イスラエルの神が、神の子らの代表であるイスラエルに対して
与えた10の言葉。この石の板が契約の箱の中に入れられて
契約の箱の中には神の臨在がありました。神=言葉=命。
神自らご自身の指で石の板に掘られたと記されているのは、
それほど重要なものを神が人に与えていると言う事を伝えている
のです。神自ら書いて人に渡した永遠普遍の神の言葉。
人は神の言葉無しには、どう生きるのか分からないのです。
なぜなら、人は神に創造されたからです。人が主役ではない、
人が創造主ではなく、イスラエルの神が創造主である事を
忘れてはならない!と言う事でもあります。
神の教えの全貌を現したタイトル、本の見出しに書かれた項目、要約をクリスチャンも唱えています。
聖書は誤りのない神の言葉ですなどとも言いながら、どうして
神の言葉の題目の、第四番目の仰せだけ、人間が勝手に神の言葉を曲げ、読み替え変化させているのでしょうか?
不完全な神の言葉だから?と言うシンプル且つ深刻な問題にクリスチャは、何の疑問も抱かないまま、安息日=第一日目と考えて読み違えている!永遠の謎でしょう?
どうして十戒の4番目だけ変えてるの?変えていいと考えているの?誰がそんなこと言い出したか、真相を突き止めれば唖然とします。神では無い人間、異邦人、ヘブライ聖書の教育も無い異教徒思想ヘレニズム思想の、反ユダヤ、反モーセの五書思想を持つ人々が考え付いた教え。
いや、クリスチャンの教えには今はいつでも礼拝日なんて言いますよね。その教えは、シャバットを神が聖別し、シャバットが何かが分からない人の教えなのです。
止まる日、聖別された日、永遠の中、イエシュアと共に神の完了の業の中に安息して生きる天の実体験を皆でする日。この世に在ってこの世の者では無い、天の現実に生きている事、そのリハーーサルをずっと地上でしているのです。イエシュア〜地上の仮庵は実はイエシュアの中に住まう事実を教えている。
その日を元に残りの6日を生きる。毎日が止まる日なんてあり得えないし、クリスチャンの中にある”礼拝”と言うコンセプトがものすごく狭く限られた事だけを話していて、勘違いしているからです。
このどの日も今は礼拝日と言う発想、解釈は、パウロが言った言葉を誤解しているからです。全部誤解、非聖書的解釈のオンパレドが流通しているのです。ローマ14章でパウロが話しているのは、”食べ物”に関して。もちろんレビ記11章にある人間の為に作られた食べ物の中での食べ物の話です。ある人は野菜しか食べない、ある人はこう言うダイエットをしている、ある人はある時に断食していたの当時は。それはトラーの教えではないですが。
前後を読んでも分かると思いますが、神が創造された記念日を
人間の考えでどの日をシャバットや祭りにしても良いなんて、
トラーを知る人が言う訳ない。神の言葉を教える教師、トラー教師であるパウロがそんな嘘を人に教えて言う訳などないと言うことが分からない人が誤解する解説をしているのです。
使徒21章のパウロの宣言、ナジル人の誓いが100%証明しているでしょう。”わたくし パウロはモーセの五書に反する教えや生き方を人に教えたり、自分自身も実行などしていません!”と
言うことを証明したではないですか?聖書に書いてあること無視したり、否定していては神が伝える真実など見えなくなります。
神の記念日をないがしろにする、忘れ去っているのは異邦人です。ユダヤ人ではない。そしてここに書かれているローマ14にある”日”とはレビ記23章にある神の聖別された呼び出し日=聖会の事などではありません。そんな話さえしていないのです。
ギリシャ言語を読んでも分かるし、翻訳の英語でも分るけれど
日本語では分からない。パウロがレビ記23章のモアデイム
や聖会を勝手により分ける様な事は天地がひっくり返ってもあり得ない事だからです。もしパウロがそんな事を教えると言うならば、パウロは使徒として遣わされる事はありません。
14章にある日とは定冠詞の付かない普通の日の事、ハ ヨム
The Dayではない、へメランἡμέραν= a dayなのです。
レビ記23章に書かれている聖会の事などではない、普段の日の事が記されているのです。神が呼び出している聖会は、人間が
仕分け出来ない。その神が神の子らを呼び出している日に応答するのか無視するのかそれは個人個人の信仰によるのです。
誤解をまず解いて、聖書とは異なる解説を全部削除すれば
聖書に何が本当は書いてあるのか見えて来ます。
そして礼拝と言うヘブライ語は、最初に書かれているのは創世記
耕す、園をガードする。アヴォダと言う言葉。
詰まり、何をしていても主の栄光を表しなさいと言う言葉で伝えられている通り、人の生きる全てが礼拝=アヴォダであり、ある時に皆で集まって歌ったり踊ったりする事、また個人で神を礼拝しま〜すと言う事だけを礼拝と言っているのではないのです。
それは神に対してのほんの一部の表現であり、毎日聖会=ミクラ コデシュを催すなんて言う発想自体が、神の言葉を理解していない事から来るものなのだからです。特別な日、聖別された日=
神が意味を持って取り分けた特別な日だから意味があるのです。
毎日が記念日だったら何も特別な意味がなくなるでしょう?
そうしたら、”聖別”の意味が無くなります。聖別〜神の目的通り特別の取り分けたと言う意味だからです。
神が普通と、聖なるものとを区別している!と言う事実を理解しないなら、人の考え付いた教えは何処までも出現します。
神が聖別された日は、シャバットが中心に全てレビ記23章に
記されています。それを人が認めるか認めないか、それはその人
の問題であり、神は人に永遠の真実をはっきり最初から伝えているのです。
毎日が正月の訳が無い。毎日が記念日ではない。特別な日を心待ちに準備し、考えてその日を待って迎える、その事からその日の意味を学ぶプロセスを神が同時に与えているのです。
神の言葉とは違う人間の勝手な解説は無意味な教えです。
本当に聖書ではない解説に気が付いて、そんな人の創作した教えを伝える事はやめないとならないのです。
いつから聖書に書いてある7を1と読む様になったのでしょう?
異邦人の世界では2世紀以降でしょう。聖書では無い。
他の本に7と書いてあったらそのまま7と読むのに、どうして
聖書に書かれたことだけは勝手に読み替えているのでしょうか?その不思議考えてみたら良いのです。
異邦人が神の言葉をなし崩しにして、手を付けて違う教えを編み出したから、それが聖書を読み替えている本当の理由です。
そして皆がそんな聖書とは違う、人間が作った教えを言い続けて
実践し、今に至り、その嘘誤解は手の付けようがない所まで浸透してしまったのです。誰もが同じ聖書箇所をあげて、誤解して
読み込んで、そしてそれが神の言葉が変化した理由だと言うのです。
でも指〜指紋は絶対変化しない神の言葉は変化しない!
聖書のどこを読んでも日曜礼拝などに変更された記録など1つもないのに、どうしてシャバットが第一日と本気で信じているのか
以前は余り考えもしませんでした。いや、信仰を持った最初に
疑問に思ったのがそれです。シャバットはどうして第七から第一に変更したの?神がそうしたの?誰がしたの?
皆がそう実践しているから、そう教えているか、そう思い込んでいるそれだけの事なのですが。
思い込み、イコール神の言葉の真実とはならないことが多々あるのです。それがどんなに多くの大衆が、1900年近く信奉しようと、神の言葉の真実は変化なく、そんな事に影響されて
神の方が人間の教えに歩み寄り、神の教えを変える?そんな事を神がする訳ありません。
神が忍耐深いから、時が来るまで人の編み出した間違った教えに忍耐し、その状況を許しているだけ。
イスラエルに対しても同じだった様に。
神の語る真実と人の教えは全く関係ない。神がそれを支持しているから恒久化しているのではないからです。不真実はいつか終了する日が来るからです。神によりそれが終わる!商人は神の家の庭には見られなくなると預言されている通り。偽物を売る商人は居なくなる。
移り行く影のある変化する神、神の言葉であったら、信頼に値いしない、グラグラな土台の上に乗っていつ又変化するのか不明て
事に気が付きませんか?そんなの人間の作った人の思想、
脳内イスラエルの神であって、聖書に記されているイスラエルの神ご自身が紹介する神の実態とは違うのです。
異邦人クリスチャンには、神の言葉を曲げて良いと考えている
根拠とする理由がたくさんあるのです。それら全て!全部!
1世紀後半以降、人=異邦人=西洋人=幼い頃からヘブライの
トラーを学んで来たユダヤ人とは違う、異教徒ヘレニズム思想の背景の人達が作り出した教えでしか過ぎないのです。
神の言葉ではない!
神の言葉がそれほど異邦人には軽い。軽いから簡単に神の言葉を取り扱い、仕分けて、否定出来る、拒絶、無用、不要、無効などと平気で言えるのです。よく考えて見たら分かって来ます。
一体何を言っているのでしょうか?と。
2テモテ3:15また幼い時から、聖書に親しみ、
それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
テモテに書いてある様に、幼い頃からヘブライ語のトラーに何の馴染みも縁もなく育った、異教徒背景、ヘレニズム思想の頭脳が考えががっちり根付いた教え、思想に基づいているものなのです。自分は異教神の思想などに汚染されていないと考えるなら、
それは本当ではないです。どれ程異教神の地に先祖代々育って
根付いた影響をDNAに染み込ませられ受け継いでいるのか
気が付かないだけです。
聖書=神の言葉に何の根拠も証拠もない、自分達がそう思うからそうする!と言う、神の言葉を無視し脇へ押しやった身勝手な
思想。冒涜。
タナック=モーセの五書、預言書、諸書は、イエシュアに対する
信仰によって救いに至る知恵を与える書!とはっきりと書かれていますよね?どうしてそれが無効、呪いで古い、終了、不要?
異邦人には要らない?おかしな教えでしょうその教え!
聖書に基づけば。
福音書以降の箇所に、聖書と書かれていたらそれらは100%
全て!モーセの五書が主に、そしてモーセの五書を解説する預言書、諸書のみを指して語っていると言う永遠の事実に先ず気が付いて下さい!聖書に、タナック=モーセの五書、預言書、諸書を否定する教えは1つたりとも記されていない!!!
でもクリスチャンは、福音書以降は、別の教えの別の契約書が
記されているなどと言うとんでもない勘違いしているのです。
どうしてだと思いますか?
聖書の最初に書かれている内容を理解していない、知らないからです。どうして?そこは無用、終了と教えられているから、学ぶ機会がない、学ぼうと言う気力も起きない、読むのも大変なのに。ましてやヘブライ語で何が聖書に書かれているのか普通は
聞いたり教えられたりなどしないからです。教育される機会が
無い。パウロが言った通りです。エペソ2:12
神との関係は、シナイ山で与えられた”婚姻契約”に基づき存在し成り立っていると言う事実が全然見えていないからです。
トラーは廃れた!と言うなら、その人と神の関係を保障する土台は崩壊しました!と言っている事にさえ気が付いていないからです。異邦人とユダヤ人には別の教え、別の契約?それ聖書に書いてもいない教えです!人がイエシュアを通して同じ婚姻契約に
加えられ、イスラエルの神との関係に在る証拠、その印を神は
何であると言われたか知っていますか?シャバットです。それは第七日目であり、1日目では無いのです。勝手に神の言葉を変えては何が本当か他の人に嘘を伝えてしまい分からなくなります。
神が人と結んだ契約は全部繋がっているのです。
福音書以降は、モーセの契約と別の新しい契約などではない。
福音書以降は、契約の完全版など記されていない!なぜ?
完全版は、神が最初に与えているから!神の指で記された証拠の
石の板に記された契約の題目が与えられているから。
神の契約の完全版が記されているのが、モーセの五書なのです。
新しい契約と言う言葉をクリスチャンは誤解しているのです。
エレミヤ31章、イエシュアが過越の祭の晩餐で語られた同じ
新しい契約とは、中身は100%モーセの五書と何も変わらない!!契約とは、再更新される性質である事が書かれています。
再更新され続ける契約=中身は同じ、参加する人の人数が増え続け、だから異邦人も加えられ、参加する人の頭脳にトラー=神の教えが刻まれている状態で生きるそれが語られているだけです。
新月が空に出たら、別の月が出ると誰も考えないでしょう?
ヘブライ人が新しい=ハダス 新月の新と同じ意味の、再更新される新しさ、中身が同じと言う言葉を聞いて、別の契約が出たなどと考える人は一人もいません!
続く