おゆらく陸上部(旧:ニコ中陸上部) -679ページ目

【年を重ねること】命の限界・・

ぼくの父は、1年前の今頃から病床に伏しています。

きっかけは、目の衰えでした。

父は、地元の眼科には定期的に通っていたらしいのですが、白内障&緑内障の症状が悪化して、本人も家族も、このままでは失明するのではないかと不安になりました。

そこで、遠方ですが名医と評判の高い眼科に、父を連れて行ったことが始まりでした。

初診察の際に、父は病院設備の立派さにいたく感激し、初めてお会いした副院長先生を心から信頼し、白内障と緑内障の同時手術をすることに、何の迷いもなく同意しました。
(その先生の執刀まで2ヶ月待ちでしたが・・・)

その病院の食堂で、父と一緒に食べたうどんが忘れられません。あんなに美味しそうに、スープまで完食した父の食べる姿は、もしかしたら最後なのかもしれません。
「ここのうどんが美味しかった」という話を何十回聞いたか、数え切れません。
それくらい、父はこの病院を信頼して、手術に期待していたのでしょう。

手術前の検査を受けて、いざ入院の前日になって、病院から電話がありました。

「事前検査で、血糖値に異常があったので地元の内科を受診してください」との内容でした。

さっそく受診したら、糖尿病で即入院です。
さらに検査を受けたら、肝臓、食道、大腸にポリープが見つかり、精密検査の結果、末期のガンであることが判明。

地元の内科から紹介を受けて、父のCT画像を持ってぼく一人で、地元で権威の大学病院の有名な大御所のDRに代理診断を受けました。
診断は、「手の打ちようがない末期がん。長くて半年、短ければ3ヶ月、本人に告知して(大御所DRいわく、いまどき告知しないなんてナンセンスとのこと)残りの人生を本人に決めさせなさい」との診断でした。

なんとも言葉にできない、やるせない反発を覚えました。

「隠さないけど、わざわざ告知しない(追及されたらどうしよう?でも父は聞かない・・)」という家族の方針で、自然な最期まで、皆で静かに父の余生を見守ることにしました。

が、その時点では、今後起こりうる辛さ、痛みなど、想像はできません。

地元の医者は、転院して放射線や抗がん剤による対症療法を勧めます。

最初は反対でしたが、とりあえずムカついた大学病院ではない公立病院で、父の意思確認をしました。

父は、どんなにつらくても、今でき得る「可能な限りベストの治療を望む」という意思表示をしました。

副作用やリスクを、家族全員、承知した上で、対症療法に臨みました。

とりあえず結果は、想像以上の好結果。

父の「何が何でも生きたい」という思いがカラダを奮い立たせたのか、あるいは新進気鋭の若き医者の技術と情熱が通じたのか、誰もが驚くほどの回復をすることができました。

この時点で、若い新進気鋭の医者が、「手の打ちようがない。長くて半年」という大御所の偉い先生の診断を技術的に超えた瞬間だったのかもしれません。

父の命をつないでくれたことに心から感謝です。

ただ、どんなにすばらしい治療を受けても、父の体力は少しずつ消耗していきます。

若いころに胃を切除している父は、強靭な精神的「食い力(くいぢから)」でがんばって食べていましたが、だんだん食べられなくなっていきます。

せっかくがん細胞が壊死して、転移もみられない状況にもかかわらず、食べられないことによるカラダの衰弱・・・

若き医者としても、せっかく治療が想像以上の結果が出せたにもかかわらず、父の体力的限界で衰弱してることに残念な思いだろうと想像します。



母は、病と闘う父、ひたすら伏せっている父、時に母だけにわがままなことを言う父に、ずっと寄り添っています。
言葉すら発することができなくなった父に最後まで寄り添うことができるのは、母だけなのかもしれません。

会うたびに小さくなっていく母の後姿、日々衰弱していく父の姿に、命の限界を感じます。
病床の父を支える母のために、姉が作ってくれたお弁当を病室に届けるとき、いつも胸が詰まる思いです。


「早く、楽になって欲しい」という思いと、「少しでも長く生きていて欲しい」という思い、相反する二つの思いに、命の重さを感じずにいられません。
少なくとも後者の思いは、いままで経験したことがない「父の命が存在しない時間」というものに対する怖れに違いありません。

生きているだけで価値がある。それは、家族だけに通じる思いなのかもしれません。