二宮尊徳の行いに学ぶ。 | アイコの世直しブログ 

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今日も日本の偉人をご紹介したいと思います。
全国の小学校に銅像として置かれてることが多いと思われます二宮金次郎についてです。

通称 二宮金次郎(金治郎)。諱(いみな)は尊徳(そんとく)、正確には、たかのりと読む。

諱とは、人の死後にその人を尊んで贈る称号のこと。

古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を両方持つようになった。

諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられていたそうです。

二宮尊徳(天明7年7月23日(1787年9月4日)~安政3年10月20日(1856年11月17日))は、日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家です。

相模国足柄上郡栢山村(かやまむら)(現在の神奈川県小田原市栢山)に百姓利右衛門の長男として生まれました。

二宮金次郎は、苦難に遭遇しても、それを恨んだりせず、じっと耐え、努力し、自らの手で切り開くことのできる強い人でした。

金次郎に最初の苦難が訪れたのは、12歳の時です。父が病気で倒れ、彼は父に代わって川の堤防工事にでるようになりました。

しかし、12歳の少年では体力的に大人と同じ仕事ができません。そこで彼は、それには甘んじることなく、逆にすまなく思い、夜中にわらじを作って、それを共に働いている大人たちに配ってまわったそうです。

14歳になると父が亡くなり、朝は山でたきぎを採ってそれを売り、夜はわらじを作ったりして母を助け、2人の弟の世話をしながら一家を支えました。

16歳で母を亡くし、財産も全てなくなってしまい、弟たちとも離れ離れになり、金次郎は伯父二宮万兵衛の家に世話になることになりました。

金次郎は仕事を終えた晩に勉強をしたいと思いましたが、この伯父が行灯の「油がもったいない」と言って許してくれませんでした。そこで、金次郎は、わずかな空き地を開墾して、自分で菜種を作り、油代を得て、毎晩勉強できるようにしました。

伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を開墾し、人が手をつけなかった沼地や空き地を田畑に変身させ、収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功したそうです。

この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承があるそうです!!
また体重は94kgあったとも言われているようです。

そうした実力が認められ、金次郎は農民でしたが、地元の小田原藩(現在の神奈川県)から、農村の長官として貧しい村を改革するように命じられました。

そのときの逸話が残っています。
ある農村の指導者が、農民の信頼を失って金次郎のところに相談にやってきました。

金次郎が彼に教えたことは、「自分が儲けようとして、他の人たちのことを考えないのは、動物と同じで、人間として失格です。自分が得をしようという気持ちを捨てて、全財産を村の人たちのために使うなら、あなたはきっと人々から信頼されるようになるでしょう。」ということでした。

素晴しい言葉ですね。

人間には、自分を犠牲にして、他人の為に尽くすという動物にはない尊いところがあるのだと教えてくれています。

その指導者は、正直に実行しました。

金次郎の偉いところは、ただ助言するだけでなく、自らも実行するところです。

この指導者が全財産を投げ打って村人のために働いている間、金次郎は自分の蓄えを使って、その指導者の家族が困らないように援助をしたそうです。

しかし、この援助は短期間ですみました。
指導者は村人の信頼を得て、以前よりも増して豊かな生活が送れるようになったからです。


彼は農民に語ったそうです。
「真面目にこつこつ自分の力で努力すること」「無駄遣いをせず倹約を続けていけば必ず報われる」

それを自ら実行してみせて、ひどく貧乏だった数百の農村を、豊かな村に変身させることに見事に成功しました。

群馬県桜町の建て直しのお話は有名です。
桜町で尊徳は、豊田というお侍さんの嫌がらせを受けます。武士である自分に指図をする農民出の尊徳が許せなかったのですね。

尊徳とは逆の命令を村人に出したり、ならずものを連れてきて暴れさせたり、挙句の果てには、尊徳が町を潰そうとしているとお殿様に報告をします。

お殿様より呼び出された尊徳は、一切言い訳をせず、自分の非を詫びます。
そして、村中から背かれてしまっていた尊徳は、病の床についてしまいます。

その後、約2ヶ月ほど、行方不明になります。
その間、どこを放浪していたのかはわかりませんが、最後の20日間ほどは、断食・座禅修行をしていたそうです。

尊徳はこのとき「不動」の悟りを開きました。

『一事を成就するには、どんなことがあっても毅然として動かない。』

そして、再び桜町に戻った尊徳は、町の建て直しに成功します。

彼の指導がいかに優れていたかの証拠に、天保の飢饉のときに桜町では、餓死者がゼロだったということです。

これは、尊徳の「豊かなときほど、分限をわきまえて少しずつでも蓄えをしておく」という教えを守ったからです。

欲を出すのもいい加減にし、分限をわきまえ、余ったものは人に譲りなさいという教えです。

貧しく人に譲るものがない場合は、笑顔を譲るだけでもいいと説いていたそうです。

また、夏前に食べたなすが秋なすの味がするということで、冷夏になることを予測して、冷害に強い稗(ひえ)を植えさせ、飢饉から村人を救ったという話も残っています。


二宮金次郎を尊敬している偉人は世界にもいて、台湾では、小・中学校で取り上げられ、人間的見本として教えられているそうです。
また、イギリスを建て直し「鉄の女」の異名を持つ、マーガレット・サッチャー元首相も金次郎の教えに感銘した一人だったそうです。

今の時代、不況やら就職難やら色んなことを言い訳にして、何も行動を起こせない人が多いですよね。
是非二宮尊徳を真似して、逆境を嘆くのではなく、行動を起こすことで成功を呼び寄せてください。
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今日はやはりこの歌をお聞きください♪


ありがとうござました。
どうぞ穏やかな一日をお過ごしくださいませ☆