきりトラーの目的の1つが記されています。
閉じ込められるとありますが、ネガテブな意味ではなく、安全にかくまわれる〜幽閉される事です。ハマスから守られるために、
安全な場所に身柄を拘束される事は良い事だからです。
それはメシアによる約束〜信仰により義とされる約束がやがて
与えられるため!と書いてあります。
もしも本当に人が神の言葉を理解しないままでも生きていたら、
その人は安全に守られるでしょう。LGBTQを取り入れて肉体的にも精神的にも霊的にも命を生み出さない、周りに害と悪影響を与える生き方をしたり、入れ墨をして自分の体や神の宮である事を神の前に汚したり、人が食すべきではない有毒な食べ物で聖別を汚すことから守られ、病原菌や毒から体も同時に守られる。
不適切な間柄の人達との婚姻関係を結んだり、不適切な関係から守られたり、様々なズレにより人を傷つけたり、自分も傷つかずに済みます。神の言葉を知り、鎧兜をしっかりつけて、世間の
圧力に同調しなければ、安全に守られる。
又は人間関係の中でも神の知恵を生きたらそれはシャロームを
生み出す事となるでしょう。
トラーには罪の詳細の全部が記されています。福音書以降には
神が伝えるズレが何であるか、人の生き方の全領域は網羅されて記されていないし、聖別の定義、罪の定義もほんの一部しか記されていません。最初の部分に全部完全版として、神の前の何が罪か、何が聖別された生き方か、何が神が忌み嫌うと伝えているのか、人が個人として夫婦、家族、共同体、国民として生きるのか、その完全版が記されているので、福音書以降にはその復唱はないタナックの短い短い解説でしかない、だから福音書〜黙示録は聖書全体量のたった25%しか占めていないのです。最初の部分の75%特にモーセの五書に記された事、肉体を取って実際に
タナックに記されているメシアの短い後書きの役割だからです。
聖書の全てのどの箇所も、最初のモーセの五書を土台、中心、
モーセの五書=トラーを指して解説している!と言う事実を知る
必要があります。
罪の中に抜け出せないままいる事を知ったら、そこから抜け出す方法は、メシアによる贖いの血による義、許ししか無いからです。誰でももし神の言葉をそのまま読めば何が罪なのか分かるからです。
少し遡り、このガラテヤ3章にはクリスチャンの世界では多大に
誤解された解説がされているので1つ1つ検証する必要があります。先ず、パウロが何を論点としてこの書簡を記しているのかを
はっきり把握し読み取る必要があるのです。