振り向けば、上祐 | 秋 浩輝のONE MAN BAND

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はじめに言葉はない

元オウム真理教外報部長上祐史浩は、「ああ言えば上祐」と、ジャーナリストの二木啓孝に揶揄され、流行語になった。1995年3月サリン事件発覚後、上祐は教団のスポークスマンとして、教団の関与をことごとく否定、何を言われてもめげることなく、立て板に水の如く喋りまくっていた。とにかくオウムは事件後しばらくは、一切関与を認めなかったのである。

 

上祐史浩はどんな人間なのか、昔から興味はあった。オウム真理教の頃はNo.2でありながら、サリン事件をはじめ、坂本弁護士一家の殺人事件などにもまったく関与していなかったということで、罪には問われていない。現在は宗教法人「ひかりの輪」の主宰として、マスコミにもよく登場し、オウム真理教や麻原について積極的に批判しているが、どことなくうさん臭さが付きまとう。手放しで上祐の言うことは信用できないと、ほとんどの人は思っている(はず)。一応、上祐の宗教活動に関する年表を作ってみた。

 

1986年 早稲田大学在学中に、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に入会。

1987年 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了後、同年、特殊法人宇宙開発事業団に就職。だが、1ヶ月の研修期間中に退職し、オウムの出家信者となる。

1990年 衆議院選挙にオウムは「真理教」として教団幹部25名立候補者を立てたが、上祐は教団が選挙に出馬すること自体、反対していたそうだ。結果は全員落選。

1992年 尊師に次ぐ位階の「正大師」に昇進。実質、オウム真理教のNo.2となった。

1993年 生物兵器兵器開発、第7サティアンサリンプラント計画、亀戸異臭事件(炭疽菌培養)などに関わる。

1993年 ロシア支部長に就任。

1995年 教団は麻原の指示により地下鉄サリン事件を起こしたが、潔白だと弁明して欲しいと麻原に言われ、日本に帰国。だが同年、麻原と幹部連中が逮捕される。また同年、有印私文書偽造などの容疑で上祐も逮捕された。懲役3年の実刑判決を受け、広島刑務所に収監された。

2000年 ロシアのオウム信者たちがテロにより麻原奪還計画を進めていると知ると、上祐はロシア警察、公安に内部通報、阻止した。

2002年 アーレフの代表に就任。事件を反省、脱麻原を打ち出す。だが、麻原回帰派から強く反発され、自室に軟禁された。

2006年 麻原の死刑確定。

2007年 アーレフを正式脱退、同年「ひかりの輪」を設立、代表に就任する。

(年表はwikiを参考に作成)

 

ざっと流れを追うと、上祐のやり方、考え方が、うっすらと見えてくる。一言で言えば、非常に世渡りが上手い。1993年麻原が教団の武装化を計画、教団の科学者たちがサリンなどの化学兵器を作り始めたが、上祐はその計画の中心にいた。2年後、地下鉄サリン事件を起こした時、上祐はロシアにいたため、実行部隊にはいなかったものの、教団No.2としてすべてを知っていたはずだ。なので、潔白会見は真っ赤な嘘だったということになる。2010年、上祐はFRIDAY誌にこう語っている。

「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だと嘘をつき続けていた。自分は嘘吐きだった」

だが、この告白も正確ではない。「薄々気づきながら」ではなく、「はっきり知っていながら」のはずである。

 

2000年にロシアのオウム信者たちが麻原奪還、ロシア逃亡を計画していたことをロシアの公安に内部告発したのは上祐だが、おそらく彼は日本の公安とも裏取引し、色々オウムに関する裏情報を流していたと思う。その代わり、少々のことは見逃してくれと……。アメリカなどではよくあるらしいが、日本では認められていない「司法取引」である。1995年に上祐が逮捕されたのは、熊本県の阿蘇にある土地を取得するため、偽の書類を偽造したなどの微罪だった。サリンや炭疽菌の製造プラント計画にかかわってきた人間が、実行部隊ではなかったにしろ、まったく罪に問われていないのは不自然極まりない。

 

そして、麻原や主要幹部が死刑を免れないと解るや否や、未だに麻原を教祖として崇める「Aleph」を脱退し、「脱麻原」を明確に打ち出した別団体「ひかりの輪」を立ち上げた。「ひかりの輪」は、おそらく「Aleph」や「山田らの集団」よりも、公安からの警戒度は緩いはずだ。立ち回りの上手さや狡猾さは、元オウム真理教の中では随一だと思う。

 

 

上祐の得意技「フリップ投げ」

上祐は大学時代にディベートサークルにいたので、とても弁が立つ。ただ、こういった演技じみたパフォーマンスは、ディベートの手法ではない。勝ち負けを競うディベート大会では、演技力や喋りの上手さ、声の大きさなどはまったく無関係で、あくまで、論理が正しいか否か、飛躍や抜けがないかどうかだけが審査の対象となるのである。

 

 

江川紹子vs上祐史浩

この時の上祐は最低だ。江川の質問には答えず、延々と自説だけを述べまくっている(2:30~教団内の子供たちの話)。江川に対する敵愾心剥き出しの感情的な物言いは子供じみていて非常にみっともない。

 

 

都沢和子

上祐はオウムに入る前から都沢和子とつき合っていたが、麻原は都沢を愛人の一人にしてしまった。

「彼女は麻原尊師と融合するならば、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、彼女を麻原尊師に捧げたいと思います」

融合ってて(笑) 本心はどうなんだろう。そのことを出世の足掛かりにした、出世のために差し出したのではないかという説もある。だが、もし上祐が1993年からロシアに行っている間に、麻原が愛人にしたという時系列が正しければ、その説は間違いだ。上祐は1992年に既に正大師の地位を獲得していたからだ。万能感を持ち、やりたい放題の麻原が上祐に断ることなく都沢に手を出したというのがほんとうのところではないだろうか。この時から上祐の中に麻原への憎しみが生まれたのではないかと私は睨んでいる。

 

 

上祐史浩(オウム時代)

上祐がオウムに興味を持ったのは、やはり麻原の空中浮遊などの超能力だった。彼はムーやトワイライトゾーンの愛読者だった。理工学部出身で宇宙開発事業団に就職したという前歴を持っているということは、物理の法則に適合しない空中浮揚とか、真っ先に否定すべき人間であるはずなのに、しかも目の前で麻原のトリックを見ていたはずなのに、なぜ信じてしまったのか不思議でならない。あるいはトリックだと気づいていたが、尊師麻原にノーとは言えなかったのだろうか。オウムを脱会するとなると集団リンチ、殺害される可能性がある。実際に脱会しようとした信者がリンチにあい、殺害されてドラム缶で焼かれてしまった。リンチだけで、ほんとうに殺すつもりはなかったらしいが、証拠隠滅のために高熱で焼かれるなんて、あまりにも悪質だ。まさに悪魔の所業である。それがオウム初の殺人だった。

 

オウムの上層部がエスカレートして殺人集団となってしまった理由を人間の行動心理学で説明されている人がいるが、私的には、ほぼ納得できるものだった。だが、必ずしも心理学通りに人は動くわけではない。何か起こったあとの後付けの説明は可能だが、事前にすべての行動を予測するのは不可能である。

 

私は彼らがほんとうにエリートだったのかという疑問を持っている。いわゆる中途半端なエリートで、頭もたいして良くなかったのでは…と、ふと思った。それは上祐だけでなく、殺された村井秀夫(大阪大学理学部出身、階位は上祐と同じ正大師)にしても同様ではないかと。村井は麻原の要請で、ヘンテコリンで出来損ないの発明品(ドラム缶で作った潜水艦、プラズマ兵器、レーザー兵器など)を作っては、失敗を繰り返していたようなのだ。ほんとうに頭が良い人間なら、そんなチャチでマンガみたいなものは作らないと思うし、麻原の論理矛盾や超能力の真贋など簡単に見極めることができたのでは…と思うのだ。

 

彼らがオウムに嵌ったもうひとつに理由は、『心の空虚さ』を埋めたかったからではないだろうか。サリン事件の実行犯でありながら唯一死刑を免れた医師林郁夫は、『閉塞感』だと言った。閉塞感を解消し、充実した人生に変えたかったのだと。80年代の終わり、バブルが弾けたあと、この時代特有の厭世感が蔓延していた。若者たちは生きる目的を見失い、『自分探しの旅』を始める。その時に答を提示したのが麻原だったのだろう。「修行すると、自分を救済し、世界を救済することができる」と麻原は言った。世間知らずの多くの若者がそれに飛びついたのである。オウムだけでなく、他の目新しい新興宗教も飛躍的に信者が増加した時期だった。麻原ではなく、別の誰か(新興宗教ではない何か)と出会っていたなら、彼らの人生はまったく別のものになっていたに違いない。上祐はずる賢く要領のいい人間かもしれないが、麻原への信仰は本人が言うように、もうないのではないかとみている。彼は宗教以外の世界で生きることは今更できないだろうし、このまま一生、事件の被害者と向き合いながら生き続けるしかないのだろう。ひかりの輪が危険な団体に変質しないことを祈るばかりである。