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アイコの世直しブログ 

日本人による、日本人のための、日本改革ブログ!
日本人よ、民族の誇りを取り戻せ!!

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日本の伝統的精神であり、また美徳とされている譲り合いや話し合いの精神が、対外的にも通用するとは限らないことは、この国際社会において日本人であるわれわれはだいぶ気づきました。

こうした日本の美徳精神は、海外においては、逆に足元を見られて、不利な立場に追い込まれることのほうが多いですよね。

例えば、日本人と中国人(このブログでは漢民族をさします)、韓国人ではものの考え方、価値観が全く違います。

京都大学の中西輝政教授が、日本のような海洋性の文明と、中国、韓国、ロシアなどの大陸性の文明の相違点を指摘しています。

大陸性文明では「ふっかける文化」で、海洋性文明は「正札の文化」と言い換えられるとしています。

大陸性の文明に所属する国々では、物の値段も最初から高めにふっかけてあるので、値切るという交渉から入るのが常識です。

これは日本では考えられないことなので、日本人のほとんどが値引き交渉が苦手です。

この値切るという文化は、技術が進歩しない理由とも言われています。

日本では、職人さんとお客さんの信頼関係で買い物をしていました。商品を信じて、それに見合った値段だと感謝して買う。そして、職人さんはよりいいものをつくるよう工夫し、努力し、またそれをお客さんが喜ぶ。技術料として正札で買うのが当たり前ですよね。

値引き交渉されるようでは、技術を磨こうとは思わなくなるのが道理です。

正義についても同様で、日本人は正義は一つと考えますが、中国や韓国では交渉次第でどうにでもなる、と考えます。

事実などはどうでもよくて、交渉が全てです。

ですから、歴史的事実からは日本の領土に決まっている竹島を、韓国は自国の固有の領土だと言って憚りませんし、中国も尖閣諸島は中国の領土だと言い張ります。

尖閣諸島だけではありません。
中国人は過去にも口先三寸で、自国の領土でない土地を自国に組み入れることに成功しています。

かつての満州、すなわち現在東北地方と呼ばれている地域やチベットです。

今の中国の東北地方は、中国人の領土だったことは歴史上一度もありません。

東北地方から興った満州族は、漢民族の国、明を攻め、清を建国しました。
ですから、中国人が満州を自国の領土だというのは、どう考えてもおかしいのです。

中華思想の韓国も同じく、白を黒と言い張ってでも自国の主張を通そうとします。

以前から韓国が国際機関に要求し続けているのは、日本海の呼称変更です。

韓国は、19世紀の世界の古地図を調べると、その6割~7割に「東海」との表記があるので、日本海でなく東海に変えるべきだと主張しています。

しかし、日本の外務省が世界各国の図書館、公文書館で古地図、1200枚を調べたところ、「東海」と記してあったのは、たった1枚しかありませんでした!

「いくら『ふっかける文化』とは言え、ほどがある!」と中西教授は呆れています。

こんな根も葉もない論拠を平然と持ち出してくる国が中国や韓国なのです。

しかも両国は、国家の戦略として反日で凝り固まっており、現在はアジア各国を巻き込み、日本包囲網を敷こうとしています。

これを撥ねかえすには、彼らに負けない強かさと正しい知識が必要です。
中韓両国のまねをして道理に適わない主張をしては、やがて国際的な信用を失い孤立します。

堂々と正しい筋道で主張すべきことは主張し、優しさを失わない強かな国家、武士道精神の国家に生まれ変わって、日本を蘇らせたいですね!

そのような資質をもつ指導者を探さなければいけません。

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本日の唱歌は、「かぐや姫」です。
せつない感じですが、しっとりとした曲をお楽しみください☆


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大西瀧治郎(たきじろう)という軍人をご存知でしょうか。

大西瀧治郎中将は、((明治24年)1891年6月2日 - (昭和20年)1945年8月16日)兵庫県氷上郡芦田村(現在の丹波市青垣町)出身。海軍兵学校第40期生です。

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広瀬武夫中佐に憧れて海軍を志した人です。

連合艦隊司令長官の山本五十六に信頼されていた人で、真珠湾攻撃の基本計画を源田実中佐とらと共に作成しました。

大西中将は、特攻隊の生みの親と言われております。
(これについては様々な意見がありますが、ここではその様に明記いたします)

特攻隊に関して、私はその是非を今の人間が裁くのはおかしなことだと思っています。

以前ブログにも載せましたが、日本だけが特攻隊に対して愚の作戦だ、命を軽々しく扱っているなどと批判していますが、フィリピン等東南アジアの国々では高く評価され、尊敬さえされています。

大西中将も、部下たちに対し「特攻なんてものは戦略の外道だよ」と語っていたと記録があります。

しかし、それでも、負け戦を行った日本の惨状を救う唯一の手立ては体当たり攻撃以外に道はないと考えます。

当時の青年たちは、死しても国を護りたいという純粋な気持ちがありました。

平和ボケした現在の日本では、命をかけて国を護りたいなどといったら、変人扱いされ極右だと言われかねませんが、マスコミが大好きな徴兵制度があるお隣の韓国の青年に尋ねても、国に危機が迫ってくれば、戦うのは当たり前だと答えます。

先日のブログでも載せたカンボジアの子供たちでさえ、希望に輝く目で国のために戦いたいと答えるのです。

戦争を放棄し、ミサイルを打ち込まれても話し合いで決着をと暢気なことを言う日本が異常なのです。大東亜戦争の後も世界では戦争が絶えません。

国を家族に置き換えてみればわかります。

国家とは、家族の集合体を意味する言葉です。

日本は家族という単位が集まってできた国家ですから、日本人にとって国家の危機は家族の危機と同じです。

しかし、現在の日本では家族が壊れかけています。つまり国が危なくなっているのは当然の結末なのかもしれません。

今の日本では、友達を大事にしよう、家族を大事にしよう、家族、家族とTV番組でも取り上げますが、その反面、国は悪いことをし、国民を苦しめるものだと教えます。

これは、つまり統一性のない教育方針だと考えられます。

だから、子供たち、若者が道に迷うのです。

国民のために国があるんじゃない! 国のために国民がいるのです!!
国を良くしようと国民が立ち上がらずしてどうしようというのでしょうか。

大西中将は、特攻の精神を「身を殺して仁をなす、わが身を捨てて公を助ける」と言っています。

「特攻によって日本はアメリカに勝てないまでも負けない。その精神が続く限り日本は亡国にならない」と考えていました。

「国を救うものは大臣でも軍令部総長でもない。諸子のごとく純粋にして気力に満ちた若者である」と訓示したそうです。

昭和20年5月、大西中将は、軍令部次長として内地に帰還しました。
しかし彼は、同じ都内にある自宅へは帰らず、官舎に独居しました。

それを聞いた者が、
「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めたそうです。
けれども大西中将は、

「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。」と、目に涙をためて答えたそうです。

終戦の翌日、夜半に中将は割腹自決をします。
翌朝、発見されたときにはまだ息がありました。しかし医者の手当てを拒み、苦しみながら息絶えました。

発見されてから約6時間経過していました。

普通割腹には、軽い短刀を使い、介錯を頼みます。
しかし、大西中将は、重たくて長い軍刀を使いました。
十字に腹を切り、古式の作法どおり、頚動脈を切ろうとしますが、重たすぎてその体力が残っていなかったのです。

遺書には、特攻隊の青年たちへの感謝と、将来を背負って立つ青年に託する思いが切々と綴られていたそうです。

特攻隊の英霊に曰す(いわす)
善く戦ひたり 深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり
然れ共(しかれども)其(そ)の信念は 遂に達成し得ざるに至れり
吾(われ)、死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に、一般青壮年に告ぐ
我が死にして 軽挙は利得行為なるを思ひ
聖旨(せいし)に副ひ(そい)奉り(たてまつり)、自重忍苦するの誠ともならば幸なり
隠忍(いんにん)するとも日本人たるの矜持(きょうじ)を失ふ勿れ(なかれ)
諸子は国の宝なり
平時に処し 猶ほ(なお)克く(よく)特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を尽くせよ

軽挙妄動に走らず、いつも公につくす精神を忘れず、日本民族の福祉と世界人類の平和に最善を尽くせ・・・・。

底にあるのは武士道精神から湧き出た崇高な理想です。

大西中将の武士道精神は、日本の国という小さな枠組みに収まっていたわけではありません。
思いは人類全体の平和にまで及んでいました。

そのためには身を捨てても、米英には勝たなければならないというのが中将の思いでした。

これが先の戦争での日本の思いを語っていると思います。

日本は日本のためだけに戦ったのではありません。

米英等欧米諸国に支配され苦しめられていた、アジア諸国のためにも蜂起したのです。

日本の軍人さんのほとんどが戦争は嫌いなはずです。戦争好きのどこかの国とは違います。現代の日本人が戦争の良し悪しを議論する前にやるべきことはたくさんあります。
命をかけて戦ってくださった英霊のために、まずは日本を立て直さねば、日本がしっかりしなければ世界平和はありません。

まずはわが国。土台をしっかりして、そして次に世界のために働こうではありませんか。ご賛同いただけます方クリック感謝いたします!
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特攻隊の手紙を朗読してる動画を載せます。
私はこの動画を見ると本当に切なく心が痛みます。
朗読者の嗚咽が更なる涙を誘います。
清らかでまっすぐで高い精神性を感じずにはいられない特攻隊のお手紙、是非ご覧ください。
あの悲惨な時代があり、今の平和があることを忘れてはいけませんね。


最後までお読みいただきありがとうございます。
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橋本左内は、(天保5年3月11日(1834年4月19日)~安政6年10月7日(1859年11月1日))は幕末期の越前福井藩士です。

吉田松陰と並んで、幕末の最も優れた志士と言われた人です。

左内は、不幸にも安政の大獄で26歳という若さで処刑されますが、そのときの落ち着いた態度に、牢獄の役人も敬意を払わずにはおれなかったといわれています。

江戸幕府の大老 井伊直弼や老中 間部詮勝(まなべ あきかつ)らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また徳川家茂を将軍継嗣に決定しました。
安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件です。弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士らで、連座した者は100人以上にのぼりました。

左内が学んだ大阪の適塾の緒方洪庵は、「橋本はいつかわが適塾の名前を高めるだろう」と左内を絶賛していたそうです。

左内は、この適塾に学んでいたとき、毎夜密かに塾を抜け出ては、橋の下で病気に苦しむ乞食の治療や、お産の手伝いまでしていたという人間愛の篤い人でもありました。

水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷隆盛との親交が深く、西郷は7歳年上ながらも「友として最も尊敬するのは橋本左内だ」と言っていたそうです。

左内の政見は素晴しいものがあり、当時日本は鎖国の状態でしたが、「いずれ世界には国際連盟というものができ、中心はイギリスかロシアといった力の強い国がなるだろう。日本が生き抜くには開国をして、そのどちらかの国と同盟を結ばなければならない」というものでした。

この意見を聞いた、幕府の優秀な役人であった川路聖謨(かわじ としあきら)は「体の半分を切り取られたような感じがした」とそのときの心境を残しています。

また、同じ幕府の役人だった水野筑前守に「橋本左内を殺したことで、幕府は滅んだのだ」と言わしめたことは有名です。

そんな左内が、15歳のときに日頃の心がけを5項目に書き記した『啓発録』(講談社学術文庫所収)という手記があります。

左内は手記の中で、一番初めに「子供じみた甘えを脱却せよ」と題して、次のように述べています。

「遊びにばかり熱中し、甘いものをむさぼり食い、毎日怠けて安楽に流れる。それも幼い子供のうちは強いて責めるほどのこともないが、学を志す十三、四にもなって、そんな気持ちが微塵でも残っていたなら、何をしても決して上達することはない。まして天下一流の大人物になることなど程遠い。」

誰しも心当たりのある内容じゃないでしょうか。
耳が痛いです・・・。

ほか4項目はざっとこういう内容です。

恥辱を知って、人に負けまいと強く決意せよ。
自分の目標を揺ぎなく定め、ひたすら精進せよ。
優れた人物の立派な行いを見習い、実行せよ。
自分の向上につながる友を択(えら)べ。

と、あります。

ご興味ある方は是非「啓発録」お読みください。

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今日の歌は「あの子はたあれ」です。
お楽しみください☆


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今日も日本の偉人をご紹介したいと思います。
全国の小学校に銅像として置かれてることが多いと思われます二宮金次郎についてです。

通称 二宮金次郎(金治郎)。諱(いみな)は尊徳(そんとく)、正確には、たかのりと読む。

諱とは、人の死後にその人を尊んで贈る称号のこと。

古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を両方持つようになった。

諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられていたそうです。

二宮尊徳(天明7年7月23日(1787年9月4日)~安政3年10月20日(1856年11月17日))は、日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家です。

相模国足柄上郡栢山村(かやまむら)(現在の神奈川県小田原市栢山)に百姓利右衛門の長男として生まれました。

二宮金次郎は、苦難に遭遇しても、それを恨んだりせず、じっと耐え、努力し、自らの手で切り開くことのできる強い人でした。

金次郎に最初の苦難が訪れたのは、12歳の時です。父が病気で倒れ、彼は父に代わって川の堤防工事にでるようになりました。

しかし、12歳の少年では体力的に大人と同じ仕事ができません。そこで彼は、それには甘んじることなく、逆にすまなく思い、夜中にわらじを作って、それを共に働いている大人たちに配ってまわったそうです。

14歳になると父が亡くなり、朝は山でたきぎを採ってそれを売り、夜はわらじを作ったりして母を助け、2人の弟の世話をしながら一家を支えました。

16歳で母を亡くし、財産も全てなくなってしまい、弟たちとも離れ離れになり、金次郎は伯父二宮万兵衛の家に世話になることになりました。

金次郎は仕事を終えた晩に勉強をしたいと思いましたが、この伯父が行灯の「油がもったいない」と言って許してくれませんでした。そこで、金次郎は、わずかな空き地を開墾して、自分で菜種を作り、油代を得て、毎晩勉強できるようにしました。

伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を開墾し、人が手をつけなかった沼地や空き地を田畑に変身させ、収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功したそうです。

この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承があるそうです!!
また体重は94kgあったとも言われているようです。

そうした実力が認められ、金次郎は農民でしたが、地元の小田原藩(現在の神奈川県)から、農村の長官として貧しい村を改革するように命じられました。

そのときの逸話が残っています。
ある農村の指導者が、農民の信頼を失って金次郎のところに相談にやってきました。

金次郎が彼に教えたことは、「自分が儲けようとして、他の人たちのことを考えないのは、動物と同じで、人間として失格です。自分が得をしようという気持ちを捨てて、全財産を村の人たちのために使うなら、あなたはきっと人々から信頼されるようになるでしょう。」ということでした。

素晴しい言葉ですね。

人間には、自分を犠牲にして、他人の為に尽くすという動物にはない尊いところがあるのだと教えてくれています。

その指導者は、正直に実行しました。

金次郎の偉いところは、ただ助言するだけでなく、自らも実行するところです。

この指導者が全財産を投げ打って村人のために働いている間、金次郎は自分の蓄えを使って、その指導者の家族が困らないように援助をしたそうです。

しかし、この援助は短期間ですみました。
指導者は村人の信頼を得て、以前よりも増して豊かな生活が送れるようになったからです。


彼は農民に語ったそうです。
「真面目にこつこつ自分の力で努力すること」「無駄遣いをせず倹約を続けていけば必ず報われる」

それを自ら実行してみせて、ひどく貧乏だった数百の農村を、豊かな村に変身させることに見事に成功しました。

群馬県桜町の建て直しのお話は有名です。
桜町で尊徳は、豊田というお侍さんの嫌がらせを受けます。武士である自分に指図をする農民出の尊徳が許せなかったのですね。

尊徳とは逆の命令を村人に出したり、ならずものを連れてきて暴れさせたり、挙句の果てには、尊徳が町を潰そうとしているとお殿様に報告をします。

お殿様より呼び出された尊徳は、一切言い訳をせず、自分の非を詫びます。
そして、村中から背かれてしまっていた尊徳は、病の床についてしまいます。

その後、約2ヶ月ほど、行方不明になります。
その間、どこを放浪していたのかはわかりませんが、最後の20日間ほどは、断食・座禅修行をしていたそうです。

尊徳はこのとき「不動」の悟りを開きました。

『一事を成就するには、どんなことがあっても毅然として動かない。』

そして、再び桜町に戻った尊徳は、町の建て直しに成功します。

彼の指導がいかに優れていたかの証拠に、天保の飢饉のときに桜町では、餓死者がゼロだったということです。

これは、尊徳の「豊かなときほど、分限をわきまえて少しずつでも蓄えをしておく」という教えを守ったからです。

欲を出すのもいい加減にし、分限をわきまえ、余ったものは人に譲りなさいという教えです。

貧しく人に譲るものがない場合は、笑顔を譲るだけでもいいと説いていたそうです。

また、夏前に食べたなすが秋なすの味がするということで、冷夏になることを予測して、冷害に強い稗(ひえ)を植えさせ、飢饉から村人を救ったという話も残っています。


二宮金次郎を尊敬している偉人は世界にもいて、台湾では、小・中学校で取り上げられ、人間的見本として教えられているそうです。
また、イギリスを建て直し「鉄の女」の異名を持つ、マーガレット・サッチャー元首相も金次郎の教えに感銘した一人だったそうです。

今の時代、不況やら就職難やら色んなことを言い訳にして、何も行動を起こせない人が多いですよね。
是非二宮尊徳を真似して、逆境を嘆くのではなく、行動を起こすことで成功を呼び寄せてください。
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今日はやはりこの歌をお聞きください♪


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日本には立派な人がたくさんいます。そしてその偉人たちにまつわる素晴しい逸話がたくさんあります。
私が小学生の時の国語の教科書には、日本の昔話だけでなく、スーホーの白い馬(モンゴル民話)や大きなかぶ(ロシア民話)などいくつもの外国民話も載っていました。

私は何もそれが悪いとは思ってはいません。

素晴しいお話の中から学ぶべきことはたくさんあるので、国内外問わず為になるならば利用するのもいいことでしょう。

しかし、その念頭に常に置いてほしい考えは、「まずは日本」です。

まずは、日本の神話、日本の昔話、日本の偉人、日本語、日本について、です。
その後か、もしくは同時に少しずつ海外のことも取り入れてもいいと思っています。

いくら海外のいい話を聞いたとしても、実生活との違いで違和感を覚え、なかなか自分の行動に取り入れることは難しいと思います。

日本人ならば日本のお話から人生を学ぶ、それが一番すんなりと心に染みると思います。

もし海外の民話等を取り入れるならば、願わくば、わが国と友好的な国のお話を取り入れてほしいですね。

子供たちには、偏見を植え付けないのはいいことだと思いますが、歴史との関係性などを考慮して題材を選んで欲しいと思います。

また、小学校の授業からなぜ英語を学ばなければならないのでしょうか、意味がわかりません。

小さいときから学べば、その後苦労しないで済むとか、違和感なく耳で覚えられるとか言われていますが、私立ならばまだしも、なぜ公立校でそんなことをさせるのかが理解できません。

英語は将来必要だと思うものが自主的に学べばいいし、何もネイティブ並に話せるようになることを目標とする必要はないのです。日本人なんですから。

英語なんかに大事な時間を割くのならば、まずは、国語や国史を学ばせるべきだと思います。

それが、個人の自信に繋がっていくと私は本気で思っています。
日本語もろくに話せない若者が多すぎます。自国の歴史を知らずにどうして外国になんて行けるのでしょうか。

英語がいくら話せても、日本のことを話せないならば意味はありません。

中身がないけど外国語をぺらぺら話す人間ばかりを育成してどうするのでしょうか。

土台がなければ何にもなりません。

本居宣長の話を少ししたいと思います。
彼は、伊勢国松阪(現在三重県松阪市)出身の江戸時代の人です。
医者でもあり国学者でもありました。

宣長は、弟子が490人いたそうですが、弟子たちに「先生の説でも疑わしいと思えば、いくらでも反論せよ」というなど、弟子や学問に対して常に謙虚な態度で接した先生で、人情味が厚く、病人を診てほしいと頼まれれば、講義の途中でも駆けつけたという人でした。

宣長が、34歳の時、松阪を訪れていた『万葉集』研究の第一人者で国学者の賀茂真淵(かもの まぶち)を訪ね、一晩だけ真淵から教えを受けたことがありました。

この時真淵は、宣長に「学問は順序正しく進むことが大切で、まず低いところから土台をつくって、それから一歩一歩高く高く上がり、最後の目的に達するようにしなさい」と助言したそうです。

宣長は、この一度きりの出会いの感銘を忘れず、当時最も難解であると考えられていた『古事記』の研究を始めます。

そしてその後35年間研究に没頭し、69歳になってついに『古事記伝』(全44巻)という大著述を完成させました!

宣長は、毎日同じ時間帯に同じ時間をかけて繰り返し、勉強したそうです。

井戸の位置を正確につきとめても、掘り方が浅ければせっかくの水も得られません。水を得るために土を深く掘り下げていくという地道な作業が必要なのです。

可能性を広げようとして色々手を出してもダメなのです。

信じた目標ができたならば、「じっと我慢して勉強を続ける」。それができる人のみが、天才といわれる人となるのですね。

日本人はまず、日本語で日本のことをしっかり学ぶべきです。
それが、土台となって、ゆるぎない自信となるのです。

その後は、個人が興味をもつことを突き詰めていけばいいのです。

大事な小学校教育では、是非日本語で日本のことを学ばせるべきだと思います。

それが、素晴しい立派な人間をつくる近道になると信じています。

いくつになっても、始めることに遅いということはありません。
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本日の唱歌は「春の小川」です。
先日春一番が吹いたそうですね。
もうじき暖かな春の日です。
どうぞお聞きください。


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