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思考アディクション

ときどき、自分が思考アディクションではないかと疑います。

人はこの思考の働きによって、自分という
アイデンティティを確立しているといわれています。

思考によって支えられている「自分は何者か?」という
自己イメージが、つまりエゴとされていますが

このエゴは、現在の瞬間に生きることはなく
つねに過去というフィルターを通して未来のビジョンを創り
時に楽観して喜び、時に悲観して不安になったり(後者が多い?)
しているのだそうです。

思考はつねに今から抜け出したがるもの。

とはいえ、自分の心が今ココという地点(瞬間)に
安住することが、その平安のために重要なのではないでしょうか?

これが最近よく耳にするシンプルに生きるということへと
つながるのかも知れませんね。

思考にこだわり、絶えず思考し、思考しては不安になり
そして思考しないとさらに落ち着かないワタシは、立派な
思考アディクション(中毒)!?

思考停止は危険なことに違いありませんが、やはり
心の平穏とはかけ離れた場所にいるのでしょうか…

自分に自分の思考を見つめる新たな視点が必要だと
思わされる(これも思考?)今日この頃です。

2007/11/28(水)の記事を転載

感情の奴隷にならないために。

感情は自然発生的なもの。

それはある意味で正しいのですが
自然はまた道理でもあります。

自分の心の道理を知ることで
その感情の「主」になることも
叶うのではないでしょうか?

また他の人の心はその人自身のもの。

自分の気持ちの欠乏感を埋め合わせるために感情によって
(脅し、ふてくされ、傷心、悲しみ、怒りなどを演じて)
誰かに何かを求め、強いることを「依存」と呼びます。

つまり「依存」的な人ほど、他の人を操作しようと
する傾向が強いといえます。

この種の人は他者との関係において「してもらう」
ことに価値の基準を置いているのです。

それによって、心が自立している人々
だからこそ愛する能力のある心やさしい人々を
わざわざ遠ざけ、似た性格の(依存的な)人との
『感情をふり回し合う関係』にハマリこんでしまうのです。

誰かのやさしさを得ようとして
自分や誰かをわざわざ傷つけたりしていませんか?

自分や誰かの感情に縛られずに
解き放たれたいと思いませんか?

どうしようもない「満たされなさ」はなぜ?
どうしようもない「孤独」はなぜ?
どうしようもない「不安」はなぜ?
どうしようもない「怒り」はなぜ?
どうしようもない「ウラヤマシサ」はなぜ?

道理を知って納得してみてください。
そして誰をも縛ることなく、誰からも縛られることなく
まかせてみてください。

2007/9/21(金) の記事を転載

シアワセを選ぶ勇気

ヒトの心の許せなさという働きについて考えてみませんか?

a.そうだ(でない)とイヤ・気に障る・不安になる・腹が立つ・気が済まない

それは言葉を換えれば、コダワリであり、執着だといえます。

このコダワリという言葉が良い意味で使われる時

心の中では、別な種類のエネルギーが働いています。

b.そうだ(でない)とウレシイ・気分がイイ・安心・落ち着く・気にならない

これらが、シアワセ感をもたらすモノ(シアワセそのもの?)ではないでしょうか?

不幸や苦悩を嘆く人には、許せなさという心の働きにガンジガラメ
なっている場合が多いように思います。
反面、シアワセ感を得るという働き感性の機能(発達?)不全もあるようです。

この許せなさという心の反応を見つめ、理解し、違う反応のあり方を探し
そしてそれを選ぶ大切さを知ること。

また意識してb.の気持ちによる行動を
増やしていくことが必要なのではないでしょうか?

我を奪われてしまうような許せなさに縛られ、怒り、悩み、怯え
そして傷つくは自分の心

とりまく出来事を批判(これもa.ですね)する前に
まず自分の心と向き合う勇気

自分や誰かに許せない!(こうあるべき)ことが多くありませんか?
…ココロに疲れを感じませんか?^^;

心の帆の向きを替え、そのテンションを緩めるだけで
逆風を追い風にできることがあります。

「まぁ~いっか~!」と、自由自在に気持ちを緩めることのできるヒトは
シアワセを選ぶ勇気のあるヒトではないかと感じるのです。

2008/2/8(金) の記事を転載