#665 兼家、その放埓を極めた生涯 from『大鏡』 ~『光る君へ』を楽しむため | 歴史に遊び!歴史に悩む!えびけんの積読・乱読、そして精読

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大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)』での藤原兼家について見ていきたいと思います。

兼家の人生は、その放埓を極めたと評価されている。

(NHK大河ドラマ『光る君へ』で念願の摂政となった兼家(C)NHK)

 

  太政大臣兼家 その放埓をきわめた生涯

大鏡 全現代語訳 全現代語訳 (講談社学術文庫) [ 保坂 弘司 ]』における藤原兼家の生涯が”その放埓をきわめた”と評されています。

(藤原兼家の人物関係図 著者作成)

光る君へ』でも、謀略家かつ剛腕ぶりを見せつけた藤原兼家ですが、道長と同じく三番目の子どもです。

 

公卿として20年、大臣として12年、摂政として5年、太政大臣として2年と、そこで天下をお治めし、ご栄華をお極めになられたのが5年とのことです。ただ、この5年については、人臣として生まれたのに身の程知らずなご行状によって、あまり長く天下をお取りあそばされなかったのだなどと、世間では批判されたそうです。

 

その身の程知らずなご行状として

 ・参内なさる場合に、清涼殿(天皇が日常お住いの御殿)までどれほどの距離もないのに、装束の入紐をはずして、くつろいだ姿でお入りになったこと

 ・天覧相撲の折に、天皇と皇太子もご臨席あそばされているのに、お二方の前の暑いからといって、何もかもを脱ぎ捨てて、お肌着だけでお仕えしたこと

 ・晩年には、住まいの東三条殿の西の対の屋を清涼殿(天皇が日常お住いの御殿)造りにして、内部の設備もすっかり似せて造って、お住いになったこと

 

天皇は自分の孫とはいえ、天皇としての敬いが少ないことを批判されているようです。

 

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