🥼 攻めの予防医療とは何か──検診とその限界、そして次のステージへ

 

まず大前提として。がんは、もはや一部の人だけの特別な病気ではありません。人生100年時代と言われる今、長く生きれば生きるほど、どこかの時点でがんが見つかる可能性は高くなります。

 

ただし、それは単純に「2人に1人=50%」というような、均一で直感的な話でもありません。現実には、年間で見れば、100人いればそのうち1人程度が新たにがんと診断される、そうした積み重ねの中で、長い時間をかけて“見つかってしまう病気”でもあります。

かつての「人生50年」の時代には、表に出てこなかった病変が、

寿命の延伸とともに“見つかる”ようになった。そう考えれば、がんの増加は、単なる医療の失敗ではなく、長寿社会の一つの帰結とも言えるでしょう。

 

しかし―ここで、非常に重要な視点があります。

それは、見つかったがんのすべてが、直ちに命に関わるわけではないということです。とくに高齢者においては、進行が非常に緩やかで、がん以外の原因で人生を終える方が先になるケースも少なくありません。

 

実際、諸外国では一定年齢を超えると、がん検診を一律に続けるのではなく、年齢、健康状態、既往歴などを踏まえて個別に判断するという考え方が広く見られます。米国でも、検診の種類によっては75歳前後を境に「一律推奨」から「選択的実施」へと変わります。

さらに言えば、がんにはごく稀ではあっても自然消退が知られています。私自身、大学病院の皮膚科で多忙に診療していた時代に、そのような症例を実際に経験したことがあります。だからこそ、見つかった病変のすべてを、ただちに同じ熱量で“叩くべき敵”とみなす発想には、慎重であるべきだと思うのです。

 

ここで、もう一つだけ、少し立ち止まって考えてみたいのです。

検診を受けなければ、そのまま気づかれずに経過し、あるいは自然に消退していた可能性のある病変も、一定数は存在するのではないか―そうした確率論的な視点です。

 

検診という仕組みは、本来は問題にならなかったかもしれないちょっとした異常を、「病気」として確定させる側面も持っています。言い換えれば、見つけたことで初めて「病気になる」という現象も、起こり得る。

 

この視点を持たないまま、「早期発見=常に善」と考えてしまうと、予防医療は簡単にバランスを失います。

 

ここまで考えてくると、少し不思議な感覚に至ります。

検診とは、単に「存在する病気を見つける行為」なのでしょうか。それとも、見つけた瞬間に、その人を“患者”にしてしまう行為なのでしょうか。

 

この構造は、たぶんに量子力学的です。

観測されるまで状態が確定しない、というあの考え方に、少し似ているようにも感じます。

もちろん、がんそのものは現実に存在しています。しかし、それが「病気として扱われるかどうか」は、観測―すなわち検診によって初めて確定する側面もある。

そう考えると、私たちは単に病気を見つけているのではなく、ある意味で「病気を定義している」のかもしれません。

 

つまり、「見つけること」そのものが、必ずしも利益とは限らない。ここに、医療が介入することによって生じる、予防医療の本質的な難しさがあります。

 

🩺 検診の逆説──早く見つけても、長生きするとは限らない

 

今回、資料を読み込む中で、非常に重要なポイントに気づかされました。一般的には、検診でがんが見つかった人の方が、生存率は高く見えます。一見すると、「やはり早期発見は正しい」と思える結果です。しかし、ここには大きな落とし穴があります。

まず、検診で見つかるがんの中には、そのがん自体が直接の死亡原因とはならないケースが一定数含まれます。例えば、がんが見つかっても、実際には脳卒中や心疾患など、別の原因で亡くなる。もし検診を受けていなければ、そのがんは診断されることもなく、「がん患者」として扱われることもなかったかもしれません。つまり、

 

見つけたことで初めて“がん患者になる”ケースも存在する。

 

そして、もう一つ大事なポイントがあります。

ここで混同されやすいのが、「生存率」と「死亡率」の違いです。

生存率とは、「がんと診断されてから、どれだけ生きたか」を見る数字です。そのため、検診で早く見つければ、それだけ“診断されてからの期間”が長くなり、生存率は良く見えます。しかし、それは必ずしも、寿命が延びたことを意味しません*。

 

たとえば、検診で早く見つかった人も、症状が出てから見つかった人も、同じ年齢で亡くなるとします。この場合、早く見つかった人の方が「長く生きたように見える」だけで、実際の寿命は変わっていないのです。だからこそ重要なのは、

👉 その検診によって、本当に死亡が減ったのかどうか

 

見るべきは、「診断されてから何年生きたか」ではなく、「その検診によって、命が救われたのか」なのです。

この視点を持たないまま、「生存率が上がっている=良い検診だ」と考えてしまうと、予防医療は簡単に方向を誤ります。

 

👁️‍🗨️ 見つけすぎる医療──偽陽性と過剰診断

 

さらに見逃してはならないのが、検診の“影”の部分です。

検診は、「見逃さないこと」を優先する仕組みである以上、一定数、問題のないものまで拾い上げてしまう構造を持っています。

これが前回ブログにした偽陽性問題です。

異常ありと判定されても、実際にはがんではない。それでも精密検査へと進み、身体的・心理的な負担を受けることになります。

 

そして、より本質的なのが過剰診断です。

これは、見つけても本来は一生問題にならなかったがんを診断してしまうことです。

特に高齢者では、進行が極めて遅いがん、他の原因で寿命を迎える方が先のがん、も多く存在します。

しかし一度「がん」と診断されれば、多くの場合、治療が始まります。その結果、本来必要のなかった手術や治療、合併症、QOL生活の質の低下といった、“避けられたはずの不利益”が生じることもあります。

 

🏥 それでも検診は必要か──現場感覚というリアリティ

 

もちろん、ここで誤解してはいけません。すべての検診が無意味だという話では決してありません。例えば大腸がんにおいて、便潜血検査で陽性となった場合、内視鏡検査による精査は、臨床的にも十分に意味があります。

むしろ問題は、誰に、どの頻度で、どこまで行うのかが曖昧なまま、“とりあえず広く行う”方向に進んでしまうことです。

 

ここにこそ、現在の予防医療の限界があります。

 

🤖 次のステージへ──AIと個別化予防医療

 

だからこそ、これからの予防医療は、「検診人数を増やすこと」ではなく、「必要な人に、必要な介入を行うこと」へと進まなければなりません。

そのために必要なのは、

 

・統一された電子カルテ

・長期にわたるデータ保存

・家族歴

・生活習慣

・ゲノム

・エピジェネティクス

 

これらを統合し、AIによって個人ごとのリスクを評価する仕組みです。全員に同じ検診を行う時代から、その人にとって意味のある検査だけを選び取る時代へ。

 

ここに進まなければ、どれだけ「攻めの予防医療」と言っても、

それは単なる量の拡大に過ぎません。

 

🪢 結び──“攻め”とは何か

 

予防医療とは、単に病気を見つけることではありません。人の人生にとって、本当に意味のある介入を選び取ることです。そのためには、検診の利益だけでなく、その不利益にも正面から向き合う必要があります。

そして何より、「とりあえず検査」という発想から脱却し、知性ある選択へと進むこと。

 

そこにこそ、本当の意味での“攻め”があるのではないでしょうか。

 

<脚注>

* 検診の有効性を評価する際には、統計上のバイアスに注意が必要である。代表的なものとして、検診により早期に発見されたことで、実際には寿命が延びていなくても診断後の生存期間が長く見える「リードタイムバイアス」、および進行の遅いがんほど検診で見つかりやすく、結果として予後が良好に見えやすい「長さバイアス」がある。したがって、生存率のみをもって検診の有効性を判断することはできず、死亡率の低下を確認することが重要である。

 

 

🗣️ ”偽陽性”という呪詛

 

健康な人に対する検査には、独特の“力”がある。それは、注射とか、手術とかの侵襲の種類ではない。もっと静かで、もっと見えにくく、じわじわ浸食されるもの。

 

言葉の力である。

 

「腫瘍マーカーが高いですね」

「どこかにがんの兆しがあるかもしれません」

「念のため、精密検査をしましょう」

 

この一言を受け取った瞬間、人はまだ何も確定していないにもかかわらず、一瞬前の“健康で幸福な自分”から切り離される。

人間というものは、思っている以上に弱いものだ。

たった一つの言葉で、眠れなくなる。食事が喉を通らなくなる。未来の見え方が変わってしまう。そういう意味でも、検査結果は単なる数字ではない。それは、現実の意味づけを変える行為でもある。

 

プラセボ効果は、多くの人が知っているだろう。薬効のないものでも、「効く」と信じることで、実際に症状が改善する現象である。では、その逆はどうだろうか。

ノセボ効果というものがある。「悪いかもしれない」と思った瞬間に、身体がその予測に引き寄せられてしまう現象である。

ここに、偽陽性の本質がある。

偽陽性とは、単なる検査の誤差ではない。それはある意味で、“陽性という言葉を受け取ること”そのものが、身体と心に影響を及ぼしてしまう現象に近い。たとえ確率論であっても。

 

「がんかもしれない」

 

この言葉が発せられた瞬間、まだ何も確定していないにもかかわらず、人はすでに、“病者としての時間”に入ってしまう。

再検査、追加検査、紹介。時間、費用、身体的負担。そして何より、一度ついた疑いは、何をしても完全には消えない。

——無限ループである。

ここで起きているのは、単なる医療行為ではない。人生の軌道の変化である。

 

さらにその終わりなき確認作業の間、本当に医療を必要としている人のリソースが圧迫される。医療費もかかる。そしてそれには、税金が投入される。

 

一方で、”偽陰性”という現象も存在する。

本当は異常があるのに、見逃されること。皮肉なことに、こちらの方が精神的には穏やかかもしれない。知らないまま日常を送り、結果として身体の力で整っていくこともある。

がんという病でさえ、自然に消えていく現象が報告されていることは、あまり知られていないが、確かに存在する。

もちろん、それを前提にすべきではない。

しかし同時に、すべてを「一刻も早く見つけることが正義」とする発想もまた、単純すぎるのではないだろうか。

 

海外では、がん検診やスクリーニングにおいて、利益だけでなく、害も必ず語られる。偽陽性、過剰診断、過剰治療、心理的負担など。無症状の人に検査を広げることには、常に慎重な視点が伴う。しかし日本では、どうだろうか。

 

「早く見つけるのは良いこと」

「無料なら受けた方がいい」

「若いうちから検査すべきだ」

 

善意の言葉だけが先行しやすい。しかしその裏で、”病の予感が配られている可能性”については、ほとんど語られない。

 

言葉には良くも悪くも”力”がある。だからこそ、その力に無自覚なまま使えば、人を支えることもあれば、壊すこともある。

医学的には仮説であっても、受け取る側にとっては現実になる。

それが、「がんかもしれない」という言葉の重みである。本当に問うべきなのは、どこまで正確に検査できるかではない。その判断が、人の人生に何をしてしまうのか、である。

 

私は、検査を全面的に否定したいのではない。必要な検査はある。救われる命もある。しかし、健康な人に検査を勧めるのであれば、利益だけではなく、害も同じ重さで語られなければならない。そうでなければ、それは予防ではない。

不安の配布である。

 

はっきり言わせてもらう。

たとえば、若い世代にきわめて稀な疾患があり、それを見つける検査があるとする。ごくわずかな人がその検査によって救われるかもしれない。しかしその一方で、はるかに多くの人に偽陽性が出るとしたら、どうだろうか。

その人たちは、その日から何を失うのだろう。

 

眠りを失うかもしれない。食欲を失うかもしれない。未来に対する素朴な安心を失うかもしれない。

 

「異常があるかもしれない」という一言は、たとえ後に否定されたとしても、受け取った人の内側に痕跡を残す。その代償まで引き受けてなお勧めるだけの意味が、本当にあるのか。

私たちは、そこをこそ問わなければならない。

 

そしてもう一つ。人間の身体は本来、健康になる力、自らを整える力を持っている。それを信じるのか。それとも、すべてを現代医療という力で管理しようとするのか。

 

そこに、その人の健康思想が立ち現れる。

 

 

🇯🇵 The Collapse of “Health” — Seen in Six Hours of Parliament

 

The Health Committee runs long.

Five hours and forty minutes.

 

I was given forty minutes to speak—my first time.

I prepared more than I could say.

In the end, I delivered only two-thirds.

 

I stumbled. I ran out of time.

The “bomb” stayed in my pocket.

 

But that was not what stayed with me.

 

🗣️ “That’s not right.”

 

As I listened to other members,

one thought kept returning:

 

“That’s not right.”

  • Screen earlier

  • Test more

  • Intervene sooner

It sounds reasonable.

It sounds like protecting health.

 

But the structure is always the same:

 

Test → Abnormal → Intervention (usually drugs)

 

This is called “preventive medicine.”

Sometimes even “aggressive prevention.”

 

💉 But is it prevention?

 

No.

 

It is early detection.

Not prevention.

 

Once something is found,

we are already late.

 

True prevention means

the abnormal never begins.

 

And every test carries false positives.

A single number can alter a life.

 

This is not only medicine.

It is a question of how we live.

 

🐤 What is health?

 

Health is not the absence of abnormality.

 

It is the ability

to regulate oneself.

 

To live with small fluctuations.

To recover.

To rebalance.

 

Perhaps being “slightly imperfect”

is exactly right.

 

Sleep well. Recover. Adjust.

 

This inner order—

that is health.

 

And yet, modern policy barely touches it.

 

🏥 Why does this happen?

 

Because modern medicine deals only with:

  • What can be measured

  • What can be quantified

  • What produces short-term results

Everything else—

lifestyle, habits, will, aesthetics—

is pushed out.

 

What remains is

management by tests and drugs.

 

♨️ A country that forgot how to heal

 

Japan once knew something else.

 

Rest.

Balance.

Living with the seasons.

 

We did not wait to break.

We maintained.

 

Now?

 

Can’t sleep → pills

A number shifts → pills

 

We lost the art of adjusting.

Only intervention remains.

 

Ironically, even Western medicine

is returning to integration and prevention.

 

From parts → to whole.

 

Japan is left behind

in a past it never questioned.

 

🩺 Another axis of prevention

 

Prevention needs another axis:

 

Behavior.

 

People do not act because they are healthy.

 

They act because

they want to be well.

to be beautiful.

to feel aligned.

 

This is will.

This is aesthetics.

 

Sleep. Food. Body. Environment.

 

Sensitivity to these

is the strongest prevention we have.

 

🤖 The real meaning of Medical DX

 

Medical DX is not digitization.

 

It is the recovery of time.

 

Long-term data.

Integrated personal records.

A bridge between life and medicine.

 

Only then can prevention exist.

 

But today?

 

Records disappear in five years.

Data is fragmented.

Policy is short-term.

 

Without time,

there is no prevention.

No verification.

No science.

 

🗣️ Why I keep asking

 

Those forty minutes were not enough.

 

But I saw something clearly.

 

Japan has not even begun

to ask:

 

What is health?

 

That is why I will keep asking.

 

Not medicine that starts with tests or drugs—

but medicine that starts with

how we live.

 

 

🧮 相対リスクと絶対リスクで、数字のトリックに強くなる

ー「有効率95%」「発症リスク20分の1」の裏にあるものー

 

 

このポスター(2021年当時の実際のもの)、一見するととても力強い。しかし同時に、極めて巧妙に設計された「数字の見せ方」でもある。

 

「有効率95%」

「発症リスクは20分の1」

 

──まるで“ほとんどの人が守られる”かのように感じる。

しかし、ここには一つの前提がある。それは、この数字が「相対リスク」のみで語られているということだ。

 

👥 相対リスクとは何か

 

初期のファイザー試験(New England Journal of Medicine掲載)では、

 

・ワクチン群:8例(17,411人中)

・プラセボ群:162例(17,511人中)

 

この差から「有効率95.0%」とされた。

 

これはつまり、

 

👉 ワクチンを打った人の発症リスクは

👉 打っていない人の約5%(=約20分の1)

 

という意味である。

 

したがって、「発症リスクが20分の1」という表現自体は、

この試験結果の言い換えとしては概ね正しい。

 

👤 では、実際にどれくらい減ったのか?

 

ここで視点を変える。

“割合”ではなく、“人数”で見る。

 

発症率は、

 

・ワクチン群:約0.046%

・プラセボ群:約0.925%

 

その差は──

 

👉 約0.88ポイント

 

である。

 

🪐 絶対リスクという現実

 

これを日常の言葉に訳すと、

 

👉 100人接種して、防げたのは1人未満

👉 1000人接種して、約8〜9人の発症が減る

 

というスケールになる。

 

ここで初めて、数字は“現実のサイズ感”を持つ。

 

🎓 なぜ印象がここまで変わるのか

 

理由は単純だ。

 

👉 相対リスクは「差を大きく見せる」

👉 絶対リスクは「差の実体を示す」

 

同じデータでも、どちらで語るかによって、

印象は劇的に変わる。

 

🧴 このポスターの本質

 

問題は、「20分の1」が嘘かどうかではない。問題は、

 

👉 絶対リスクが一切示されていないこと

 

である。

 

つまりこれは、「説明」ではなく、

“行動を促すための表現設計”になっている。

しかもその設計は、受け手が誤解しやすい形で行われている。

これが問題である。

 

🧂 今ならではのポイント

 

この試験で評価されていたのは、

 

👉 一定期間内の「有症状COVID-19」

 

である。

 

長期的な効果や変異株への影響、

感染そのものの完全な予防を示したものではない。

 

そしてその後の現実では、

 

👉 「発症そのもの」よりも

👉 「重症化をどれだけ防ぐか」

 

へと議論の軸が移っていった。

 

🧘 真実に近い言い方

 

では、この時点でどう理解すべきだったのか。

 

こうなる。

 

「臨床試験では、接種後の一定期間において、有症状COVID-19の発症リスクが相対的に大きく低下しました。

ただしこれは相対リスクであり、絶対リスク差で見ると約0.88ポイントです。

すなわち、“100人中95人が守られる”という意味ではなく、試験条件下では1000人接種して約8〜9人の発症が減少した、という理解がより正確です。」

 

🌈 美学としての結論

 

 

数字には、美しさがある。

しかし同時に、見せ方によって意味を変えてしまう危うさもある。

 

相対で語るか。

絶対で語るか。

 

それは単なる計算の違いではなく、

世界の見え方そのものを変える選択である。

 

 

🍱 足し続ける医療、整える医療

ーポリファーマシーの先にある“出汁”という発想

 

料理で考えると、わかりやすい。

 

味が決まらないとき、

砂糖を足し、塩を足し、スパイスを足し……

気づけば、何を足したのかも分からない、

妙な味になってしまうことがある。

 

医療も同じである。

 

一つの数値に対して薬を足し、

副作用に対してまた別の薬を足し、

気づけば“調整の連続”になっていく。

 

——いわゆるポリファーマシーである。

 

しかし本来、大事なのは

最初の「出汁」ではないか。

 

身体の土台。

生活。

リズム。

 

そこから整え直した方が、

はるかに自然で、無理がない。

 

今の医療は、

味が崩れた後の“足し算”に偏りすぎている。

 

本来は、

「何を足すか」ではなく、

いったん立ち止まって、

作り直すという発想があってもいいはずだ。

 

身体とは本来、

整う方向へ向かう力を持っている。

 

それを信じるかどうか。

 

そこに、その医療の思想が現れる。

 

🇯🇵 6時間の国会で見えた、「健康」意識の崩壊

 

厚労委員会は、長い。予定は5時間40分。その中で私は、40分の持ち時間をいただいた。人生初の40分質問である。

もし早く終われば、母校・東京女子医大の最先端ロボティクス医療センターSCOTについても触れる準備をしていた。

 

しかし結果は、予定していた内容の3分の2。噛む、止まる、時間が足りない。正直、出来としては全く満足していない。

爆弾は、今回投下されないまま終わった。

 

——けれども。

 

終わってみて強く残ったのは、自分の出来ではなかった。

この国の医療の議論そのものに対する、強い違和感である。

 

🗣️ “それ、違う”と思い続けた40分

 

他の議員の質問を聞きながら、私は何度も、心の中でこう呟いていた。

 

「それ、違う」

 

・がん検診はもっと若いうちから

・子どものコレステロールも測るべきだ

・リスクがあれば、早く介入すべきだ

 

一見、正しそうに聞こえる。むしろ「国民の健康を守る提案」にすら見える。しかし、その構造を冷静に見れば、すべて同じ方向を向いている。

 

検査 → 異常値 → 介入(多くは薬)

 

この一本道である。そして、この流れが「予防医療」と呼ばれている。——あるいは、「攻めの予防医療」と。

 

💉 それは、本当に“予防”なのか

 

ここで、一度立ち止まりたい。それは本当に、予防なのだろうか。それは「早期発見」であって、「予防」ではない。

 

異常が見つかってから動く医療は、どれほど早くても、すでに“後追い”である。本来の予防とは、そもそも異常が起こらない状態をつくることのはずだ。

 

さらに言えば、検査には必ず“偽陽性”が存在する。

 

その一つの数字によって、人の人生の軌道が変わることもある。

この問題は、単なる医学ではない。

生き方の問題であり、哲学の問題である。

 

🐤 健康とは何か

 

では、健康とは何か。それは単に、「異常がない状態」ではない。むしろ、自らの状態を調整できる力である。

多少の揺らぎを含みながら、それでも折り合いをつけて生きていく力。(“少し不健康”くらいが、ちょうどいいのかもしれない。🤣)ぐっすりと眠れること、回復できること、整えられること。

こうした“内的な秩序”こそが、健康の本質である。しかし今の日本の医療政策は、この最も重要な部分を、ほとんど扱っていない。

 

🏥 なぜこうなるのか

 

理由は、ある意味で単純である。現代医療は、

 

・測れるもの

・数値化できるもの

・短期で結果が出るもの

 

しか扱えない構造になっている。その結果、生活、習慣、意志、美意識といった、本来健康の中核にある要素は、政策の外へと押し出される。そして残ったのが、検査と薬による“管理としての医療”である。

 

♨️ 「養生」と「湯治」を失った国

 

本来、日本は違ったはずだ。この国には、養生、湯治、季節とともに生きる知恵があった。身体を壊してから治すのではなく、壊れないように整える文化。それが、確かに存在していた。

しかし今はどうだろうか。少し眠れなければ睡眠薬。数値がずれれば薬。「整える」という発想は失われ、「介入する」ことだけが残った。

 

皮肉なことに、その源流である西洋医学ですら、いまや生活、予防、統合へと回帰している。

——部分から、全体へ。

にもかかわらず日本は、古い通過点に、取り残されている。

 

🩺 攻めの予防医療とは何か

 

私は、予防医療にはもう一つの軸が必要だと考えている。それは、行動変容である。人は、健康だから行動するのではない。

美しくありたい、整っていたいという欲求が、行動を変え、健康をつくる。

それは意志であり、ある種の美学である。睡眠、食、身体、環境、こうしたものに対する“感性”こそが、最も強い予防である。

 

🤖 医療DXの本質

 

そしてこの議論は、医療DXへとつながる。医療DXとは、単なるデジタル化ではない。人間の時間軸を取り戻すための基盤であり、個別化医療への唯一の道である。

長期で追えるデータ、個人単位で統合された記録、生活と医療がつながる構造。これがあって初めて、本当の意味での予防が成立する。

しかし現状は、カルテは5年で消え、データは分断され、政策は短期アウトカムで評価される。

これでは、予防も、検証も、科学も成立しない。

 

🗣️ それでも問い続ける理由

 

昨日の40分は、決して満足のいくものではなかった。しかし、その中で一つだけ確信したことがある。

日本はまだ、「健康とは何か」という問いの入口にすら立っていない。だからこそ私は、問い続ける。

 

検診でも、薬でもなく、人がどう生きるかから始まる医療を。

 

 

🪢The Culture of Tying a Shoelace

— On “Sensibility” in the Age of AI

 

I am currently in Seoul, visiting KIMES, a major medical technology exhibition.

During this trip, I experienced something that made me pause.

It reminded me of a simple truth:

 

Culture does not live in words.

It reveals itself through behavior.

 

🇰🇷Korea is often described as a society shaped by Confucian values.

I was aware of this intellectually.

 

But being here, I found myself repeatedly moved by the quiet refinement of everyday gestures —

the way people carry themselves, the way they show respect without drawing attention to it.

 

One moment, in particular, stayed with me.

 

I was walking with a CEO who is deeply involved in the medical industry.

We were in a hurry, moving quickly to our next appointment.

 

Suddenly, I noticed that my shoelace had come undone.

 

At almost the same moment, he noticed it too.

 

Without saying a word,

he immediately knelt down and tied it for me.

 

I was taken aback.

 

“It’s too much… I’m sorry,” I thought.

 

But there was no hesitation in his movement.

No self-consciousness.

It was natural, effortless — almost instinctive.

 

It lasted only a few seconds.

 

Yet in that brief moment,

I felt I had witnessed something profound.

 

🗣️Culture is not knowledge.

It is expressed through action.

 

And those actions emerge not from thought,

but from the body — faster than words, faster than intention.

 

There was no sense of “doing something for someone.”

Only a natural response within a relationship.

 

In that moment,

I felt I had glimpsed the essence of culture.

 

Looking back, I realize that my 20 years in France

and 3 years in Cambodia were filled with similar experiences.

 

Things that cannot be explained through language.

 

The atmosphere of a place.

The distance between people.

The strength of a gaze.

The meaning of silence.

The presence of a person’s inner world.

 

These are things that can only be understood

by physically being there.

 

Culture is not information.

It is something we acquire through the body, through the integration of our senses.

 

And yet today,

we live in a world where it is easy to believe we have “seen” everything.

 

We have videos.

We have social media.

We have papers and translations.

 

Through virtual space,

we can access endless information about the world.

 

But what is missing?

 

There is no temperature.

No scent.

No weight in the air.

No presence.

No silence.

 

In other words,

 

there is no “thickness” to the world.

 

🇯🇵Japan, I believe, knows the world very well as information.

But does it know the world through the body?

 

Without being physically present,

without first-hand experience,

we tend to rely on neatly organized information.

 

As a result,

we become cautious.

We hesitate.

We stop.

 

And we call this “careful.”

But is it truly caution?

Or is it,

 

a form of paralysis that comes from not seeing the world as it is?

 

🤖In the age of AI,

the value of human beings will no longer lie in information processing.

That domain is already shifting toward machines.

 

So what remains?

 

Sensibility.

Intuition.

Non-verbal understanding.

And what I would call — “sensual intelligence.”

 

By “sensual,” I do not mean mere pleasure.

 

I mean the ability to feel the world in its full depth —

to detect subtle discomfort before it becomes language,

to momentarily step into another person’s context.

 

The craftsmanship of human skill is indeed remarkable.

 

But much of it will be visualized,

digitized,

and eventually reproduced.

 

AI can imitate accumulated knowledge.

 

But

the ability to sense what has not yet taken form —

that remains on the human side.

 

That is why we must go to the field.

 

Stand on the ground.

Meet people.

Breathe the air.

Receive culture through the body.

 

Only through such experiences

do we begin to truly understand others.

 

If this process is repeated,

perhaps the world can become a little more peaceful.

 

Of course, friction will arise.

Differences will lead to conflict.

 

But that, too, is part of reality.

 

The world is, by nature, chaotic —

and it is precisely this fluctuation that gives rise to life.

 

👟In that fleeting moment,

when he quietly knelt down and tied my shoelace,

 

I felt I had witnessed

the true essence of culture.

 

🪢「ひも」を結びなおす文化

——AI時代に失われつつある「官能」について

 

今回、医療機器展示会KIMESの視察で韓国に滞在している。その中で、改めて感じたことがある。

文化とは、言葉ではなく、“振る舞い”の中に現れるものだということだ。

 

韓国が儒教的な価値観を大切にしている社会であることは、頭では理解していた。

そして実際に滞在してみると、その慎ましやかな所作や、相手を立てる振る舞いに、日常の中で幾度となく触れることになる。

きっと幼い頃からの教育や躾の積み重ねなのだろう、と感じる場面も少なくなかった。

 

今回、医療業界に精通しているある社長の方とご一緒していたときのことだ。次のアポイントメントが迫っており、少し急ぎ足で移動していた。

 

そのときだった。

「あ、危ない」

 

私自身もほぼ同時に、自分の片方の靴ひもが解けていることに気づいた。その瞬間、その方は何の迷いもなく、すっとその場にしゃがみ、秒速で私の靴ひもを結び直してくださった。

 

「えっ、それはさすがに.....」

 

そう思った。けれど、その動作はあまりにも自然で、あまりにも速く、ためらいがなかった。一瞬の出来事だった。

しかし私は、その一連の動きの中に、

深い文化を見た気がした。

 

文化とは、知識ではない。

それは行動の中に現れる。

 

そしてその行動は、思考よりも速く、言葉よりも先に、身体から立ち上がる。そこには説明もなく、意図の誇示もなく、ただ関係性の中で自然に発動する“即応”がある。

 

「してあげる」という意識すら介在しない。ただ、その場において最も自然な行為が選ばれる。

私はそこに、文化の本質を見た。

 

🥖振り返れば、フランスで過ごした20年、カンボジアでの3年も、同じ種類の体験の連続だったように思う。

 

言葉では説明できない何か。私はその非言語の領域を理解するために、多くの時間を費やしてきた。

 

その土地の空気、

人と人との距離、

視線の強さ、

沈黙の意味、

そして、その人の奥にある魂の気配。

 

それらはすべて、実際にそこに身を置き、身体で受け取ることでしか理解できない。

文化とは、情報ではない。

本来それは、五感を通して統合される“身体的な知”なのだ。

 

しかし今の時代、私たちは世界を“見たつもり”になりやすい。

動画があり、SNSがあり、論文があり、翻訳もある。ヴァーチャル空間の中で、世界はいくらでも”知る”ことができる。

だがそこには、温度も、匂いも、空気の重さもない。

人の気配も、沈黙の意味もない。

つまり、世界の「厚み」が存在しない。

 

🇯🇵日本は、情報としては世界をよく知っている国だと思う。

しかし、身体として世界を知っているだろうか。

 

現場に身を置かず、一次の体験を持たず、整えられた情報だけで判断する。その結果、慎重になる。動かなくなる。そして、その状態を“丁寧”と呼ぶ。

だが、それは本当に慎重=リスク回避、なのだろうか。

むしろそれは、世界を見ていないがゆえの停止(リスク)ではないか。

 

🤖これからのAI時代において、人間に残される価値は、情報処理能力ではない。

それはすでにAIの領域になりつつある。

では何か。

 

それは、感性であり、違和感であり、非言語の理解、そして官能である。

ここで言う官能とは、単なる感覚的な快楽ではない。

 

それは、世界を“厚み”として感じ取る力であり、言葉になる前の違和感を察知する力であり、他者の文脈に自分を一時的に重ねる力である。

 

🖐️匠の技は確かに素晴らしい。

しかしその多くは今後、可視化され、データ化され、再現されていく。AIは、過去の蓄積を模倣する。だが、まだ意味になっていないものを感じ取る力は、

人間の側に残る。

 

だからこそ、現場に行くことが必要なのだと思う。私は基本、現場第一主義なのだ。

 

その土地に立ち、人と会い、空気に触れ、文化を身体で受け取る。そうした経験を積み重ねることで、人はようやく他者を理解しようとする。

 

それが繰り返されれば、世界はきっともう少し穏やかになるはずだ。もちろん、摩擦も生まれる。価値観の違いは衝突も生む。

 

🪐だがそれも含めて、世界は本来カオスであり、その揺らぎこそが生命の本質なのだと思う。

 

あのとき、何のためらいもなく、すっとしゃがみ、靴ひもを結んでくださったその一瞬に、

私は、文化というものの本質を見た気がした。

 

 

⚱️統計のハニートラップ

—交絡・診断バイアス・不安定性、その構造を解く—

 

私は昭和の人間だ。医師ではあるが、数字に強いわけではなく、翻って、統計学にからきし弱かった。

けれど、統計が読めないと未来が読めない。AIにも「こいつは分かっていないな」と手を抜かれ、きっとバカにされる(これは結構まずい🤣)

 

そんなこんなで、門前小僧ではあるが、統計に触れ始めて数年が経つ。

自分の勉強のためにも整理したい。

 

🧠 ある論文の「強い数字」

 

最近、ある小児ワクチンに関するコホート研究を読んだ。(リンクはこちら→★

そこには、非常にインパクトのある数字が並んでいる。

 

たとえば

・慢性疾患:2.54倍

・喘息:4.29倍

・自己免疫疾患:5.96倍

・神経発達障害:5.53倍

 

これだけ並ぶと、思わずこう感じる。「え、こんなに違うの?」さらに図を見ると、10年後に慢性疾患に罹患していない割合が

 

・接種群:43%

・非接種群:83%

 

かなりショッキングな差に見える。 しかし、ここからが統計であるここで一度、深呼吸したい。

数字は強い。しかし、その前に「設計」がある。

 

🎭 ブラフ①

「もともと違う人たち」

 

まず考えるべきはこれ。

👉この2つの集団は、本当に同じ人たちなのか?

非接種群というのは、実はかなり特殊な集団である可能性がある。

 

・医療への考え方が違う

・生活スタイルが違う

・健康意識が違う

 

つまり、「ワクチンの差」ではなく「スタイルの違い」を見ている可能性がある

 

これを統計では、交絡(confounding)という。

 

🎭 ブラフ②

「見つかる人と、見つからない人」

 

この研究では、接種群の方が圧倒的に医療機関を受診している。

 

つまり、よく診てもらう人ほど、病気が見つかる当たり前のことだが、これが統計では大問題になる。これを、

👉診断バイアス(ascertainment bias)という。

 

🎭 ブラフ③

「数が少ないと暴れる」

 

例えば自己免疫疾患。非接種群では、ほとんど発生していない。こういう時、どうなるか。

ほんの数例の差で、リスクが“5倍”“10倍”に見える

これは、推定の不安定性である。

 

🎭 ブラフ④

「まとめると、それっぽくなる」

 

この研究では、さまざまな病気をまとめて「慢性疾患」として扱っている。しかし実際には、「差があるもの」と「差がないもの」が混在している。それをまとめた瞬間に、「全体として差がある」ように見える

これは、シンプソンのパラドックスのように結論が逆転する現象ではないが、異質なものを一つにまとめることで、見かけの効果が強調される典型例である。

 

🧠 では、この論文は間違いなのか?

 

そういう話ではない。むしろ重要なのはここだ。長期アウトカムを見ようとしていること。これは極めて重要な視点である。

本質はここにある。

 

👉問題は、ワクチンが危険かどうかだけではない

👉長期を測る設計があるかどうかである

 

🔬 統計とは何か

 

統計とは、数字を見る学問ではない。

👉数字の“裏にある構造”を読む学問である。

 

🍙 結び

 

数字は嘘をつかない。

しかし、数字は設計によっていくらでも姿を変える。だからこそ必要なのは、数字を信じる力ではなく、数字を疑う力である。

 

そしてもう一つ。長期を記録できる社会であることそれがなければ、どれほど立派な議論も、検証には至らない。

見えないのではない。設計されていないだけである。

 

 

💉効いたかどうかの先にある問い

──長期安全性と「記録する国家」という条件

 

新型コロナワクチンをめぐる議論は、ある意味で一段落したようにも見える。感染は収束し、重症化率は下がり、「ワクチンは一定の役割を果たした」という評価が、社会の共通認識になりつつある。

しかし、本当にここで議論を終えてよいのだろうか。

私は選挙前から、「mRNAワクチン問題を徹底検証し、決して風化させてはならない」と訴えてきた。その思いは、今むしろ強まっている。

 

医学の世界では、

「短期的に効いたかどうか」と

「長期的に安全かどうか」は、まったく別の問いである。

 

🟥 短期利益と長期リスクは、別軸である

 

たとえばある治療が、半年間の入院率を下げたとする。それは明確な利益である。しかし同時に、その治療が数年後に慢性疾患や自己免疫異常、あるいは腫瘍の発症に影響する可能性があるとしたらどうだろうか。そのとき評価は、大きく変わる。

医学とは本来、時間軸を含めた最適化の学問である。

 

🌏 世界は何を見てきたのか

 

ここで一度、世界のデータを冷静に見てみたい。

 

イスラエル北欧諸国イングランドフランス──これらの国々では、数百万人から数千万人規模のコホートが構築され、ワクチンの有効性と安全性が大規模に検証されてきた。

そのデータ基盤は極めて強力である。個人単位で接種歴、診断、入院、死亡を連結し、ほぼリアルタイムに近い形で解析することも可能だ。しかし興味深いのは、そこで主に検証されてきたアウトカムである。

 

・感染予防

・重症化予防

・入院・死亡

・心筋炎、血栓、神経イベント

 

いずれも重要であり、パンデミック初期には当然の優先順位だった。だが同時に、こうも言える。

 

👉長期の慢性疾患や腫瘍といったアウトカムは、主要な検証対象としてはほとんど設定されてこなかったのである。

 

👁️‍🗨️ なぜ長期は十分に見えてこないのか

 

理由は単純ではない。しかし最も本質的なのは、「何を主要アウトカムとして追うか」という設計思想である。

イスラエルや北欧、イングランド、フランスは、個人単位でデータを連結できる強力な電子基盤を持っている。したがって理論上は、長期アウトカムの検証も可能である。

 

にもかかわらず、これまで主に追われてきたのは、短中期で顕在化しやすい指標であった。

 

それは当時の公衆衛生上、理解できる優先順位でもある。

慢性疾患、自己免疫疾患、神経変性疾患、腫瘍といったアウトカムは、まだ十分に「主要な問い」として設定されてこなかった。

 

👉つまり、見えないのではない。最初から“見に行っていない”のである。

 

そして裏を返せば、

👉設定しさえすれば、検証は可能である。

 

🇰🇷 韓国が踏み込んだ領域

 

その中で、韓国は一歩踏み込んだ。全国規模のデータベースを用いて、

 

・自己免疫疾患

・神経疾患

・がん

 

といった、より長期的なアウトカムの解析に着手している。

結果は一様ではなし、観察期間もまだ一年と短い。増えないものもあれば、差が示唆されるものもある。結論が保留されている領域も多い。

 

しかし重要なのは、

👉長期を検証対象として設定したことである。

 

🇯🇵 日本という「検証の空白」

 

では、日本はどうか。

ここで問題になるのは制度そのものである。カルテ保存は原則5年。データは分断され、統合されない。つまり、このブログで何度でもいうように、

 

👉長期的に何が起きているのかを、個人単位で追跡する基盤が極めて弱いのである。

 

これは科学の問題ではない。

政策設計の問題である。

 

🟥 本当のリスクとは何か

 

mRNAワクチンにリスクがあるかどうか。それはもちろん重要な問いである。しかし、より根本的な問いがある。

 

👉リスクを測ることができる社会かどうか

 

これがなければ、議論は成立しない。

測れないリスクは、見えないリスクになる。

そして見えないリスクは、最大のリスクとなる。

 

🔬 科学の矜持

 

科学とは、結論を急がず、検証を止めず、記録を残す営みである。

イスラエルも、北欧も、フランスも、それぞれの形でデータを出し続けている。韓国は、がんという長期アウトカムに踏み込んだ。イタリアも、がん入院という指標を設定している。

 

問いを設定した瞬間に、世界は前に進む。

 

🍙 結び

 

「効いたかどうか」で終わる医療から、

「その後どうなったか」を問い続ける医療へ。

その転換点に、私たちは立っている。そしてその条件は、ただ一つ。

 

👉記録されていること。

👉それが長期にわたって保存されること。

👉そして、つながること。

 

それがなければ、どれほど立派な政策も検証することはできない。

 

EBMも、EBPMも、土台なしには成立しない。

そして、検証できないものは、科学とは呼べない。