中国の黄河(Yellow River)で4000年前に大洪水が起きたことを示す
初めての証拠を発見したとの研究結果が発表された。
この大洪水は、夏(Xia)王朝とその後の中国文明の誕生につながったとされる。

米科学誌サイエンス(Science)に発表された研究結果によると、
大洪水が発生したのはこれまで考えられてきたよりも数百年早い紀元前1920年。
これは、禹(Yu)王による夏王朝樹立の時期が通説よりも早かったことを意味し、
この発見により歴史が書き換えられる可能性がある。(AFP)


っっきお

前に「蠱術」について書きましたが、
今回も、中国由来の呪術についての内容です。
さて、どっから書きましょうかね。まず、夏(か)王朝のことからいきますか。
夏は、中国最古の王朝で、紀元前19世紀ころに始まったとされます。

よく「中国4000年の歴史」などと言いますが、その元になった王朝です。
夏というのは、後世の呼び名で、自称が何であったかよくわかってはいません。
また、夏に文字があったかどうかもはっきりはしていません。
ちなみに、中国の古代王朝、「夏・殷(商)・周」を三代と言います。

夏が文献に出てくるのは、ずっと後代のことであり、
伝説上のものに過ぎない、という人もいれば、紀元前19世紀は、
ちょうど中国が新石器時代から青銅器時代に切りかわる頃であり、
何らかの勢力が起こったのではないかと考える人もいました。

それが、1959年、中国河南省偃師(えんし)市の二里頭村から、
大規模な都市、宮殿遺構が発見され、二里頭遺跡と呼ばれます。殷(商)の

遺跡に先行することから、これを夏王朝の都とみる説が有力になりました。
下は、南北100m、東西108の方形の基壇の上に建てられた、
一号宮殿跡の復元図です。

二里頭遺跡 一号宮址


さて、この夏王朝の始祖とされるのが、帝 堯(ぎょう)です。
堯は、中国の「五帝」の一人であり、「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」
と賛美される人物です。堯は自分の子孫には帝位を継がせず、
有徳の噂の高い舜(しゅん)に、自分の娘を嫁がせて譲位しました。

ご存知の方も多いと思いますが、このように、自分の血縁者ではない人物に、
その地位を譲ることを「禅譲」と言います。禅譲は、治世の理想とされましたが、
長い中国の歴史において、禅譲らしき出来事は何度かあるものの、
そのほとんどは、実質的には、後継者が地位を簒奪したものです。

さて、この堯・舜2代の皇帝に、治水の能力によって仕えたのが、
第3代皇帝の禹(う)です。黄河の大洪水の後、その復旧をまかせられた

とされます。初めは、禹の父の鯀(こん)が工事を行っていましたが、
失敗して死に、その後継に任じられました。そして治水に成功した功績により、
舜から帝位を禅譲されることになります。

皇帝 禹
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後代の文献『莊子』には、「禹は偏枯なり」という言葉が出てきていて、
この「偏枯」は、片足が萎えた人と解される場合が多かったんです。
体が不自由なのに、大規模な工事を行ったのがすごいということで、
中国で伝えられてきたものと考えられます。

で、禹は足が不自由だったため、よろめきながら歩くわけですが、後代、
その歩法に呪術的な意味がつけ加えられ、「禹歩 うほ」として

伝えられました。道教の儀式において、道士が禹歩を行うことにより、
日照りに雨を降らせたり、岩を動かすことができるなどと伝えられています。

禹歩


禹歩は日本にも伝わり、「反閇 へんばい」という儀式になりました。
土御門などの陰陽師が、天皇や高位の貴族の外出の際に、
大地を踏み鎮め、悪霊を祓うために行われたんですね。みなさんの中には、
テレビで放送した『陰陽師』で、安倍晴明が反閇を行っているのを
ご覧になった方もおられると思います。

反閇は、相撲の四股や、歌舞伎の足さばきに影響を与えたなどとも言われます。
また、反閇を行うときには、松明に火を灯し、水、米、大豆,ゴマ、粟、麦、
酒などを、行く道に撒き散らす「散供 さんぐ」をあわせて行いました。
反閇は現代にも伝わっていますが、厳密に古代と同じものかははっきりしません。



さて、「禹は偏枯なり」の話に戻って、偏枯は足が不自由という意味ではなく、
魚の神を表しているのではないかという説があります。言語学者の

白川静氏は、禹という漢字が、もともとはワニや竜を表す象形文字であり、
中国の博物誌『山海経』に、偏枯という魚神が描かれていることから、
禹は洪水神ではなかったかという説を述べています。

『山海経』の「偏枯」
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うーん、もしこれが本当だとすれば、禹は自分で洪水を起こし、
自分で治めたということになるんでしょうか。それも不思議な話では

ありますが、洪水神は、世界各地の神話に出てきますので、
そういうこともあるのかもしれません。

さてさて、引用記事に戻って、黄河の大洪水は、紀元前1600年ころと
考えられてきましたが、洪水で崩壊した建物の瓦礫の中から見つかった、
3人の子どもの骨に対する放射性炭素年代測定によって、前1920年ころと

推定され、夏王朝の開始した時期も早まることになったんですね。

でも、どうなんでしょう? 洪水があったことは事実として、
それが夏王朝の伝説とほんとうに結びつくのか。その時代に、
大規模な治水工事などができたのか。禹は実在の人物なのか、

謎は尽きないんですね。では、今回はこのへんで。