シリアルアントレプレナー 「3度目の起業」と「初めての子育て」 -123ページ目

自分らしい生き方

僕がインタースコープを経営していた頃、インターンとして働いてくれていた金子くんという人がいる。

彼のお父さんは、ある有名なミュージシャンのプロデューサーをしていたらしい(今もそうかもしれない)が、経済的に不安定で、子供の頃は苦労をしたという。

そのせいもあり、彼は職業に関しては、とにかく「生計を立てる」ことを目的とし、自分の好きなことを仕事にすることは「絶対にするまい」と思っていたそうだ。

その彼とインターン歓迎会か何かの席で、たまたまお互いに正面に座り、「職業」に関する話しで真剣に議論をしたことがある。酒席はそれが初めてだったにも係らず、彼から「説教?」をされた。その時のことは今も印象に残っている。

「平石さんは自分の好きなことで身を立てようとしているんですね。そういう人の中で成功する人っていうのは、どのぐらいの確率でいると思いますか?」

「100人中1人ぐらいじゃない」

「じゃあ、平石さんは、その一人を目指しているんですね?」

「そういうことになるかな・・・」

「本当になれると思っているんですか!!!」

「・・・・・・」

「でも、だんだんとそれに近づいて行っているんでしょうね」

「そうありたいね・・・」

こんな感じだった。

その彼から、久しぶりにメールが届いた。

就職も決まり、今は修士論文で忙しいらしい。

その彼からのメールに、こんなことが書いてあった。

「そして私事ではありますが、『自分が父親の遺伝子を持っていること』を感じずにはいられない日々を送っています」。

彼は、非常に頭脳明晰であるが、父親譲りの「クール」なクリエイティビティを持っており、僕は「早晩、彼は自分自身の中に宿る、父親譲りのクリエイティビティに気づく時が来るだろうな」と思っていたが、どうやら、その時が来たらしい。彼のメールを読んで、そう思った。

すると、その瞬間、僕の瞼の裏に「悠生」の顔が浮かんできた。

そして、一瞬、目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになってしまった。

この感情は自分でも何と表現していいか分からないし、言葉に表すことができない。今までの僕の人生の中では感じたことのないものだ。

「3度目の起業」とかとカッコいいことを言っているが、自分が思ったとおりには事業が立ち上がらず、苦労をしているわけだが、悠生にはそんなことは当然のことながら分かるはずもなく、僕の顔を見れば、屈託のない笑顔を返してくる。

そんな悠生を、僕は本当にちゃんと育てていけるのだろうか?生計を立てていけるのだろうか?

そんなことを思うと、何と言っていいか分からない感情にかられてしまう。

そんな僕にとって、金子くんのメールにあった「自分が父親の遺伝子を持っていることを感じずにはいられない日々を送っています」という一言には、とても勇気づけられ、励まされた。

ところで、僕が2001年から通っているセラピアという整体がある。

そこの鈴木さんという方にお世話になっている(かれこれ5年になる)のだが、今週の日曜日に整体をしてもらった時、彼がこんなことを言っていた。

「最近の平石さんの身体は、以前のような何かに対する怒りや漠然とした不安や焦りといったものが無くなっていますが、その反面、力がなくなってきています。失礼かもしれませんが、少し枯れてきているとも言えます。これから冬に向かうので、自然と言えば自然なのですが・・・」。

昨日のブログにも書いたが、ここ最近は「オポチュニティ」よりも「リスク」の方が気になる(見えるようになった)ようになっており、以前のように我武者羅に前に進む勇気をもてなくなっている自分がいるが、きっと、そういう精神的な面が身体に表れているのだろう。

以前、何かの機会にインタースコープ創業メンバーの整(久恒 整)と話しをした時に、彼が「あの頃(創業期)のような生活(毎日午前様 or 会社に泊まり込み)は、二度としたくないじゃないですか?」と言っていたことがあり、僕は「そうかな?(また、やってもいいじゃん)」と思っていたが、今にして考えると、僕よりも彼の方が「現実」が見えていたのだと思う。要するに、僕はあまり頭が良くないということだろう。

もうひとつ、精神面の変化という意味で、印象的なことがある。

日本人で唯一、ワールドカップに8年間出場し続けた世界的なプロウインドサーファーだった「飯島夏樹さん」が生前に語っていたことである。

彼は同じプロのウインドサーファーの女性と結婚したと記憶しているが、その方との間に子供ができた時、

「今までの自分は、(プロのウインドサーファーとして)常に何かと戦っている人生を歩んできたが、そろそろそういう生き方(戦う生き方)をやめて、別の生き方をする時期にきているのではないか・・・?」

と思ったそうである。

そして、プロウインドサーファーを引退し、グアムで日本人観光客を相手にした旅行事業を始めた。結果的にその事業は大成功し、家族みんなで裕福な暮らしを送っていたという。

しかし、とても残念なことに、彼は「細胞ガン」という極めて難しい病気にかかってしまい、グアムの事業を売却し、日本に帰ってきて治療に専念したそうである。

そして、本当に残念なことに、2005年2月28日に38才の生涯を終えてしまった。

彼が言っていた「常に何かと戦っていた」という気持ちが、今の僕には分かるような気がしている。

20代30代、具体的に言えば、最初の会社を創めてからインタースコープを創業してしばらくするまでの僕の原動力は「コンプレックス」であり、社会=エスタブリッシュメントに対する「反骨心」だったが、3流大学しか出ていない僕でも、一生懸命に頑張れば、それなりのことが出来るんだということを証明できたと思うようになってからは、そういう思いは薄れてきた。

そして、悠生が生まれたことと関係があるのか、今までのように自分の「プライド」や社会からリスペクトされるために「戦う生き方」ではなく、彼との時間を大切にしながら、自然体で「自分らしく」生きていきたいと思うようになった。

それが、43才の身体を「枯れたもの」にしているのかもしれない。

正直、「枯れてきている」と言われれば、人間として、男としてショックでないと言えば嘘になるが、肉体の老化は避けられないことであり、それを受け入れた上で、この先の人生を送って行けと神様が言っているのかもしれない。

でも、2年間のレッスンのお陰で、最近になってゴルフの飛距離は「3番手」も伸びた(笑)!!!
素直に、とっても嬉しい出来事である。

「リスク」や「恐怖」というのは、自分の才能や能力を遙かに超えるものに挑もうとするから感じるものであり、社会的評価や立場や名声等を忘れることができれば、ありのままの自分で出来ることをやっていくことができれば、そういうものは感じなくなるのかもしれない。

そうは言いつつも、今の自分は、心のどこかに成し遂げられなかった「株式公開」ということや、それを成し遂げた起業家仲間に対して、引け目を感じているのは事実である。

そこから完全に自由になれた時に初めて、「自分らしい生き方」ができるのかもしれない。

「未来」に書かれたもの

僕が好きな(尊敬している)田坂広志さん(ステキな名前である)の著書で、「自分であり続けるために」~流されずに今を生き切る50のメッセージ~ という本がある。

先日、久しぶりに家の中を掃除をしていて、その本を手にした。

僕は、本を読むと、自分で気になったページは爪を折っておくようにしており、この本にも「2ページ(2つのメッセージ)」で爪が折られていた。

そのひとつが「『未来』に書かれたもの」というものである。

僕は、その映画のことは知らないが、アラビアのロレンスという映画の中で、ピーター・トゥオール演じる英雄ロレンスが、疲労困憊のために落馬して灼熱の砂漠に取り残されてしまった兵士を助けようと、自分自身も疲労困憊した身体に鞭打って引き返そうとした時に、ひとりのアラビア人の兵士が、それを止めようとして、「It is written.(彼が砂漠で死ぬことは、宿命だ。そのことは、コーランに既に書かれている)」と言ったそうである。

その言葉に耳を貸さず、ロレンスは砂漠に引き返し、九死に一生を得る形で、その兵士を助け出す。

そして、部隊に戻ってきたロレンスは精根尽きて倒れる前に、静かに、しかし、力強く語るそうである。

「Nothing is written.(何も書かれていない)」

田坂さんは、この映画のワンシーンを引き合いに出して、「我々の歩む未来には、何も書かれていない」と書いている。

そして、こうも続けている。

「そのことがこの世界の真実であるにもかかわらず、我々の心の奥底に宿る「生の不安」は、そのことを受け入れられないのです。そして、そのことが、実は、我々の「生の輝き」であることに、気がつかないのです」。

改めて、深い言葉だと思った。

ドリームビジョンを創めて約8ヶ月になるが、ここ3~4ヶ月間は、「勝ちに行く」のではなく、「負けないように」という思考になっており、本来の自分を忘れていたような気がする。

僕はよく、28才で起業した時のことを「地雷」を引き合いに出して説明するが、さすがに2度の起業経験があるので、この先の「苦難」や「成功確率」がある程度分かってしまい、それが「原因」となり、勝負を恐れる心が生まれてきていたと思う。

そして、それは身体にも如実に表れるような気がしている。

ここ数日のことだが、どの道、片道切符で引き返すことはできないわけだし、どの道を選んでも「困難が待っている(避けられない)」のだったら、成功した時に、最も「自分らしく」、最も「デカイ」選択肢を選んだ方がやる気が出るよな・・・と思うようになった。

すると、長い間、忘れていたクリード(最初の会社)の時の自分やインターネットリサーチという事業を立ち上げようとしていた頃の自分を思い出した。と同時に、あの頃の躍動感というかエネルギーに似たものを、身体の中に感じるようになった。

昨日、52才の「中嶋常幸氏」が、三井住友VISA太平洋マスターズで優勝した。


20代や30代の頃とは違うのは間違いない事実だが、今までの経験から学んだことと、40代ならではの「集中力」をもって、大きな勝負をしたいと思う。

でも、僕という人間は、精神的に弱いことも事実である。

その日によって、気持ちが前向きな日もあれば、弱気になってしまう日もある。

自分という人間のすべてを受け入れて、前に進んでいくしかないんだろう。

そして、その勇気を持ちたいと思う。

追伸:自作の座右の銘である「人生はすべて必然」の意味は、物事は最初から決まっているということではなく、すべて原因がある、という意味である。

★ブログの検索ワード

僕のブログに訪れてくれる方々が、どんなワードで検索をしているかというと、当たり前であるが「平石郁生」が最も多い。

次に、多いのが「シリアルアントレプレナー」だ。

これは、自分でも驚きだった。

確かに、僕自身が自分のことを「シリアルアントレプレナー」とポジショニングして訴求しているわけだが、世の中に「シリアルアントレプレナー」という言葉で「検索」をする人がそこそこいるという事実には驚いた。

因みに、グーグルで「シリアルアントレプレナー」と検索すると、僕のブログがトップに表示される。

マーケティング戦略でいう「ポジショニング」なり「記号性&意味性」ということが大切だということを、自分自身を題材として検証できたと思っている。

何事も「試してみる」ことが重要ということだろう。

★au の風船

先日の3連休に久しぶりに横浜に行ったことはブログに書いたが、その後日談で紹介したいことがある。

ナンバーポータビリティが開始され、各キャリアともマーケティング投資を活発化させているが、au は、みなとみらい地区の道行く人々に、au および自社サービスのロゴの入った風船(ヘリウムガス入り)を配っていた。

我々家族も悠生のために風船をもらってベビーカーに付けると、暫くは楽しそうに遊んでいたが、すぐに飽きてしまい、見向きもしなくなってしまった。

その風船は家に持ち帰ってその辺に放置しておいたのだが、翌日にはヘリウムガスが抜けてしまい、しぼんでしまていた。

それを妻が、息を入れて膨らませてみせたところ、悠生はそれには物凄く反応したらしく、妻が風船を膨らませるのを止めると、悠生は、風船をとって、何度も妻の口にあてがってきたらしい。

子供というのは大人とは興味関心の視点がまったく異なり、とても面白い存在である。既成概念がないということだろう。

「たかが風船」にも、発想のきっかけというか、創造的な視点があるということを教わった気がする。

ベンチャーズ・ナイト(Venture's Night)

JOBWEBと共同でベンチャーな人達のギャザリングを企画しました。11/17(金)@原宿で開催します。

ベンチャー、特に、ネットベンチャーというと、ここ最近の風潮として「拝金主義」的なイメージを持たれてしまった感もありますが、大多数の人達は、額に汗して働いています。

そんな人達が集まり、また、大企業にいてもベンチャースピリッツ溢れる人達が集まり、それぞれのビジネスや将来構想について話しができる機会があればと思い、今回のような機会を作ろうということになりました。

知り合いがいなくても、一緒に参加する人がいなくても、僕がひとりひとりの方ときちんと挨拶をさせていただき、この人とこの人を紹介したら何かが生まれるのではないか?という人がいたら、責任を持って紹介させていただきますので、安心していらして下さい。

http://college.dreamvision.co.jp/event/061117/01.html

「出会いはいつも、自分から」。

僕が若かりし日に書いたコピーのひとつです。

「若さ」を差し出す代わりに知識や経験を得る。

僕のブログを読んで下さっている方の中には、板倉雄一郎さんをご存知の方も多いかと思う。

インターネットが世の中を席巻する以前、日本のベンチャーシーンを席巻した人である。
30億円以上の負債を抱えて会社を倒産させて、自己破産をした人でもある。

「社長失格」という著作でも有名な人である。

彼は今、板倉雄一郎事務所という名称で「投資」や「ファイアンンス」に関する仕事をしているが、先日、アライドアーキテクツ中村さんと話しをしていた時、彼が「板倉さんって、物凄く頭がいい人ですよね」と言っていた。

「僕はお会いしたことがないので分からないけど、そうなんでしょうね」と返事をしたところ、「僕も会ったことはないけど、ブログを読んでいると(とても頭がいいということは)分かりますよ」とのことだった。

それで早速、板倉さんのブログを読んでみた。

板倉さんは理系の人で、彼が初めて創った会社はゲーム開発会社だったと思うが、たしかに論旨の展開が非常にロジカルであり、彼のブログには僕の苦手な「数式」がしばしば登場する。

中村さんが何を言いたいのか、分かるような気がした。

実は板倉さんと僕とは同い年(1963年生まれ)であるが、その板倉さんが書いていたことで「なるほど」と思ったことがある。

「若き起業家に会うたびに、「若さって、それだけで価値だよな」と思います。
(いや、そう思う歳に、僕自身が成ったということでしょうか)

言うまでも無く、若さには価値があります。
しかし、若さに価値があるということは、一方で、
時間経過と共に「若さの価値」は減少して行くということでもあります」。


そう、若さの価値は減少していくのである。

また、板倉さんは、こうも続けている。

「つまり、
時間経過によって「若さの価値」は減少するが、
一方で、時間経過の中で、経験や知識を習得し、
社会からの信頼が増大(=リスク認識が減少)すれば、
トータルとしての人の価値が「時間経過と共に増大」することになります。
ちなみに、
PV=FCF(1)/(WACC-g) に無理やりあてはめれば、
人の現在価値=
(「若さの価値」+「知識経験の価値」)/(「社会からの信頼の逆数」-「成長率」)
ということになるでしょう。
(生み出すキャッシュフローが、人の価値のすべてだ、
 と言っているわけではありません。
 あくまで、ファイナンス理論にあてはめれば、という意味です。)

刻一刻、我々すべての人間は、間違いなく「若さの価値」を失います。
失った「若さの価値」以上に、素晴らしい経験と知識を身につけることによって、
時間経過による「若さの価値の減少」以上に、
他の価値を手に入れることができます。
逆に言えば、
素晴らしい経験のチャンスや、知識習得のチャンスを逃していれば、
ただただ、時間経過による「若さの価値の損失」だけで終わってしまいます。

私たち人間のすべては本来、
「若さを差し出す代わりに知識や経験を得る」という「投資家」なのです。
投資家として成功するためには、
「差し出す時間以上の価値を手に入れる」を死ぬまで繰り返すことでしょう。
もちろん、
得られた知識や経験を社会に還元して初めて、
「社会にとっての価値」となり得、当人のキャッシュフローと成り得るわけです。

つまり、「One for All and All for One」ってことです」。


43才になった僕は、決して若いとは言えないが、50才になってからでは出来ない(したくない)ことを、今、やっているのであるが、43才という自分の時間を差し出す以上の価値とは何か?そのことを自問自答してみようと思う。

ヨコハマ(横浜)の夜景

11/19(日)に「ヨコハマ」で結婚式がある。

インタースコープ第1号インターンで伝説のインターンのひとりであるジロー(天辰次郎氏)と新卒入社の長島さんの結婚式だ。

僕の妻も創業メンバーとして働いていたので、彼らの結婚式&披露宴には夫婦で出席することになっている。僕らにとっては、とても感慨深いものがある。

そこで、問題なのは「悠生」をどうするか?だ。

このブログにも何度か書いたとおり、妻は東京生まれであるが、彼女の両親は既に亡くなっており、悠生をあずけられるアテはない。結論として、テンポラリーにあずかってくれる託児所を探した。

候補は2つ。渋谷のセルリアンホテルにある託児所と横浜みなとみらい地区にあるパンパシフィックホテルにある託児所。

先週の日曜日にセルリアンの託児所を見学に行ったが、やや狭いためか、悠生が泣きそうな表情をした。

それで今日は、横浜まで託児所の見学に行った。

パンパシフィックホテルに入っている託児所はホテルの部屋2室分を使っており、窓もあるので開放感があった。子供はみんな鏡が好きなようだが、壁には鏡のようなものがあり、悠生は大はしゃぎだった。保育士さんとも相性がいいようだ。ここなら悠生をあずけても大丈夫だろうと思い、安心した。

実は昨日も横浜まで出掛けていた。この3連休に第三京浜を2度、往復したことになる。この季節は夕方5時にはすっかり日が暮れており、首都高から見る横浜の夜景はきれいだった。

昨日もパンパシフィックホテルの託児所に行ったのだが、その時はあずかっている子供がいたため、安全のためだと思うが、施設の中には入れてもらえなかった。事前に電話をしてから出掛けたので、そのことは承知の上だった。

当然と言えば当然なのかもしれないが、悠生が生まれからは、週末はゴルフに行く日を除くと、子育てで何らかの用事があり、ゆっくりと時間を過ごすということができない。

自宅がある恵比寿から横浜までドライブがてら出掛けるのは、とても良い気分転換になると思い、二度手間(足)になるのは承知の上で、一昨日と今日と、横浜まで出掛けた。

久しぶりの横浜は、活気があった。ホテルのロビーに座っていると、なんとなくどこかに旅行に来たような気分を味わえた。

みなとみらいには小さな遊園地のような施設があるが、悠生を連れていくと、生まれて初めて見る「乗り物」に興味津々で、ベビーカーに乗ったまま、終始、顔を上げてそれらを見つめていた。

まだ、言葉を話せない(まだ、頭の中に言語はない)彼は、何をどう感じたのだろうか?

子育てから学ぶこと

子育て先輩の方々から異口同音に言われていたことは、子育てと言うものの、子供から学ぶことの方が多いということだ。

悠生が生まれて1年1ヶ月が経ったが、はたして、我々夫婦は何を学んできただろうか?

僕(が学んだこと)に関しては、明確に言語化できているものは少ないが、相手(自分の子供)はひとりの人間(人格)であり、僕とは異なる「意志」を持っている、ということだろうか。

言葉を話せようが話せまいが、彼は自分の意志で、遊び、ダダをこね、食事をする。

僕の言うことを理解することができない彼に対して僕ができることは、彼の意志を尊重することだけである。

相手が大人であれば、自分が言いたいことを伝えることはできるが、だからと言って、そのことを理解してくれるかどうかは別問題である。

世の中は自分の思うようにはならない。しかし、自分自身が成し遂げたいことはある。

そのギャップがあることを学んでいるのかもしれない。

一勝九敗

ユニクロの柳井正さんが書かれた本のタイトルである。読まれた方も多いことと思う。

僕がこの本を買ったのは、おそらく、2003年の暮れか2004年になってからだと思うが、いつもの悪い癖で「積読(つんどく)」状態だった。つい数日前、オフィスの本棚に並んでいるのを見つけて、読み始めた。

昨日のブログでリクルート創業者の江副さんが書かれた「かもめが翔んだ日」という本を紹介させていただいたが、その本と同じような匂いを感じている。まだ、読みはじめではあるが、きっと今の僕に大きな影響を与えてくれると思う。

さて、柳井さんはご自分のことを「一勝九敗」と評している(とても謙虚な方だと思う)が、僕自身は「二分八敗」というのがいいところだと思う。

昨晩は、かなり久しぶりに末弟とふたりで下北沢で食事をしたが、彼とも「二分八敗」の話をした。

僕にとって「勝利」とは何か?という質問をされたので、僕は「自分の想い描くやり方で、自分の想い描く結果を出せたら、それが僕にとっては【勝利】だ」と答えた。

ゴルフでは、今の僕の実力を考えると、2004年11月に宮崎のフェニックスで出した「89」がそれに当たる。つまり、1勝はできた。80台はそれっきりだが・・・。

しかし、ビジネスでは、自分で納得するものは出来ていない。残念ながら。

こうしてキーボードを叩いていて、でもな?と思ったのは、インターネットリサーチ研究会に関しては、業界の発展に貢献できたという実感があり、強いて言えば、これは「一勝」と言ってもよいかと思う。

でも、「ビジネス=お金を稼ぐ」という意味では、自分が描いたやり方で、自分が描いた結果を出せたことはなく、まだ、勝ったことはない。

総勢100人の会社(インタースコープ)から、4人(ドリームビジョン)になったが、今の方が自分の想い描くやり方で経営をしている実感がある。

毎日が試行錯誤の連続ではあるが、自分自身で意思決定をし、一緒に働く仲間の意見に耳を貸し、僕自身の不甲斐なさも曝け出し、ひとつの目標に向かって走っているという実感がある。

スケールは小さくても構わないので、何としても、まず、最初の「1勝」をあげたい。

2種類の後悔

「しておけばよかった」という後悔と「しなければよかった」という後悔があるとして、僕は「しておけばよかった」という後悔はしたくないと思っている。

1995年の阪神大震災の時、妻の友人が神戸に住んでいて、僕らは個人的に救援物資を送った。そして、僕は「現地」に行き、その惨状を自分自身の目で確かめたいと思った。そのことによって、自分自身の何かが変わるような気がしたからだ。しかし、結局は何となくの躊躇により、現地に足を運ぶことはなかった。

「行っておけばよかった(行くべきだった)」と後悔している。

もし、あの時、神戸に行っていたら、きっと、中越地震の時も、もっと被災した方々に対する支援をしていたのではないかと思う。

つい先程、銀座で働く社長のBlog 藤田憲一さんのブログを読もうと思い、リンクをクリックしたところ、彼のお父様の挨拶文が掲載されていた。

藤田さんは、10月12日(木)午後2時22分、永眠されたという。心からご冥福をお祈りしたい。

実は彼とは、僕がインタースコープを経営していた頃、事業提携の話しで何度かお会いしたことがあった。

彼が末期ガンになったという事実は、ある時、知り合いのブログに掲載されていた彼が書いた本へのリンクで知った。何とも言えない衝撃を覚えた。

彼が生きているうちに「藤田さんに会いに行こう」と思ったのだが、悲運なことで「有名人になった彼に会いに行く」と思われるのではないか・・・?という躊躇があり、面会を打診することはしなかった。そして、今朝、彼のブログを読もうとしたら、既にこの世を去っていた。後悔をした。因みに、藤田さんのお父さんのお名前は「郁夫」といい、僕と一字違いである。

彼は、自分が末期ガンになったことを知ってから、残された人生をどう生きるべきかを考えて、新しい会社を設立したらしい。僕は、彼の古い連絡先しか知らず、彼に連絡を取るためには、彼のブログだったか会社のウェブだったかにあった「彼への連絡フォーム」に面会したい旨を「入力」せざるを得ず、「以前からの知り合いなのに、面会を断られたら嫌だな・・・」という、極めて馬鹿げたことで入力することを躊躇をし、結局は最後の面会の機会を得ることができなかった。

少しばかり自分を擁護すれば、僕は両親ともにガンで亡くしており、末期ガンとはどういう状態かが分かっていたということと、その一方、これだけ精力的に活動している彼なら、ひょっとしたら治ってしまう可能性もあるのではないか?という思いがあった(そう願いたかったのだと思う)ことも、彼への面談を躊躇した理由かもしれない。いずれにしても、もう一度、お会いしたかった。

人生というのは、ほんのちょっとした「勇気」があるかないかで、大きく変わってしまうもののような気がする。

自分が最も大切にしているものの本質に対する掘り下げ方が足りないことと、他人の目を意識してしまう精神面の未熟さが、こういう後悔を引き起こしてしまうのだろう。

すぐに変えられるものではないかもしれないが、これからの人生は、会いたいと思った人には会い、行きたいと思ったところへは行き、やりたいと思ったことはやる、という生き方を貫けるよう、今回のことを機に、自分自身の本質を見つめ直そうと思う。

最後に、藤田憲一さんのご冥福を改めて心からお祈りします。