7月23日の大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」について家康領国の家臣にいつどのように伝わったのかを『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』で見ていきます。
わりとすぐに伝わった本能寺の変の情報
(NHK大河ドラマ『どうする家康』の運命の1582年6月2日(C)NHK)
1582(天正10)年6月1日深夜から6月2日朝に発生した明智光秀による主君信長殺しの「本能寺の変」がどのように三河にいる家康家臣の松平家忠に伝わったのでしょうか。
本能寺の変はいつ、どのように伝わったのか?
6月 3日 京の酒井忠次より、家康が帰国したら西国に出陣することが伝えられる。(信長の毛利攻めについて、信長から家康にも出陣要請)
このとき、酒井忠次からあわせて歩兵用の旗指物について、現在使っているものから上方で使われているのと同じような小型の撓(しない)に変えるよう指示が与えられる。
※毛利攻めで上方の慣習と異なる軍備をして笑われないようにしようとする配慮。
タイムラグがあるので、すでにこの知らせが、三河国の家忠に届いたときには本能寺の変は終わってしまっているわけですが、その前の知らせで、家康にも毛利攻め参戦要請が出されていました。
6月 3日酉刻(17~19時)本能寺の変の情報が家忠にも届く。
明智光秀・織田七兵衛信澄の「別心」により信長が討たれたという知らせ
知多半島の西側の港の大野(常滑市)から情報が入る。対岸の伊勢とは水運関係でつながりがあるので、伊勢経由で入ってきたと考えられる。
わずか2日で三河国にまで本能寺の変の情報が届いています。
明智光秀だけでなく、織田信澄も入っています。このように伝えられるのには理由があります。
織田信澄は、光秀の女婿にあたるからです。
6月 4日 岡崎城と緒川城から家忠に以下の情報が伝えられる。
光秀の謀反で信長父子が討たれたのは事実
変の当時は家康は堺にいたこと
この知らせを聞き、家忠は岡崎城に行くと、家康が伊賀・伊勢を通り、大浜(碧南市)に上陸したことを知り、さっそく大浜に迎えに行く。
大浜に迎えに行く最中に、織田信澄の別心は噂であったということが耳に入る。
織田信澄(信長の弟の信行の子&明智光秀の女婿)は織田信孝(信長三男)が殺害
変の当日は長宗我部氏攻撃で丹羽長秀や織田信孝らと大坂に集結、5日に大坂で織田信孝に殺害され、その知らせが家忠の元には8日に届いた。
家忠の妻の叔父水野忠重(刈谷城主)の安否の情報も記載されている。
7日に水野忠重が京で討ち死の報が入る。
9日に京に隠れていて無事との情報が入る。
11日に水野忠重が刈谷城に戻ったことが伝えられた。
「本能寺の変」についての情報は変から2日で伝わっているので早かったわけですが、詳細が分からない中、変当日は堺にいたことが分かったとはいえ主君が無事だったのか、また、親戚(水野忠重)が無事だったのかそれがすぐにわからず大変だったのではないかということが想像できます。
『松平家忠日記を読む』の紹介ブログ記事