神の言葉 パウロを誤解する解説を一掃して神の言葉に語らせる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ2:21 わたしは、神の恵みを無にはしない。

もし、義がトラーによって得られるとすれば、キリストの死は

むだであったことになる。

 

ここに書かれている通り、トラー=モーセの契約は、人が義と

されるために、行い、やるために与えられたのではない!

その様な目的のために神の教えが与えられたのではない!

とはっきりパウロも解説し明言しているのです。

 

そして神の教え=トラー=父の教え=婚姻契約=モーセの五書を生きる事は恵みを無駄にする生き方であると、21節を誤解して読んで、恵みを無駄にする〜神の教えを生きる事!などと

クリスチャンは言いますが、それは神が伝えている教えとは

全く真逆な的外れな発言なのです。

 

何を言っているのかよくよく分析して考えないとなりません。

神が人に伝えているのは、1 義とされるため、救いを得るため

許しを請うために、神の言葉を生きて、その行動で神にアピールして神に懇願するのはズレている!と言う事を言っているのです。神の言葉をやってもそれで義=新しく創造された事実を得る事は出来ない!と言っているのです。

クリスチャンが”信じるだけでいいんですよ〜”と言っているのは、義とされた事実は信仰により受け取る以外ない!それを

話している事をはっきりと自覚し、信じた後は好き勝手に

信じるだけで、勝手に生きて良いんですよ〜などと神は教えていない、人は神の口から出る一つ1つの言葉、それはモーセの五書

に記された教え、シナイ山の婚姻契約の中身を生きなさい!と

神が教えている事をはっきり区別して理解しないとならないのです。

そして救われたら、神の教えを生きるのは恵みを無駄にする生き方だと言う教えはよくよく考えたら矛盾した真逆な発言だから、聖書にだけ基づき考え続けたら変だと気が付きます。

なぜなら、贖い出された人達に神は、神の教え=トラーを生きよ!とずっと人に教え続けているからです。聖書に記されている神の教えとは100%クリスチャンが律法と呼び続けている=

モーセの五書=トラー=婚姻契約の中に記されている人間の生き方しか聖書には書いてないのです。

モーセの五書以外の別の神の教えが書かれた新しい自由の契約=恵の律法=キリストの律法なんぞは人には与えられていないからです。

では、救われたら神の教えを破り、違反して生きよ!と神が教えているとでも言うのでしょうか?キリストの律法=自由の律法=

恵みの律法?その中身、その神の教えは一体何なのか説明できますか?どこに書かれている教えのことですか?神は神の言葉に

付け足し、差し引きするなかれと教えて、クリスチャンの言う様に、古い箇所の教えは終わり、又はある箇所を削除無効などと

教えることなど決してありません。

漠然と今の恵時代は、聖霊に導かれることがキリストの律法だ〜などと言う解説も全く意味不明なのです。

聖霊=言葉=トラー=イエシュアであり、一枚岩だからです。

神が神の言葉、イエシュアが生きて教えた父の教え=トラーに

敵対することを人に教える事など決してないからです。

そんなモーセの五書とは別の聖書はどこに書かれてどこに存在しているのでしょうか?

新しい契約書=新約聖書〜福音書〜黙示録?だったらそれは

100%モーセの五書の短い抜粋が記されているものであり、

その中には人の生き方の全貌などは書かれてない箇所なのです。その箇所はタナック=モーセの五書、預言書、諸書の短い解説であり後書きだからです。

結局、異邦人の世界で語られているのは、”異邦人に馴染みのない教え、聞き慣れない生き慣れない教え、自分に取って都合の

悪い教え、自分が受け入れたくない、認めたくない神の教え、

そして西洋宗教の教えやしきたりとは違う教えや記念日の事を

律法だ!終わりだ!”と言っているだけなのです。

神ではなくて、人が勝手に言っているだけ。

それ以外は、自分の納得出来る教え、道徳的な教えだったら

喜んで受け入れると言う事なのでしょう?事実そうなのです。

 

ネズミやゴキブリ、猫や犬は人間の食べ物ではない、神の祭壇にも捧げられる動物ではないと言われたらそうですねとすんなり受け入れられる。でも豚や馬、貝やエビやヘビは汚れた動物=清掃動物であり、人が食したり、神の祭壇にも捧げてはならないと神に言われたら多大に抵抗感じます。

レビ記11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。

わたしは聖なるものである。あなたは自分の身を汚してはならない。”神に言われても、神の言葉なのに抵抗感じるのが普通でしょう。だから、その様な箇所は律法〜廃れた終わりの教え!

今はなんでも自由に食べて身を汚す事も許される様になりました!良かったですね〜恵みの時代に生まれて!なんでも無差別に

考えなく好きに食べられるからね〜などと言うのです。

どうしてですか?それは自分の文化=異教徒文化に深く定着して慣れ親しんだ好みの生き方だから、神の言葉に抵抗感じるのは、実は結局自分の都合、抵抗感が本当の理由なのです。それが本音。日本人でも犬や猫、ネズミを人間の食べ物と考えないでしょう?なぜ?日常で食していないから、日本の文化の中に無い食習慣だから、それらを人間の食べ物などと微塵にも考えていないからです。それだけの理由です。

でも神の国の文化は、異教徒の文化とは違う生活習慣があるのです!と言う事を、先ず聖書から知ろうとしなければ見えない

世界なのです。神は異教の神々の生き方ではなく、神の国に生きる生活全部を網羅する事を神の言葉で教えているのです。

神の似姿に造られた人はどう生きる様に造られているのか?と

創造主が創造された人間に伝えているのに、被造物である人間が

”異議あり!”と唱えているのです。しかも、2000年以降も人間は進化変化してませんよね。だったら、最初の創造のデザインのまま、人に害であるものはどこまで言っても害であると神が

教えている真実をその通りに考えるのが妥当なのです。

 

神は最初の最初から”食べる”と言う事を通して神の言われた通りの事を生きる事をはっきりと教えています。それが聖別=神の

目的通り、デザイン通りに生きる!と言う事です。クリスチャンは神の宮、天の祭司と言うならば、神の宮、天の祭司の定義を

モーセの五書=トラー=神が伝える事から知り、それに相応しく

生きるのは当然のことなのです。

体も頭脳も霊も魂も丸ごと全体〜神の言う事を取り入れて生きる

物理的、肉体的、霊的は1つエハッドで繋がっているから。

 

ある人が、”クリスチャンになることは、あれするなこれするな

ではないんですよ。”と説明します。そうです。あれするなこれするなの掟リストをこなして守る事で神との関係を維持するので

はないのです。それは宗教の教えであり、神との隔たりの中に閉じ込められた状態の肉の人の考えです。

 

その解説はこう言い換えた方が神が伝えている意味通りに通じます。

イエシュアを通して神の元に戻された人は、神がデザインされた

神の性質通りを生きる事に戻る。これがテシュヴァ〜悔い改めと訳されていますが、ヘブライ語で教えられている意味は、

”戻る!本来の生き方に戻る!ずれた部分を神の言葉に照らし合わせて軌道修正する!これを神が教えているのです。

あなたは〜を生きる様に造られています。だからこれこれあれこれを生きるのは本来のあなたの生き方です!あなたは〜これこれをする様には造られていません!それらはあなたの性質=神の似姿に造られた人に反した生き方だから、それはあなたではありません!至極シンプルではないですか?

あれこれしろ、するなかれではなく、人は神に造られたデザイン通りを生きるのが最も最善で妥当で安全な生き方です!

それなのに、信じたら神の性質に反する、神の性質通りに造られた人の本質から外れて生きてもいいんですよと、神が言っても無い事を言っている誤りに気がついたら良いのだと思います。

 

モーセの五書、預言書にも記されていますが、神の前におぞましい行為、ローマ帝国=異教の神々に仕える人達が生きている様な

事はしてはならないと事細かく神は人に教えています。

女装、男装、独特な頭の剃り方、入れ墨、きよくない動物を食するなかれ、血を食するなetc etc etc 

その他婚姻関係はどの様な間柄で結べるのか、結べないのか、

人がやってはならない行為、そしてしなければならない責任などなど。隣人との和解の方法や賠償、国の憲法の詳細、どの様に

戦争をするのか、徴兵、軍隊の男子は何歳から、どんな状態の人が選ばれるのかなどの人の生きる上での全てが細かく書かれています。そして神の子らに与えられた婚姻関係の中にある”印”の

神の記念日=主の日=聖日=シャバット、新月、祭り。

神の教えは人の生きる全部の面を網羅しているものです。

 

神殿に仕えるレビ族に対しての教えもあります。女性だけに対する教え、出産や月経、そして男性だけの教えもあります。

例えば割礼も男性しか受けませんが、その中でも、神が全ての人に対して教えている”割礼”の意味、境界線が敷かれている〜

新しくされた人の実態がちゃんと割礼で教えられているのです。それは全ての人が適用すべき教えの数々が満載なのです。そして人は大家族全体で完全に機能する様に造られているからです。

そんな事どうでも良いじゃない〜と神の伝える教えの意味が分からない場合全く理解出来ない、なんとなく違和感感じる生き方と考えるけれど、どうしてそれらが神の前に忌み嫌われる聖別を

汚す罪なのか神が教える事を聞いて理解する他に方法はないのです。

ローマ帝国では、豚、ネズミが食べられていたのです。これらは

神が伝える”きよくない動物”人が食するために創造された動物ではないと書いてあるのです。

異教の神々の神殿の祭壇には豚が捧げられ、マカバイ戦争が起きたのは、セレコウス王朝=ヘレニズム国家が、異教の神々に同調させられる豚を食すことを強要したりする悪影響をユダヤ人達に及ぼし、エルサレムの神殿を彼らが乗っ取り異教の神々の偶像とそして豚を祭壇に捧げ神の神殿をおぞましくも汚した事でした。

 
イザヤ65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、

66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き(自己流の聖別、清めを宗教はする、でも神が定義する聖別や清めを

やらない、生きない)、その中にあるものに従い、豚の肉、

憎むべき物およびねずみを食う者みな共に絶えうせる」と主は言われる。

 

この様に都合の悪い聖書箇所は、”今は終了”キリストの復活で
成就したから終わりと勝手に言っていますが、このイザヤの箇所は今から後の未来預言なのです。それをどう解説するのですか?そうです、これらは寓話的、霊的などとクリスチャンは解説するのです。
神は人を試すために意地悪な教えや規定を作っているのではないのです。創造主、デザイナーは人間がどう生きるのか、何を食べて何を食べないのかデザインしたお方なのです。
私は、この事に気が付いた時に、”きよくない動物”、普段食べている動物がどんな性質なのか調べました。そして、神がこれらを
体に取り入れて神の宮である人の聖別を汚すな!と言っている
意味が分かりました。そして、異教の神々の文化に生きて神の
教えを知らない場合には、自分の体に毒、害、汚いものを取り入れて食べても、神の言葉を知らない、理解しないならば、聖別を汚していると言う事にも気が付けないんだと言う事を知りました。そして、神が言われる汚れたもの毒を神のことばに反して
無理強行軍をして敢えて食べたいなんて全く思えなくなりました。それらがどれほど汚い食べ物かも分かったからでもあります。神がそう言うならそうだから。
神の教えは、寓話、霊的ではなく実際的な事なのです。
これらは忌み嫌われるべきものと神が伝えている事が見えなくなります。最近では食生活に色々変化があり、ベジタリアンも居るので、あれこれを食べないと言ってもそれほど拒絶されませんが、クリスチャンの友達や家族には、事あるごとに、叩かれる
機会があります。”律法に戻るのか〜”と!行いで義と認められようとしてるのか〜!と。越えられない壁〜ラザロのたとえ話の様に、トラーを今知らない信じないなら、何を言っても通じない!
と言う事を体験します。
でも神が言われている事を人が理解してないだけであり、聖別された自分を汚すイエシュアは汚れた動物など食べない!と言う事にも気がついてないだけの事なのです。
 
 
続く