~俺もないけど心配するな~ -21ページ目

~俺もないけど心配するな~

デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ


<前回の続き>


7月22日の朝7時頃に古川の街を出発した私達は、8時30分頃には南三陸町に到着した。

途中はのどかな田園地帯だったが、次第に山道に変わり、そのうち、破壊された自動車がひっくり返っている光景を目にした。

私:「あの車、ここまで流されてきたのかな?」

K氏:「たぶん、そうじゃないですか?」

そういうやり取りをしている間にも、私の運転する車はどんどん海の方、つまり、被害の大きいエリアへと進んだ。

廃棄された自動車がきれいな列となって並べられている光景もあり、「ああ、ここは処理された後なんだな」と納得したりした。

しかし、すぐに、道の両端がすっかり開けた空間となり、建物の瓦礫や木材などがその空間にめちゃくちゃに放り出されたような風景が目に飛び込んできた。

道路は、自動車が通行するには問題がない。

しかし、道路のすぐ横は、もはや、人間が足を踏み込んだり、ましてや生活したりできるような空間ではなかった。

そういう光景に言葉がつまりながらも、私達は、とりあえず南三陸町防災ボランティアセンターを目指した。

携帯の助手席ナビは、「志津川駅」をゴールに設定しておいたが、目的地はボランティアセンターのある「南三陸町スポーツ交流村」だ。

途中、車を路肩に停めて、紙の地図でボランティアセンターの場所を確認。

山をぐるっと回るように行かなくてはならないことが分かった。

そうして、ようやく南三陸町ボランティアセンターに到着した。

広い駐車場があり、既にたくさんの車が停められていた。

軽く100台以上はあるだろうか。

私達は駐車スペースを見つけて車を停め、作業のための身支度をした。

外は、22度くらいだろうか。少し涼しい。

このボランティア活動のために購入しておいた「安全ブーツ」と「カッパ」を装着し、さらに「昼食用の食料」と「ゴム手袋」と「防塵マスク」をバックパックに詰め込み、日焼け止めクリームを顔に塗った。

受付のテントを見つけ、中で用紙に名前を書き終えると、早速、スタッフの女性から指示があった。

女性:「お車をお持ちですね。お二人は一緒に来られたのですね。では、物資仕分けの作業をお願いします。」

私達:「はい、わかりました。」

女性:「物資仕分けは、ここから離れた『歌津中学校』というところでやっています。」

そう言いながら、女性は地図で場所を示した。

メモを取りながら、私達は歌津中学校の場所を確認し、頭に記憶させた。

女性:「作業の指示は、向こうで出されます。既に3人のボランティアの方々が向かっているので、合計5人での作業になります。作業は午後3時過ぎまでだと思いますが、4時までにはここに戻って来て下さい。」

おそらく、ボランティアセンターの業務が午後4時までなのだろう。

私達は再び車に乗り込み、歌津中学校へ向かった。

車で移動すること、約15分。

漁船が内陸まで押し流された光景が飛び込んでくるのを横目に、私達は歌津中学校に到着した。

物資仕分けの作業は、瓦礫撤去のような重労働ではなさそうだ、とK氏は私に教えてくれた。

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今回のボランティア活動に対する私の基本スタンスは、「絶対に無理をしない」というものだった。

そもそも、ボランティアとは、私の中では「ゆとりの範囲内」で行うものだという考えがある。

自分を犠牲にしたり、ゆとりの範囲を超えたりしてまで人のために働くというのは、私には受け入れられない部分がある。

だから、私の中でのボランティア活動とは、「人のため」というよりも、「自分の満足を満たすため」と言える。

「情けは人の為ならず」という言葉があるが、あれと同じだ。

「ボランティアは人の為ならず」というのが私の基本的な考え方だ。

だから、「頼まれれば何でもやります」という気持ちがある一方で、自分の体への負担が大きいと判断した場合は遠慮なく力を抜いたり、断ったりするつもりでいた。

瓦礫撤去のような、慣れない重労働を覚悟していたが、もし午前中で疲れ果てた場合には、帰りの運転のこともあるので、午後は作業をせずに帰ってこようとさえ思っていた。

そういうわけで、物資仕分けという仕事を割り当てられたのは、まあ、私にとっては好都合だったと言える。

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さて、歌津中学校の体育館に到着すると、そこには、徳島県からの役人さんが2人派遣されていた。

体育館の中には支援物資が並べられており、地元の被災者たちが物資を求めてここまでやってくるのだ。

役人さんの指示に従い、私達は作業を開始した。

とは言え、被災者の人たちが来なければ、私達の仕事も始まらない。

震災から4か月近く経っており、最近では物資を受け取りに来る人の数も頻度もずいぶん減ったという話だった。

仕事の内容はいたってシンプル。

パンと牛乳と野菜ジュースを、被災者1人に1個ずつ、そして2リットルのペットボトルのお茶と食塩袋を1世帯に1つずつ、袋や箱に入れて渡して行くのだ。

それ以外の物資を希望する人は、そこにあるものならば何でも受け取ることができる。

ただし、仮設住宅に入居した人は、水以外はもらえないそうだ。

物資の中には、ふとん、おむつ、洗剤、電池、タオル、虫除けスプレーなど、様々なものがある。

午前は10時から12時までの2時間のみ、午後は1時から3時までの2時間のみ、窓口が開いている。

ボランティアメンバーは、私とK氏以外に、あと3人いるはずだったが、どういうわけか、あと2人しかいない。

10時になってもあと1人が現れないので、仕方なく4人だけでやることになった。

しかし、仕事を始めてみてすぐに分かったのだが、この仕事に4人も必要はない。

1人か、せいぜい2人いれば十分に回せる仕事量だ。

恐らく、最近になって需要が減ったのだろうが、同時にたくさんの被災者が窓口に押しかけた時のことを想定しているのだろう。

結局、そのような事態にはなることもなく、体力も全く消耗することもなく、淡々と午前の2時間が過ぎ去った。



<続く>




<前回の続き>


7月21日の朝10時に、私はK氏と松戸駅で待ち合わせ、私の愛車デミオに乗って、宮城県へ向けて出発した。

運転はもちろん、私。

ガソリンは満タン。

私のデミオの燃費は、街乗りで約14km/リッターなので、約400kmの旅路の途中で給油の心配はない。

三郷南ICから外環に乗り、川口JCで東北自動車道に乗った。

道中、何度かパーキングエリアで休憩し、昼食をとり、目的地の「宮城県大崎市古川」には16時頃に到着した。

トータル6時間。

古川の街でガソリンを入れたら、なんと、ここまでの燃費が19.9km/リッターという、今までに見たことのない新記録を打ち出していた。

なんか、すごく嬉しい!

給油後、部屋を予約しておいたホテルもわりと簡単に見つかり、すぐにチェックイン。

いったん、各自の部屋で休憩し、18時にロビーで待ち合わせ、夕食を求めて街へでかけた。

とは言っても、古川の街には居酒屋チェーン店のようなものしかなく、結局、駅まで歩いてからホテルに戻ってきた。

ホテルの中にある、こじゃれた居酒屋に入って、酒を飲みながら夕食を満喫した。

K氏といろいろと話をして、気づけば3時間近く経っていた。

もう21時過ぎだ。

翌朝は6時半にホテルを出発しようということにして、そろそろ部屋へ帰って寝ようということになった。



しかし、まあ、松戸から宮城県まで、約420キロのドライブは、久しぶりに疲れた。

ホテルの部屋に戻り、早々に就寝した。

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翌日、7月22日(金)、朝6時半。

ロビーには宿泊客のための簡易朝食が用意されていた。

私は食パン1枚にジャムを塗り、それをコーヒーと一緒に軽く胃に流し込んだ。

さあ、いよいよ南三陸町へ出発だ。

ホテルをチェックアウトし、まずは南三陸町への道を確認しなくてはならない。

私のデミオにはナビは搭載していない。

ホテルの人に南三陸町への道を尋ねたが、いまいち分かりづらい。

そこで、私の携帯電話の「助手席ナビ」を使って、南三陸町まで行くことにした。

途中、のどかな田園地帯を抜け、走ること約1時間半。

ようやく、南三陸町へ入った。


あの、津波の被害の光景が、少しずつ見えてきた・・・。


<続く>





昨日、宮城県の南三陸町へ行ってきた。

実際にこの目で見る被災地の光景は、何度もテレビ画面を通して見てきた映像よりも、当たり前だが「リアル」だった。

空間の広がりと、目の前の光景に「ギャップ」を感じるくらい、不自然な気がした。

不自然だが、「リアル」なのだ。

あの津波は、本当に、本当に起きたのだな、と改めて認識した。

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そもそも、南三陸町どころか、被災地へ行こうなどという発想は、先月まで私の中にはなかった。

私は、多くの人が義援金を送ったのと同じように、3月末にはいくらかのお金を日本赤十字社に送った。

しかし、それでは不十分であることを、心のどこかでずっと感じていた。

そんなある日、うちの生徒の一人の「K氏」が、6月下旬に陸前高田へボランティア活動に行ってきたと私に話してくれた。

彼は「この歴史的な出来事をこの目で見ておくことは有意義なことだ」と言った。

単純な私は、「そりゃそうだ」とすぐに思い、自分も被災地をこの目で見てみたいと思い始めた。

思い始めたら、私はたいてい行動に移すのが早い方である。

7月上旬の時点で、既に被災地のどこかへ行こうという気持ちはほとんど固まっていた。

しかし、被災地に行くと言っても、色々な準備をしなくてはならない。

私は被災地へ行くための準備活動を始めた。

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まず、被災地に行く方法として、「ボランティアバスツアー」を検討した。

K氏が6月に陸前高田へ行った時も、旅行会社が企画しているバスツアーで行ってきたとのことだったので、私も同じ方法にしようと思ったのだ。

ところが、私が教室を閉めることができる日程(つまり、生徒が誰も来ない日)に、都合良くバスツアーを実施している旅行会社が1つもネットの検索にひっかからなかった。

バスツアーは、たいてい、前日の夜11時頃にどこかに集合→夜の間に高速道路を走る→翌朝に被災地に到着→1日ボランティア活動→近くのホテルに一泊→翌日帰ってくる、という予定が普通らしい。

しかし、うまく私の都合に合うツアーが見つからなかったので、私は自力で、一個人で行くしかないと思い至った。

被災地はたくさんあり、どこでも良いと思ったのだが、やはり被害の大きいところこそボランティアが必要だろうと思い、そういう観点から被災地を選び始めた。

まずは、私の知人の実家がある石巻市を検討してみた。

しかし、石巻市の災害ボランティアセンターに電話してみると、県外からは「3人以上のグループ」でないと受け入れていないということだったので、1人では無理であるということが判明した。

そこで、隣の南三陸町のボランティアセンターに問い合わせてみると、一人でも受け付けているとのことだった。

そうして目的地を南三陸町に決めた私は、次に、移動手段と宿泊先を検討し始めた。

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移動手段としては、「1. 新幹線&在来線&タクシーorバス」「2. 自分の車」を考えたが、現地での利便性を考えると「自分の車」の方が良いだろうと判断した。

そうなると、高速道路を使って行くことになるが、ネットで調べるうちに、ボランティア活動を目的として被災地に行く場合は、高速道路料金が無料となる「災害派遣等従事車両証明書」というものを地元の各自治体から発行してもらえるとの情報を得た。

このような情報はあまり一般に知られていないようだ。

被災地域の住民が高速道路を利用する際に無料となる制度については知られているようだが、ボランティア活動をしに行く人のためのこの制度はあまり知られていない。

実際、現地で知り合ったボランティアの人の中には、自腹で高速料金を支払って来たという人もいたのだ。

こういう貴重な情報が広まらないのは、やはり国の情報開示の方法に問題があると言わざるを得ない。

まあ、とにかく、そのような情報を仕入れた私は、すぐに私の地元である松戸市に問い合わせてみた。

すると、「災害派遣等従事車両証明書」を発行するには、行き先の被災地のボランティアセンターから「ボランティア受け入れ承認書」を手に入れて、それを提出しなくてはならない、ということだった。

あちこちの情報を得て、あちこちのアイテムを揃えなくては次へ進めないとは、まるでドラクエだ。

などとくだらないことを思いつつ、南三陸町の防災ボランティアセンターのウェブサイトを見てみると、「南三陸町ではそのような承認書の発行はできません」という記載があった(ガーン)。

恐らく、役所の建物も被災しているような状況下において、そのような書類のやり取りをするほどのゆとりがないのだろう。

ところが、同じページのすぐ下には、「どうしても承認書が必要な場合には、電話で対応します」というような一文が添えてあった。

そこで私はそのページ をプリントアウトし、松戸市役所に持って行った。

すると、担当者の方が「そのプリントさえあれば、証明書を発行します」と言ってくれたのだ。

しかも、ご親切に、「先方がそのような状況なら、きっと帰りの分を発行してくれないだろうから、こちらで往復分、出しておきますよ」と言ってくれた。

これでようやく、高速道路の料金が無料になるための証明書を手に入れたのだ。

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次に宿泊地を決めなくてはならない。

私は、ボランティア活動に行くとは言っても、自分の体調がこわれてしまうような無茶や無理をすべきでないと思っている。

宿泊地も、不慣れなテントで寝たり、車の中で寝たりしたら、その後の授業(本業の仕事)に差し障ると思い、普通のビジネスホテルに泊まることにした。

しかし、南三陸町内には、そのようなホテルはどこも被害に遭い、今はまだ営業していないらしい。

そこで、南三陸町からは少し離れるが、宮城県大崎市内の「古川」というところでホテルを探し、その中の1つに泊まることにした。

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続いて、ボランティア活動に必要なアイテムについて調べてみた。

活動内容は、おそらく「がれき撤去」になるだろうということだったので、長靴よりも防御力の高い「安全靴」と、くぎなどを踏んづけても大丈夫な「インソール(金属製の靴の中敷き)」が必要だ。

それに、雨が降るかもしれないから、上下のカッパも必需品である。

さらには、ささくれた木材を手で運んでも大丈夫なように、「ゴム手袋」も重要だ。

さらにさらに、ホコリや悪臭にも耐えられる「防塵マスク」も入手しなくてはならない。

私はこれらのアイテム・装備品を近くの「ワークマン」で購入した。全部で6,000円くらいだったろうか。

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次に、被災地に向かう前に、「ボランティア活動保険」に入るべきであるとの情報を得た。

この保険は、各市区町村にある社会福祉協議会で取り扱っている。

私は出発日のギリギリ前日になって、松戸市社会福祉協議会地域福祉推進センターへ行き、同保険に加入した。

私が加入したのは「天災Bプラン」というもので、保険料は720円だった。

これで来年の3月末までは、何度ボランティア活動をしても補償される。

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次に、「破傷風」の予防接種をして行った方が良いという話を耳にした。

破傷風は、瓦礫や木材などで切り傷や擦り傷を負った際に、そこから感染する病気だが、予防接種が効果てきめんらしい。

とは言え、他の準備に時間も取られつつ、本業の授業もこなしつつ、英文法解説書の改訂版も作成しつつ、なかなか予防接種を受けに行く時間がとれずにいた。

調べてみると、破傷風の予防接種は、一度受ければ10年間は効き目があるとのこと。

私は、たぶん、16歳の時にアメリカに留学する直前に受けたのだと思う。

あれから10年以上の月日が(というか、20年以上の月日が、あっという間に)過ぎてしまったので、もはや私の体には破傷風に対する免疫はないはずだ。

家の近くの診療所に電話して聞いてみると、1回目の予防接種が効き始めるのは1週間後で、その3週間後にもう1度予防接種を受けると、効き目が100%になる、ということだった。

ところが、私がこれを知ったのは出発日の2日前だったので、その時点で予防接種をしても意味がない、ということが判明しただけだった。

結局、予防接種は次回に見送ることにし、今回は、現地では、擦り傷などをつくらないよう、細心の注意を払うことに決めた。

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以上のように、膨大なエネルギーと時間を消耗する準備を進めていると、K氏が「僕も一緒に行って良いですか?」と言うので、二人で行くことになった。

彼の会社は「ボランティア休暇」を推奨しているようで、被災地へ活動しに行くなら休みが取れるとのことだ。

そういうわけで、7月21日の朝10時に松戸駅で待ち合わせ、私の愛車デミオに乗って、宮城県へ向けて出発した。

予定としては、この日は移動のみとし、翌日、朝9時にボランティアセンターに集合し、夕方までボランティア活動して、その日のうちに戻ってくることにした。


<続く>