シリアルアントレプレナー 「3度目の起業」と「初めての子育て」 -122ページ目

まあ、ええか。

テン・スターズ・ダイニングという会社をご存知の方はいるだろうか?

大坂出身の吉田さんという方が経営されている飲食業の会社である。その吉田さんに、Y-CUBEという会社が主催するセミナ-でお会いした。

1953年生まれで現在53才、笑顔がとてもステキな方だ。もうひとり、僕の目標とする人ができた。

その方は、26才の時、大坂でお好み焼き屋を始めた。900万円を親から借りて。でも、半年で潰してしまったという。

しばらくして、単身上京し、27才の時に「原宿」でリベンジを企て、「お好み焼き屋 TEN」という店を出し、成功した。

その後、業態を「鉄板焼き」に変更し、今では10店舗(だったと思う)の店を経営している。

その吉田さんが会社案内の表紙に「まあ、ええか」と書いている。

いままで、いくつも失敗してきたけれど、いつも笑っていたそうだ。「まあ、ええか」と言って。

「楽しいから笑うやなく、笑うから楽しくなる。楽しかったら、何とかなりますもん」。

明るい性格の持ち主なのだろう。羨ましいと思う。

そして、こうも書いている。

「ぼくは親父の金で商売始めた。今度は、ぼくがみんなの親父になる番や」。

「僕は、ボンボンやったから親に借金して保証人になってもらって、この会社をはじめた。それを今度は、みんなのために、ぼくが親父の代わりになろう、と思っています」。

こんなふうにも言っている。

その前に、まだまだ頑張らないといけませんが、僕もはやく、そんな親父になりたいと思う。

J-POP

20代の頃は「洋楽一辺倒」で邦楽は殆ど聴かなかったが、30代になってからは、少しずつ邦楽を聴くようになった。

学生の頃は、ブラックコンテンポラリーが好きで、レイパーカーJr.やLL Cool J、EWFあたりをよく聴いていた。社会人になってからも、その傾向は変わらず、ベイビーフェイスがプロデュースするアーティスト等がお気に入りだった。あとは、アシッドジャズが好きで、Brand New Heavy's やミシャ・パリスなんかを聴いていた。

それが結婚して暫くしてからだろうか。急速に、洋楽を聴かなくなっていった。

結婚するまでの僕は、家にいる時はテレビは殆どつけず、FMラジオを流していて、新しい楽曲の情報源にしていたのが、僕の妻は「テレビッ子」で、彼女のために仕方なく、FMラジオの代わりにテレビをつけるようになった。

それで少しずつ、洋楽の最新事情から疎くなり、そのうち、殆ど洋楽は聴かなくなってしまった。CDは400~500枚ぐらいはあると思うが、それらの大半は結婚する前に買ったものである。

洋楽を聴かなくなったことと直接の関係があるわけではないが、ここ数年は「邦楽」いわゆる「J-POP」と言われる曲を聴くようになった。

それは、妻の影響も少しはあると思うが、最も大きな影響は、古くからの友人である佐藤 裕氏のように思う。

彼は、自分の会社を経営し始めて、かれこれ10年近くになるが、ウェブサイト構築や映像製作、最近は、ウェブアプリケーションの開発等の仕事をしている。

その彼とは、ここ5~6年、定期的にゴルフに行っているが、彼の車で行くことが多く(2年前まで僕は車を持っていなかった)、車中でよくかかっていたのが「J-POP」だった。

彼は職業柄、流行りの曲には極めて詳しい。

それまでの僕は、J-POPを聴くなんていうのは極めて「ミーハー」でカッコ悪いことだと考えていたが、そういうステレオタイプな考え方こそ、頑固でカッコ悪く、自分の可能性を狭めているような気がしてきて、自分から、いわゆる「流行りもの」の邦楽を聴くようになった。

話しは変わるが、先程、初めて、iTunes Music Store で買い物をした。

購入した曲は、「BoA: Winter Love」「平原綾香: Jupiter」「村治佳織:アルハンブラ宮殿の想い出」の3曲である。

僕のPCは「MacBook Pro」で、このエントリーも、iTunes でそれらの曲をかけながら書いている。

便利な世の中になったことを実感すると共に、iTunes のインターフェイス(GUI)がメチャクチャカッコ良く、やはり、マックは違うな!!!と思った。

僕は、やはり、効率(ウィンドウズ)よりも、創造性(マッキントッシュ)的な方が好きだ。

そして、そういう生き方をしていきたい。

追伸:先週の金曜日、裕と久しぶりに食事をしたのだが、その時に彼から「(友人達の)中には平石のことを『ドンキホーテ』のように思っている人もいると思うよ。なんでわざわざ3度も起業するわけ?ってさ。でも、起業家なんでしょ!!!(笑)」と言われた。好きで苦労をしているわけではないが、それ(不器用な生き方)しかできないし、それが僕の本質なんだろう。ここまできたら、それを極めるしか・・・ない。久しぶりに裕と会って、勇気をもらった。

人生の時間

僕が「人生は短い」と思うようになったのは、35才になった時だった。初めて創った会社が丸7年経った頃だ。

それまでは、持って生まれた才能は別として、人生の時間は「無限大」のような気がしていたが、折り返し地点を迎えた気がして、僕の人生に残された時間は確実に短くなっていくことを理解した瞬間でもあった。

あれから8年の歳月が過ぎた。

もう一度、7年という時間が過ぎると、僕は「50才」になる。なぜか今日、そんなことを考えた。

35才になった時も50才の自分をイメージして、20才から35才までの時間がもう一度訪れると僕は50才になると思い、人生は短いと思うようになった。35才で、その50才を意識してから、約半分の時間を過ごしたことになる。

時間の感覚でいうと、インタースコープを創業してから退任するまでが「丸6年」。あっと言う間だった。と同時に、それまでの人生では経験することのなかった様々なことを経験することができた。

あと7年経つと、悠生は8才、小学校2年生になる。父親の仕事のことも理解できるようになる頃だろうか?

振り返ってみると、僕の人生は、6~8年周期で大きな変化があるようだ。

話しは変わるが、僕のブログに「皆勤賞」でコメントをしてくれている「坊主頭のりょうへいさん」が、こんなコメントをしてくれていた。

「人生というものは、会うべき人には、会うべき時に、必ず会うことになっている。早すぎることもなく、遅すぎることもなく」。

これからの7年は、今までとは異なるタイプの人達と出会い、異なる価値観に触れ、異なる自分を発見し、歳を重ねるのを楽しめる「50代」を迎えられるように頑張ることにしよう。

今日、そう決めた。

自分自身の本質

2年ぶりの宮崎(NILS)は、あいにくの天気だった。風邪をひいていたこともあり、体力的にはキツイ2泊3日だったが、2年前とは違った発見があった。

主催者から外部のウェブ等への投稿は禁止されているので内容は紹介できないが、SONYの出井さんの話とオプトの海老根さんの話は勉強になった。

ところで、今日の出社前に立ち寄った渋谷で、「THE BIG ISSUE JAPAN(ビッグイシュー日本版)」を買った。僕がこの雑誌を買ったのは、2回目である。

ご存知の方も多いと思うが、ビッグイシューはホームレスの人々の仕事をつくり、自立を支援する目的で発行されている雑誌である。60歳代と思われる優しい笑顔をした男性が、渋谷の街角でビッグイシューを売っていた。

さっそく雑誌を開くと、3ページ目に「私の分岐点」という連載コーナーがあり、俳優の三田村邦彦さんのインタビューが載っていた。

彼は1953年生まれで、僕よりもちょうど10歳年上になる。僕も三田村さんのようなステキな50代を目指したいと思う。

その三田村さんは劇団の養成所で芝居の勉強をしていた時に、映画の主役の話を「2度」も断ったことがあるそうである。

そのひとつが、結果的には出演をした「限りなく透明に近いブルー」だという。村上龍さんとは同年代らしい。

村上さんが「どこがおもしろくないんだ?」と言って、三田村さんの意向に沿うように台本を練り直してくれたにも係らず、三田村さんが出演を拒んでいたところ、劇団の先輩だった蜷川幸雄さんに、「お前、本当の馬鹿じゃないの?一生に一度あるかないかのチャンスを2度も断るなんて、コレ逃したら、お前は永遠に世に出られないぞ」とどやされたらしい。

その時、蜷川さんに、「お前みたいな頑固者は、価値観が変わるほどのショックを受けないとダメだ」という意味のことを言われたそうである。

そして、その言葉が、その後の人生でもずっと頭に残ってしまったという。

また、三田村さんは(自分では)カツラが似合わない(と思っていた)ので時代劇は断っていたらしいが、お父さんがガンで入院していた時に「お前、時代劇はやんないのか?オレ、時代劇、好きなんだけどなぁー」と言われたことがあったそうだ。

実は、その前日、時代劇の話を断ってきたばかりだったというが、お父さんの話しを聞いて翻意をし、時代劇に出たという。

そして、それから10年間ほど時代劇をやったらしいが、その時に知り合った役者さんたちは、一生つき合える友人になったそうだ。

「オヤジが、友達という財産を残していってくれたんですね」と語っている。

ところで僕は、正直に言うと、駅でベビーカーを持っている母親が階段を降りるのを手伝ったり、ホームレスの方からビッグイシューを買ったりするのを躊躇するところがある。ストレートに言えば、「仕事ができる人とはイメージが異なる」という思いがある。

でも、僕の本質は、そういうところにあるのであれば、むしろ、そのことに目を向けた方が良いのかもしれない。

足を止めて、ビッグイシューを買わなかったら、三田村さんの話を読むこともなかったし、こうして、ブログに書くこともなかったわけだから。

NILSに関しても、外的刺激や発見よりも、内的な意味での発見や価値が大きかったように思う。

ガリバーインターナショナルの羽鳥さんがプレジデントビジョンで「他人がどう思うかではない、どう生きたかだ」と言っているが、そう言い切れて、そう生きている人は強いと思う。

羽鳥さんには、そういう強さを感じる。

今日から宮崎

2年ぶりの宮崎である。初回のNILS(New Industry Leaders Summit)で行って以来だ。

そもそもNILS自体が初回以来である。あの時と較べると規模も大きくなり、雰囲気もだいぶ変わったのだろうと思う。

今回は、ゲストでSONY最高顧問の出井さんもいらっしゃるらしい。とても楽しみである。

新たな出会いと発見に満ちた素晴らしい3日間にしたい。

東京の銀杏並木

ここのところ、悠生がまた夜中に起きるようになってしまい、それにつき合わされて睡眠不足が続いたせいか、週末から具合が悪くなり、遂に、風邪をひいてしまった。鼻水が出るのと熱が少しある。子育ては「体力」だということを痛感させられる。

ところで、今日は朝から悠生を連れて、お茶の水にある小児科に連れて行った。以前にもブログに書いたが、発達障害の可能性があるということで、1ヶ月程前に連れて行った病院である。

その時は、妻はひとりで連れて行ったが、地下鉄は「エレベーター」がついていない駅が多く、女性がベビーカーを押して、ましてや、離乳食やミルクなどの荷物を持って出掛けるのは、かなり大変である。それで、今日は僕が車で連れていった。今朝は雨が降っていたし・・・。

つい先日も、原宿の駅で外国人の女性が小さな子供をひとり連れて、尚且つ、ベビーカーで赤ちゃんを連れており、どうやって階段を降りようかと困っていたので、ホームまでベビーカーを運んであげた。

僕が通り掛るまでに、何十人という人が通り過ぎたはずだが、誰一人として、彼女に手を差し伸べようとする人はいなかったのだろう。日本人のひとりとして、少々残念に思う。

ところで、恵比寿の自宅からお茶の水までと、お茶の水から恵比寿の保育園までの道すがら、フロントガラスからは、すっかり黄色くなった「銀杏の木」が目にとまった。

たしか、都の樹木になっていたと思うが、都内の道には「銀杏の木」が植えられており、銀杏並木が多いことに改めて気がついた。

いつだったか、とてもお世話になっているデザインクエストの山内さんという方が「子供ができると季節の移り変わりがとてもよく分かる」と言っていたが、そういうことかもしれない。

ところで、話しは変わるが、週末(日曜日)は、元インタースコープ社員のジローと現在も頑張って働いてくれている長島さんの結婚披露宴に参列させていただいた。これも子供ができたせいなのか、彼らの表情に「人生の時間」を感じた。

そして、披露宴の最後に、長島さんがご両親とお兄さん宛の手紙を読んでいたが、最後まで涙を見せず、活き活きとした表情で読んでいた姿がとてもステキだった。

また、詳細は省くが、ちょっとしたハプニングがあったお陰で、悠生を式場まで連れて行くことになり、インタースコープの皆に悠生を会わせることもできたし、とても良い記念になった。

ジロー&長島さん 末永くお幸せに。

ここ最近、自分の中で色々な感情が沸いては消えるというのが繰り返されているが、何となく、何かが変わっていくような気がしている。

今までのような我武者羅さと優しさが取柄の人間から、「静」の中にも「芯(強さ)」がある人間になりたいと思う。

「人生の成功」の定義

先日、久しぶりにインフォプラントの大谷さんと食事をした。

2002年2月13日の設立準備会議以来、4年半に渡り運営してきた「インターネットリサーチ研究会(略称IRJ→後にIMRJへ改組)」の解散(今年9月末日)に伴い、発起人2人だけの「慰労会」という趣旨だった。

久しぶりに会った大谷さんは、とても元気で、表情が活き活きとしていた。

旧メディアプランニングセンターからインフォプラントへと商号変更し、本格的にインターネットリサーチ事業に参入してから約8年。昨年、ヤフー傘下に入り、経営基盤を固めてきたと同時に、アジア事業の一部をMBO(マネジメント・バイ・アウト)し、大きな変化を経てきた大谷さんは、ひとつの仕事を成し遂げたという顔をしていた。

最近は、故郷の青森県八戸市へインフォプラントの機能の一部を移転する計画を推進中であり、八戸市の雇用創出にも貢献し、市のアドバイザー等も務めているらしい。

その大谷さんからは、単なる経済合理性だけではなく、いかにして「地方都市」の産業を発展させるか? 自分の意志ではなくたまたま青森県八戸市に生まれた若者に、最先端の産業に係るチャンスを提供するにはどうすればよいか?といった「社会起業家」的な思想が伝わって来て、共感するものがあった。素晴らしいと思う。

「たまたま、八戸に生まれたというだけで、チャンスに恵まれない若者がたくさんいる。東京に出ればいいだろう?と言うと、親の面倒を看なければいけなかったりする。自分が『成功』したからいいという問題ではなく、若い人達にチャンスを提供していかないと・・・」と、大谷さんは言っていた。

ハッキリと「自分は成功した」と言う大谷さんに、僕はある種の畏敬の念を感じた。

「人生の成功」の定義は人それぞれだと思うが、大谷さんは常に「明確なビジョン」を持ち、その具現化のために生きてきた人であり、その結果として、経済的にも成功を収め、自分が具現化したかったことを具現化してきたということなのだろう。きっとこれからも、自分のやりたいことを次々と実現させていくだろう。

また、同じインターネットリサーチ業界の盟友であるマクロミルの杉本さんは「会社は利益がすべてだ」と明言し、実際にマクロミルを高利益体質の会社に育て上げた。

では、僕はいったい何を具現化しただろうか?

彼ら(成功者)には、まだまだ、遠く及ばない。

でも、まだ、人生の時間はある。

このままでは終われない。

自分自身であることの孤独。

インタースコープを経営している頃、自社のウェブサイトにある自己紹介ページに、「僕にとってのチャレンジとは、一生、自分らしく生きていくことです」と書いていた。

では、僕にとっての「自分らしさ」とは何か?

それは、いくつかの要素があるが、

・常に何かに挑戦をしている。
・イノベイティブなことに挑戦する。
・社会的に有意義なことを行う。
・人間関係を大切にする。
・一生懸命に頑張っている人を応援する。
・経済合理性を求めつつも、人の感情の機微を大切にする。
・長いものに巻かれない。

こんなことである。

文字にしてみると、特別難しそうなことではないと思われるかもしれないが、自分を貫くことが辛くなる時がある。

自分自身のことを書きたいところであるが、なかなか分かりすい事例がないので、先日もブログに書いた田坂広志さんの著作(自分であり続けるために)で描かれていたことを紹介したいと思う。

それは、「一つ目国の悲劇」というものだが、ある旅人が、旅の途中で道を見失い、住人のすべてが「一つ目」の国に迷い込んだという話し(寓話?)である。

その旅人は、最初の頃は、一つ目の人々を不思議に思い眺めていたが、徐々に自分だけが「二つの目」を持っていることが異常なことのように思えてきて、最後は「その孤独」に耐え切れず、自ら片方の目を潰し、一つ目になってしまったという。

古くから僕のブログを読んで下さっている方はご存知の話かもしれないが、ここまで書いて自分自身の事例を思い出した。

僕が小学生の頃、友達5~6人でラーメン屋に入った時、その中のひとりでガキ大将風の奴が最初に「味噌ラーメン」を頼んだところ、他の友人は僕も私も「味噌ラーメン」と続き、僕だけが最後に「塩ラーメン」と頼んだ。すると、「なぜ、お前はみんなと同じものを食べないんだ」と言われたので、「なぜ、自分の小遣いで自分が好きなものを頼んじゃいけないんだ?」と言ったところ、次の日から僕は「仲間外れ」にされた。

でも、僕は、その彼に迎合することはしなかった。

僕が「自分らしい生き方」ということに拘り、そういう生き方を貫こうとしている人を応援したいと思うようになった、原点なのかもしれない。

悠生の祖父

当たり前のことだが、僕の父と妻の父が悠生の祖父にあたる。

しかし、残念なことに、ふたりとも他界してしまっている。彼が物心ついた時に、残念に思うのではないかと思う。

幸か不幸か、妻の父は芸術家だったのだが、生前に描いた「絵」や「文字」や「人形」がある。

因みに、不二家の「ペコちゃん人形」は彼の作であり、そのことを、僕は密かに誇らしく思っている。僕は、義父のことがとても好きだった。

その義父が描いた絵のひとつを、今の家のリビングに飾っている。

中国は桂林あたりの絵である。とても生き生きとしており、静かなエネルギーを感じる。

その絵が誰の作かを知るはずもないが、悠生はその絵が気になるようである。

悠生がこうして元気に育っていることを、義父にも、僕の父にも見てもらえないのはとても残念だが、いつか、悠生が言葉を話せるようになった時、彼にとってのふたりの祖父の話をしてあげたいと思う。

自分の「ルーツ」や「家族の歴史」を知ることは、自分の人生を考える上で、とても大切なことだと思うから。

窓の外のケヤキ

インタースコープの創業と共に住み始めた中目黒の家を出て、今の家に越して来てから1年半になる。

中目黒の家と今の家は徒歩10分もない距離なので、住んでいる地域の環境はそれほど変わらない。

でも、窓の外の景色は大きく変わった。

中目黒の家の時は、窓のすぐ目の前に中学校があり、ベランダに出ると、教室の窓から顔を出している生徒と目が合うこともしばしばで、プライバシーの点では決して褒められたものではなかった。でも、僕らは、しがないその賃貸マンション暮らしを楽しんでいた。

今の家の窓の外には、大きなケヤキの木が立っている。樹齢はどのぐらい経つのだろうか?けっこう立派な木である。ここ数日の気温の変化により、紅葉が進み、季節感が漂っている。

そのケヤキの木以外にも、たくさんの木々が植えられており、都会のマンション暮らしにも係らず、四季の変化を楽しむことができる。4月にはサクラの木が見事な花を咲かせている。

今まで、このブログでは必ず何らかの形でビジネスや起業のことに絡めて僕なりのメッセージを織り込んできたが、これからは、何気ないプライベートなことも書いていこうと思う。