ガラテヤ3章 パウロが話している論点を正しく把握する 偽教師に対する警告 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

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全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
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からの発見記録

ガラテヤ3章22、23節は19節と全部同じ内容、意味を

パウロが語っています。でも、この節もクリスチャンの間では

多大に誤解して解説されているのです。

 

ガラテヤ3:19 それでは、トラーはなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

 

この19節のクリスチャンの世界で流通している解説は、

”トラーはキリストが来るまでのものである。だからキリストが

来られたら、これは無用、適切では無い、重要ではなくなった、関係がなくなった。”と言うのを聞くのが一般的です。

ここは、同じく、トラーにより人の罪を指摘されるのは、結局

人はズレた生き方である事を教えられるために必要だからである事をパウロが言っているだけです。

そしてトラーが罪を指摘し、神の元=イエシュアに出会う事に

導く目的があるので、イエシュアに出会ったら神へ導くと言う

その部分のトラーの役割、目的は終わると言っているのです。

ペデゴーゴ〜当時のガラテヤの世界で知られた裕福な家には、

その様な雇い人である子供のお世話係の家庭教師が居て、本物の教師=イエシュア=イスラエルの神の元に連れて行く、導く手引きする役割=トラー、トラーの役割のその部分の側面はそこで終わると言っているだけなのです。

よくよく注意してその書簡の全体をきちんと何度も何度も読み、その文脈から内容を把握して、パウロの語る論点をはっきり取られて考えないとなりません!

ガラテヤで問題になっていたのは、”偽教師の教え!” なのです。

パウロの論点の中心は、ニセ教師の偽の教え=聖書とは異なる

教えに事を指摘して諭しているのです。

 

でもクリスチャンは、神の教え=トラー=モーセの五書を生きる様に教えられる事は悪い事!ニセ教師の教えなどと考えているのです。それは聖書で語られている事と全く永遠の方向に向けて

限りなく的がズレている思想です!!!

 

そんなことガラテヤにもローマにもパウロの書簡のどこにも聖書のどこにも書かれていません!それではイエシュアが言った父の教え=人は神の口から出る1つ1つの言葉=シナイ山のモーセの婚姻契約=トラーに記された神の言葉を生きる!と言うイエシュアの言葉と矛盾している事に気がつかないとならないのです。

矛盾だらけでしょう。その様な教えは。なんでイエシュアが教えている事に敵対する教えが、聖書=聖霊=神から出たものであるなどと考えているのか?父の教え=モーセの五書なのです。

父の教え以外に自分で勝手な教えなどしないとイエシュアが言われたでしょう。

イエシュアが解説したモーセの五書に当時のユダヤ人達〜伝統の教え=人が作った律法の行いとは異なる、純粋な神の教え=

トラー=モーセの五書の解説をしたから、1世紀の当時のユダヤ人の定番で語られていた伝統の人の教えとは違うから、イエシュアに反発して意義申し立てていたのです。メシア〜神=タナックに記されたメシアだとも気が付かないまま。

今もそうですが、人の教えの世界、ユダヤ人の教えの世界には

複雑なあれこれの規定、規則が存在していたし、今もしています。それは元は純粋に神の言葉に忠実であろう!とするその動機から始まっているのだけれど、本質からズレてしまう教えを

編み出しているのです。これは何もユダヤ人だけではなく、

クリスチャンの世界にも実は多く潜んでいるものなのです。

 

自分たちの教えとは馴染みのない神の言葉の解説をイエシュアが

したから、議論が起きたのです。例えば、”手洗いの儀式”〜弟子達が食事の前に、手洗いの儀式をしない!と言う事でユダヤ人達が咎めていたでしょう。それは彼らが編み出した”手洗いの儀式”

なるものをイエシュアの弟子達がしなかっただけであり、

そんな人が編み出した手洗いの儀式など”聖書”=トラー〜、

モーセの五書には書いてないものなのです。

こう言う事ありますよね。自分達のグループが編み出した教え

又は伝統で教えられている教えの通りにしない人〜聖書に違反してる!などと考える事は多々あるものですが、それは単なる人の教えであると言う事なのです。そして弟子達がシャバットに畑に入り落ち穂を拾って食べた行為を見て、”シャバット”を破っている〜などと言った人達に対して、イエシュアが反論していますよね。1世紀当時も南と北とでは違うしきたりがあり、南では

畑などに入って落ち穂を拾わないと言う決まりがあっても、

ガリラヤ湖周辺に住んでいる人は普通に畑に入り落ち穂をシャバットでも拾って食べる事をしたのです。

モーセの五書では、労働はシャバットにはしないと言う事を神は

教えていますが、人が食べることなど禁じていない、動物が溝に

落ちていたら助ける。シャバットでも8日目の割礼の日に当たれば、割礼を授けたのです。だから、シャバットの本質を見失い

人が作ったルールがシャバットの中心になり、人の子がシャバットの中心である事を忘れた思考回路の人にイエシュアが戒めて

いたのです。

とにもかくにも、1世紀の当時も、モーセの五書をどの様に

解釈するかの議論はあっても、現代の様にクリスチャンが神の

言葉は終了、無効、無用、ユダヤ人だけやれば良いなどと言う

その様な教えの議論はゼロだったのです。なぜなら、誰でも当時のユダヤ人であれば、神の言葉を否定する教えは神から出た教えではないと、聖書から知っていたからです。そんな考えをする人もいなかった!神の教えが終わりだとか、無効だと言う様な議論は聖書には存在しない議論であり、あり得ない教えである!と言う事をはっきり聖書から知らないとならないのです。

つまり問題は、人が編み出した思想や教理、宗教の教えが、神の

言葉の真実を覆い隠して、神の言葉を知る事を妨害している!!!これが問題の本当の根なのです。

聖書を語る土台が最初からズレているからです。ズレた土台=

神の教えは2000年以降変更、削除、終わりありきと言う人の思想を神の言葉としてそれを土台に話し続け考え続けるから、神の伝える真実からズレてしまうのです。

トラー=神の教えが終了したり、神の元に来たらその後神の教えの中身が変わるのではない!神に出会うまでの手引き役になると言うその役割が終わる!とパウロは話しているだけなのです。

人は神に罪の詳細を教えられなければ、神の前に何が罪で、何がズレた的外れなのか行為、生き方なのかの全ては分からないのです。そして、その罪に気が付いた人は、罪の解決を求めて神のもとに導かれて行くと言っているのが、19節、22節です。

道徳的な面においては、基本的な事は腹に書かれたトラーで普通の人なら理解していますよね。

 

盗むな、殺すな、偽証するな、などなどはやると即座に罪悪感を

感じるものです。麻痺している人〜ハマスの様な人々は、人を

破壊することがアラの神のみ旨などと教えられて思考回路が侵されている場合には別ですが。

でもその様な事ではない他の事、偶像を拝むとか、他の神々の

教えに交わる、LGBTQ性別選択を人は自分で出来ない、それらははっきりとトラーに禁じられた生き方、罪だ!と書かれています。聖別を汚す行動とは何か?人は何を食べて何を食べない様に造られているのか?神の聖日を破ることは聖別を汚す罪である

神に禁じられた食べ物を食べることも同様に聖別を汚す忌み嫌われる行為、罪=ズレた生き方であると使徒15章にも書かれています。こう言う事などは、神の教えを知らなければ理解出来ない内容なのです。

人に生きる全部の領域に於いて神はインストラクション=教えを

伝えているのです。それを勝手に捨て去れば、神が伝える罪が

何かも分からず、気がつかないまま神の前にずれた生き方、聖別を汚す生き方、神の宮、聖霊が宿る宮である自分を汚しても

そのズレ=罪が見えてこないのです。

 

でも最近正直な態度で、聖書に書いてある事を検証する学者達は

この様な解説に疑問を投げかけているのです。

”ガラテヤ” クレッグ キーナー<ケンブリッジ大学出版 

2018年 148ページ>

"パウロのトラー(律法)に関する神学は、たった1つの(論議を醸し出す)箇所からは適切に推定する事は出来ない。

 

パウロがトラー(モーセの五書)に関して、他のパウロの書簡の中でどう語っているのか、そしてガラテヤでパウロが話している事の論点、内容、文脈から正しく検証しなくてはならないのです。

先ずは、パウロのモーセの五書=トラーに関しての立場は、

使徒21章にある通り、100%モーセの五書を支持し、生きています!モーセの五書=トラーに反した教えも他者へは伝えてなどいませんし、パウロ自身もトラーに反した考えや生き方は

していません!と言う立場を証明するために、パウロ自身が神殿での、ナジル人の請願を行った事を通して果たしているのです。

パウロ自身が100%モーセの五書を生きている、支持している

否定など一度もしていません!と証明しているのに、他の誰も

パウロの代弁〜トラーは終わりとパウロが言ってますなどと言う事は出来ないのです。

さて、パウロは他の書簡、箇所でトラーに関して何と言っていますか?

ローマ7:12 このようなわけで、トラーそのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

<パウロははっきりトラー、神の教えは聖であり、正しく善と
言っているのに、どうして同時にトラーは呪いの廃れた律法などとなり得るのか?その矛盾に気が付いて下さい。>
 
ローマ7:14 わたしたちは、トラーは霊的なものであると知っている。
<トラーが霊的=聖霊である事、聖霊によって書かれたのに、
どうして永遠普遍の神=言葉=聖霊が途中で廃れるのでしょうか?>
 
ローマ7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。トラーは罪なのか。断じてそうではない。しかし、トラーによらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もしトラーが「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
<トラーは悪ではない!と言っているのに、どうして神の言葉に対して敵対心を持たされる様な教えをして、それら古い箇所は終わり!キリストの律法、自由の恵みの律法に変わったのだ〜などと言うのですか?それはキリストの律法はモーセの五書=トラーである!と言う事実に気が付かない人が言う教えです。キリストにより贖われて新しくされた人は、トラーが示す罪の支配の下に縛られずに、自由にメシアの実態を生きる事ができる〜これが
本物の、メシア、自由、恵みのトラー〜律法=中身は神の教え=モーセの五書に記された神の性質に造られた通りの本来の人の生き方=イエシュアが生きて示した生き方!と聖書には書いてあるのです。
そしてあるクリスチャンは、トラーが無くなれば、罪が無くなると言っていますが、それ変な思考回路ですよね!無法地帯の話です。狂ったハマスを招く思想であり行為。違反がなくなるためにルールを無くそう!?世の中の罪をなくすために全ての法律、
ルール、規定を取り除きましょう!と言うのですか?変すぎるでしょう?狂ってますよねその思考回路。その場合一体人の生きる世界はどうなってしまうのでしょう?それこそガザ地区のハマスに乗っ取られたガザ市民の様に生活を破壊されてしまいます。>
 
ローマ6:1 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

6:2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、

どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

 

<なんでも許されるから、罪を犯そう?ずれた思考回路です。

それならば、人の住む世界の全ての規定を無くせば良い!犯罪と認定されることもない。破茶滅茶な教えと気がつきませんか?

神のトラー=言葉の方が悪者になり、人の中に潜む罪の種が問題であるのに、その事実を人が考える事を忘れされる、神の言葉に

忠実になる事から背けさせる恐ろしい教えです。

 

 

 

続く