もっとよくなる
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稲の天日干しを手伝う

 

下呂で稲刈り体験をさせてもらった。

 

正確に言うと、私が行ったのは稲の天日干し。

 

小型コンバインで刈り取った稲を束ねて竿に干してゆく作業だ。

 

そのとき、稲穂側が下にくるのがルールで、3対1に分けて交互にかけていく。

 

教えてくれたのは、お米も作るグラフィックデザイナー池上氏である。

 

無農薬の自然栽培にこだわり、「食」に一家言もつこの友人から教わることは多い。

 

私も野菜や果物のPRや販促プロモーションのツール制作に携わる人間なので、

こうした現地での実体験は仕事にも役立つし、とても大切なことだと思う。

 

なお、天日干しを行う農家はもう少ないとのこと。

 

今主流のコンバインは、自動で刈り取りから脱穀までできてしまうからだ。

 

もちろん、友人が天日干しにこだわるのには理由がある。

 

聞きそびれてしまったので、あとから調べてみてわかったことであるが、

ゆっくり乾燥させると、米表面のデンプン粒を壊さないので、本来の粘りやツヤが生まれるのだそうだ。

 

なるほどねえ、これも勉強になった。

 

マーケティング用語1つ覚えるより、はるかに賢くなった気がする。

日本海軍航空隊の搭乗員だった大叔父の命日

 

 

 

 

 

 

 

個人的なことであるが、日本海軍航空隊の搭乗員だった大叔父の軍歴を明らかにする地道な調査で、国と家族を守るために命をかけて戦った一青年の短い人生が浮かび上がってきた。調べを進めるうち、戦争史実の検証にもつながっていることが実感できるようになってきた。冒頭にあえて個人的と書いたが、もはやその域は越えている。もしご興味があればご一読願いたい。

 

今日は、日本海軍航空隊の搭乗員(偵察員・通信員)だった大叔父の命日である。およそ10年前、大叔父の残したエピソードを物語の核にして児童向け小説『約束のつばさ』を上梓したあと、大叔父の軍歴を一層知りたくなって厚生労働省に問い合わせた。そのとき、戦没状況において下記のような回答を得た。

 

■戦没状況 

第761海軍航空隊攻撃第704飛行隊附として勤務中、昭和19年10月17日敵機動部隊攻撃のためクラーク基地より発進以後未帰還となり、ルソン島アルバイ州レガスビー付近に於いて戦死したものと認定される。

(厚生労働省社会・援護局、業務課調査資料室による回答)

 

その日の軍事日誌には下記の言葉が記されていたことも同時にわかった。

敵機動部隊攻撃の為、基地発。未帰還。

 

しかし、私はこれだけの情報に満足することができず、さらに独自に調査を続けた。大叔父の最後の出撃となった作戦がどのようなものなのかさらに詳しく知りたいと思ったのである。今日までに私が知り得た情報を記したい。

 

規模の大きさや戦域の広さから「人類史上最大の海戦」といわれるレイテ沖海戦の火蓋が切って落とされたのは、昭和19年10月20日のことである。私は当初、大叔父がレイテ沖海戦で亡くなったものだと信じ込んでいた。しかし、それは間違いである。大叔父が戦死したのは、レイテ沖海戦を遡ること3日前。まだ、レイテ沖海戦は勃発していない。私の思い違いであることがわかってから、私の調査は新たな局面を迎えた。レイテ沖海戦前夜の戦闘に目を向ける必要が生じたのである。

 

有力な情報は案外早く見つかった。「捷一号作戦」である。敵のフィリピン進攻に備えてあらかじめ定められていた作戦を指し、昭和19年10月18日に発令された。その前日の17日、日本海軍は、レイテ湾口に位置するスルアン島に米軍上陸の一報を受け、総力を持って米軍を迎え撃つことになった。
大叔父は、おそらくレイテ島東約60kmのスルアン島に上陸した米軍のレンジャー部隊を叩くために出撃したものと思われる。しかし、戦死したとされる場所は、スルアン島よりはるか北に位置するルソン島アルバイ州レガスビーと記されていることから、攻撃に向かう際か、任務終了後の帰途において敵戦闘機の襲撃を受けたのであろう。これはあくまで私の推測であるが・・・。

 

これからも私は、国立公文書を中心に大叔父が戦死に至る任務の作戦を調べるつもりであるが、日本国内には資料がない可能性もある。生存者を見つけられればいいのだが、当時20代の若者は現在100歳前後となっている現実を鑑みれば不可能に近い。そもそも俊敏な戦闘機に比べ大叔父が任務した艦上攻撃機の搭乗員の生存率は極めて低く、生きて終戦を迎えられた者は僅かである。

 

それでも私は諦めない。日本での調査が無理ならアメリカがある。近い将来、

米国の国立公文書記録管理局(英語:National Archives and Records Administration, NARA)を訪ね、手がかりとなる資料を手に入れるつもりだ。そして、大叔父の搭乗する機を撃墜した戦闘機のパイロットの親族を探し当て、ぜひお目にかかりたいとも思っている。当時は命をかけて戦う敵同士だったかもしれないが、憎しみの連鎖を解き放ち、互いの親族が平和な時代に会って共に平和の尊さを噛みしめる意義は大きいと考えるのだ。戦争を風化させないためにも大切な行為ではなかろうか。

 

そして、私はアメリカで探し当てた彼らに大叔父が残してくれたエピソードを披露したいと思う。大叔父が妻や家族の暮らす故郷に飛行し、挨拶代わりに翼を振って空から最後の別れを交わした話である。戦争末期、人的にも物資的にも日本軍の消耗が激しく、圧倒的な国力の違いを見せつけられた大叔父はもう生きて日本に帰れるとは思っていなかったはずだ。実際、戦死1か月前に大叔父の所属する部隊に命令の下ったモロタイ島攻撃では、一式陸攻6機のみによる出撃だったことが公文書の記録に残っている。しかも、戦闘機の護衛なしだ。これは米国では考えられないことである。このような過酷な状況ゆえ、大叔父は死ぬ覚悟を決め、家族見納めの別れの挨拶に訪れたのであろう。妻や親、兄弟たちにとっては、これが大叔父との永遠の別れとなってしまったが、親族にとっては心温まる思い出となり、末代までも語り継がれることとなった。

 

参考のために記すが、大叔父が任務したのは偵察員・通信員であり、操縦員ではない。では、どうやって、家族に別れの挨拶をするために軍用機で故郷に帰ってこられたのか素朴な疑問が湧く。その答えを得るために私は、太平洋戦争を生き抜いた元海軍の航空兵で一式陸攻の搭乗員だった高橋 淳氏(取材当時91歳)にインタビューを申し込んでお話を伺った。

 

高橋氏の見解はこのようなものである。大叔父は24歳で戦死しているが、戦闘機に比べて生存率の低い攻撃隊の搭乗員においては実戦豊富な熟練兵とみなされる。若くして教官の任務を担う立場にあることから、後輩の操縦士に操縦を頼むことは難しくないとのこと。また当時、大叔父のように家族に最後の別れをするために故郷に軍用機で戻った航空兵の例は珍しいことではなかったらしい。実際、高橋氏自身も戦時中、そうした話を聞いたことがあるとおっしゃっていた。

 

さらに、私の知り合いが一式陸攻の搭乗員だった方を取材して書いた記事によると、第二次大戦初期においては、偵察員、通信員に関わらず操縦員全てが操縦できたとのことなので、大叔父も自ら軍用機を操縦して故郷に飛行した可能性も考えられる。知人の取材に答えてくださったのは三沢海軍航空隊に所属の天野 環氏(取材当時93歳)である。大叔父とは1歳違いの大正11年生まれ。大叔父とは部隊が異なるが、もしかしたら戦時中に接点があったかもしれない。

 

随分長い文章になってしまった。それでも自己調査で得た情報はまだ記しきれない。しかし、要点は語れたので今回はここまでとしたい。最後まで読んでくださった方には感謝を申し上げたい。参考となればと思い写真には状況説明のキャプションをつけさせていただいた。あわせて大叔父の軍歴も記しておきたい。

 

●写真のキャプション(上から順に)

鈴鹿航空隊時代の訓練の様子だと思われるが、詳細はわからない。映っているのは大叔父の仲間たちのようである。

 

行軍の合間に仲のよい友人3人と撮った写真。大叔父は真ん中。残念ながら行軍の目的地はわからない。

 

鈴鹿航空隊時代に休暇で帰郷し、犬山城を友人と訪れたときの記念写真。昭和15年の夏と思われる。大叔父は向かって左。

 

モロタイ島攻撃のときの搭乗員名簿。大叔父は二番機に偵察員として搭乗。この機のリーダーだったようで敵輸送船と飛行場に損害を与えた戦果報告も自らしている。

 

元一式陸攻の搭乗員で現在は社団法人日本飛行連盟名誉会長を務められる高橋 淳氏を取材したあとの記念撮影。

 

大叔父が搭乗した機種の模型。手前に写っているのが一式陸上攻撃機、奥は九六式陸上攻撃機。マレー沖海戦で搭乗したのは九六式陸上攻撃機である。

 

岡田養二(おかだ・ようじ) 軍歴

海軍飛行兵曹長(准士官、陸軍では「准尉」に相当)

大正10年 岐阜県稲葉郡鵜沼村生まれ

昭和14年 佐伯航空隊

昭和15年 鈴鹿航空隊(4月卒業)

昭和16年 大分航空隊 館山航空隊 木更津航空隊

      8月より元山航空隊 第755航空隊

昭和18年 大井航空隊(搭乗員の教育・訓練にあたる)

昭和19年 攻撃第704飛行隊 7月より第761航空隊

昭和19年10月17日 戦死(享年24歳)。

 

◯参加した主な作戦

日中戦争で初陣を飾り、太平洋戦争開戦後は、真珠湾攻撃から二日後に元山航空隊の一員としてマレー沖海戦に挑み、イギリス海軍が誇る最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈。その他、珊瑚海海戦、モロタイ島攻撃、捷一号作戦など。(現在さらに調査中)

 

最後に私の拙著『約束のつばさ』もご案内させていただく。いくら親族とはいえ、出会ったこともない戦後生まれの私に小説にされるとは思ってもみなかっただろう。しかし、驚きながらも喜んでもらえていると勝手に私は思うのである。

 


 

学研『4年の科学』における「肉まん先生」連載

漫画家・イラストレーターとして活躍する広東もなさんの快進撃が止まらない。

 

羽島市内の優れた技術や技能を有する個人や企業が選出される

「はしマイスター」の認定を受けてから拍車がかかり、

女性誌をはじめ、自治体、地元企業などから漫画やイラストの依頼がひっきりなしだ。

 

先日は、仕事の枠を飛び越えてテレビの情報番組のレポーターにも抜擢された。

 

今こうして脚光を浴びるのは、広東さんが積み重ねてきた努力の賜物であるが、

広東さんが描くキャラクターを長くプロデュースしてきた私にとってもこの上ない喜びである。

 

今までさまざまなプロジェクトに二人して取り組んできたが、その中でも特に印象深いのは、

学研『4年の科学』における7年にも及ぶ「肉まん先生」を主人公にした連載だ。

 

広東さんがメジャー誌デビューを果たした記念すべき仕事でもあるしね。

 

しかし、子ども向けの学年誌ということもあり、目にしたことのある方は少ないと思う。

 

そこで、広東さんのブレイクのタイミングにあわせて皆さんにご紹介したい。

 

毎月、表紙と教材の使い方を説明する巻頭のカラーページを担当。

 

読者アンケートの結果が評価され、やがて4コマ漫画も描かせてもらえるようになった。

 

うちの会社のスタッフも広東さんと一緒に仕事ができるのを毎月楽しみにしていた。

 

イラストバージョンとぬいぐるみ実写バージョン、それぞれ1年分の表紙を並べてみた。

 

私が言うのもなんだが、なかなか壮観である。

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