🗾日本の予防医療とは、北海道を救うこと――医師として見えた、日本の未来と北の大地

 

札幌は今、20年に一度と言われる大雪に見舞われている。

さっぽろ雪まつりの前に、街そのものが“雪まつり”状態だ。

 

辻々にできる自然のかまくら。

軽くバスの高さほどもある雪の壁。

札幌駅前、大通公園、すすきの――

壮絶だ。いや、正直に言えば、これは災害一歩手前である。

 

私は昨日、つるっと転んだ。

札幌のど真ん中、繁華街の路上で。

あれだけ注意していたにもかかわらず、だ。

 

幸い大事には至らなかった。

しかし、これは決して笑いごとではない。

もっと高齢だったら?

骨粗鬆症があったら?

横断中で、車を巻き込んでいたら?

 

その「たった一度の転倒」が、

人生を大きく変えてしまうことは、医療特に介護現場では珍しくない。

 

 

私は医師として、この光景を

単なる風情や観光資源として処理することができない。

 

これは健康リスクであり、

行政の設計課題であり、

そして国家の問題だ。

 

🩺医師は「最初に症状が出る場所」を見る

 

医療の基本のき、一丁目一番地は「診断」だ。

ここを誤れば、その先のすべてを間違える。

 

良い診断とは、

重症化した“結果”を見ることではない。

最初に異変が現れた場所を見逃さないことだ。

 

人の身体も、病気は一気に全身に出ない。

血流の悪い場所、負荷のかかる場所、弱点から始まる。

 

国も、同じだ。

 

私は北海道に来て、

自分の身体で「危険」を体感し、

現場の声を聞き、

はっきりと確信した。

 

北海道は、日本という国の「初期症状」が最初に現れる場所だ。

 

❄️なぜ、北海道なのか

 

歴史を振り返れば、すべてがそうだった。

 

最初に医療の限界が露呈したのは、夕張だ。

財政破綻により病院が縮小し、「医療崩壊」と呼ばれた出来事。

 

しかしその後、

低価値医療が一掃され、在宅医療へとシフトし、

結果として医療費は下がり、

健康指標も必ずしも悪化しなかった。

 

これは「医療を減らせ」という話ではない。

何が本当に必要な医療なのかを、現実が強制的に選別した出来事だった。

 

再生可能エネルギーの問題も、最初に顕在化したのは北海道だ。

メガソーラー、風力発電。

共生の名のもとに、

地域の利益が外に流れ出す構造が作られていなかったか。

 

ニセコに象徴される外国資本の流入も同じだ。

これは治安の話ではない。

もっと静かに、もっと深刻に、

日本人が貧しくなる構造が進行している。

 

少子化、医療過疎、高齢化、物流の脆弱性。

これらはすべて、北海道で先に表面化してきた。

 

北海道は遅れているのではない。

先に、異変に気づかされてきたのだ。

 

☃️北海道は「デジタルツイン国家」である

 

現地の党員、市議、現場の人たちとの会話の中で、

私は腑に落ちた。

 

北海道は日本の縮小版ではない。

日本の未来を先に映す「デジタルツイン国家」なのだ。

 

広大な土地。

厳しい気候。

少子高齢化。

医療過疎。

エネルギー問題。

国防と物流。

 

ここを設計できない国は、

どこも設計できない。

 

ここで機能しない政策は、

いずれ全国で破綻する。

 

医師が症例から全身を診るように、

政治もまた、北海道という症例から

日本全体を診断すべきだ。

 

🏥北海道を救うことは、日本の予防医療

 

予防医療とは、

病気になってから治すことではない。

悪くなる前に、構造を変えることだ。

 

北海道で起きている問題を

「地方の問題」「特殊事情」として放置するのは、

診断を無視する医療と同じである。

 

この美しい北の大地、

北海道を守ることは、

北海道だけのためではない。

 

日本全体の未来を守るための、予防医療であり、

同時に国防の最前線でもある。

 

🍙結びに

 

北海道を軽く扱う政治に、

日本の未来は任せられない。

 

医師として。

現場を見た者として。

痛みを体感した者として。

 

私は、この北の大地から声をあげる。

 

北海道を救うことは、

日本を救うことだ。

 

そしてそれは、

「いつか」の話ではない。

 

「今、ここ」から始めなければならない。

 

 

🇯🇵「ひとりひとりが日本」で、脳裏に立ち上がった言葉

 

「ひとりひとりが日本」。

今回の衆院選での参政党のスローガンだ。

 

この言葉自体は、とても誠実で、否定しようのないものだと思う。

国家は、誰か特別な人が作るものではない。

日々を生きる私たち一人一人の積み重ねによって、形づくられていく。

その意味で、このスローガンは大切な視点を含んでいる。

 

同時に私は、この言葉を見たとき、ある別の言葉を思い出していた。

 

「あなたは、日本代表です」

 

海外に住んだことのある方なら、一度は聞いたことがあるかもしれない。

大使館やオリエンテーションで、ごく自然に語られるこの一言。

 

「外国に出たら、皆さん一人一人が国際親善大使であり、日本代表なんですよ!」

 

でも、これを聞いた瞬間、人の背筋はすっと伸びる。

言動に気を配り、振る舞いを考え、「自分の行動が、日本の印象になる」という感覚が立ち上がる。

矜持と責任が、同時に芽を出すような感覚だ。

 

このプライドは、日本に戻ると少しずつ薄れていく。

周囲が日本人ばかりだと、「誰かが代表」「誰かが決める」という空気に包まれやすいからだろう。

 

でも本当は、場所が変わっても本質は同じはずだ。

どこにいても、誰と話していても、私たち一人一人の言葉や態度が、社会の空気を――そして、祖国の空気を形作っている。

 

一人一人が日本。

その延長線上に、一人一人が日本代表。

 

・どう振る舞うか

・何を大切にするか

・次の世代に何を渡すか

 

それを「誰か」ではなく、「自分ごと」として潔く引き受ける責任。

 

I am Japan — and so are you.

Each of us represents Japan.

 

それぞれの場所で。

それぞれの立場で。

静かに、誇りを持って。

 

 

【追記】検診大国・日本が、いちばんやってはいけないこと

 

日本ほど、検診をきちんと受けている国は、実は多くない。

企業健診、特定健診、人間ドック、がん検診——

制度としてここまで全国的に回している国は、世界的にも珍しい。

しかも日本は、それを、公費・保険・企業負担で支え、膨大な医療ビッグデータを、すでに持っている。

 

それにもかかわらず、その多くは、縦割りのまま統合されず、研究にも十分に活かされず、現場医師にも還元されないまま、わずか5年で消えていく。

これは、冷静に見ても、かなり異常な状況だ。

 

それなのに今、「検診を受けない人に不利益を」「行動しない人に罰を」といった議論が出てくる。

正直に言って、私はここで強い違和感と怒りを覚える。

 

順番が、完全に逆なのだ。

 

まずやるべきは、すでに国民が協力して積み上げてきたデータを、きちんと活かすこと。無駄なく、誠実に、社会に還元すること。

 

それをせずに、「受けない人が悪い」「行動しない人が悪い」と責任を個人に押しつけるのは、制度設計としてあまりに粗雑で、品がない。

 

そして何より——検診を受けない自由は、あっていい。

 

健康は義務ではない。生き方は、選択だ。

罰金や不利益で縛られた健康は、安心を生むどころか、医療への不信と反発を増やすだけだ。

恐怖や罰で人を動かすのは簡単だ。だが、それは医療が選ぶべき道ではない。

 

医療は、人を管理するための装置ではなく、人が安心して生きるための土台であるべきだ。日本はすでに、世界でもまれな「検診大国」なのだから。これ以上、国民を怖がらせなくていい。罰さなくていい。

 

静かに、きちんと、その協力に応える医療をつくればいい。

 

🏥恐怖で設計された医療について

――ある実業家の「予防医療論」を読んで

 

最近、ある実業家による「予防医療論」を読んだ。日本の医療は無駄が多い。検査とデータを徹底し、AIを使って非効率を削ぎ落とすべきだ――そうした主張は、決して珍しいものではない。

医療DXが遅れていることも、「病気になってから治す」構造が限界に近づいていることも、現場にいる医師なら誰もが感じている。

それでも、読み進めるうちに、私は説明のつかない違和感を覚えた。

 

それは論理の欠如ではない。数字の誤りでもない。もっと根源的な、身体感覚に近い違和感だった。

 

👻恐怖という“設計思想”

 

その実業家は、健康意識の低い層を動かすために、あえて「恐怖」を使ったと語る。病気の悲惨さを、映像で、実例で、強烈に提示する。いわば“医療版ホラー映画”だ、と。

 

たしかに、恐怖は人を動かす。検診に行かせることもできる。行動変容という意味では、短期的には成功するだろう。

だが、医療が”恐怖”を主要なエンジンにした瞬間、その性質は大きく変わる。

 

それは「支える装置」ではなく、「管理する装置」へと近づいていく。

患者は主体ではなく、制御される対象になる。

この変質に、私は強い違和感を覚えた。

 

🗣️「損失回避」という、人間の癖

 

この違和感を、理論的に説明するなら、行動経済学の 損失回避(Loss Aversion) が、最も近い。

この概念を提唱したのは、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキー。

彼らが示したのは、人間のこうした性質だ。

 

人は「得られる利益」よりも「失うかもしれない損失」をはるかに強く感じる。だから人は、「これをすれば健康になる」よりも、「これをしなければ危険だ」という言葉に反応する。

予防医療に恐怖を使うことは、理論的には、極めて合理的だ。

 

だが――合理的であることと、正しいことは、必ずしも一致しない。

 

🪢罰と不利益という発想

 

その実業家は、制度設計の一案として、行動しない人に不利益が生じる仕組み――事実上の「罰」を示唆する。

合理的だ、という理屈は分かる。だが、この言葉を読んだ瞬間、

多くの人の記憶が、無意識に反応する。

 

あのコロナ禍の「推奨」という名の強制。

「自己責任」という名の圧力。

従わない者が、静かに排除されていく空気感。

 

医療が罰と結びついたとき、そこに尊厳は残らない。

健康は義務ではない。生き方は選択であって、命令ではない。

 

🌸私が同意できた部分

 

一方で、この医療論の中に、私が明確に同意できる部分もあった。

 

ポリファーマシーの問題。医療DXの必要性。VRを用いたリハビリの可能性。ウエラブルデバイスの効果的な活用。

これらに共通しているのは、恐怖を煽っていないことだ。

 

患者を脅さず、主体性を奪わず、「やらなければ罰がある」構造を作らない。人間を管理対象ではなく、意思を持つ存在として扱っている。だからこそ、私はここには納得できた。

 

🏠予防医療は、人生の中心であるべきか

 

予防医療は重要だ。だが、予防医療が人生の中心に居座った瞬間、人は「生きる」ためではなく、「病気にならないため」「健康に非常にこだわりを持って」に生き始める。

これは、果たして本当に「健康的」と言えるのだろうか。

 

数値を気にし、リスクを恐れ、未来の病気を想像し続ける。

検査には、必ず偽陽性がある。

癌そのものにも、ほっといたほうがいいケースがある。

そこを徹底掘り起こすことが、本当に、豊かな人生だろうか。

医療の現場では、「見つけること」よりも「見つけたあと、どう扱うか」のほうが、はるかに難しい。

 

予防とは、不安を増やすためのものではない。自由を増やすためのものであるべきだ。

 

🌞私が考える予防医療

 

私が考える予防医療の一丁目一番地は、検査を増やすことではない。

 

睡眠。

運動。

栄養。

そして、朗らかに人生を楽しむこと。

免疫機能を高め、もし最先端医療を用いるなら、エビデンスと倫理の両立が前提ではあるが、”幹細胞治療”のような、身体の回復力そのものを支えるアプローチもいい。

 

恐怖で縛られた健康は、必ずどこかで反動を生む。

一方で、尊厳を保ったまま選ばれた行動は、時間をかけて、静かに社会に根づいていく。

 

💉医療は、煽らなくていい

 

医療費は膨らみ、制度は限界に近づいている。変えなければならないことは、確かに多い。だからこそ、急ぎすぎてはいけない。

 

医療は、煽らなくていい。

恐怖を焚きつけなくていい。

怒らせなくていい。

 

静かで、品があり、

それでも確実に人を支える。

 

予防医療とは、単に長生きさせるための技術ではない。

「怖がらずに生きられる時間」を増やすための、文化の設計なのだと思う。

 

🚖雨の夜の自動運転が、ここまで快適だった理由

――Waymo体験と、テスラがすでに入っているフェーズについて

 

夕方から夜にかけて。しかも雨。☔️視界は落ち、路面は濡れ、

人が運転するなら、いちばん神経を使う時間帯だ。

けれど私は、その条件で自動運転に乗ってみて、驚くほど落ち着いていた。

 

「怖くない」というより、むしろ逆。人間が運転する車よりも、安心感があるとすら感じる場面が、確かにあった。

 

私はWaymo(ウエイモ)の自動運転を体験した。

 

贅沢にも”ジャガー”🐆

 

例えば、住宅地に入るとき。車は自然にスピードを落とす。誰かが飛び出してくるかもしれない、という前提で走っている感じが、はっきり伝わってくる。

 

道路にある、安全のためにわざと盛り上げられた構造物――いわゆる スピードハンプ の手前でも、きちんと減速する。

 

暗く、雨で視界も悪いのに、それを「見落とさない」。

なので、車が跳ねることもなく、こちらが身構える必要もない。

 

その一つひとつが、とても静かでスムーズだった。

 

運転手不在でハンドルがくるくる回る

 

🗣️これは「技術礼賛」ではない

 

ここで誤解してほしくないのは、これは「すごい技術だ」という話ではない、ということだ。

私が感じたのは、安全設計の思想そのものだった。

 

人間は、見落とす。疲れる。焦る。時々の感情で、判断を誤る。

Waymoは「どうすれば事故にならないか」を先回りして考えている。

Waymoの運転は、上手いとか速いとかではなく、最初から“急がない設計” だった。

 

🌉ラスベガスで見た、もう一つの未来

 

ラスベガスでは、Zoox(ズークス)も走っていた。

こちらは、すでに運転席そのものが存在しない、4人乗りのボックス型。

正直、かなり可愛い。🐤

 

すでに市民権を得ていた。

 

今回は無料期間だったこともあり、ぜひ乗ってみたかったのだけれど、アプリ登録にアメリカの住所入力が必要で、手続きがややこしそうだったので断念した。

街中では何台も見かけた。

 

君はどっちに向かって走っていたのか!?周囲の流れを見て理解。

 

ただ、ふと考えたことがある。

運転席がないということは、もし何かの理由で「立ち往生」したとき、人がどう関与するのか。

 

完全自動の世界には、また別の設計思想と課題があるに違いない。

 

🏎️「テスラは、もうほとんど自動ですよ」

 

そんな中、アメリカ滞在の長い日本人経営者が、こう言い放った。

「テスラ、すごいですよ。もうほとんど自動です。しかも、そのクオリティは数年前から」

 

ラスベガスのCES会場には、Loop(ループ) という地下トンネルがあり、そこではテスラが走っている。「次回は自動運転になる」と言われて、もう3年になるが、未だ手動。

だから私は、「やっぱり完全自動は時間がかかるのね」

と思っていた。

 

でも、話を聞いて真実がわかった。

問題は、技術ではない。法律と制度の問題なのだ、と。

 

CES会場にて。自動運転・AI・モビリティの未来を、現地で「見る」ことの重要性を改めて感じた。

 

🤖 テスラは、すでに次のフェーズに入っている

 

今回、Sony Hondaの代表から聞いた話は、非常に示唆的だった。テスラの自動運転は、もうすでに「すごいフェーズ」に入っている。

完全な自動運転ではない。運転席に人が座る必要はある。

けれど、ほぼハンズオフで走行するレベルには達している。

 

しかも、

  • 超安全運転タイプ

  • 通常モード

  • いわゆる「マッドマックスモード」🤣(本当です)

といった、

運転特性の切り替えまで用意されている。

にもかかわらず、日本では、

  • 危険ではないか

  • 問題点ばかり

  • 支持されていない

という文脈で語られることが多い。

だが、現実は違う。

 

この乖離を見て、

「これはいけない」と感じた――

それが、Sony Hondaとしての出発点だったという。

 

ソニーホンダモビリティの”AFEELA”は、対話型EV

 

🎮 日本が勝負するなら、「体験設計」しかない

 

テスラを否定するのではない。テスラを見たうえで、それでも日本がやる意味を考えた。何周か遅れているのは事実だ。だからこそ、日本らしい勝ち筋を選ぶ。

 

たとえば、

  • アニメ的で直感的なインターフェイス

  • 車内で大音響の映画を楽しめる設計

  • 「移動」ではなく「滞在」としての車内体験

”車で何時間過ごしても楽しい”を設計された空間

 

自動運転を、

単なる移動手段ではなく、

時間と空間の再設計として捉える発想

ここに、日本の強みがある。

 

🚗自動運転は「人間を信じない技術」ではない

 

自動運転やAIという言葉に、

不安を覚える人は少なくない。

でも、私にはこう見える。

 

これは、人間を排除する技術ではない。

人間の限界を、静かに引き受ける技術だ。

 

雨の夜、人が無理をしなくていい設計。それを体験したとき、私ははっきりと感じた。

未来の話ではない。

これはもう、始まっている現実だ。

 

 

💉医療の安全設計から考える

――ヒヤリハット、交通事故、そしてAIとウェアラブルの話

 

東京・赤坂で起きた、内閣府の公用車が関与した重大な交通事故のニュースを見て、正直、私はこう思った。

 

――やはり、自動運転のほうが安全なのではないか。

 

これは技術礼賛でも、感情論でもない。

医師として「安全設計」を日常的に考えてきた人間の、かなり自然な反応だと思っている。ちなみに先日、米国(ロサンゼルス)で自動運転を体験したのだが、あの滑らかさと“ヒューマンエラー耐性”は、正直かなり衝撃的だった。これはまた別の記事にしたい。

 

今回の事故については、今後さまざまな検証や責任の所在が議論されるだろう。ただ私は、これを「誰かの過失」や「個人の資質」の問題としてだけ処理して終わることに、強い違和感がある。

というのも、医療の世界では、同じ出来事をまったく別の視点から捉えるからだ。

 

🥼医療の現場では「人は必ずミスをする」と設計する

 

医療の現場では、「ヒヤリとした」「ハッとした」出来事を、個人の失敗として片づけない。

むしろ前提はこうだ。

 

人は必ずミスをする。

経験があっても、注意していても、疲れている日もあれば、集中力が落ちる瞬間もある。

だからこそ、安全は「気合」や「根性」では守れない。

 

医療では

  • なぜ起きたのか

  • どこに無理があったのか

  • 次を防ぐには、どこを変えるべきか

を、構造として分析していく。

 

これが「ヒヤリハット → 再発防止」という、安全設計の思想だ。

ヒヤリハットは失敗ではない。未来から届く「ここを直して」というメッセージなのである。

 

🚗交通事故も、本質は同じ構造にある

 

赤信号無視という結果だけを見ると、「なぜそこまで危険を」と思ってしまう。けれど医師の視点で見ると、その手前にあるものが気になる。

 

睡眠不足、慢性的な疲労、強いストレス、自律神経の乱れ、認知機能の低下、あるいは体調変動――。

もちろん今回の事故の原因を、ここで断定することはできない。

ただ、「人間は不調のサインを見落とすことがある」「本人にも気づきにくい変化がある」という前提に立てば、事故は“突然”ではなく、前兆の積み重ねとして起きることが多い。

 

そしてこれが重要なのだが、

それは「運転技術」だけの問題ではない。

人間の生理と限界の問題でもある。

 

⌚️ここでウェアラブルが生きてくる

 

いまの時代、ストレス、睡眠の質、心拍変動(HRV)、不整脈の兆候など、ウェアラブルで一定程度“見える化”できる。

 

ただ、ここで多くの人が不安になるのは分かる。

「それって結局、監視の道具になるのでは?」

――この警戒心は、健全だ。歴史を見ても、便利な道具は時に権力の側へ引き寄せられる。

だから私は、ここを感情論で片づけず、“設計”で線引きすべきだと思っている。

 

私が考える前提は、次の4つ。

  1. 本人が主権者(データの持ち主は本人)

     基本は本人だけが見られる。第三者共有はオプトイン(同意)で、撤回もできる。

  2. 最小限データ(目的に必要な分だけ)

     “なんでも取る”ではなく、事故予防・健康維持に必要な指標に絞る。

  3. 用途制限(罰や差別に使わない)

     保険料の不利益変更、雇用・査定・懲戒などに流用しない。ここはルールではなく、法律レベルで縛るくらいがちょうどいい。

  4. 透明性と監査(誰が、何を、いつ見たかが残る)

     アクセスログを残し、独立した第三者が監査できる。

     “見られたかどうか分からない”状態を作らない。

この条件が揃って初めて、ウェアラブルは「監視」ではなく「安全装置」になる。

私はこれを、管理社会の入口ではなく、人間の弱さを、先回りして支えるための予防医療として位置づけたい。

 

🤖自動運転やAIは「人間を排除する」ものではない

 

AIや自動運転という言葉が出ると、「人間が不要になるのでは」と不安に感じる人もいる。

でも私は逆だと思っている。

 

AIは、人間の代わりをする存在ではない。

人間の限界を補う存在だ。

 

人は疲れる。判断を誤る。集中力が落ちる。大事な兆候を見逃す。だからこそ、ミスが致命傷にならない設計を先に作る。

それが安全設計という考え方だ。

 

🧥公の仕事ほど「安全設計」が必要になる

 

医療、交通、行政。

公に関わる仕事ほど、「事故は起きない前提」で動くべきではない。

事故が起きにくい構造を最初から組む。

そして、ヒヤリハットを“隠す”のではなく、“学びに変える”。

 

責める社会の先に、防ぐ社会へ。

私は、医療の安全設計で培ってきたこの視点を、社会全体に広げていきたいと思っている。

 

ヒヤリハットは、失敗報告ではない。

未来を守るための、静かな警告なのだから。

 

🪽母性神話の陰で、見過ごされている事実

──妊産婦の死因について

 

ある医師の会で、ひとつの事実を知った。

日本では、妊産婦の死因の第1位は「自殺」である。

 

出血でもない。

感染症でもない。

妊娠高血圧症候群でもない。

 

命を奪っている最大の要因は、身体のトラブルではなく、心の孤立である。

 

この事実は、決して最近になって突然起きたものではない。

厚生労働省の調査や複数の学術報告でも、以前から繰り返し指摘されてきた現象だ。

にもかかわらず、社会の中でこの事実は、ほとんど語られてこなかった。

 

🏥 ここまで到達した産科医療

 

まず、ひとつ確認しておきたい。

日本の産科医療は、世界的に見ても極めて優秀である。

 

出血、感染症、妊娠高血圧症候群といった、かつて多くの命を奪ってきた合併症は、医療の進歩によって大幅にコントロール可能になった。

 

帝王切開、輸血、抗菌薬、集中管理。

これらがなかった時代、出産は今とは比べものにならないほど危険な出来事だった。

 

地域や時代によって差はあるが、

「女性が生涯で何度も妊娠・出産を経験する」ことを前提にすると、一生のうちに出産が原因で命を落とすリスクは、決して低いものではなかった。

 

それが今、日本ではどうか。

 

妊産婦死亡そのものが、極めて低い水準まで抑えられている。

これは、産科医療に携わってきたすべての医療者の努力の結晶であり、誇るべき成果であることは間違いない。

 

⚔️ だからこそ、目立ってしまう「自殺」

 

ここまで医学的な死因が減ったからこそ、

別のものが、統計の中で浮かび上がってきた。

 

それが「自殺」だ。

 

自殺が増えた、というよりも、

医学で救える死因が減った結果、救い切れていない領域が可視化された

──そう理解した方が正確だろう。

 

出血は止められる。

感染症は治療できる。

高血圧も管理できる。

 

だが、

孤立、絶望、自己否定、逃げ場のなさは、

医療技術だけでは防げない。

 

自殺は、数ある選択肢の中の「最終段階」に過ぎない。

そう考えるなら、その手前で苦しんでいる人は、何十倍、何百倍にのぼると考える方が自然だろう。

 

🗣️ なぜ、この事実は知られていないのか

 

妊娠・出産をめぐる情報は、社会にあふれている。

 

母子保健。

少子化対策。

産後ケア。

育児支援。

 

それでも、「妊産婦の死因としての自殺」は、ほとんど語られない。

 

理由は単純ではないが、妊娠・出産が「祝福されるべきもの」「幸せの象徴」として語られる一方で、そこに伴う精神的負荷が、語りにくい構造がある。

 

苦しいと言えば、

「贅沢だ」と言われる。

助けを求めれば、

「母親失格」と受け取られかねない。

 

この空気そのものが、沈黙を生んでいる。

 

🕊️ 産後うつは「個人の弱さ」ではない

 

産後うつは、決して珍しい状態ではない。

 

ホルモン変動。

慢性的な睡眠不足。

生活環境の激変。

社会的孤立。

 

医学的にも心理学的にも、発症要因ははっきりしている。

それでも現実には、

 

「母なのだから頑張れるはず」

「みんな通る道」

 

という言葉で、苦しさは内側に押し込められてしまう。

 

支援につながる前に、

誰にも言えなくなり、

誰にも頼れなくなり、

孤立が深まる。

 

その果てに、取り返しのつかない選択に至るケースもある。

 

👩 母である前に、人である

 

この問題は、母性を否定する話ではない。

母を責める話でもない。

 

むしろ逆だ。

 

母である前に、ひとりの人間であるという、

ごく当たり前の前提を、

社会がどこかで置き去りにしてきた結果ではないか。

 

「母だから強い」

「母だから耐えられる」

「母だから無償で与える」

 

こうした言葉は、一見美しい。

しかし、断言された瞬間に、逃げ道を塞ぐ。

 

💡 知ることから、始めたい

 

妊産婦の死因の第1位が自殺であるという事実は、

誰かを批判するためのものではない。

 

制度を見直すため。

支援のあり方を考えるため。

そして、「語り方」を変えるための基礎情報だ。

 

日本の産科医療は、世界でもトップクラスの成果を上げてきた。

だからこそ、次に向き合うべき課題は、心と社会の構造にある。

 

まずは、事実を知ること。

祝福の言葉の裏側にも、現実があると認めること。

 

そこから、静かに議論を始めたい。

 

 

💎12万枚でも当たらない──宝くじ共同購入を「確率」と「錯覚」で解剖する

 

 

年末ジャンボを、8039人で共同購入。投資額は約3600万円。購入枚数は11万9975枚(約12万枚)。

 

結果は──

1〜4等は当たらず。回収は約1058万円。差し引き約2500万円のマイナス。

 

SNSでは「衝撃」「もはやお祭り」「12万枚もあれば当たる!?」と盛り上がったらしい。

 

うん、分かる。

でも同時に、私はこう思ってしまう。

 

確率論的には、むしろ“きれいに収束”している。

(そして、これが“夢”というものの正体でもある。)

 

👤「12万枚もあればきっと当たる!?」という、人間の錯覚

 

年末ジャンボの「1等」は、ざっくり2000万分の1と言われる。

ここで、今回の購入枚数は約12万枚。

まず、期待値(平均何本当たるか)はこうなる。

  • 期待値(1等本数)

    12万 ÷ 2000万 = 0.006本

つまり、平均的には

1等は “0.006本” しか当たらない。

 

0.006本。

これはもう、基本“当たらない”に限りなく近い。

 

では、もう少し直感的な形にしよう。

「1等が1本以上当たる確率」はどれくらいか?

近似でよく使う式がある。

  • 1等が当たる確率(ざっくり)

    1 − e^(−0.006) ≒ 0.6%

つまり、当たる確率は約0.6%

言い換えると、

約99.4%の確率で、1等は当たらない。

 

12万枚って聞くと、脳が勝手に“当たりそう”と思う。

でも数学は冷たい。

数が増えても、分母(2000万)が巨大すぎる。

 

🛍️回収率29%は「衝撃」ではなく「構造」

 

今回の回収額は、約1058万円。

投資額は約3600万円。

回収率は、

  • 1058万円 ÷ 3600万円 ≒ 29.4%

「うわ、それだけ投資しても3割しか戻らないの!?」

と思う人もいるかもしれない。

でも宝くじは、構造としてこうだ。

  • 高額当選が出ないと回収率は低くなる

  • 高額当選が出ると回収率は一気に跳ねる

つまり回収率は、「上位等が出たかどうか」に極端に支配される。今回、1〜4等がゼロ。ここで回収率が“低位等の積み上げ”型になっただけ。

 

むしろ、確率的には自然。

衝撃というより、収束である。

 

👥共同購入の本質:期待値は上がらない。でも“分散”は下がる

 

共同購入を「賢い買い方」と言う人がいる。

ここは一度、整理しておくといい。

共同購入で起きるのは、

  • 🔸 大外れ(ほぼゼロ回収)を避けやすくなる

  • 🔸 当選の“波”がならされる

  • ❌ 期待値(平均損得)がプラスに変わるわけではない

これが統計学っぽい話で言うところの、

  • 期待値は変わらない

  • 分散が下がる

つまり、共同購入は「勝つ確率を上げる仕組み」ではなく、「大事故を減らす仕組み」なのだ。

 

💴「投資としては買わない」が正しい。でも──

 

ここで、私の結論はこうだ。

宝くじを投資として買うのは合理的ではない。

期待値で見れば、宝くじは基本的にマイナス。(“夢”という名の手数料が乗っている。)

でも、人間の購買行動は「期待値」だけでは決まらない。

 

ここで登場するのが、もう一つの指標。医学で言えばQALYみたいに、経済学では「効用」というやつ。

  • ワクワクする

  • みんなで盛り上がれる

  • 当選発表までの1か月、妄想で幸せになれる

  • 共同購入で“祭”になる

  • 人生のネタができる

これらは、金額では測りにくいけれど、人が人生で確かに欲しているものでもある。

だから私はこう整理している。

 

宝くじは「期待値」を買うのではなく、「効用(気分)」を買う商品だ。

 

🔔カーブ“信頼区間の両端”を歩く人ほど、宝くじは買わない説

 

ちなみに、私はこういう皮肉な真理も感じている。

人生で“信頼区間の両端”を歩く人、つまり「平均」に収まらない選択をする人ほど、宝くじは買わない。

なぜなら、人生のテール(裾野)は

行動や能力で掴める部分がある。

でも宝くじのテールは、ほぼ外生的ランダム。

つまり、努力で寄せられない。

 

“テールを歩くなら、宝くじではなく現実で歩く”

そういう人が多い気がする。

 

🍙宝くじは「数学」と「人間」を同時に映す鏡

 

12万枚買っても、1等が当たる確率は約0.6%。

99.4%で当たらない。

だから今回の結果は、衝撃ではなく“収束”。

それでも、人が買うのは、

期待値ではなく「効用」を買っているから。

 

宝くじは、統計学と心理学の教科書であり、そして「夢」という人間の文化そのものでもある。

 

私は投資としては買わない。

でも、誰かが300円で“文化祭の1か月”を買うのは、

それはそれで、悪くないと思う。

ただし一点だけ、釘を刺して終える。

 

夢は買っていい。

でも、生活費で買うな。

 

🔢 おまけ:確率の直感チェック(脳がだまされる編)直感で行ってみよう。

 

Q1 12万枚買ったとき、1等が1本以上当たる確率は約0.6%である。では100万枚買ったら?

 

A. 約0.5% B. 約5% C. 約50% D. ほぼ100%

 

 

→ 答え:B(約5%)

 

Q2 1等が50%の確率で当たるには何枚買わないといけない?

 

A. 約200万枚 B. 約500万枚 C. 約1400万枚 D. 約2000万枚

 

 

→ 答え:C(約1400万枚)

 

直感は、なぜここまで外れるのか。

「12万、100万」という数の大きさに脳が反応し、分母(2000万)の巨大さを無視する。

そして「みんなで買う」と”運が集まる”錯覚が起きる。

これは能力ではなく、人間の脳の仕様である。

 

 

🌏世間が、やっと追いついた日

――ChatGPTが共通テスト満点を取ったというニュースについて

 

 

「チャットGPTが共通テストで9科目満点を取った」そんなニュースが流れた。

 

驚いた人も多いだろうし、不安を覚えた人もいるかもしれない。

けれど、正直に言えば、私はこう思った。

 

――やっと、ここまで来たか。

 

これは、AI礼賛のニュースではない。

「AIがすごい」という話でもない。

もっと正確に言えば、これまで私たちが“知性”だと思い込んできた教育と評価の仕組みが、実はAIに極めて適合的だったことが、ついに可視化された、というニュースだ。

 

共通テストは、限られた時間の中で、明確な正解を選び、形式知を処理し、確率的に最も正しい答えにたどり着くことを求める試験である。

それはつまり、AIが最も得意とする世界だ。

AIが勝ったわけではない。

”試験”がAI向きだっただけである。

だから、AIが高得点を取ったこと自体に、過剰に驚く必要はない。

 

むしろ、「なぜ今まで満点が取れなかったのか」と感じる方が自然かもしれない。

これは、人間が負けた話ではない。

日本社会が長年測ってきた「知性の定義」が、AIと重なりすぎていた――それだけの話だ。

 

興味深いのは、国語の得点が他科目より低かったという点である。

国語には、行間や文脈の揺らぎ、書き手の温度、言葉にならない前提が含まれている。

そこには、まだ数値化しきれない領域が残っている。

私はそこに、官能(センシュアリティ)を見る。

だから、この結果を悲観的には見ていない。

むしろ、こう思った。

 

――人間の居場所が、よりはっきりした。

教育は、ここからが本番だ。

 

これから起きるのは、暗記型教育の限界であり、正答率至上主義の崩壊であり、「知っているか」よりも「どう引き受けるか」へと軸足が移る変化だろう。

AIは、正解を出せる。

確率を示せる。

比較もできる。

 

だが、AIにはできないことがある。

人生の責任を取ること。

後悔を引き受けること。

それでも進む、という覚悟を持つこと。

 

これから人間に問われるのは、問いを立てる力であり、確率を理解したうえで選ぶ力であり、意味を引き受ける覚悟であり、「正しくないかもしれない選択」を生き抜く力だ。

つまり、官能と判断の領域である。

 

AI時代において、人間が不要になるのではない。

苦しくなるのは、「AIと組めない人間」だけだ。

これは終わりではない。

始まりの合図である。

共通テスト満点はゴールではない。

「次のステージに進め」という、静かなサインだ。

長く語られてきた未来が、ようやく現実に追いついただけ。

だから私は、このニュースを見て微笑んだ。

 

やっと、世間が追いついた。

さて、ここからどう考えるか。

――それを考えるのが、人間の仕事だ。

 

<追記>

そして私はもう一つ、強く気になった。

国語が他科目より低かった――その「落とした問題」が何だったのか、である。

 

そこにはきっと、AIがまだ苦手とする「人間の読解の芯」が露出している。

行間の圧、語り手の温度、皮肉のニュアンス、誰が誰に向けて言っているか――そういう“見えない前提”の処理だ。

 

面白いのは、ここを分析すればするほど、AIはまた賢くなるということだ。

不正解の原因を特定し、問いの立て方を調整すれば、次の回答はより正確になる。

つまり、国語の不正解は「AIの限界」ではなく、むしろ「改善点の地図」でもある。

 

だから私は思う。

国語でAIが落とした問題こそ、いま最も価値のある教材なのだ、と。

 

🖊️人生は短い、医術は長い――終わらない知を引き受けるということ

 

Life is short, art is long.

この一文は、しばしば「人生は短い。芸術は長い」と訳される。

 

だが、ここで一度、ヒポクラテスの文脈に立ち戻る必要がある。

彼が語った art は、絵画や音楽といった芸術ではない。

医術(τέχνη, techne)――すなわち、技術であり、方法であり、修練によってのみ身につく「術」のことだ。

 

ヒポクラテスの言葉の本来の趣旨は、こうである。

人生は短い。しかし、医術を修得するには、長い年月を要する。

 

この言葉が語られたのは、紀元前の世界だ。抗生物質もなく、麻酔もなく、解剖学さえ未完成だった時代である。

 

それから二千年以上が経った。医学は飛躍的に進歩した。感染症は制御され、手術は安全になり、画像診断や遺伝子解析、AIまで登場した。

 

それでもなお、この言葉は、少しも古びていない。

それどころか、今の時代にこそ、より鋭く響く。

 

なぜか。

 

それは、医術が「未熟だから長い」のではないからだ。

医術とは、人間を扱う営みであるがゆえに、本質的に終わりのない知だからである。

 

🕊️医術は、完成しない

 

医学は進歩する。

だが、医術は完成しない。

 

どれほどエビデンスが積み上がっても、

どれほど技術が洗練されても、

「この人にとって、いま何が最善か」という問いは、毎回新しく立ち上がる。

 

同じ疾患名であっても、

同じ治療法であっても、

人が違えば、人生が違えば、答えは変わる。

 

だから医術は、マニュアルで完結しない。

数式でも、アルゴリズムでも、完全には閉じない。

 

🧑‍⚕️医師とは、「未完成」を引き受ける職業である

 

ここに、医師という仕事の特異性がある。

医師は、

  • 自分の生きている間に、医術が完成するとは期待できない

  • 自分の判断が、後世から見れば修正される可能性を常に孕んでいる

  • それでも、いま目の前の患者のために、決断しなければならない

という立場に置かれている。

これは、ある種の矛盾を引き受ける仕事だ。

 

自分の知識は暫定的であり、

自分の技術も未完成であり、

それでも「いま・ここ」で判断しなければならない。

 

ヒポクラテスの言葉が示しているのは、

この覚悟の構造ではないかと思う。

 

🕰️医術が「長い」とは、時間の話ではない

 

「医術は長い」という言葉を、修得に時間がかかる、という意味だけで捉えると、本質を外す。

長いとは、”一人の人生では終わらない、覚悟せよ”という意味だ。

 

医術は、

  • 個人の寿命を超えて受け継がれ

  • 修正され

  • 更新され続ける

知の連なりである。

 

だから医師は、

「自分が完成させる」

「自分が正解に到達する」

という発想を、どこかで手放さなければならない。

 

その代わりに、

「自分は途中を担う」

「次の世代に渡す」

という役割を引き受ける。

 

ここに、医の倫理の根幹がある。

 

📈数字で測れないものを、捨てないために

 

医療費や効率の議論が進むほど、

医療は「測れるもの」だけで評価されがちになる。

 

それ自体は必要だ。

だが、医術の核心は、そこに収まりきらない。

  • 迷いながら説明する時間

  • 沈黙を置く判断

  • やらないと決める勇気

  • 希望を過剰に煽らない配慮

こうしたものは、数値化しにくい。

だが、これらこそが医術であり、二千年前から今まで、変わらず受け継がれてきた部分でもある。

 

🗣️人生は短い。だからこそ、医術は長くなければならない

 

患者の人生は短い。

医師の人生も短い。

 

だからこそ、医術は、一人の人生で完結しない構造を持たねばならない。

 

医療とは、

「すべてを解決すること」ではなく、

「解決しきれないものを、どう引き受けるか」を問われる営みなのだと思う。

 

ヒポクラテスの言葉は、その厳しさと同時に、医師という職業への深い信頼を含んでいる。

 

Life is short, art is long.

 

この言葉は、医療がどれほど進歩しても、医師が引き受け続けなければならない核心を、静かに示している。