関白藤原頼忠の息子の藤原公任のやってしまった失言について『大鏡 全現代語訳 (講談社学術文庫)』で見ていきたいと思います。
円融天皇の入内による外戚競争の際に思わず兼家と詮子に行ってしまった当時は本流だった公任
(NHK大河ドラマ『光る君へ』の藤原公任(C)NHK)
太政大臣頼忠の息子、当初は藤原氏本流の跡継ぎの公任
『大鏡 全現代語訳 全現代語訳 (講談社学術文庫) [ 保坂 弘司 ]』における藤原公任のやってしまった失言についてです。
(筆者作成の人物関係図)
『光る君へ』で一条天皇が即位するまでの間は、北家の小野宮流の藤原公任の父の藤原頼忠が関白で、藤氏長者という藤原本流でした。したがって本人も父の後は自分がという思いがあったと想像できますし、登場当初から、一緒に学んでいる道長らに対して自分が上位であるような雰囲気を出している感じがしましたが、それは当然の設定なんだと思います。
ただ、父の藤原頼忠は関白とはいえ、天皇の外戚ではないという弱みがあります。そこで娘の藤原遵子(公任の妹)を円融天皇に入内させます。本流を取り戻そうと考えていた北家九条流の兼家も詮子を入内させます。外戚競争が繰り広げられることになります。
藤原遵子は978(貞元3)年に円融天皇に入内し、982(天元5)年に中宮になります。詮子の方は円融天皇との間に皇子の懐仁親王が生まれていたにもかかわらず、中宮になれませんでした。
このとき、藤原公任は思慮のない失言をしてしまいました。それは藤原兼家の邸で詮子もいる唐三条殿を通ったときに、その邸内を覗き込むようにして
「この東三条殿の女御(詮子)は、いつになったら后にお立ちになるのだろうか」
と言ったことでした。
この方言を他家の方々も、困ったことをおっしゃったものだと言ったそうです。
しかし、その後は円融天皇と兼家の娘の詮子の間に生まれた懐仁親王が即位して一条天皇となり、詮子は皇太后としてお立ちになります。公任はその皇太后詮子の啓上取次の次官としてお供することになります。
詮子のお供の女房の進の内侍から、
「お妹君の生まず女のお后(藤原遵子)は、どちらにいらっしゃいます」
と痛烈なお返しの言葉を受け、公任も前のお返しということが分かり、あのときは調子に乗ってやってしまったけど反省しているという趣旨の発言をしたことが記録されています。
外戚となれるのか、なれないのかで大きく明暗が分かれることや、お互いの嫉妬感情の強さをうかがい知れるエピソードだと思います。