羊の生まれる時 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

救い主が生まれた時期がどの時期だったのか、聖書の中に手がかりが記してあります。1世紀当時の人は皆知っていたのです。
でも、聖書にはそのメシア誕生に関して、大々的にアナウンスがありません。イスラエルが出エジプトした事、シナイ山の初めてのシャヴオート、婚姻契約を受け取った出来事の様に、世界中が知ると言う様な事ではなく、とてもひっそりとしたものでした。
 

ルカ2:1 そのころ全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝

アウグストから出た。

2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って

行った。

2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

 

この箇所だけでも、全国の人々が移動する様な大旅行、これが

12月の真冬の出来事ではない事は明らかに分かります。

そんな非常識な事をローマ帝国皇帝が勅令として出さないからです。

真冬に人口調査する為に、老若男女全ての人々が移動するなんて不都合な不可能な事をする訳がないのです。イスラエルでも冬は相当寒くなります。赤ちゃんが居て、布おむつを山積みにして

どこで洗濯して、寒い冬の中旅行するの?て考えれば。

特に朝夕などダウンジャケットを着なくてはならない程、寒いですから、そんな中、人々が全員移動する様な人口調査なんてありえません。

車、バス、電車、飛行機で移動するのではないのですよ。

ダウンジャケットや、装備万端なハイキングブーツなんてない。

徒歩で。。。。動物で。。考えたら分かるのに、今の現代の自分達の世界、生活の中で想像して、車で移動?それだけでも住民調査での人々の移動は12月ではない事は、明らかです。

 

そして、もう一つ。

ルカ2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、

マリヤは月が満ちて、

2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。

客間には彼らのいる余地がなかったからである。

2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。

2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。

 

これ、当時の時期のメシアが生まれたと決められている

12月25日近辺の冬である訳が無い事が分かる、もう一つの手がかりです。

どうして羊飼いが野宿していると思いますか?

真冬に羊飼いは羊を外に出して野宿なんてしませんよね。

真実の点と点だけを繋げて考える訓練が常に必要です。真実を

発見するために。

羊飼いが野宿をする時期は、羊が出産する時期だからです。

羊の出産を見守って、生まれたらお世話をする為、羊飼いが

スタンバイしているからです。

羊が生まれるのは、春から、秋の仮庵の最初の雨が降るその時期

迄です。

春にどうして羊が生まれるのか?羊は一年中出産するのではないからです。タルムードにも、羊が春に生まれる時期の事が記されています。

子羊イエシュアが、羊飼い達に最初にご挨拶を受けた。。。。

しっくり行きますね。

これ何に関係があると思いますか?聖書に記された事実を繋げて

考えてみて下さい。

過越の祭の時に、エルサレムの神の神殿の祭壇捧げられる子羊は1才の雄の子羊です。

そして、この春に生まれる子羊を、大祭司により、欠陥、傷が

無い完全な1歳の雄の子羊だけを選り分けて、神殿の祭壇に過越の祭で捧げる事が出来るのです。イエシュア=子羊、シミも傷も欠陥も罪もない過越の子羊イエシュア 。

この子羊は、過越の小羊であるのです。過越の小羊で表される=影、その本体はイエシュアだからです。本体と影は一体。

本体=目に見えない、影=地上で見で見て理解出来る、本体と

影は同一なのです。実態は同じ!影がないなら、本体も無いのです。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

 

ヘブライ人の世界で、ヘブライのトラーを生きている人達の中に自分の思索をその中に入って考え見ると見えて来ます。

ヨハネがいきなり、”神の子羊”なんてどうして、イエシュア=

人間に対して言ったのでしょう?何も根拠がなく、思い付きでいきなりそんな事言うわけないのです。意味不明の発言になるでしょう?それでは。

モーセの五書に記された事、永遠から、太古から同じ同じ救い=イエシュア、同じ福音子羊の血で贖われて来た、来る、これらも贖われ続ける、同じ神の救済方法、道は1つ!その事実をヨハネはモーセの五書、預言書、諸書から、聖霊を内側に受けて知っているから、子羊!などとイエシュアを指して言ったのです。

それを聞いた人、読んだ人もヨハネの意味する神の子羊〜過越の贖いの子羊=世の罪を取り除くメシアと理解しているのです。

トラーを知らない異邦人には分からない。だから、イエシュア は、失われた羊であるイスラエルの所にだけ、遣わされたと言ったのです。イスラエルの神の代表者=契約を受け取り神の国を

生きる事が何かを知っている人たちの所へ先ず最初に来たと言われたのです。

バプテスマのヨハネとは、誰ですか?יוֹחָנָן‎ ヨハネのヘブライ語の名前は、”ヨハナン”、主YHWHは恵み深いと言う意味の名前

です。そして、ヨハナンは、イエシュアのいとこです。

どんな生まれで、どんな系図の人ですか?

 

ルカ1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみ前に祭司の務をしていたとき、

1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。

1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。

 

<プテスマのヨハナンの父ゼカリヤはアビヤの部族の祭司であり母エリザベトはアロンの部族の出身である。トラーにおける大祭司に成れるのはアロンの家系の男子のみ、そして祭司達はレビの息子達だけがなるものである。>

ここで分かる事があります。アロンの家系に繋がるヨハナンは

大祭司の家系であり大祭司です。ヨハナンがどうしてヨルダン川でイエシュアが浸水をする事に立ち会ったのか意味が見えて来ます。

大祭司は、生贄の子羊を、傷もシミも欠陥もないものであるか

どうかを判定する役割を担う人です。ヨハナンはその役割通り、イエシュアが屠られる子羊〜神の子羊である事を判定する大祭司としての務めをそこで成し遂げている事とも繋がります。

 

この時期は丁度、秋の仮庵の前の月の時期。修復〜悔い改め、

軌道修正を皆がする時期で、これは信じたからバプテスマを受けると言う西洋人が考えるバプテスマとは異なります。聖書には、たくさんの”浸水”があります。一度だけがバプテスマではなく、様々な機会に水に浸って、改心、悔い改め、社会的立場変更、結婚出産後、神殿へ入るための準備、病気が癒された後無数にあるのです。今まで教えられて来た既存の思想とは、少し違う

考えが変わる事実が聖書には記されているのです。そして水に

入って出る、以前の状態に死に、新しくされた〜水から出る、

新しい始まり、生まれ出ると言う事を表している事でもあります。水に入ると物理的肉体的にもスッキリしますよね。

 

ベツレヘムでイエシュアが生まれましたね。ベツレヘムとは、

"パンの家"と言う意味の町です。

天から下ったレヘン。ヨハネ6章。

この町は、ヤコブの妻、ラケルが埋葬された場所でもあります。

そして神が、裁き司を起こした場所です。1士師2:16

そして、異邦人であるルツをボアズが娶りましたが、ボアズは、

ベツレヘム出身の人です。

ダビデ王は、ベツレヘムで羊を放牧しました。

ベツレヘムは、エルサレムの神殿で捧げられる為の羊が飼われていた場所でもあるのです。全部イエシュアを指しているものです。

多分イエシュアも春の過越の辺りに地上に生まれたのではないか?と予測される記述があります。

 
出エジプト12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。
羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。

 

さらっと読めば見逃す箇所ですが、過越の祭りで捧げられる小羊は、1歳の雄の小羊です。過越の時にエルサレムの神殿の祭壇に捧げられる小羊は前の年のこの春の時期に生まれる小羊です。

ぴんと来ますか?繋げて考えてみて下さい。

イエシュアが過越の小羊なのです。過越の小羊はいつ死にましたか?過越です。この小羊はいつ生まれた小羊ですか?過越の春の1年前に生まれた小羊です。過越の時期に生まれた小羊。

そして、もう一つあります。

イエシュアの最後の1週間をよくよく考えて、そして1つ1つ

事実を繋げてみて下さい。

イエシュアが地上で成し遂げた特別な出来事の全ては、全部神の創造された記念日=レビ記23章とぴったり重なります。

クリスチャンがパームサンデーと呼んでいる日がありますが、

それはパームサンデー(日曜日)ではなく、曜日とは関係のないニサンの月、聖書の暦の第一の月の10日の出来事です。

この日、イエシュアがロバに乗ってエルサレムの神殿に入りましたよね。この同じ日に、過越で捧げられる子羊達全てが同じく

神殿に入ったのです。

子羊達と共に、イエシュアは、過越で屠られる本物の子羊として

エルサレムの神殿に入った!全部繋がるでしょう。神の教えは

全部真実で1つとして繋がり、歴史の中の重大な出来事=福音を表す出来事=神の祭りを巡り起きているのです。

そして神殿に置かれた子羊達は15日の過越の祭の日が来るまで神殿の中に留め置かれるのです。

出エジプトでも同じです。”この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。”

そして、イエシュアはいつ亡くなりましたか?過越の日です。

エジプトで鴨居に子羊の血を塗った時、過越の日。その日子羊の血を塗った家の初子の命は死を逃れたのです。イエシュア=初子の犠牲を通して、本物の命に生きる命が次世代へ繋がれた。

エジプトの初子=死。死に繋がる生き方を次世代が継承する事を

絶たれた事を表しています。

これも、レビ記23章の神の記念日の日!全部偶然ではないのです。神の創造された記念日の全ては、イエシュアの業を表す、

福音を網羅する、地上で起きる預言的祭だからです。

神が創造された記念日の全てはイエシュアの業を指している。

 

そして、次の記念日に何が起きたのでしょうか?過越から3日後の”初穂”を捧げる日にイエシュアが復活されました。初穂は、

新しい命が大地から生まれ出る事を表しているもので、復活の命を始めから神は人々に神の記念日を通して教え続けて来たのです。今も同じです。

そして、イエシュアが復活したのは種無しパンを食べる真ん中の日、種無し〜罪が削がれた事を教える=種無しパン=マッツアを食べる日々、イエシュアの死と復活=過越の子羊の贖いの血で

罪がそぎ落とされた種無しパン=大地から新しい命が生まれ出る

初穂、その初穂に連なる人々は新しい命を受けて成長して行く。神は最初から神の記念日の中で福音の中心、イエシュア を教えているのです。

 

そして、この過越からの7日間は、種無しパンを食べる週。

使徒20章にある、除酵祭と訳されているのが、イエシュアが

処刑され、復活された7日間の祭の出来事であり、その事実に

注目して考えてみて下さい。

彼らイエシュア信者達、そしてパウロが祝っていたのは、レビ記23章にある神の記念日であり、人が作ったり変えたりしたものではない事がはっきりと記録として聖書に記されています。

 

続く