ドラマセラピストとして考えなくちゃいけないこと。あなたの物語を大切にしたいから。
先日、ドラマセラピーの国際会議に出席しました。年に4回あるこの会議。会議以外にも何かと世界的なイベントなんかもあって、世界中のドラマセラピストがつながろうとするその感覚、とっても暖かくて素敵です。このところの会議では毎回そうですが、各国のコロナ状況とドラマセラピーの状況のシェアから始まり、今後の予定、カンファレンスで何をするのかなんかを話し合います。その中で、ドラマセラピーをビデオで伝えていくことについて、その教育的意味、社会的意味、同時に倫理的な規定などについて話し合う時間が少しありました。コロナの影響で、インターネットでのドラマセラピーも増えているし、これはコロナは関係ないけれど、テクノロジーの発達とともにインターネットでの紹介も増えています。私の先生のレネも、彼女のドラマセラピーの様子をドキュメンタリーにしたし、今回も、オーストラリアのテレビで、認知症のドラマセラピーの様子が放映されたという報告も。映像で伝えられることの重要性とその力を考えると、それって素晴らしいと思う反面、出ているのが大人なら、映像に出ることに同意もしているだろうし、あまり気にならないけれど、未成年の場合、その倫理規定などは、どうなんだろうなーと疑問に思ってしまいました。ちなみに、認知症のビデオは、ご本人たちが同意して参加できる人に限られ、しかももう10年以上も前に作られたものを、今放送したとのこと。たまたまのようだったけれど、参加者が高齢の方々なわけだから、結果としては、これは素晴らしい配慮になるなと感じました。勉強になるわ。私がこのことで考え込んでしまったのは、、、、話は遡り、ずっと前のことですが、私が10代の女の子たちのグループをやっていた頃、あるジャーナリストの方とお話をすることがありました。そして彼は、ドラマセラピーのそのプロセスをドキュメンタリーにしてみたらどうか、と提案してくれました。結局、当時はテレビの方でもその話は進まず、実際に私自身も、その話には全然のれなかったので、なくなりましたが。でもどちらにしても、施設的には絶対に無理だろうと思っていたしね。ドラマセラピーを映像で伝えられたらいいなと思うのですが、ニューヨーク大学がやっているみたいに、「俳優」として、クライエントさんの役を演じる形で、ドラマセラピーのプロセスを紹介できるのがいいのかなあ。イランでは、アニメーションにしているとか。みんないろいろな方法で、ドラマセラピーを紹介しているのよね。国際会議での、日本のドラマセラピストの共同代表(もう一人は尾上明代さん)の一人として、こういうこともちゃんと考えていかなくてはいけないわけよね。私が映像を作ることに、セラピストとしてものすごく抵抗感を持ってしまったのは、クライエントさんたちの物語という神聖なものを乱用することにならないだろうか、という心配をしたことと、何よりも、私の場合、打診されたものが、思春期の女の子たちのグループだったので、彼女たちが大人になっていく過程で、ビデオに撮られたこと自体が、苦しくならないかな、、、と考えてしまったことがあります。何にしても、この話が実現しなかったことは正解だと思っているので、それでいいのだけれど、でも、確かに、ドラマセラピーを広めていくべき立場になってきて、世界の取り組みを聞いていると、考えなくちゃいけないんだなと。俳優が演じていれば、問題はなくなるけれど、セラピーの中に生まれるあの不思議な神がかったような瞬間、力強いエネルギーは、やっぱり本物だからこそ伝わるのよね。でもやっぱり私は、セラピーである以上、クライエントさんを中心に考えたいし、その方の物語は、その人のものであって、その時、社会的な意味とかどうでもいいのよね。それに、過去のある瞬間を切り取って残すことのインパクトは大きいと思う。娘をお風呂に入れる時に、ついついwannabeを歌ってしまい、その歌が気に入ってしまった娘が、なんとこの2021年に、スパイスガールズが好きになってしまったのだけれど、wannabeでもこんな歌詞があるじゃない。"If you want my future, forget my past"私の未来が欲しいなら、過去は忘れて人が、何かを乗り越えていくことはとても美しい姿です。そしてその苦しみを乗り越えていく過程を乗り越えた人は、懐かしく思うかもしれません。もしかしたらその過程を人とシェアしたくなることさえあるかもしれません。映像ではなく、自分の言葉で。自分が思い出したい形で。でも、「その苦しんでいた過去の私」を、映像として誰かに見続けられることで、過去から離れられない思いをもたらされないかな、、、と。ドラマセラピーというのは、自分の役割を広げて行ったり、自分の新たな役割を育てて行ったり、いらない役割を手放したりできる場所です。そして、その新たな役割や、改良された自己イメージを表現することによって、周りとシェアし、定着させていきます。でも手放したはずの役割を、誰かが見続けることで、あるいは、誰かが見ているかもしれないというその思いを持つだけで、その手放した役割に縛られてしまう気持ちにならないかな・・・と思ってしまうのです。どんなに自分が成長したと思っても、過去の知り合いが、「あなたはこういう人よね」と決めつたままで、その手放したはずの役割として、自分のことを見続けられてしまうと苦しいじゃない?私たちは、過去の物語を大切にしたいと思うけれど、それに縛られたくはないはずです。変わりたい、こんな自分になりたいと願う時、誰かに過去のことを知られていることが、自分を縛りかねない。映像って、残ってしまう。しかもインターネットだと、きっと永遠に。そこまで真剣に考えてからじゃないと気軽に映像なんて作れないよなーと、基本セラピストとしては真面目な私は、思ってしまうのです。国際会議でも、この辺りはちゃんと倫理規定を作る必要性を感じているようなのでよかったですが、教育的観点から考えると、必要なものなので、イランのアニメーションていいアイデアだよなー!と思うのですが、誰かアニメでドラマセラピーの物語、作ってくれないかな。今日もお読みくださりありがとうございました!