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日本人による、日本人のための、日本改革ブログ!
日本人よ、民族の誇りを取り戻せ!!


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明治神宮に参拝し、感謝の意を伝えてきました。
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今回の日本帰省で、私は神社や先にご報告致しました多摩御陵など、たくさん訪れることができました。

まず、箱根神社に行きました。神社には樹齢何百年といった木がたくさんあり、澄んだ空気でマイナスイオン全開という気持ちのいい場所なので、元気をもらいに行きました。

そこで、伊勢神宮の遷宮にあたり浄財を募っていたので、千円ですが(><;)奉納させていただきました。

そうしましたら、それを見せれば神宮本堂の中に入れるというパンフレットを頂きました。たった千円の浄財ですが、あの中に入れるなんて本当に光栄です。期限付きではなかったので、近いうちに是非伊勢を訪れ、中に入りたいと思います!
その際は、正装で行かなければなりません。(着物着たいなぁ~と思いました)

また千葉の護国神社にも行きました。
この近くに以前住んでいたことがあり、陸軍・海軍等の慰霊碑があることを知っていたので、改めてまた訪れてみました。

護国神社の右手にある広場に行くといくつもの銅像や慰霊碑があります。
まず最初にあるのが少女の像。シベリア強制抑留死没者千葉県慰霊碑です。(平成8年建立)
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左)愛馬慰霊の碑、右)支那駐屯歩兵第二連隊慰霊碑(昭和54年建立)。
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忠霊塔です。
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海軍の碑。
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他にもいくつもあります。

そして、この護国神社にて、「あゝ特攻」勇士之像建立の浄財奉納を三千円ほどさせていただきました。
千葉縣護国神社の境内に建立の予定だそうです。

千葉縣護国神社ホームページ

今大きな神社は別として、小さい近所にあるような氏神様、土地神様が祭られているような神社は財政が厳しいのではないかと思います。

是非みなさま、そういった神社に浄財をなさってください。
もちろんご負担にならない範囲でお願いします!
みなさんの力で神社は守れます!

目に付いたこういった活動をこれからも行っていきたいと思います。

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最近小学校、中学校などの卒業式、学校行事の送別会などで、仰げば尊しを歌わなくなってるそうですね。流行歌を歌うそうで・・・。私はそれは、愚行だと思います。
学校行事、しかも厳粛な卒業式等で流行歌を歌うとは!
教育の場をなんだと思っているんでしょうか。
楽しければいいというものではありません。
厳粛なムードというものは必要です。
好きな歌はどこででもいつでも好きな時に歌えばいい、でも仰げば尊しは学生時代にしか歌えません。
是非、仰げば尊し、子供たちに歌わせてあげてください!!素晴しく美しい思い出になると思います。

ありがとうございました!
今日も笑顔でお過ごしください♪
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東郷神社に行って参りました。
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東郷平八郎は、江戸時代の弘化4年12月22日に薩摩藩士として生まれ、昭和9年5月30日に亡くなりました。
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何度かこのブログでも取り上げていますので、詳しくはそちらでご覧ください。
「東郷平八郎に触発されたルーズベルト」

原宿駅竹下口を出て徒歩5分くらいです。
私は、にぎやかな竹下通りを抜けて行きました。

東郷元帥自身は、自分を祭った神社を建てることに大反対だったそうです。
乃木将軍が亡くなって、軍神とした神社を建立する話がでたときに、ならば東郷神社もという話がでているのを聞き、「わしはまだ生きておる!」と激怒したということです。

しかし、東郷元帥が亡くなると全国から東郷神社設立の希望の声が沸きあがり、「財団法人東郷元帥記念会」を設立し、昭和15年5月27日(海軍記念日)に御鎮座祭がおこなわれ現在に至ります。
東郷神社は、渋谷のほかに、福岡県福津市にあるようです。

戦災し一度焼失しておりますが、再建されることを聞き、東郷元帥を崇拝していた米海軍ニミッツ提督は、自著『太平洋海戦史』の日本語版の謝礼金を「アメリカ海軍の名において東郷神社再建奉賛会に寄贈したい」と申し出たそうです。

昭和39年、神社の復興が成ったときニミッツは深く喜び、再び次の言葉を写真とともに寄せてきたと伝えられています。
「日本の皆さん、私はもっとも偉大なる海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます。」と。


東郷神社正面より撮影。
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手前にあった灯篭です。国運隆昌と書かれていました。
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正面右側の灯篭には、神徳悠久と書かれていました。
神徳悠久とは、「神の威徳(威厳と人徳)が果てしなく続く」という意味。
この場合は、神=軍神 東郷元帥の威徳ということだと思います。
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こちらで買い求めたお守りはこちら。
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Z旗(ゼット旗)デザインのお守りです。

Z旗とは、このお守りに書かれてる旗のことですが、黄・青・赤・黒の四色で染められた信号旗です。

信号旗とは、船同士の意思疎通に使われるもので、アルファベットや数字など、万国共通のデザインとなります。

Z旗には、アルファベットのZを示すほかに「タグボート(曳船)がほしい」 という意味と、また漁場では「投網中である」という意味があり、 これは現在も使用されています。

それ以外の使用法として、イギリスのネルソン提督が、
1805年のトラファルガー海戦の時、「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という意味を込めて、 はじめて用いたと言われます。

そして、日本では日露戦争の日本海海戦に際して、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗をマストに掲揚して全艦隊の士気の高揚を図った出来事が有名です。

その時の意味は「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」。この文章は、名文家として有名な秋山真之の作だそうです。

また、Zがアルファベットの最後の文字であることから、「この戦いに敗れれば後がない」という意味もあったということです。

日本海海戦の逸話により日本海軍ではZ旗は特別な意味を持つこととなり日本海海戦以後、重要な艦隊戦の際にZ旗を掲揚することが慣例化しました。

「Z旗」の慣例は今日でも、スポーツ競技、選挙、受験、そして企業の開発競争など、勝利を祈願する「一戦」に於て用いられています。

企業などでは、社運を賭けた商品にZコードを用いたり、昭和41年にはトヨタ自動車は、日産サニーに対抗する新エンジンの開発を急いでおり、その際全ての関連書類に朱色でZと印を押し、「すべての作業に優先せよ」という意味を込めたそうです。そうして誕生した車が「初代カローラ」だそうです。

このZ旗。私は中3のときに先生から話を聞いた覚えがあります。具体的な内容は残念ながら覚えていませんが、日本の歴史において輝かしい過去があり、逸話があり、そういったものを語り継いでいくというのもすばらしいものだと思います。

是非みなさん渋谷、明治神宮等にお越しの際は、お近くの東郷神社にまで足をのばしてみてくださいね。庭園もありキレイなところです。

東郷神社ホームページ

東郷元帥の力を今こそお借りしたい。そういう思いで参拝してきました。皆様も是非!
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今日はこちらの動画を是非ご覧頂けたらと思います。
流星湘南堂さんの素晴しい動画です。


ありがとうございました!
今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ☆
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不幸が訪れたときにも困難なときにも態度を変えない人は立派ですよね。

今日は高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)という人のお話をしたいと思います。

嘉兵衛(明和6年1月1日(1769年2月7日)~文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商です。幼名は菊弥。

淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれましたが、漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て、廻船業者を志しました。

1790年に樽廻船(たるかいせん)(江戸時代に、主に上方から江戸に酒荷を輸送するために用いられた廻船(貨物船)のこと)の水主から、船頭となりました。

紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯めます。

寛政7年(1795年)には、兵庫の北風家(兵庫県の旧家)の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出しました。

その後、近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、蝦夷地交易を許可されました。
幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となります。

また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者でもあります。
近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行いました。

択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に貢献しました。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されます。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇しました。

文化3年(1806年)、箱館の大火で街の大半を焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていきました。
市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施します。
造船所も建設し、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していきました。

江戸時代の航海というのは、まさに命がけで現代よりも困難だったことはみなさんご承知の通りです。

操船の難しさもさることながら、海難による人や荷物、船の損害という、絶えず付きまとう困難や危険をいつも考えなければなりません。

江戸時代の船というのは終着の港湾を見ながら破船することが多く、気の緩みは何にも増して大敵でしたから、それに対処する気構えや操船の技術を練り、準備することを嘉平衛は怠りませんでした。

その結果、当時の造船・航海技術からすれば驚くべきことに、嘉平衛の一代において、彼の持ち船は一度も破損・難船しなかったといいます。


ある日、嘉平衛は、千島列島を航海中、不運にもロシアの軍艦に拉致されてしまいました。

当時ロシア軍艦が択捉島の日本人や千島列島付近を航海する日本船を襲ったりする事件があり、幕府がロシアの軍人ゴローニン以下8人を捕まえ、捕虜にした直後で、たまたま通りかかった嘉平衛の船がこのことへの報復とされたのです。

この時、連れて行かれる嘉平衛を見て、部下の水夫全員が「自分も是非一緒に連れていってください」と頼んだのです。

この光景を見たロシア艦の艦長リコルド少佐は、「世にも感激的な場面」と後に手記に記し「あやうく自分の方針を変更しようと思ったほどだった」といいます。

嘉平衛は、部下に対して決していばらない人でした。それどころか、部下の全てにあらゆることを親切に教え、彼らの生活まで気遣うという人情味があり、底抜けに明るい性格の船頭さんだったそうです。

当時、ロシア人は択捉島や千島列島での事件によって、日本人にたいへん恐れられていました。
嘉平衛ももちろん恐怖心はあったでしょうが、彼はロシア人の中にあってもその行動は冷静で大胆でした。

嘉平衛が捕まえられてまもなく、彼を乗せたロシア軍艦が暴風に遭いました。
危うく島にぶつかって破船するところを、なんと、捕虜である嘉平衛が大声を出してロシア水平たちを動かし、帆をおろさせ、すべての碇を海に投げ込ませて救ったという快事がありました。

ロシア軍艦の艦長の手記の中で、嘉平衛について「高潔な日本人」「人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい人」「どういう状況下でも嘘がなく、快活で度量が大きく、聡明な人物だ」という最高の賛辞を贈り、敬意を表しています。

彼と接したロシア人たちも、「気品と教養と優しさをたたえたロシアの中でもまれな器の大きい人物」と書いています。

また彼は、幕府の侍から「嘉平衛は、商人というより仁者だ」とか「嘉平衛は戦国時代の武将のような人だ」といわれるほど、器量・才識とともに優れたものを持った人物でした。

彼は、日頃から浄瑠璃本をよく読み、ロシアに拿捕されたときもそれを手放さかったといいます。浄瑠璃本には、義理の堅さと名誉を重んずる精神を強調する物語が数多く見られます。

翌年嘉平衛は、リコルドを説得して帰国を果たし、日本とロシアの外交交渉の橋渡しをつとめ、ゴローニン釈放を実現させました。

いかなる悲運にも屈せず、勇気を持ち続け、捕虜にした敵対国の人々をも魅了し、「私の本当の友」とまで言わしめた高田屋嘉平衛でした。

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今日の歌は「森の小人」です。
聞いた事がある方もいらっしゃると思います。
どうぞお楽しみください☆


最後までお読みいただきありがとうございました。
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私はブログを書くにあたり、興味を持った内容をネットで調べたり自宅にある書物を探したりして文章をまとめてUPしています。

もともとは、夫が近代史に興味があり、昔から色んな本を通じて知識を高めていましたが、私はそれをただ聞くだけでした。自ら近代史について「知りたい」と思ったことはなく、ただ、夫の話を聞くだけだったので彼と同じような思想を持つようになっていました。

私は子供の頃から歴史が好きで、でも、日本人の多くが歴史好きというと、戦国時代や江戸時代がほとんどですよね?わたしもその例にもれず幕末が好きでした。

しかし、近代史に目覚めたのは、やはり今住んでいる国に関係があります。
海外在住の経験があると、自国への思いが強まるとよく言われます。

私もその一人でした。

住んでみると、海外旅行ではわからない、その国の文化や人々の習慣に触れ、逆に、日本人の素晴しさを再認識される人は多いと思います。

そして昨年9月に起こった「尖閣諸島沖での追突事件」あれを機に護国への思いが一気に高まったのは事実です。

日本人の若者の中には私と同じようにあの事件がきっかけで日本の領土というものへの認識が生まれた人が多いのではないでしょうか。

あの事件は一気に私たちを目覚めさせました。

おぼろげだった防衛という言葉が、現実味を帯び目の前に現れたという思いです。

毎日の日々の中であまり考えないことですが、教育というものは本当に大切です。

学生時代の教育(=植え付け)によりその個人の思想は大方決まります。

そして彼らが大人になり社会で活躍しだすのが、教育を受けてから大体20年~30年たってからです。企業内では、思い通りに働けるようになるのが40代半ば以降でしょうか、政治の世界では、50代、60代以降にならないとなかなか中心に立つことはできませんよね。

今日本を動かしているのは、戦後教育を受けた人たちです。

つまりアメリカによりねじ曲げられた教育で育った人たちです。

日本が国難にあった時代、明治維新で活躍したのは江戸時代に厳しい教育を受けた武士たちです。そして、昭和初期の世界中で奪いあった帝国時代、あれだけ日本が活躍できたのは、明治、大正生まれの方々のおかげです。そして、戦後日本をフルスピードで建て直したのは、やはり明治、大正、昭和初期に生まれた方々です。

つまり真の日本の教育を受けた方たちだということです。

ルソーは、その教育論『エミール』で次のように述べています。
「子供をダメにするのは簡単だ。欲しがる物を際限なく与えればよい」

戦後、物質文明一辺倒で、精神のありようを軽視してきた日本人が、ルソーの言う子供をダメにする方法をせっせと実践してきてしまいました。

戦後、親は「自分たちの子供のころは貧しかった。だから、自分の子供にはあんな惨めな思いをさせたくない」という子供に不自由をさせたくない一心で働きました。

そんな考えに対して、こういう意見を読んだことがあります。
子供のころに惨めだったのは、実は貧しかったからではありません。日本という国がアメリカによって精神的に破壊され、子供たちに目標とする価値観がなくなってしまったからです。

ジャスコをつくりイオングループの基礎をつくった岡田卓也さんが、次のような体験談を残しています。

イオングループではカンボジアの寒村に学校を寄贈しています。
寄贈式にあたって岡田さんがカンボジアを訪れたときのことです。
現地の子供たちに将来の夢を尋ねたところ「家族も大切だけど、国のために役立つ人間になりたい」とほとんどの子供たちが答えたそうです。

目をキラキラと輝かせながら。

その希望に満ちた表情と真剣に語る姿を見て、岡田さんは思わず、目頭が熱くなったとおっしゃったそうです。

そして、同時にカルチャーショックを受け、「日本は戦後、繁栄したが、一番大事なものをうしなってしまった」とつくづくお感じになったそうです。

またお茶の水女子大学の名誉教授藤原正彦氏は、「日本人は愛国心に関して祖国愛と国益主義を混同している」と指摘しています。

英語で愛国心にあたる言葉は2つあるそうです。
ナショナリズムとパトリオティズムです。

藤原教授によれば、これは似ているようで全く異なり、ナショナリズムは「他国を押しのけてでも自国の国益を追求する姿勢」で、教授は「国益主義」と表現しているそうです。

一方、パトリオティズムは「祖国の文化、伝統、歴史、自然などに誇りを持ち、またそれらをこよなく愛する精神」で、家族愛、郷土愛の延長線にあります。
教授はこれを「祖国愛」と表現しています。

なるほどなと思いました。

そして私は、これは両方必要だと思いました。
日本人は、ナショナリズムもパトリオティズムも両方失ってしまったと思います。
強いて言えば、パトリオティズムは多少はあるような気がします。ただ、誇りがある人は少ないでしょう。しかし愛している人は多いと思います。

ただ、国益主義という言葉に対しては、毛嫌いしている人が多いと思います。

しかし、国際社会においては、ナショナリズムは持たなければなりません。
優しさだけでは生きていけないのです。強くならなければ。

ただ、日本は、アメリカや中国などのようなただの「国益主義」には成り下がらないと思っています。祖国愛を持ちながらも、対外政策では国益主義をもち、他を蹴落とすのではなく、両者がいいように持って行く、そんなおおらかで大人な国になれると信じています。

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今日の歌は「浜千鳥」です。
親子の愛を歌った歌です。
どうぞお聞きください。


ありがとうございました!
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日本には古代からある「神道」があります。
いわゆる私たちがイメージするような宗教とはちょっと違うような、、、でも私たちに根付いている理由、それを今日はお話したいと思います。

日本がいかに恵まれた土地であるかを私のブログでも度々お話していますが、その豊かな自然のなかで育まれた日本独自の宗教が神道です。

神道は世界的に見ても非常に希な宗教です。
欧米の宗教には相当する概念さえありません。
経典もなければ、教団や宣教師もいない。
神像や十字架といったものも存在しません。

神社のご神体として据えられているのは主に鏡です。
これは己の心を映すという意味なので、何かの絶対神を想定して拝み奉っているわけでもありません。

そもそも神道とは古代から日本の国に存在してきた固有の信仰・文化の総称で、外来の宗教と区別するために「神道」と呼ばれました。

要するに、古代から私たちのご先祖さまが培ってきた日本人の心のありようです。

元来は、これを「惟神(かみながら、または、かんながら)の道」と称していました。

惟神・・・神のおぼしめしのままに。

惟神の道とは、神様の仰せられた御言(おことば)と、神様の遊ばされた御行為(おんし
わざ)を手本として、私たち人間が、自分勝手の心を捨てて、一途に神様の御言御行為を
実践することを旨として生きる道のことです。

恵まれた自然とともに暮らしてきた日本人は、古来から山には山の神が、海には海の神が、森、木あらゆる自然に神が宿ると考えてきました。

まさに八百万の神の国で、自然に畏怖の念を抱き、敬虔な祈りと感謝を捧げる、現代風に言えば、自然との共生の思想が古代から根付いていました。

自然をあるがままに受け止め、畏敬し、感謝し、自然に溶け込もうとする融合の考えかたが基本にあり、これが西洋のような争う文化ではなく、分かち合う文化となって発展しました。

何も自然だけではありません。
日本人は、物を投げたり、粗末に扱ったりすることに罪悪感を感じるし、枕の上に足を置くなとか、人はもちろん物を跨ぐな、ゴミ箱以外にその辺にゴミは捨てるな。そして、例えば踏み台にする椅子でさえ乗るときは、西洋と違いきちんと靴を脱ぎ、ちょっと躊躇しながら乗ります。

そういったこと全てが、物に宿る神様の存在を誰もが気にかけているからです。

こうした思想は、他の宗教のように賢者や聖人によって説かれたものではなくて、民族の発生と同時に自然と発生したもので、日本列島で自然と共生してきた我々の祖先の間に生まれたこの自然崇拝が、やがてひとつの信仰となったのが神道です。

豊かな日本と比較して、厳しい自然と痩せた土地の中東やヨーロッパで育ったのは、他を排除するという一神教です。

自然崇拝の多神教が民族の体質として根付いた日本では、後に仏教やキリスト教、儒教などが入ってきても排除することなく、受け入れました。

神道というと、戦時中の国家神道をイメージし、悪の権化のように非難する日本人がいますが、神道は世界に誇れる日本人の魂を具現化した宗教なのです。

神道の普遍性を見抜いた西洋人のひとりに、世界的な歴史学者のアーノルド・トゥインビーがいます。1967年秋、二度目の訪日を果たし、伊勢神宮に参拝したトゥインビーは感動して毛筆でこう記帳しました。

「この聖地において、私は全ての宗教の根源的統一性を感得する」

彼は、神道こそ、地球人類を救う普遍的な世界宗教になると予言しています。


他の国々のような排除する宗教ではなく全てを受け入れる、この大きな温かい宗教に包まれた日本に生まれて感謝という方クリックありがとうございます!
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今日の歌は「汽車」です。
楽しい気持ちになること歌を聴き、是非元気になってください☆


ありがとうございました。
今日も1日たくさん幸せを感じますように☆