シリアルアントレプレナー 「3度目の起業」と「初めての子育て」 -125ページ目

「変化は痛みを伴う」。

昨日は、法政大学ビジネススクールと共同で運営しているオープン講座があり、オールアバウトの江幡さんにゲストとしていらしていただいた。

江幡さんとのQ&Aセッションで、僕自身が勉強になったことがたくさんあったが、その中でも「やりたいこと・できること・やるべきこと」という話しが最も印象に残った。

オールアバウトというか江幡さんのマネジメントの考え方として、今までの経験から、本人の考えや志向性に係わらず、「やるべきこと」にコミットして、それをやりきった人で、「満足しなかった人(充実感を覚えない人)はいない」という話をされていた。

自分の人生を振り返ってみると、理屈では分かっているし、他人には「Want/Can/Should」の3つが重なったことが「Will」だとか言っていたくせに、自分自身は「Want」で生きてきたと思う。

もちろん、色々な苦労をしてきたし、そうせざるを得ない局面においては、「Should」を優先してきたと思うが、僕自身の基本的傾向として、自分のやりたいこと(Want)を優先してしまう傾向が強いと思う。そのことは、妻にも指摘されている。

必ず「変化は痛みを伴う」し、ましてや、この年になって自分を変えられるのかどうか分からないが、少なくとも「変わる努力」をしなければ変われないのは間違いない。

ゴルフと同じでフォームの矯正には多大な努力と時間を要するが、今が最後のチャンスだと思うので、勇気をもって変わる努力をしようと思う。

保育園の運動会

昨日は保育園の運動会があった。子供の運動会に出るというのは初めてである。

僕らがお世話になっている保育園は恵比寿ガーデンプレイスの近くにあり、ガーデンプレイスの真ん前にある「加計塚小学校(渋谷区立)」の体育館を借りて、朝9時過ぎからお昼前まで運動会が行われた。

土曜日の夕方、妻が悠生を迎えに行くと(18:00頃)、保育士の先生方が、まだ、日曜日の運動会の準備を一生懸命にやっていたそうである。

悠生が通っている保育園はゼロ才児から3~4才ぐらいまでの子供がいるが、運動会ではクラス(年齢)ごとに色々な種目があり、悠生達は「どんぐりころころ」の歌に合わせた種目だった。

それに使う「池」や「どんぐり」や「どじょう」などを、先生達が数週間前から工夫をして作っていたのだろう。

昨年の秋に開園した保育園ということもあるのかもしれないが、これだけ一生懸命に愛情を込めて保育をしてくれていることに感謝をしたい。

そして、社会がもっともっと未来の大人である子供に対して関心を持つよう、自分にできることをしていこうと思う。

追伸:それが仕事と言ってしまえば、元も子もないが、渋谷区長が挨拶に来ていた。

スパム・トラックバック

今までも毎日数件、多い時は10~20個のトラックバックのスパムに悩まされて来ましたが、昨日一日で、なんと、300個を超えるスパムのトラックバックに見舞われました。

因みに、すべて外国からのもので、IPアドレスは複数ありましたが、同じ組織のものと思われます。

たくさんの方々にトラックバックをしていただいており、とても残念ではありますが、さすがにこれ以上、放置できないので、一旦、トラックバックを受け付けないことにしました。

何卒ご了承下さい。

プライドを捨てる。

先月からベンチャー企業にフォーカスした「人材紹介」を始めたことにより、人事部の方とお会いする機会が増えた。今までの僕のキャリアの中では最も縁遠い人達だった。

「人事」というキーワードで、おもしろい話しがある。

僕が20代の頃に働いていたODSというコンサルティング会社の後輩で、インタースコープの創業メンバーでもある「久恒 整」という人間から聞いた話しである。

ODSでは様々なセミナーを開催しているが、彼が言うには「マーケティング関係の人は10分遅れてくる人が多い。経営企画部の人は、だいたい時間ピッタリに来る。人事部の人は、10分前に来る」という。この話を聞いた時、僕は妙に納得してしまった。

人事関連でもうひとつご紹介すると、つい最近お会いした、あるベンチャー企業の人事責任者の話しで、とても印象に残った話しがある。

「前職での成功体験がある方が入社してくることが多いですが、その『成功体験を捨てる』ことが出来る人は、当社でも『成功します』ね。逆に、『プライドを捨てられない人は成功しない』か、成長するまでに時間がかかりますね」。

とても納得できる話しだった。

更に言えば、自分のことを言われているような気がした。

頭の中では、スクラッチに戻ってのスタートだと分かっているつもりだったが、僕の心の片隅に、インターネットリサーチ業界をリードしてきたという自負があり、それが知らず知らずのうちに「手間ひまを惜しむ」姿勢を生んでいたように思う。

というか、事実、そういうところがあった。素直に反省をした。

こうして反省する機会を与えてくれた方と出会えた僕は、幸せな人間である。

発達障害

僕がこの言葉を知ったのは1年ぐらい前のことだ。大学院で臨床心理を勉強している妻から教わった。

2週間ぐらい前だったと思うが、日経新聞の夕刊に幼児教育と発達障害の記事が掲載されていた。

発達障害とは、文字どおり、何らかの理由で正常な発達が阻害されることらしいが、ADHD等、幼児期を過ぎて少年にならないと判断できない場合もあるらしい。

日経の記事に書いてあったのは、ハイハイの仕方で発達障害の可能性がわかるということだが、その解説によると、悠生のハイハイの仕方は、発達障害の可能性があるということだった。

妻にその記事を見せたところ、彼女は翌日に早速、その記事で発達障害のことを解説していた病院に電話をし、診察の予約を取った。新聞記事の効果で翌日は電話が殺到したらしく、たまたまキャンセルが出たので、翌週に予約が取れた。

結果として、悠生は発達障害はないとのことで安心したが、今回の診断は「自閉症」に関することだったようで、前述のとおり、ADHD等の障害は幼児期には判明できない。

子育ては、本当に心配が絶えない。今更ながら亡くなった両親に感謝したい。

五体満足で心身ともに健康であるということは、ただそれだけで幸せなことだと思う。

感謝の心と謙虚さを忘れないようにしたい。

久しぶりの「じゃんがらラーメン」。

僕が最初の会社を経営していた時(最後の頃)、オフィスが原宿にあり、原宿駅からすぐ近くにある「じゃんがらラーメン」でラーメンを食べて帰ることがよくあった。

貧乏ではあったが、まだ、30代半ばで、人生の時間(チャンス)はまだまだあると思っており、夢だけが僕を支えていた頃だった。

あれから7~8年の時間が過ぎ、インタースコープというベンチャー企業の創業と退任を経験し、年齢は40才を超え、極貧生活とそこそこの経済水準と、その両方を経験した今は、さすがに「根拠の無い夢」だけでは自分を支えられなくなっている。

しかし、懲りずにも、また、スクラッチから会社の立ち上げを行っている。

起業家生活も15年、起業も3度目になると、さすがに始める前にある程度のリアリティが分かるようになり、それ故に「怖さ」を感じるようになった。

先日のセッションで藤田さんが「自分が創業した頃のことを考えると危なくて任せられない。あの頃は何も分からなかったから(起業)出来たんですよね」と言っていたが、まさしくそのとおりである。

今日はドリームビジョンの創業メンバー(20代の若者)とインターンの学生と3人で、久しぶりに「じゃんがらラーメン」を食べて帰ってきた。

あの頃と同じように「こぼんしゃんの味玉めんたい入り」と「ビール」を注文した。

カウンターでビールを飲みながらラーメンを食べていると、当時の感情が蘇ってきて、何とも言えぬ懐かしさを覚えた。

繊細な性格であり且つ単純な僕は、それだけで何となく楽しくなってきて、元気が出た。

40才を超えても、気持ちだけはあの頃のままでいたい。

50代を笑って迎えられるように。

もう何年もお会いしていないが、僕が最初の会社を経営していた頃、とてもお世話になっていた八木さんというグラフィック・デザイナーの方がいる。

八木さんには、ふたりの男の子がいた。

上の子は穏やかな性格だったが、下の子は八木さんによく似て、気性の激しい、とても男の子らしい性格をしていた。

あの頃、八木さんが言っていたことで、今もよく覚えていることがある。

「むしろ、子供からたくさんもらっていますよ」。八木さんはそう言っていた。

八木さんはご自分のデザイン事務所を経営されており、忙しくても、暇でも、いずれにしても大変であり、でも、家に帰って子供の寝顔を見ると、その日の疲れは癒されてしまう、と言っていた。

そのことの意味が、今、ようやく分かったような気がする。

子供のことで言えば、僕がインタースコープを退任する時、筆頭株主であるデジタルガレージの林さんに挨拶に行った際に、林さんから「子供は癒されるだろう」と言われたことも新鮮だった。あの林さんから、そういう言葉を聞くとは思ってもいなかった。因みに、林さんは子供がふたりいらして、上(男の子)の方は既に大学生になっている。面倒見の良い父親のようである。

最近、思うように仕事が前に進まず、心が折れそうになることがある。そんな僕にとって、悠生はとても大きな存在である。

今日は妻が熱を出しており、僕が悠生をお風呂にいれるために早く帰宅したが、僕が帰ってきたことを知ると、一目散にハイハイして僕のところにやってくる。

子供がいなくても、最初の会社(20代)やインタースコープを立ち上げた時(30代)のように毎日深夜まで働くことは体力的に無理だと思うが、妻の何分の一程度ではあるが、悠生の面倒を看つつ、会社を軌道に乗せていくというのは、思っていた以上に大変だ。並大抵のことではない。

その一方、今の僕には彼がいない生活は考えられない。

こんな生活や心境は人生で初めてのことである。

まだまだ努力が足りない自分を自分で叱りつつ、励ましつつ、50代を笑って迎えられるように。

久しぶりのインタースコープ

今日は久しぶりにインタースコープの全体会議で話しをした。今年の3月に取締役を退任して以来なので、半年ぶりのことだった。

取締役を退任した後も毎週火曜日は社内の教育プログラムの運営に携わっているので、週に1度は出社しているわけだが、志半ばで退任した創業者が、いつまでも社内の会議等で話しをするのはよくないと思っており、意識的に皆の集まる場には顔を出さないようにしていた。しかし、そのこと(足を遠ざけていたこと)が、かえって誤解を生んでいたかもしれない。

半年ぶりにインタースコープのみんなの前で話しをしたのは、2002年2月13日に、インフォプラントの大谷さんと一緒に立ち上げた「インターネットリサーチ研究会(後にIMRJへと改組)」を解散した報告のためだった。

2000年にインタースコープを創業した頃はもちろんだが、2002年当時も、まだまだインターネットリサーチに対する風当たりは強く、「代表性が無い」という決まり文句で批判をされていた。

そんなインターネットリサーチを社会に広めるため、そして、「業界」を育てるために、僕らは腐心してきた。

その結果、市場は拡大し、今や当たり前のようにインターネットリサーチが使われるようになった。

しかし、そのことはイコール「インターネットリサーチ研究会の存在意義」が薄れたことを意味しており、先日のエントリーで書いた「ディープインパクトの引退」のように、スパッと潔く、もっと早くに解散していた方がよかったかもしれない。

話しをインタースコープに戻すと、僕の「退き際」は、決して格好の良いものではなかったと思う。

いつだったか、ライブレボリューションの増永さんのブログに書いていただいたことがあるが、僕はインタースコープでやり残したこと、心理学でいう「Unfinished Business」がある。

昨日の藤田さんとのセッションで、そのことを改めて考えさせられた。

まだまだ未熟であり、先は長い。

藤田さんは心が強い。

今日は法政大学のビジネススクールと共同で運営しているオープン講座があり、サイバーエージェントの藤田さんにゲストでいらしていただいた。

さすがは、藤田さん。大勢の受講生の方がいらっしゃった。

藤田さんとこういう形でQ&Aセッションをするのは初めてのことだが、改めて藤田さんは「心が強い」と思った。彼が成功したポイントは、その点が最も大きいのではないかと思う。

その点、僕は心が弱い。良く言えば「繊細」である。

さすがに起業して15年も経つので、これでも、だいぶ強くなった。

もうひとつ、藤田さんとのセッションで印象に残ったことがある。それは、藤田さんが「経営者的なことは後天的に身に付いた」と言っていたことだ。

僕も、これでもだいぶ経営者的な感覚が身に付いたと思っている。藤田さんの言葉で、とても勇気づけられた。

明日も頑張ろう。

「東京タワー」と「恵比寿ガーデンプレイス」と」「ホテルオークラ」と「川嶋あい」。

初めて東京タワーに上ったのは、中学3年生の時だった。当時、福島県郡山市に住んでいた僕は、修学旅行で東京に来た。悠生が物心がついたら、連れていこうと思う。

その東京タワーのふもとにある東京プリンスホテルは、僕が高校生や大学生の頃、帝国ホテルやホテル・オークラとは違う意味で、憧れのホテルだった。

その東京プリンスホテルで昨晩、ネットベンチャー仲間のリアラスの井手さんのお父さんの「お別れ会」があった。

井手さんのお父さんは、たしか競輪関係だったと思うが、「新橋商事」という会社を、文字どおり「新橋」で経営されていた。地元の経済会にかなり影響力があった方だったようで、お別れ会には、約1,300人の方が参列されたという。

会場には、お父さんの若かりし日々の写真が飾ってあったが、事業家のにおいがプンプンする、楽天的で社交家な感じの笑顔が似合う方だった。子は親の鏡とは、こういうことを言うのだろうと思った。ご冥福をお祈りしたい。

ところで、悠生はすっかり良くなったが、看病疲れから、妻が発熱してしまった。

元気で所狭しと動き回る悠生の面倒を看ていると彼女が休めないので、今朝は10時前から近所の恵比寿ガーデンプレイスに悠生を連れて散歩に行った。

ガーデンプレイスの入り口にあるカフェに入り、コーヒーを頼んだ。外国人のお父さんが男の子を連れて散歩に来ていた。アメリカ人のようだった。彼との会話(アクセント)から、そう思われた。とても気さくな人だった。子供は子供が好きのようで、彼の子供(もうすぐ2才になるらしい)も、悠生に微笑みかけている。

彼らが店を出ると、今度は黒ブチの眼鏡をかけたオシャレなお父さんと女の子が入って来た。やはり、外国人親子だ。場所柄、外国人が多い。日本語でコーヒーと食べ物を注文していた。

次は、サングラスをした金髪のお母さんと3人の娘が入って来た。ここは日本だというのに、英語で注文をまくしたてている。発音が典型的なアメリカ人だ。「少しは日本語を覚えろよ」と心の中でつぶやいた。

夜はインタースペースというアフィリエイト事業を行っている会社の東証マザーズ上場記念パーティにお招きいただいており、ホテルオークラに行った。ネットベンチャーの上場記念パーティとしては、非常に重厚な演出だった。

ふっと横を見るとミクシイの笠原さんが立っていた。「久しぶりですね」と声をかけたところ、僕が眼鏡をかけていたせいか、最初は分からなかったようだった。眼鏡を取って、「元インタースコープで今はドリームビジョンという会社を・・・」と言うと、「そうでしたね」という表情をされた。二言三言挨拶をして、その場を立ち去った。

妻の熱が下がらないので、乾杯の後、そうそうに失礼しようと思い出口へ急ぐと、リアラスの井手さんから声をかけられた。彼とは縁があると思う。

「お疲れ様でしたね」と挨拶をしていると、今度はサイバーエージェントの西條さんと投資担当の鈴木さんとお会いした。

しばらく、4人で話しをした後、「今日は所用があるので・・・」と言って会場を出た。

家に帰ってくると、悠生は元気で遊びまわっており、妻はぐったりした表情をしていた。悠生をお風呂に入れ、食事をした。悠生はその間もはしゃいでおり、食事をするのも一苦労である。

ようやく悠生を寝かしつけて、テレビをつけた。スポーツニュースでゴルフの結果を確認した後、テレビ東京にチャンネルを合わせると、「川嶋あい」という歌手の特集をやっていた。

九州から上京して堀越学園に入学し、歌手デビューを目指したが、現実は厳しかったという。九州の母に泣きを言うと、「九州女やろ。もう少し頑張りや」と励まされたという。因みに、血は繋がっていないらしい。彼女は養女ということだ。

その母と「路上ライブを1,000回やる」と約束したそうだ。3年間かかって、その約束を実現した。しかし、その途中で、お母さんは亡くなったそうである。

1,000回の路上ライブを達成する前に、苦労が実ってプロでビューを果たしていた。それでも、母親との約束を守るべく、路上ライブは続けたという。

もうひとつ、母親と約束したことがあったらしい。「渋谷公会堂でライブをすること」。2003年だったか、2005年の3月30日に、それも、実現させたらしい。僕の誕生日である。

そういえば、川嶋あいの特集の前に、僕の好きな「伊達公子」の特集をやっていた。

この週末は色々なことを考えていた。ドリームビジョンのこと、自分のこと。そして、家族のこと。

自分のエネルギーを何に集中(フォーカス)させるべきか?

すべての答えは「自分の中にある」。

そんな話しを何かで読んだことがある。

勇気をもって前に進みたい。