シャバットが第一日目に変更されたと誤解されている聖書箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人は、イエシュア信者になっても、神の教えの下地がまるでないので神の教え=トラーを理解していなかったことは

使徒15章や、パウロの書いた書簡の内容でも伺い知れる、

分かる事です。

イエシュアを信じながら、不品行な生活をし、異教の宮に行き、

偶像に関わり、神殿娼婦と交わったり、そして汚れた動物や血を食する様な行動をしていたことが記されている事でも分かります。

パウロは”虚しい伝統の教え=人の教え=哲学”は人を救い出す

ことが出来ない命のないものであると警告しています。

 

コロサイ2:8「あのむなしい、だましごとの哲学によって

だれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の

言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。

 

パウロがここで考えているのは当時主流に流行っていた、

グノーシス主義思想です。体は霊より劣っている、体より、

霊が大事であると言う思想です。ヘレニズム思想です。

でも神の創造は全存在でシャロームなのです。

神は全てを造られた後、”トーヴメオード”と言われました。

大変良いと訳されていますが、神の意図通りそっくりそのまま

が現れ出た事による感動を表しています。

神は肉体を造られた、それはトーヴメオードであると神が

言われているのです。体は悪いものと考えるのは、人の作り出した虚しい教えなのです。

この箇所を読んで、”言い伝え” ”騙しごとの哲学”と書いてあるのをイコール古い教え=トラー=モーセの五書と解説してる

コメンタリーがあるのです。

書いてある内容と全く違う解説をされてしまう良い例です。

 

パウロが正していたのは、教えていたのは、神の教えを意図通りに理解し、ずれた生き方から、神の子らの性質=神の教え=トラーに書かれた生き方の本質を手取り足取り教えていた事が

パウロの書簡には書かれています。

神は神の性質、神の言葉の性質を神が紹介しています。

そしてヘブライ人は、神=言葉と理解しているその事実を知って次の箇所を読んでみます。

 

詩篇 33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。

 

イザヤ40:3 呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、

さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。

<主の道とは、主の教え、トラーを理解する良い地=頭脳を

備える。いばらやおどろ、邪魔な岩、障害物=神の目から見る

通りを妨げるこの世で培った物事の見方、考え方を捨てて、

主の教えに周波数を合わせよと、パラフレーズすると分かると

思います。全ては100%神の教え=トラーの生き方に戻れ!と言うのが預言書の神からの託宣だからです。>

 

40:4 もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低く

せられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。

40:5 こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。

40:6 声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、

「なんと呼ばわりましょうか」。

「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。

40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。

たしかに人は草だ。

40:8 草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

 

マラキ3:6 主なるわたしは変ることがない。

それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

 

神の言葉も神ご自身も変化しない!その事実がちゃんと書いてあるのにどうして変化したと言い続けるのでしょうか?

 

次がシャバットが第七日目から第一日目に変更したとされる

根拠として取り上げられる聖書箇所です。

この箇所はなんども解説して来ましたが載せてみます。

聖書には、シャバットが第七日目であり、福音書〜黙示録でも

それは変化していないのです。

聖書に書かれている事を、書いてある通りに理解しない人達

又は2世紀以降に出現した神の教えや記念日を平気で変えても

良いと言う意識の人達、マルキオンやダービーの様な教えを信奉する人達で誤解して解説されている箇所です。

 

使徒 20:5 この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを

待っていた。

20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

 

この5、6節だけ読んで、トラーを知るユダヤ人ならはっきり理解出来る事があります。

除酵祭と書いてありますね。過越の祭の開始から7日間は

種無しパンを食べる週=除酵祭なのです。

祭りを祝うと言うことは、祭り自体が、シャバットととして

曜日関係なく止まる日として開始し、曜日に関係なくシャバット

として止まる日として終了します。

そしてその週の中に最初の日、最後の日と重なっても

第七日目のシャバットが来たらシャバットを祝うのです。

これが神のオリジナルの祭りのデザインなのです。

だから種無しパンの週を祝うと言うことは、クリアーに100%

明らかに分かる”シャバット”を第七日目に祝い続けている人達

神のトラーを支持し神の仰せを愛し、神の記念日を祝う人達の

事実がこの”除酵祭”と言う一言だけではっきり分かるのです。

 

 20:7 週の初めのに、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

ここにある日と言う言葉はギリシャ言語には入ってない言葉が

挿入されています。

ここで分かる事があります。過越祭り開けての”最初”=穂を数える7週の最初の事です。そして、オメル=穂を数える週を祝うと言う意味は、シャヴートまでの特別な時期の7回のシャバットを

祝い続けると言う事実があるのです。

これだけでも彼らがシャバットを第一日目に変更するなど

あり得ないことを理解しないとならないのです。

西洋宗教の教えで聖書に書かれている内容を読み込むので、勘違いしているだけなのです。

ここに書かれているのは100%ヘブライ人であり、神のトラー

モーセの五書に書かれた神の記念日を神の指定された日に祝う

人々が書かれているのです。

もし、週の最初の日の晩であるとするなら、それは土曜日の晩なのです。土曜日の晩にはシャバットを閉じる儀式があるのです。

グレゴリオ歴で考えているので、日曜日の夜と考えると思いますがもし日曜日の晩ならそれは聖書の暦では既に月曜が始まって

いるのです。そして日曜日は労働日なのです。

日本人であれば、宗教上の集まりのため月曜日の昼間、仕事や

学校を休んで集まるなどしないでしょう。

 

ローマ 14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

これも記事に書きましたので詳しく書きません。

これも”日”とは、レビ記23章の神の記念日以外のものです。

誕生日とか、結婚記念日とか、国の記念日etd etc etc自分に

取って大事だと思う日の事を話しているのです。

神の記念日の時は定冠詞が付いています。

そしてパウロは神の記念日=イエシュアそのもの、福音の中核で

ある事を理解して教えている教師、使徒なのです。

神の記念日がそれぞれ考えて決めれば良いなんて事天地がひっくり返ってもするわけないのです。下矢印

 

顕著に誤解されている 記念日 食物規定の根拠

 

シャバットを迎え歓迎する

 

 

 

 

シャバットを閉じる儀式 土曜日の夕暮れ