ゴールは何か?
先々週の土曜日、ETICが主催する「STYLE」というソーシャルアントレプレナー・ビジネスプラン・コンテストの2次審査のメンターとしてお招きいただいた。
何人かの方がメンターとして参加していたが、その中のひとりに、NPO法人ケア・センターやわらぎ の代表理事を務めている石川治江さんという方がいる。
石川さんとは、やはり、ETICが主催するイベントで知り合い、その後、STYLEの審査員としてご一緒させて頂いている。
彼女は、1947年生まれなので「59才」であるが、とても若々しく、強い「精神力」と「意志」を持っており、とってもステキな方である。経営センスも抜群で、大きな会社の社長も充分に務まるだろうと思う。
その石川さんがSTYELの2次審査で言っていた言葉で印象に残ったのが、「ゴールは何か?」ということである。
当然のことながら、ひとりひとりのゴールは異なるし、ゴールを決められるのは、自分しかいない。
すべては、自分の意志であり、結果に対する責任は、自分で負うしかない。
「自分が負える責任は何か?」を知ることが必要であり、負えない責任は負ってはいけないということだろう。
決して、見栄やプライドでは責任は終えないし、本当の「ゴール」は、そんなもので決められるものではないと思う。
そんなことを考えるきっかけを与えて頂いた一日だった。
何人かの方がメンターとして参加していたが、その中のひとりに、NPO法人ケア・センターやわらぎ の代表理事を務めている石川治江さんという方がいる。
石川さんとは、やはり、ETICが主催するイベントで知り合い、その後、STYLEの審査員としてご一緒させて頂いている。
彼女は、1947年生まれなので「59才」であるが、とても若々しく、強い「精神力」と「意志」を持っており、とってもステキな方である。経営センスも抜群で、大きな会社の社長も充分に務まるだろうと思う。
その石川さんがSTYELの2次審査で言っていた言葉で印象に残ったのが、「ゴールは何か?」ということである。
当然のことながら、ひとりひとりのゴールは異なるし、ゴールを決められるのは、自分しかいない。
すべては、自分の意志であり、結果に対する責任は、自分で負うしかない。
「自分が負える責任は何か?」を知ることが必要であり、負えない責任は負ってはいけないということだろう。
決して、見栄やプライドでは責任は終えないし、本当の「ゴール」は、そんなもので決められるものではないと思う。
そんなことを考えるきっかけを与えて頂いた一日だった。
創業メンバー。
このブログのタイトルのように、僕は今までの人生で「3度の起業」をした。それを含めて創業に携わったのは「6社」。
つまり、僕にとっての創業メンバーも、僕が創業メンバーの立場になったことも、それぞれ3社ずついるし、ある。
今日は、ドリームビジョンの創業メンバーである「安田 裕」という人物のことを書こう(紹介しよう)と思う。
彼とは、僕がインタースコープを経営していた2002年の夏、知り合った。法政大学の学生だった安田くんが、インターンとしてインタースコープに入ってきた時だった。
ドリームビジョンを創業したとほぼ同時に、法政大学のビジネススクールと提携をして講座運営を始めるなど、法政大学とは縁があるように思う。
話しを安田くんに戻すと、僕がインタースコープ時代に受け入れた50人ぐらいのインターンの中で、彼は珍しく「リサーチャー」や「研究開発」指向ではなく、「事業やビジネス」をどうやって「運営」するか?に興味のある学生だった。類は友を呼ぶのか、彼と同時期に入って来たもうひとりの学生も同じような指向性を持っていた。
彼がインタースコープで働いていた頃は、それほど一緒に仕事をしたわけではなかったが、インターンを卒業し就職をした後も、頻度は高くなかったが交流は続いていた。
彼はインタースコープに来る前、映画の配給会社でバイトをしていたり、舞台演出の仕事をしたりしていたらしい。外見は今風で普通だが、結構な変わり種だし、頑固な人間である。そして、将来は「起業」をしたいと思っていたそうである。
しかし、どうすれば起業できるのか?そのためには、どんな能力が必要なのか?ということが分からず、ETICの起業家育成ゼミのようなものに通ったりもしていたと、ETICの方から聞いていた。
それらのことを意識していたわけではないが、2005年の夏、僕の将来構想を誰かと議論をしたいと思い、食事に誘ったのが安田くんだった。
それから半年ぐらい議論を重ねるうちに、彼が当時、勤務していた会社が、組織変更や分社化や出向うんぬんという時期と重なり、彼としても、僕と一緒に起業するなら今だと思うようになったらしく、僕よりもむしろ彼の方が、積極的に、僕らの構想の具現化を急ぐようになった。自分の20代の頃を見るような気がしていた。
当時の僕は、僕から頼んで田部さんにインタースコープの社長になってもらった経緯もあり、また、創業者として投資家から億単位の資金を調達してきているという責任もあり、そう簡単にインタースコープを退任するわけにはいかず、また、正直に言って、40才を超えて「3度目の起業」をすることの「リスク」に躊躇してもいて、踏ん切りがつかずにいた。そんな僕の背中を押したことのひとつが「悠生」の誕生であることは、以前にもこのブログに書いたとおりである。
それでも、インターネットリサーチ業界はもちろんのこと、ネットビジネス全体においてもそれなりの認知度になったインタースコープを去り、もう一度、スクラッチから事業を立ち上げるという決断をすることは、そう簡単なことではなかった。
正直な話し、ドリームビジョンを立ち上げて4~5ヶ月経った頃から、28才で起業してから一度たりとも計画通りに行ったことのない事業計画が、「想定の範囲」の内か外かは別として、またしても、自分が考えたとおりには行かないことが分かり、希望よりも「不安」の方が先に立つようになっていた。
もっと具体的に言えば、20代や30代での失敗と異なり、40才を超えて事業に失敗することの意味やダメージをリアルにイメージできるようになり、事業の成功イメージではなく、失敗した時のダメージが僕の頭を支配するようになっていた。
それまでの僕は、大企業に勤める人達が組織を飛び出すことを恐れたり、40才を超えるとリスクを取れなくなるという「心情」を理解できずにいたが、そのお陰で身を以て理解できるようになった。
そのトンネルは、ここ数ヶ月(3ヶ月ぐらいだろうか?)続いていたが、人間とは不思議なもので、あるひとつの出来事がきっかけで、思考のパラダイムを変えることができるようである。
何が僕の思考パラダイムをシフトさせたか?については、またの機会に書こうと思うが、考えてみれば、今までの起業家人生の中で、そのようなことは幾度となくあった。
さて、話しを安田くんのことに戻すと、彼の良いところ、才能や能力があると思うところは、
・物事を機能に分類して、プロセス設計をしようとするところ。
・そのことを、組織運営に落とし込もうと思案するところ。
・コスト意識が非常に優れているところ。
・常に物事の優先順位を考えて仕事をしているところ。
・やりたいことではなく、やるべきことを優先する(やる)。
・他人を頼らず、常に自分自身で考え、行動するところ。
・精神的にタフ(心が強い)で、常に安定しているところ。
である。
その中でも、特に「精神的にタフ(心が強い)」な点は「持って生まれた資質」だと思うが、彼の今後の職業人としての人生の中で、最も大きな「強み(武器)」になると思う。
精神的に不安定で「心が弱い」僕に、彼のような「精神的な強さ」があったら、インタースコープは上場できていたかもしれないと思う。
また、常に、自分がやりたいことではなく、今の自分が、今の立場と状況において「やるべきこと」だと考えたことをやる「意志の強さ」がある。これは、とても素晴らしい姿勢であり、能力である。常に、やりたいことを優先してしまう僕に最も欠けているところである。
一方、ここは改善した方がいいだろうと思うところは、何事も他人を頼らず自分で考え自分で判断し行動する、つまり「自立」しているが故に、物事を自分の中でギリギリまで溜め込んでおり、こちらが何か不満があるだろうなと思い話しをすると、その時点で初めて、クリティカルな話しをする点である。
その内容は僕自身の欠点に関することが殆どなので、僕としても、対応が難しいことが多い。先日もそのような話しになり、今後は、遠慮せずに早め早めに「アラート」を出して欲しいという話しをした。
僕が20代の頃に働いていたODSというコンサルティング会社のモットーのひとつに「言わないことは聞こえない」というものがあったが、僕自身も彼と仕事をする中で、常日頃からお互いの考えを確認することが極めて重要であることを、ODSのその言葉の意味を、改めて勉強させられた。
人間は誰しも、自分の思考プロトコルで考え行動しているので、相手が自分と同じような思考プロトコルを持つ人間でない限り、自分が考えていることは「言葉」にして言わなければ相手に伝わらない。
話しは変わるが昨晩、マーケティングジャンクションの吉澤さんと会っていた時に「創造性というのは、異なる遺伝子(種)が交わる(配合)ことによって起こる」という話しを伺ったが、ここ数週間で僕の中で起きたパラダイムシフトは、僕とは異なる安田くんという遺伝子と一緒に仕事をしてきたことにより生まれたと思っている。
僕の強みは、日常の些細な出来事であっても、そこに何らかの「意味」を見出し、それを「メッセージ」として対外的にアウトプットできる能力にあると思っているが、そういう僕の能力と、実務に優れた安田くんの能力を「配合」すれば、きっと、素晴らしいアウトプットを生み出せると思っている。
あとは、その「仕組み(組織的構造)」をどう造るか?である。
右脳オリエンテッドな僕と、左脳オリエンテッドな安田くんと、そのふたりを上手く「繋げる人」が表れれば、ドリームビジョンはテイクオフすると思う。
というより、そういう人を「本気で探して連れてくる」ことが、出来は悪いが、経営者である僕の仕事である。
つまり、僕にとっての創業メンバーも、僕が創業メンバーの立場になったことも、それぞれ3社ずついるし、ある。
今日は、ドリームビジョンの創業メンバーである「安田 裕」という人物のことを書こう(紹介しよう)と思う。
彼とは、僕がインタースコープを経営していた2002年の夏、知り合った。法政大学の学生だった安田くんが、インターンとしてインタースコープに入ってきた時だった。
ドリームビジョンを創業したとほぼ同時に、法政大学のビジネススクールと提携をして講座運営を始めるなど、法政大学とは縁があるように思う。
話しを安田くんに戻すと、僕がインタースコープ時代に受け入れた50人ぐらいのインターンの中で、彼は珍しく「リサーチャー」や「研究開発」指向ではなく、「事業やビジネス」をどうやって「運営」するか?に興味のある学生だった。類は友を呼ぶのか、彼と同時期に入って来たもうひとりの学生も同じような指向性を持っていた。
彼がインタースコープで働いていた頃は、それほど一緒に仕事をしたわけではなかったが、インターンを卒業し就職をした後も、頻度は高くなかったが交流は続いていた。
彼はインタースコープに来る前、映画の配給会社でバイトをしていたり、舞台演出の仕事をしたりしていたらしい。外見は今風で普通だが、結構な変わり種だし、頑固な人間である。そして、将来は「起業」をしたいと思っていたそうである。
しかし、どうすれば起業できるのか?そのためには、どんな能力が必要なのか?ということが分からず、ETICの起業家育成ゼミのようなものに通ったりもしていたと、ETICの方から聞いていた。
それらのことを意識していたわけではないが、2005年の夏、僕の将来構想を誰かと議論をしたいと思い、食事に誘ったのが安田くんだった。
それから半年ぐらい議論を重ねるうちに、彼が当時、勤務していた会社が、組織変更や分社化や出向うんぬんという時期と重なり、彼としても、僕と一緒に起業するなら今だと思うようになったらしく、僕よりもむしろ彼の方が、積極的に、僕らの構想の具現化を急ぐようになった。自分の20代の頃を見るような気がしていた。
当時の僕は、僕から頼んで田部さんにインタースコープの社長になってもらった経緯もあり、また、創業者として投資家から億単位の資金を調達してきているという責任もあり、そう簡単にインタースコープを退任するわけにはいかず、また、正直に言って、40才を超えて「3度目の起業」をすることの「リスク」に躊躇してもいて、踏ん切りがつかずにいた。そんな僕の背中を押したことのひとつが「悠生」の誕生であることは、以前にもこのブログに書いたとおりである。
それでも、インターネットリサーチ業界はもちろんのこと、ネットビジネス全体においてもそれなりの認知度になったインタースコープを去り、もう一度、スクラッチから事業を立ち上げるという決断をすることは、そう簡単なことではなかった。
正直な話し、ドリームビジョンを立ち上げて4~5ヶ月経った頃から、28才で起業してから一度たりとも計画通りに行ったことのない事業計画が、「想定の範囲」の内か外かは別として、またしても、自分が考えたとおりには行かないことが分かり、希望よりも「不安」の方が先に立つようになっていた。
もっと具体的に言えば、20代や30代での失敗と異なり、40才を超えて事業に失敗することの意味やダメージをリアルにイメージできるようになり、事業の成功イメージではなく、失敗した時のダメージが僕の頭を支配するようになっていた。
それまでの僕は、大企業に勤める人達が組織を飛び出すことを恐れたり、40才を超えるとリスクを取れなくなるという「心情」を理解できずにいたが、そのお陰で身を以て理解できるようになった。
そのトンネルは、ここ数ヶ月(3ヶ月ぐらいだろうか?)続いていたが、人間とは不思議なもので、あるひとつの出来事がきっかけで、思考のパラダイムを変えることができるようである。
何が僕の思考パラダイムをシフトさせたか?については、またの機会に書こうと思うが、考えてみれば、今までの起業家人生の中で、そのようなことは幾度となくあった。
さて、話しを安田くんのことに戻すと、彼の良いところ、才能や能力があると思うところは、
・物事を機能に分類して、プロセス設計をしようとするところ。
・そのことを、組織運営に落とし込もうと思案するところ。
・コスト意識が非常に優れているところ。
・常に物事の優先順位を考えて仕事をしているところ。
・やりたいことではなく、やるべきことを優先する(やる)。
・他人を頼らず、常に自分自身で考え、行動するところ。
・精神的にタフ(心が強い)で、常に安定しているところ。
である。
その中でも、特に「精神的にタフ(心が強い)」な点は「持って生まれた資質」だと思うが、彼の今後の職業人としての人生の中で、最も大きな「強み(武器)」になると思う。
精神的に不安定で「心が弱い」僕に、彼のような「精神的な強さ」があったら、インタースコープは上場できていたかもしれないと思う。
また、常に、自分がやりたいことではなく、今の自分が、今の立場と状況において「やるべきこと」だと考えたことをやる「意志の強さ」がある。これは、とても素晴らしい姿勢であり、能力である。常に、やりたいことを優先してしまう僕に最も欠けているところである。
一方、ここは改善した方がいいだろうと思うところは、何事も他人を頼らず自分で考え自分で判断し行動する、つまり「自立」しているが故に、物事を自分の中でギリギリまで溜め込んでおり、こちらが何か不満があるだろうなと思い話しをすると、その時点で初めて、クリティカルな話しをする点である。
その内容は僕自身の欠点に関することが殆どなので、僕としても、対応が難しいことが多い。先日もそのような話しになり、今後は、遠慮せずに早め早めに「アラート」を出して欲しいという話しをした。
僕が20代の頃に働いていたODSというコンサルティング会社のモットーのひとつに「言わないことは聞こえない」というものがあったが、僕自身も彼と仕事をする中で、常日頃からお互いの考えを確認することが極めて重要であることを、ODSのその言葉の意味を、改めて勉強させられた。
人間は誰しも、自分の思考プロトコルで考え行動しているので、相手が自分と同じような思考プロトコルを持つ人間でない限り、自分が考えていることは「言葉」にして言わなければ相手に伝わらない。
話しは変わるが昨晩、マーケティングジャンクションの吉澤さんと会っていた時に「創造性というのは、異なる遺伝子(種)が交わる(配合)ことによって起こる」という話しを伺ったが、ここ数週間で僕の中で起きたパラダイムシフトは、僕とは異なる安田くんという遺伝子と一緒に仕事をしてきたことにより生まれたと思っている。
僕の強みは、日常の些細な出来事であっても、そこに何らかの「意味」を見出し、それを「メッセージ」として対外的にアウトプットできる能力にあると思っているが、そういう僕の能力と、実務に優れた安田くんの能力を「配合」すれば、きっと、素晴らしいアウトプットを生み出せると思っている。
あとは、その「仕組み(組織的構造)」をどう造るか?である。
右脳オリエンテッドな僕と、左脳オリエンテッドな安田くんと、そのふたりを上手く「繋げる人」が表れれば、ドリームビジョンはテイクオフすると思う。
というより、そういう人を「本気で探して連れてくる」ことが、出来は悪いが、経営者である僕の仕事である。
自分が登る山を決める。
昨晩のことだが、以前から親交のある政治家の方のお誘いで、ある会合にお邪魔させて頂いた。
その席でお会いした方のひとりは、100店舗もの飲食店を持つ会社の二代目(専務)の方で、その会合もその方の会社が経営するお店で行われた。
最後に、とても美味しい蕎麦が出たのだが、それは「知的障害者」の方が打っているものだという。食べ始めた後に聞かされたのだが、とても驚いた。お世辞抜きに、とってもおいしい蕎麦だった。
その方は「障害者でも、根気づよく努力を続ければ、こういう蕎麦が打てるようになるということですよ」と言っていた。
その方のお父さんが積極的に障害を持つ方を雇用しているらしく、競争が激しい飲食業で着実に会社を成長させながら、こうして、社会貢献もきちんと行っている。とても素晴らしいと思った。
僕の回りにはネットベンチャーの人達で尚かつ成功している人が多いが、何が「成功」かは色々な尺度があり、必ずしも最先端のビジネスを手掛け上場することだけが成功ではない、ということを改めて考えさせられた。
また、古くからの知り合いの政治家の方が言っていた話しも印象的だった。
「落ちたら(落選したら)自分のため。当選したら国のためなんですよ」。
その言葉を聞いて、僕は失礼を知りながら「落選して浪人中はどうやって生活するんですか?後援会からの献金等ですか?」と尋ねたところ、「私はお涙頂戴はしません。保険を解約したりして、何とか生活するんです。(政治家というのは)落選している間に人間が磨かれるんですよ」という答えが返ってきた。
事実、その方は、過去に落選を経験されている。
ところで、今日のブログのタイトルであるが、これは京セラ創業者の稲盛和夫さんが仰った言葉だそうだ。
他人との比較や相対的なものではなく、自分が登りたい山(目指したいもの)を見つけることが、経営者にとっては大切である、という意味だ。
経営者だけでなく、万人に当てはまる話しだと思う。
僕が言う「自分らしく」ということも、そういうことである。
追伸:昨夜の会食では、「3K=感謝・謙虚・工夫」ということも教わった。有意義な時間だった。
その席でお会いした方のひとりは、100店舗もの飲食店を持つ会社の二代目(専務)の方で、その会合もその方の会社が経営するお店で行われた。
最後に、とても美味しい蕎麦が出たのだが、それは「知的障害者」の方が打っているものだという。食べ始めた後に聞かされたのだが、とても驚いた。お世辞抜きに、とってもおいしい蕎麦だった。
その方は「障害者でも、根気づよく努力を続ければ、こういう蕎麦が打てるようになるということですよ」と言っていた。
その方のお父さんが積極的に障害を持つ方を雇用しているらしく、競争が激しい飲食業で着実に会社を成長させながら、こうして、社会貢献もきちんと行っている。とても素晴らしいと思った。
僕の回りにはネットベンチャーの人達で尚かつ成功している人が多いが、何が「成功」かは色々な尺度があり、必ずしも最先端のビジネスを手掛け上場することだけが成功ではない、ということを改めて考えさせられた。
また、古くからの知り合いの政治家の方が言っていた話しも印象的だった。
「落ちたら(落選したら)自分のため。当選したら国のためなんですよ」。
その言葉を聞いて、僕は失礼を知りながら「落選して浪人中はどうやって生活するんですか?後援会からの献金等ですか?」と尋ねたところ、「私はお涙頂戴はしません。保険を解約したりして、何とか生活するんです。(政治家というのは)落選している間に人間が磨かれるんですよ」という答えが返ってきた。
事実、その方は、過去に落選を経験されている。
ところで、今日のブログのタイトルであるが、これは京セラ創業者の稲盛和夫さんが仰った言葉だそうだ。
他人との比較や相対的なものではなく、自分が登りたい山(目指したいもの)を見つけることが、経営者にとっては大切である、という意味だ。
経営者だけでなく、万人に当てはまる話しだと思う。
僕が言う「自分らしく」ということも、そういうことである。
追伸:昨夜の会食では、「3K=感謝・謙虚・工夫」ということも教わった。有意義な時間だった。
続ける。
昨晩は、講座運営で大変お世話になっている法政大学の小川教授とジャスダック公開企業の経営者の方と会食をする機会を頂いた。
その経営者の方と僕(ドリームビジョン)の間に接点があるのではないか?とのことで、小川先生がそのような機会を設けて下さった。ありがたいことである。
その席で僕が改めて自覚した(認識を新たにした)ことは、「続ける」ことの大切さと大変さである。
自分自身のマーケティングも考えて、シリアルアントレプレナーとか3度目の起業とかと言っているが、それは、味方を変えれば、ひとつのことを続ける根気がないこととも言えるし、必ずしも良いことばかりではない、ということである。
ただ、僕自身は、この選択は「自分にとって必要なこと」だったと思っており、ここまでは、これで良かったと思っている。
問題は、これからの生き方である。
「40(歳)も過ぎたし、まあ、これで最後にするんですね(笑)」という言葉を、帰り際に小川先生から頂戴したが、「これで最後=これしかない(次のチャンスはない)」と理解し、頑張ろうと思う。
その経営者の方と僕(ドリームビジョン)の間に接点があるのではないか?とのことで、小川先生がそのような機会を設けて下さった。ありがたいことである。
その席で僕が改めて自覚した(認識を新たにした)ことは、「続ける」ことの大切さと大変さである。
自分自身のマーケティングも考えて、シリアルアントレプレナーとか3度目の起業とかと言っているが、それは、味方を変えれば、ひとつのことを続ける根気がないこととも言えるし、必ずしも良いことばかりではない、ということである。
ただ、僕自身は、この選択は「自分にとって必要なこと」だったと思っており、ここまでは、これで良かったと思っている。
問題は、これからの生き方である。
「40(歳)も過ぎたし、まあ、これで最後にするんですね(笑)」という言葉を、帰り際に小川先生から頂戴したが、「これで最後=これしかない(次のチャンスはない)」と理解し、頑張ろうと思う。
小田急百貨店
僕の父親は、僕の出身地である福島県郡山市にある、とある総合病院の事務長をしていた。
その病院は、従業員が2,000人規模の大きな病院で、東大や女子医大等の医学部の教授に週に何回か診察に来てもらっていたり、その交渉事だったりで、定期的に東京に出張に来ていた。
その父は、僕が大学を卒業した翌年、僕が24才になった5日後、55歳の若さで亡くなった。
父は生前、出張で東京に来る時は必ず、前もって連絡をくれ、スケジュールに余裕がある時は、当時、弟と住んでいた下北沢のアパートに泊まりに来た。余裕がない時でも、どこかで待ち合わせて、夕食に誘ってくれた。
僕が下北沢に住んでいたことと、父の帰りのことを考えてか、新宿で食事をすることが多かった。
今朝は、新宿でアポがあり、その帰りに小田急百貨店に寄り、エレベーターに乗ったのだが、小田急百貨店だったか、My City だったかで食事をした、かれこれ20年も前のことを「ふっ」と思い出した。
父が、どれだけ僕や僕ら兄弟のことを心配し、愛情を注いでくれていたかが、悠生が生まれてからは、より一層、分かるようになっており、一瞬、胸が詰まった。
今まで感じたことのないほど、亡くなった父親にもう一度会いたいと思ったが、それは2度と適わないことを考えると、何とも言えない感情が沸き上がって来た。
「親の心、子知らず」というが、何とも親不孝な子供だった。
悠生を育てていくいことで、その罪滅ぼしができたらと思う。
その病院は、従業員が2,000人規模の大きな病院で、東大や女子医大等の医学部の教授に週に何回か診察に来てもらっていたり、その交渉事だったりで、定期的に東京に出張に来ていた。
その父は、僕が大学を卒業した翌年、僕が24才になった5日後、55歳の若さで亡くなった。
父は生前、出張で東京に来る時は必ず、前もって連絡をくれ、スケジュールに余裕がある時は、当時、弟と住んでいた下北沢のアパートに泊まりに来た。余裕がない時でも、どこかで待ち合わせて、夕食に誘ってくれた。
僕が下北沢に住んでいたことと、父の帰りのことを考えてか、新宿で食事をすることが多かった。
今朝は、新宿でアポがあり、その帰りに小田急百貨店に寄り、エレベーターに乗ったのだが、小田急百貨店だったか、My City だったかで食事をした、かれこれ20年も前のことを「ふっ」と思い出した。
父が、どれだけ僕や僕ら兄弟のことを心配し、愛情を注いでくれていたかが、悠生が生まれてからは、より一層、分かるようになっており、一瞬、胸が詰まった。
今まで感じたことのないほど、亡くなった父親にもう一度会いたいと思ったが、それは2度と適わないことを考えると、何とも言えない感情が沸き上がって来た。
「親の心、子知らず」というが、何とも親不孝な子供だった。
悠生を育てていくいことで、その罪滅ぼしができたらと思う。
野毛山動物園
日曜日の午後、悠生を連れて横浜にある「野毛山動物園」に行った。
動物園は、悠生にとっては初めてであるが、僕にとっては、いつ以来だろうか?
行ってみるまで知らなかったが、野毛山動物園は横浜市が運営しており、入園料は「無料」である。
野毛山動物園は都会の動物園にも関わらず、思いの他、ライオンやトラ、キリン、ラクダ等、たくさんの種類の動物がいた。
1時間半ほど滞在したが、犬と猫以外の動物を見るのは初めてだった悠生が最も反応したのは、レッサーパンダだった。庭の中をぐるぐると歩き回るレッサーパンダに手を振っていた。
頭の中に「言葉」がない彼に、動物たちはどのように映ったのだろうか?
無理なことだが、言葉が話せるようになった悠生に、昨日の感想を聞けたら、おもしろいだろうと思う。
悠生が歩けるようになり、言葉を話すようになったら、また一緒にいきたいと思う。
彼が、どんな反応をするのか?それが楽しみである。
追伸:ジローと長島さんの結婚式が横浜だったお陰で、久しぶりの動物園を楽しめた。彼らに感謝である。
動物園は、悠生にとっては初めてであるが、僕にとっては、いつ以来だろうか?
行ってみるまで知らなかったが、野毛山動物園は横浜市が運営しており、入園料は「無料」である。
野毛山動物園は都会の動物園にも関わらず、思いの他、ライオンやトラ、キリン、ラクダ等、たくさんの種類の動物がいた。
1時間半ほど滞在したが、犬と猫以外の動物を見るのは初めてだった悠生が最も反応したのは、レッサーパンダだった。庭の中をぐるぐると歩き回るレッサーパンダに手を振っていた。
頭の中に「言葉」がない彼に、動物たちはどのように映ったのだろうか?
無理なことだが、言葉が話せるようになった悠生に、昨日の感想を聞けたら、おもしろいだろうと思う。
悠生が歩けるようになり、言葉を話すようになったら、また一緒にいきたいと思う。
彼が、どんな反応をするのか?それが楽しみである。
追伸:ジローと長島さんの結婚式が横浜だったお陰で、久しぶりの動物園を楽しめた。彼らに感謝である。
折れない魂。
先日、家にあった書籍や雑誌を整理して、中目黒のブックオフに売りに行った。
その中には一度も読まずに終わってしまった本もあり、興味関心だけで買っても、本当にその気がないものは読まない、仕事で言えば、自分が本当に興味や情熱を持っているものでなければ形にはならない、ということを改めて悟った。
手元に残しておいたもので、2005年12月1日号の「ナンバー」というスポーツ誌があった。
わざわざ僕が説明をする必要もないと思うが、ナンバーは、スコアや勝敗やテクニカルなことを伝えるのではなく(もちろん、コンテンツとしては含まれる)、プロフェッショナル・スポーツという世界で、自分の身体と精神力だけで人生を切り拓いていっている人達の「生き方」にスポットを当てている雑誌である。
昨晩、家に帰ると、ちょうど1年前のその「ナンバー」を、悠生がどこかから引っ張り出してきたらしく、リビングの床においてあった。
表紙には、僕の大好きな「カズ」が右手を高々と上げてボールを持っており、「折れない魂」というコピーが中央を縦に走っている。
昨年、初めての「世界クラブ選手権」に出場するために、カズがシドニーFCに期限付きで移籍した頃のことだ。
「ドーハの悲劇」によって、カズは悲願のワールドカップには出場できなかったが、彼の「生き方」と「存在感」は、人々に大きな影響力を持っていると思う。
個人的なことで言えば、起業したものの鳴かず飛ばずだった最初の会社の頃、カズの「挫けない」姿勢に励まされ、勇気づけられて、踏みとどまってきた。
カズ以外でも、勇気をもらってきた人がたくさんいる。
173センチという小さな身体でNBAに挑戦し続けている「田臥勇太」も、そのひとりである。
僕も、そんなふうに人々を勇気づけられる人間になれたら幸せである。
今は、自分で自分を勇気づけるので精一杯だけど(笑)。
その中には一度も読まずに終わってしまった本もあり、興味関心だけで買っても、本当にその気がないものは読まない、仕事で言えば、自分が本当に興味や情熱を持っているものでなければ形にはならない、ということを改めて悟った。
手元に残しておいたもので、2005年12月1日号の「ナンバー」というスポーツ誌があった。
わざわざ僕が説明をする必要もないと思うが、ナンバーは、スコアや勝敗やテクニカルなことを伝えるのではなく(もちろん、コンテンツとしては含まれる)、プロフェッショナル・スポーツという世界で、自分の身体と精神力だけで人生を切り拓いていっている人達の「生き方」にスポットを当てている雑誌である。
昨晩、家に帰ると、ちょうど1年前のその「ナンバー」を、悠生がどこかから引っ張り出してきたらしく、リビングの床においてあった。
表紙には、僕の大好きな「カズ」が右手を高々と上げてボールを持っており、「折れない魂」というコピーが中央を縦に走っている。
昨年、初めての「世界クラブ選手権」に出場するために、カズがシドニーFCに期限付きで移籍した頃のことだ。
「ドーハの悲劇」によって、カズは悲願のワールドカップには出場できなかったが、彼の「生き方」と「存在感」は、人々に大きな影響力を持っていると思う。
個人的なことで言えば、起業したものの鳴かず飛ばずだった最初の会社の頃、カズの「挫けない」姿勢に励まされ、勇気づけられて、踏みとどまってきた。
カズ以外でも、勇気をもらってきた人がたくさんいる。
173センチという小さな身体でNBAに挑戦し続けている「田臥勇太」も、そのひとりである。
僕も、そんなふうに人々を勇気づけられる人間になれたら幸せである。
今は、自分で自分を勇気づけるので精一杯だけど(笑)。
原宿のカフェ
今のオフィスに越してきた頃から気になっていたカフェがある。カフェというよりも、昔ながらの「喫茶店」と言った方がいい。
そのカフェには、随分前、おそらく、15年ぐらい前に、一度だけ入ったことがある。
昨日、考え事をしたくて、15年ぶりにお店に入った。
すると、店内には誰もいなくて、まるで僕だけの書斎のようだった。
笑顔のステキな女性(40代後半だろうか)が出迎えてくれた。
二言三言、言葉を交わすと、来年の1月で29年になるらしい。
今ほど賑やかになる前から、原宿の街の変遷をずっと見てきたのだろう。
丁寧に煎れてくれたコーヒーを飲みながら、いつだったかのエントリーに書いたユニクロの柳井さんの著書「一勝九敗」の巻末にある同社の経営理念を読みながら、ドリームビジョンのことや自分自身のことを考えてみた。
カッコ良く言えば起業して、実際には、組織では生きられずにスピンアウトしてから、15年になる。
いつも全力で走っては躓き、挫けそうになり、でも、その都度、色んな人に励まされて立ち直り、生きてきたが、ここ1年は、うまく言葉に表せないが、今までの人生とは異なる慌ただしい生活をしてきて、ちょっと立ち止まって考えてみたかった。自分自身のことや会社のことを。
こんなに速かった1年は、今までになかったと思う。
話しは変わるが、ここのところ、また、悠生が夜中に起きるようになり、睡眠不足気味である。午後になると集中力が無くなるので、また、マッサージに通うようになった。
その帰りに寄り道をして、そのカフェに入った。
お陰で、少し気分が和らいだ。
ところで、昨夜は久しぶりに妻と話しをした。
臨床心理を勉強している彼女は、いつも冷静で客観的である。どうしろとは言わないが、絡まった糸を整理するきっかけを提供してくれる。
お陰で、少し気持ちが整理できた。
そのカフェには、随分前、おそらく、15年ぐらい前に、一度だけ入ったことがある。
昨日、考え事をしたくて、15年ぶりにお店に入った。
すると、店内には誰もいなくて、まるで僕だけの書斎のようだった。
笑顔のステキな女性(40代後半だろうか)が出迎えてくれた。
二言三言、言葉を交わすと、来年の1月で29年になるらしい。
今ほど賑やかになる前から、原宿の街の変遷をずっと見てきたのだろう。
丁寧に煎れてくれたコーヒーを飲みながら、いつだったかのエントリーに書いたユニクロの柳井さんの著書「一勝九敗」の巻末にある同社の経営理念を読みながら、ドリームビジョンのことや自分自身のことを考えてみた。
カッコ良く言えば起業して、実際には、組織では生きられずにスピンアウトしてから、15年になる。
いつも全力で走っては躓き、挫けそうになり、でも、その都度、色んな人に励まされて立ち直り、生きてきたが、ここ1年は、うまく言葉に表せないが、今までの人生とは異なる慌ただしい生活をしてきて、ちょっと立ち止まって考えてみたかった。自分自身のことや会社のことを。
こんなに速かった1年は、今までになかったと思う。
話しは変わるが、ここのところ、また、悠生が夜中に起きるようになり、睡眠不足気味である。午後になると集中力が無くなるので、また、マッサージに通うようになった。
その帰りに寄り道をして、そのカフェに入った。
お陰で、少し気分が和らいだ。
ところで、昨夜は久しぶりに妻と話しをした。
臨床心理を勉強している彼女は、いつも冷静で客観的である。どうしろとは言わないが、絡まった糸を整理するきっかけを提供してくれる。
お陰で、少し気持ちが整理できた。
私のすべて。
つい先日、西麻布の某所で開催されたパーティ?で、KAZという方と知り合った。
僕の義理の叔父(日系二世)と同じ名前ということもあり、親近感を持った。
その彼のGREEのプロフィールを見ていて、強烈に心に刺さったひと言があった。
お嬢さんのことを「私の宝物、アイドル、お姫様、、、私のすべて」と紹介されていた。
写真を見ると、とってもカワイイ。彼がメロメロになっている姿が目に浮かぶ。
「私のすべて」。
子供ができる前だったら、彼の言葉は、これほど、心に留まらなかったと思う。
今日は18:30過ぎに会社を出て、保育園に悠生を迎えに行き、帰宅後は彼をお風呂に入れ、アトピー気味の肌にクリームを塗り、麦茶を飲ませ・・・と慌ただしくしていたが、KAZさんの気持ちが痛いほど分かる。
女の子でなくて・・・本当に良かったと思う。
僕の義理の叔父(日系二世)と同じ名前ということもあり、親近感を持った。
その彼のGREEのプロフィールを見ていて、強烈に心に刺さったひと言があった。
お嬢さんのことを「私の宝物、アイドル、お姫様、、、私のすべて」と紹介されていた。
写真を見ると、とってもカワイイ。彼がメロメロになっている姿が目に浮かぶ。
「私のすべて」。
子供ができる前だったら、彼の言葉は、これほど、心に留まらなかったと思う。
今日は18:30過ぎに会社を出て、保育園に悠生を迎えに行き、帰宅後は彼をお風呂に入れ、アトピー気味の肌にクリームを塗り、麦茶を飲ませ・・・と慌ただしくしていたが、KAZさんの気持ちが痛いほど分かる。
女の子でなくて・・・本当に良かったと思う。
幼稚園の頃。
もう30年以上前のことになるが、僕は幼稚園の初日、家が恋しくて泣き出してしまった。
友達が楽しそうに遊んでいる中で、園庭の門のところで、ここから飛び出して家に帰りたいという思いを必死に堪えていたのだが、どうしても、たえきれず、泣き出してしまった。今でもよく覚えている。
いつだったか、インタースコープを一緒に創業した山川さんから、最も古い子供の頃の記憶が、その人の人間性の本質だというような話しを聞いたことがある。
最も古い記憶という意味では、幼稚園に入る前に、母方の親戚と一緒に温泉旅行に行った時のことが、ぼんやりとではあるが記憶に残っている。それは「楽しかった」という記憶である。
幼稚園のことに話しを戻すと、初日に泣き出してしまった僕だが、その後は楽しく通っていた。
ある時、幼稚園の後ろにある川で遊んでいたのだが、幼稚園に戻ると、だいぶ時間が過ぎていたようで、送迎のバスは既に出発していた。それで、仕方なく、友達と2人で歩いて帰ったような想い出がある。たかが裏の川だったが、その時の自分にとっては、「未開の地」に足を踏み入れたような感覚だったことを覚えている。
その一方、ある時期、登園拒否になったこともあった。
特に、幼稚園がおもしろくなかったとか、誰かに苛められていたということではないが、本質的には「内向的な性格」の僕は、祖母に守られた自宅で、緊張感のない、やわらかい、温かい環境で過ごすことが、最も快適だったのだと思う。
起業をした今でも、時々、自分をストレッチしながら何かに挑戦することが辛くなることがあるが、それが、僕の本質なのだろう。
なりたい自分になるのではなく、本来の自分(素材)を活かして、なれる自分になるということが、自分らしく生きるということかもしれない。
友達が楽しそうに遊んでいる中で、園庭の門のところで、ここから飛び出して家に帰りたいという思いを必死に堪えていたのだが、どうしても、たえきれず、泣き出してしまった。今でもよく覚えている。
いつだったか、インタースコープを一緒に創業した山川さんから、最も古い子供の頃の記憶が、その人の人間性の本質だというような話しを聞いたことがある。
最も古い記憶という意味では、幼稚園に入る前に、母方の親戚と一緒に温泉旅行に行った時のことが、ぼんやりとではあるが記憶に残っている。それは「楽しかった」という記憶である。
幼稚園のことに話しを戻すと、初日に泣き出してしまった僕だが、その後は楽しく通っていた。
ある時、幼稚園の後ろにある川で遊んでいたのだが、幼稚園に戻ると、だいぶ時間が過ぎていたようで、送迎のバスは既に出発していた。それで、仕方なく、友達と2人で歩いて帰ったような想い出がある。たかが裏の川だったが、その時の自分にとっては、「未開の地」に足を踏み入れたような感覚だったことを覚えている。
その一方、ある時期、登園拒否になったこともあった。
特に、幼稚園がおもしろくなかったとか、誰かに苛められていたということではないが、本質的には「内向的な性格」の僕は、祖母に守られた自宅で、緊張感のない、やわらかい、温かい環境で過ごすことが、最も快適だったのだと思う。
起業をした今でも、時々、自分をストレッチしながら何かに挑戦することが辛くなることがあるが、それが、僕の本質なのだろう。
なりたい自分になるのではなく、本来の自分(素材)を活かして、なれる自分になるということが、自分らしく生きるということかもしれない。