神の言葉 教え 記念日が変更されたと誤解するなら イエシュアを誤解してしまう | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1週間は7日間あり、創造主を知る人にも知らない人にも

この事実は神の創造に基づいて永遠に変化しません。

人が朝起きて、夕休む様にデザインされている、

それは皆どの人どの人種でも同じなのです。

神の創造の真実を知らなくても、神のデザイン通り、目的通りに

この世界の全てを神が造られたからです。

 

人の生きる”時”を神が造られた事実があります。

そして神は”神の特別な時”定めの時=神の記念日を司るために

天の万象月、星、太陽、天の万象を造られたと解説しています。

 

神の創造物の全ては、神の言葉によって造られ、

見える形となって現れ出た事実も途中で変化はしません。

 

神の言葉は霊であり、神ご自身であると神の言葉で説明して

います。

古代のヘブライ人はこの事実を神の言葉から理解していました。

神=言葉=霊。一体である事実があるのです。

神の息吹から出た言葉、人は神の言葉を理解し、神の言葉通りを

生きる時、神が創造された神の性質に似せて造られた通りを

生きると書いてあります。

それがイエシュアそのものであり、イエシュアがポスト エデン

エデンの園を飛び出た後、実際に神のトラー=性質、教え通りを肉体を持って生きた初めての人なのです。

だからキリストはトラーの目標であると書いてあるのです。

ローマ10:4 この箇所もキリストがモーセの五書=トラーを終わらせたと完全に誤解して解説されている箇所でもあります。

 

キリスト教の世界の教えは、神の言葉を2つ別のものと

分断して考え教えています。旧と新。古い、悪い、終わりと

新しい、良いもの別物と言う教えです。

実はその聖書概念こそが、神の言葉を最初から誤解させてしまう

世界へ導いている大問題、大きなつまずきの石なのです。

神の性質、神の言葉の性質を最初から勘違い、誤解している。

 

聖書を書いてある通りに読み取る事が出来れば、創世記から

黙示録は1つの書であり、どの箇所も互いに相反する教えなど

どの箇所にも書いても無く、最初から最後まで一貫して同じ内容教えしか聖書には書かれていないのです。

聖書を読む上での大問題は、神の言葉が1つ、変化も進化も無い

人種別に別物でも無いと言う事実に気が付けないと言う事なの

です。

神の語る永遠不変の事実に気が付けない原因は色々あります。

人の教え、神学が聖書の事実とはずれた聖書解説をしている事。

最初から聖書は2つ別の教えだと聖書を見て考えてしまっている

事。

だから終わった古い箇所、最初の70%、特にモーセの五書の

内容を書いてある通りには学ばない、だから教えられない、

オリジナル聖書に書いてる通りの内容を学ばない事が本当の問題なのです。

自分の見聞きして来た宗教思想や教えから神の言葉を先入観を

持って考えてしまっている事です。

 

そして、神の言葉が変化したと解説する箇所は実は全て誤解して

読み込んでいる事、それらが主な原因なのです。

 

聖書の中に記載されている登場人物達は、100%全て神の言葉は神の御性質と同じく1体=エハッドであり変化が無い絶対的である事実を理解している人達なのです。

特に預言者や使徒達はそれをよく理解している人達です。

なぜなら彼らが神の聖霊により実際に聖書を書き記したからです。

神の言葉、聖書を書き記す人達が神の言葉が変化したと言う

誤解をしている場合、彼らは預言者や使徒ではありえる訳がないし、永遠不変の神の言葉を聖霊により書き記す役割など与えられるわけがないからです。

 

異邦人は、現代西洋思想哲学や、西洋宗教の教えと言う先入観を通して聖書を書いてある通りには理解せず、曲げて読むように

教えられてしまいました。

曲げるとは、”永遠”と書いてあるのに、”一時的、期限付き、

テンポラリー” 途中で変化すると言うその様に聖書を読んでいるその事です。

神の言葉の性質、事実では無い事を読み込みをしているのです。

 

聖書に書いてある通りに読んでいないのに、聖書に書いてある

通りに読んでいると錯覚している部分があるのです。

もし神の言葉は永遠であると聖書に書いてある通りに言い、

そう本当に信じているなら、どうして同時に途中で神の言葉は

変わったと言う聖書では無い人の作った教えを信奉し主張して

いるのか、その矛盾に気が付かないのでしょう?

 

無いのにあると言う、そして動いてないのに、動いていると

信じている、危険なのに安全だと信じる、事実も証拠も無いのにそう信じている矛盾と全く同じ事だと思います。

実例が無い実験段階では、1年先、5年先、10年先の様々な

状態、結果は誰も分かる訳ないのが事実です。

人類の試した事の無いものを取り込まされているのに、

どうしてそんな代物が将来的にも100%安全だから大丈夫と

言えるのか、根拠が無いのにあたかもある様に語る語り口と

全く同じ事です。自分の頭で事実を探り出して繋げてちゃんと

考えないとならないのです。

 

聖書に書いてある神の言葉の事実だけに戻り、神の言葉が伝えている通りを知ろうと探求する時に、初めて”あれ?”書いてある事と矛盾してないか?と疑問に思い気が付く事なのだと思います。

 

聖書に根拠が無いのに、神の言葉が変化したと言う人造の教えが、聖書では無い、変であると聖書に基づき気が付かないと

ならないのです。

 

真実に神の言葉だけを読んで行けば、世間一般に解説している

聖書解釈に矛盾がある事に必ず気が付くはずなのです。

 

ヘブライ人の世界、聖書で語られている世界は、神の言葉は絶対

であり、神は神が人に伝えた教えを途中で曲げる事が無い事実を

知っている人達の世界が聖書に書かれた世界なのです。

 

長い年月しかも2000年近くの間、神の言葉を曲げる教えの

ため、神の言葉が変化すると誤解されてしまった

”神のオリジナルの言葉、教え、ヘブライ聖書の中身”。

 

誤解された理由は、既に早々2世紀の時代から始まったものです。1世紀後半70ADにエルサレムの神殿が崩壊され、

ローマ帝国のユダヤ人達への弾圧は酷く、トラー=神の教えを

教える事、生きる事、神の特有のオリジナル記念日を祝う事を

処刑をもって禁じたのです。ユダヤ人達をエルサレムから追放し、ユダヤ人を大量殺戮し、弾圧に弾圧を重ねて行った

その結果、ユダヤ人は信仰の拠点、イスラエルの神の宮があったエルサレムから追放した事が原因でもあります。

これこそ反キリストの行為。神の教え、神の教えを生きる人、

神の国を破壊する行為をする集団。これは歴史の中でずっと

繰り返されている思想、行為なのです。今の世界も同じ。

神の言葉、神の創造のデザインに反する思想、生き方を主張する

人々の集団。

 

トラー=神の教えに浅く根付かない異邦人達は、もちろん保身のためにトラーを否定するのは今と同じ朝飯前でした。

その結果、お家元教師、パウロの様なユダヤ人の熟練した優れた

トラー学者、教師から全く学ぶ経験もなく、だから西洋人、

異邦人思想で神の記念日、シャバットは第七日目では無く、

第一日目に変えようと言う方針を、既に2世紀の時代に勝手に作ってしまったのです。神の言葉、神の記念日を変えてしまうことが神の前に完全に冒涜だとも気が付かない思想、行動。

 

浸透するまでには、時間がかかりましたが、そう言う逸脱した

教えをする人達が続出し、現代に至るまで歴史の中で神の教えを

否定する教えは継続して作り出されて今に至るのです。

 

福音書以降に書かれている内容は、書いてある通りにちゃんと

読めば、モーセの五書、そして預言書、諸書を固くガードして

生きていた、イエシュア信者達、そしてイエシュアを知らない

ユダヤ人達も同様に同じ教え=トラーを生きていた事実だけが

書かれています。

 

それぞれがそれぞれに、どの様な意識で生きていたのかの

違いがあれど、皆どの人達もトラー=神の教えをガードして

生きる事をしていたのです。

現代の様にトラーを捨てよ!トラーは終わり!などと言う発想

教えは存在しないのが聖書に書かれている世界です。

その様な人がもし1世紀のユダヤ人の世界の中に居たら、即座に追放される、又は偽教師、偽預言者として扱われてしまうのが、

聖書に書かれている事実なのです。聖書に基づけば、

神の言葉を否定する、イコール死に値する冒涜罪だからです。

 

 

 

続く