『大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)』での藤原兼家について見ていきたいと思います。
兼家の人生は、その放埓を極めたと評価されている。
(NHK大河ドラマ『光る君へ』で念願の摂政となった兼家(C)NHK)
太政大臣兼家 その放埓をきわめた生涯
『大鏡 全現代語訳 全現代語訳 (講談社学術文庫) [ 保坂 弘司 ]』における藤原兼家の生涯が”その放埓をきわめた”と評されています。
(藤原兼家の人物関係図 著者作成)
『光る君へ』でも、謀略家かつ剛腕ぶりを見せつけた藤原兼家ですが、道長と同じく三番目の子どもです。
公卿として20年、大臣として12年、摂政として5年、太政大臣として2年と、そこで天下をお治めし、ご栄華をお極めになられたのが5年とのことです。ただ、この5年については、人臣として生まれたのに身の程知らずなご行状によって、あまり長く天下をお取りあそばされなかったのだなどと、世間では批判されたそうです。
その身の程知らずなご行状として
・参内なさる場合に、清涼殿(天皇が日常お住いの御殿)までどれほどの距離もないのに、装束の入紐をはずして、くつろいだ姿でお入りになったこと
・天覧相撲の折に、天皇と皇太子もご臨席あそばされているのに、お二方の前の暑いからといって、何もかもを脱ぎ捨てて、お肌着だけでお仕えしたこと
・晩年には、住まいの東三条殿の西の対の屋を清涼殿(天皇が日常お住いの御殿)造りにして、内部の設備もすっかり似せて造って、お住いになったこと
天皇は自分の孫とはいえ、天皇としての敬いが少ないことを批判されているようです。