🕊️ 認知症「4人に1人」という数字の裏側──“見つける医療”と予防の本質

 

最近、「65歳以上の4人に1人が認知症または予備軍」という記事を読んだ。確かに、数字としては事実*に基づいている。しかし、この表現には一つ、重要な前提が含まれている。

それは――認知症(約443万人)とMCI(約559万人)を合算しているという点である。

認知症は、日常生活に支障をきたす状態である。一方、MCIはその手前の段階、いわば“変化の途中”であり、必ずしも進行するとは限らない。実際には、元に戻る人、そのまま維持する人、進行する人が混在している。

 

では、日本は本当に認知症が多い国なのだろうか。

ここに、考慮しなくてはいけない一つの構造がある。

日本は、高齢化が進んでいるのはもちろん、医療アクセスが良く、何しろ検査やスクリーニングが普及している。つまり――「他国よりも見つけている国」でもある。特に後半のMCIについては、他国より広く拾い、ラベリングしている可能性**を考える必要がある。

 

本来、早期に気づくことには意味がある。だが、私はあえて言いたい。

 

「見つけたあと、どうするのか?」

 

“あなたは認知症予備軍かもしれない”そうラベリングされた瞬間、人は次に「何とかしなければ」と考える。そこで登場するのが、いわゆる政府推奨の“攻めの予防医療”である。

 

たとえば、近年注目されている新しい認知症治療薬***。確かに一定の効果は報告されている。しかし現時点では、進行をわずかに遅らせる程度にとどまるという評価が中心である。

しかもその多くは高額であり、広く適用されれば医療財政への影響は大きい。個人の安心と引き換えに、社会全体の負担が増える構造が見え始めている。

 

ここで率直に言ってしまえば――「少しだけ効くかもしれない高い薬」を前にして、人は“やらない選択”ができるだろうか。

 

……なかなか難しい。

 

これは、かなり強力なトラップである。

 

もし「予備軍」の段階から広く医療介入が行われるようになれば――個人の不安は軽減されるかもしれない。しかし同時に、医療は“制度としての重さ”(国民への経済的負担)を増していく。

 

人の名前が出てこない。
少し忘れやすくなった気がする。

それは本当に“病気”なのか。むしろ、人が年を重ねる中で自然に起きる変化なのではないだろうか。

 

そして、対策として行うべきことは何か。

・食生活を整える
・適度に身体を動かす
・よく眠る
・手を動かし、頭を使う
・人と関わり、社会とのつながりを保つ

これらは、診断の有無に関わらず、誰にとっても変わらない。

 

つまり――本来の認知症の予防とは、「診断によって変わるものではない」。

検査をし、リスクを可視化し、そして“何か対策をする”。一見すると合理的である。だが、ここで少し立ち止まろう。診断がついても、つかなくても、本質的な予防は変わらないのではないか。

そもそも、誰もが認知症予備軍なのではないか。

 

老いに伴う変化のすべてを医療の対象としたとき、
私たちは何を守り、何を失うのだろうか。

 

予防とは、本来、“過剰に管理すること”ではない。生活の中で、自然に整えていくものである。

 

科学は重要である。データもまた、欠かせない。しかし、 測れるものだけが真実という訳でもない。「4人に1人」という数字の向こうにあるのは、“どこまでを医療介入の対象とするのか”という選択なのかもしれぬ。

医療は人を守るものだが、解釈を広げすぎれば、人を縛るものにもなるのだ。

 

<脚注>

*厚生労働省研究班による最新推計では、2022年時点で65歳以上の認知症高齢者は約443万人、MCIは約559万人、合計約1002万人とされる。これは65歳以上人口の約27.8%にあたる。また同推計では、2040年には認知症約584万人、MCI約613万人、合計約1197万人に達すると見込まれている。
**WHOの2025年更新ファクトシートでは、2021年時点で世界の認知症患者は約5700万人、毎年約1000万人が新規発症するとされる。

**MCI(軽度認知障害)は国際的に用いられる概念であるが、診断基準や運用は国や医療文化により差があり、日本は比較的広くスクリーニング・ラベリングを行う傾向がある。

***新規抗アミロイド抗体薬(例:レカネマブ)は、臨床試験で認知機能低下の進行を統計的に有意に遅らせたが、効果は限定的であり、費用対効果や適用範囲について各国で議論が続いている。

英国の医療技術評価機関 NICE は、費用対効果の観点から、これら新規治療について慎重な評価を行っており、実臨床での位置づけは引き続き議論が続いている。

 

 

🕊️ 国政報告──この半年、そして四国を巡って

 

この半年間の活動について、四国での国政報告会を機に、あらためて皆様にご報告いたします。

徳島・愛媛・高知と巡り、各地でお話しする機会をいただきました。その中で見えてきたこと、感じたことを、ここにまとめます。

 

■ 所属委員会について

 

現在、私は4つの委員会に所属しております。

  • 行政監視委員会(理事)
  • 厚生労働委員会
  • デジタル・AI特別委員会
  • 情報監視審査会

なお、情報監視審査会については、内容すべてが機密事項であるため、詳細は申し上げられません。

 

■ 厚生労働委員会──医療の本丸にて

 

現在の最大の論点の一つは、医療政策全体の設計そのものにあります。
その中でも、コロナワクチンの検証と、予防医療のあり方は、象徴的な問題として浮かび上がっています。

今後、新規参入や定期接種化が進む流れの中で、その評価と監視は、より重要になってきます。

コロナワクチンですが、構造的に検証が困難な状態のまま、一時中止さえされずに進行している点には、論理的な整合性に大きな疑問が残ります。

特に国民の皆さんに知っていただきたい重要なことは、

  • 相対リスクと絶対リスクの違い
  • 各種データの扱い方
  • 整っていない長期的検証の仕組み

です。

 

カルテ保存が原則5年という状況で、母子ワクチンやHPVワクチンを推進することには、制度としての整合性に疑問が残ります。順番が逆であると言わざるを得ません。また、いわゆる「攻めの予防医療」についても、早期発見・早期治療の価値を否定するものではありませんが、それを“平均的に全員に適用する”ことは、時に過剰となり、むしろ人を苦しめる「責め」に転じる可能性があります。

 

医療の本質は何か。国民の健康を真に守ることとは?

 

この問いを、構造から見直す必要があります。さらに、終末期医療やACP(人生会議)についても、避けるべきテーマではなく、むしろ正面から議論すべき領域であると考えています。

 

■ デジタル・AI特別委員会──未来と制度の乖離

 

デジタル・AI分野では、現行制度との乖離が顕著です。昭和の制度と発想のまま、未来の社会を設計することはできません。

  • データのサイロ化
  • ベンダーロックイン
  • 省庁間の非連携

これらはすでに現実の問題となっています。「DX」「AI」という言葉だけが先行し、本質的な構造改革が伴っていない現状に、強い課題意識を持っています。

 

■ 行政監視委員会──責任とEBPM

 

行政においては、EBPM(エビデンスに基づく政策立案)が掲げられています。しかし現実には、

  • 短期間での人事ローテーション
  • 責任の所在の曖昧さ
  • 外部委託への依存

といった構造的課題があります。「エビデンスを回す」と言いながら、誰が責任を持つのかが不明確なままでは、本来の意味での政策評価は成り立ちません。

 

 

■ 自分自身の立ち位置

 

これまで私は、政治と無縁だった頃から

  • CBD(カンナビノイド)の有用性と世界の現状
  • 日本人の不眠具合と睡眠美容
  • 代替医療全般
  • セルフメディケーションのススメ
  • メディアリテラシー
  • 医療業界のデジタル化の顕著な遅れ

といった領域を発信してきました。

一見すると周縁に見えるこれらのテーマが、実は現在の医療・政策の課題と深く接続していることを、国政の現場で実感しています。

 

🔸 四国という土地

 

今回巡った四国は、思想の重層的な流れを感じさせる場所でした。

  • 坂本龍馬
  • 板垣退助
  • ジョン万次郎
  • 牧野富太郎
  • 正岡子規
  • 夏目漱石

外を知り、体制を変え、制度をつくり、そして自然や人間を見つめ直す。その通奏低音が、この土地にはあります。

 

自由とは、与えられるものではありません。叫ぶだけでも、手に入るものではありません。設計し、実装し、引き受けるものです。風光明媚な四国の地を巡り、あらためてそのことを実感しました。

今後も、現場に根ざしながら、国家の中枢神経系そのものに向き合ってまいります。

 

 

🕊️ インフルエンザワクチンという「設計」──相対値と免疫の記憶

 

私は、人生において、一度もインフルエンザワクチンを打ってこなかった。

もちろん、これは私個人の選択である。医師として、すべての人に一律の結論を押し付けるつもりはない。
高齢者や基礎疾患のある方では、また別の判断があり得る。だが、ずっと違和感があった。なぜ、これほどまでに当然のように、「毎年打つもの」とされているのか。その前提となる“設計”は、本当に検証されているのだろうか。

 

■ 第一層:数字の魔法──相対値という錯覚

 

まずは、2022年の日本の研究*から見てみたい。

Effectiveness of seasonal influenza vaccine in elementary and middle schools: a 10-year follow-up investigation

小学生では、10年間のうち7シーズンで、ワクチン接種群の罹患率は未接種群より低かった。
ここだけを見ると、「やはり効いている」と思うだろう。

しかし、この論文で示された有効率(VE)は、おおむね10〜20%台である。ここで重要なのは、この数字が相対値だということだ。

 

たとえば、未接種群の罹患率が20%で、接種群が16%だったとする。この場合、「20%減少」と表現できる。だが、絶対値で見れば、差は4%ポイントに過ぎない。つまり、100人中20人がかかるところを、16人に減らす、という話である。

 

この差を「20%有効」と言うか、「4%の差」と言うか。
どちらも正しい。だが、意味はまったく違う。

医学&統計の世界では、この“相対値だけで語る習慣”が、
しばしば現実の効果を過大に見せてしまう。

 

■ 第二層:違和感──なぜ中学生で逆転するのか

 

さらにこの研究で注目すべきは、中学生の結果である。中学生では、10シーズンすべてで、接種群の罹患率は未接種群より低くならなかった。むしろ多くの年で、接種群の方が高かった。

 

そして、もう一つの重要な指摘がある。

乳幼児期からワクチンを接種していた群では、罹患率が有意に高かった。これは単純な「効く・効かない」の話ではない。

ここにあるのは、「長期にわたる反復接種という設計は、本当に適切なのか」という疑問である。

 

もちろん、この研究は質問票ベースの観察研究であり、因果関係を断定するものではない。だが、10年という時間軸の中で現れたこのパターンは、無視してよいものではない。

 

■ 第三層:免疫の記憶──もう一つの視点

 

ここで、もう一つの論文**を見てみる。

Annual Vaccination against Influenza Virus Hampers Development of Virus-Specific CD8+ T Cell Immunity in Children

この研究は、少し異なる角度から問題を見ている。

テーマは「免疫の質」である。毎年ワクチンを接種することで、抗体は確かに作られる。しかしその一方で、自然感染によって育つはずのCD8+ T細胞による交差免疫(異なる型にも反応する力)の発達が抑えられる可能性がある、というのだ。

これは、臨床的な発症率を直接測った研究ではない。免疫学的な“仕組み”の話である。

しかし、ここで興味深い接点が生まれる。

 

■ 統合:現象と機序が“つながる”とき

 

一つ目の研究は、「現象」を示している。
二つ目の研究は、「機序(メカニズム)」を示している。

  • 長期接種群で罹患率が高いという疫学的シグナル
  • 交差免疫が育ちにくい可能性という免疫学的仮説

この二つは、直接証明し合う関係ではない。しかし、整合的な一つの仮説として読むことはできる。つまり、毎年の接種が短期的な抗体防御を与える一方で、長期的な免疫の“幅”を狭めている可能性という視点である。これは結論ではない。だが、明らかに「再検証すべき問い」である。

なお、二つ目の論文は、健康児同士を比較した臨床アウトカム研究ではない。したがって、これだけで「毎年接種が有害」と断定することはできない。しかし、免疫の“幅”という観点から、長期反復接種を再検証する重要な手がかりにはなる。

 

■ ワクチン論争の外へ

 

毎度のまとめになってしまうが、この話は、「ワクチンが良いか悪いか」という単純な対立ではない。本質は、もっと深いところにある。

 

インフルエンザワクチンという“毎年の反復接種”は、本当に長期的に最適な設計なのか。

そしてもう一つ大事なこと。

その効果は、相対値ではなく、絶対値で説明されているのか。

 

医療に必要なのは、信仰ではない。そして、単純な拒絶でもない。必要なのは、構造を見る力である。数字の奥にある意味を読み、時間の中で現れるパターンを捉え、それを静かに問い続けること。

その先にしか、本当の予防医療は存在しないのだと思う。

 

<脚注>
 *Kajiume T, Mukai S, Toyota N, et al. Effectiveness of seasonal influenza vaccine in elementary and middle schools: a 10-year follow-up investigation. BMC Infectious Diseases. 2022;22:909.
本研究は、2010–2011年から2019–2020年までの10シーズンにわたり、日本の小中学校を対象に、質問票でインフルエンザワクチン接種歴と罹患状況を調査した観察研究である。小学生では多くの年で接種群の罹患率が低かった一方、中学生では10シーズンすべてで接種群の罹患率が未接種群より低くならず、8シーズンで有意に高かった。また、乳幼児期から接種していた小学生・中学生では罹患率が有意に高かった。著者らは「乳幼児期のインフルエンザワクチン接種が、後年のインフルエンザ罹患リスクを高める可能性」を示唆しつつ、この研究のみで乳幼児への接種中止を推奨することはできないとしている。なお、本研究は質問票ベースであり、現在のワクチン有効性評価の標準的手法であるtest-negative case-control designではない。

 

**Bodewes R, Fraaij PLA, Geelhoed-Mieras MM, et al. Annual Vaccination against Influenza Virus Hampers Development of Virus-Specific CD8+ T Cell Immunity in Children. Journal of Virology. 2011;85(22):11995–12000.
本研究は、毎年不活化インフルエンザワクチンを接種している嚢胞性線維症の小児と、未接種の健康児を比較し、インフルエンザAウイルス特異的な細胞性免疫・液性免疫を評価した免疫学的研究である。抗体反応およびCD4+T細胞反応には大きな差がなかった一方、未接種の健康児では年齢とともにインフルエンザ特異的CD8+T細胞反応が増加したのに対し、毎年接種している嚢胞性線維症児ではその増加が見られなかった。著者らは、毎年の不活化インフルエンザワクチン接種が季節性インフルエンザには有効である一方、ウイルス特異的CD8+T細胞免疫の発達を妨げる可能性があると述べている。ただし、健康児同士の比較ではなく、臨床的な発症率を直接評価した研究でもないため、解釈には慎重さが必要である。

 

 

🕊️ <コロナ&ワクチン検証⑨(④補論の反証)>
反証の先にあるもの──検証可能性という条件

 

1.はじめに──論争は終わっていない

 

前稿⑧において、私は「超過死亡」をめぐる論争を、仮説提示と方法論批判という二層構造として整理した。

掛谷英紀らは仮説を提示し、忽那・鈴木らはその方法論的限界を指摘した。

ここまでは、科学として健全な応酬である。

しかし、その応酬の先に、なお残る命題がある。

 

2.掛谷論文(2026)の位置づけ

 

2026年4月、JMA Journal において、掛谷英紀 らは論文を公表した。本論文の特徴は明確である。

これは特定の因果関係を結論づけるものではなく、検証に必要なデータ条件そのものを問題提起する論考である。

掛谷氏はこれまでも、ワクチン効果をめぐるモデル推計に対し、前提条件や再現可能性の観点から問題提起を行ってきた。本論文も、その延長線上にある。

 

3.論文の核心──前提条件の不備

 

論文の主張は比較的シンプルである。

現在の日本においては、因果関係の厳密な検証に必要な条件が十分に整っていない可能性がある。

その理由として、以下が挙げられている。

  • 個人単位データ(個票)の公開・連結の制約
  • 年齢別・接種回数別など詳細層別データの限界
  • 第三者による再解析(再現性)の担保の難しさ

重要なのは、本論文が結論を提示していない点である。結論が出せない構造そのものを指摘している

 

4.反証との関係──方法論批判の正当性

 

一方で、忽那賢志・鈴木基 らの指摘は、疫学的に妥当である。

主な論点は以下である。

  • 生態学的研究における限界(ecological fallacy)
  • 交絡因子の制御不足
  • 指標や比較の定義の不整合

これらは、既存研究の解釈に対する重要な注意点であり、
科学的議論として正当なものである。

 

5.次元の転換──「決着できるのか」という問い

 

掛谷論文が提起するのは、これらの批判を否定するものではない。むしろ、その批判を最終的に検証・決着させるためのデータは存在するのかという論点である。

この時点で、議論は一段階上のレベルへ移行する。

 

6.論争の再定義──三層から四層へ

 

前稿⑧では、本論争を「事実・解釈・証明」の三層構造として整理した。しかし本論文を踏まえると、さらに前段階が必要となる。

 

第0層:データ基盤

  • 何が記録されているのか
  • それらは連結可能か
  • 第三者が再現できる形で利用可能か

証明の前に、そもそも「証明可能な状態」が存在するかという問題。

 

7.科学とは何か──再現性という条件

 

科学における重要な原則の一つは再現性である。

すなわち、同一のデータと方法を用いて、他者が同様の結果を再現できるかどうか。

現状については、

  • データの分断
  • 個票アクセスの制約
  • 再解析環境の限定性

といった課題が指摘されている。

したがって、現時点での結論には一定の制約条件が伴うと理解する必要がある。

 

8.実務的帰結──データ基盤の問題

 

この問題は、個別論文の是非を超える。論じられているのは、国家レベルのデータ構造である。

  • 接種歴
  • 感染歴
  • 基礎疾患
  • 医療利用
  • 死亡情報

これらを個人単位で連結し、長期追跡できる基盤がなければ、

  • 仮説は提示される
  • 批判はなされる
  • しかし最終的な検証には至らない

という状況が続く可能性がある。

 

9.結論──反証の先にあるもの

 

本論争の本質は、単なる賛否ではない。「正しさをどこまで検証できる条件が整っているか」という前提である。

「相関に過ぎない」という指摘は重要である。しかしそれは終点ではなく、出発点である。

相関の先に進むためには、その検証を可能にする基盤が必要である。

 

科学とは、結論を急ぐための装置ではない。
不確実性を前提とし、検証を継続していくための営みである。

そしてその条件整備は、個人ではなく制度の責任である。

 

<脚注(参考資料)>

  1. JMA Journal
     掛谷英紀ほか「COVID-19ワクチンと超過死亡に関するデータ透明性の必要性」(2026年4月掲載)
  2. 生態学的研究に関する一般的限界
     → 個人レベル因果推論には制約があり、交絡の影響を受けやすい(疫学標準概念)
  3. 忽那賢志、鈴木基 による批判
     → 主として方法論的観点からの検証(交絡・定義・比較方法など)
  4. 再現性(Reproducibility)
     → 科学研究の基本原則であり、第三者による再解析可能性を意味する

 

🕊️ 見える信頼、守られる尊厳──医療現場で考えてきたこと

 

医療とは、本来「信頼」で成り立つものである。
患者は、自らの身体という最も個人的で、最も無防備な領域を、医療者に委ねる。ときに衣服を脱ぎ、痛みをさらし、言葉にしづらい違和感を差し出す。

それは契約ではない。信頼という、目に見えない基盤の上に成り立つ関係である。

 

だが――
私は、臨床の中で、あることに気づいてきた。

 

近年、医療機関における「性的トラブル」に関する調査が公表された。その中で示されたのは、決して無視できない現実である。

また、個別の事件として報じられるケースも散見される。
患者が被害を受ける事例もあれば、医療者側が誤解や申告によって、時に深刻な影響を受けるケースもある。

 

だが私は、この問題を「逸脱した個人の問題」としては捉えていない。むしろ、構造の問題であると考えている。

 

要するに――

 

・患者と医療者が1対1であること
・密室であること
・患者側が身体的・心理的に弱い立場にあること

 

この三つが重なるとき、誤解も、逸脱も、起こり得る。これは医療に限らない。人間という存在の性質に根ざした、ごく普遍的な構造である。

 

さらに医療には、もう一つ特有の要素がある。
麻酔や処置などにより、通常とは異なる意識状態が生じることである。

 

例えば、麻酔前後のレム睡眠様の状態においては、実際には存在しない音や映像が、きわめてリアルに知覚されることがある。

 

すなわち――
「何が起きたか」だけでなく、
「どう知覚されたか」もまた、現実として残るのである。

 

私が勤務していたクリニックでは、いくつかの原則があった。

 

まず、可能な限り「1対1」を避けることである。
基本、診察や処置においては、スタッフの同席を前提とした。
これは患者を守るためであると同時に、医療者自身を守るためでもある。

 

次に、「閉ざされた空間」を作らないことである。完全な密室ではなく、人の気配が感じられる環境。視線は遮りつつも、完全に遮断しない設計。

場合によっては、プライバシーに十分配慮した上で、ドアを開けた状態を保つこともあった。

 

これは単なる安全対策ではない。空間そのものが持つ“緊張の質”を変えるのである。

 

さらに、言葉の扱いにも細心の注意を払ってきた。医療においては、何気ない一言が、患者の記憶の中で全く異なる意味を持つことがある。

 

だからこそ、説明は丁寧に、意図は明確に、曖昧さを残さない。
言葉は情報であると同時に、体験そのものを形作るからである。

 

そんな現実から、今後、選択肢の一つとして、
「音声による記録」という方法があってもよいのではないかと考えている。(医療DXの進展により、音声入力が一般化すれば、自然に組み込まれていく可能性もある。)

 

すべての診療に必要とは思わない。
だが、特定の場面において、双方の同意のもとで記録を残すことは、

 

・誤解の防止
・トラブル時の検証
・医療者と患者、双方の安心

 

につながる可能性がある。これは監視ではない。むしろ、「見える形で信頼を支える」試みである。

 

かつて医療は、「聖域」と呼ばれていた。医師は善であるという前提、患者はそれを疑わないという前提である。

だが時代は変わった。情報は開かれ、価値観は多様化し、「信頼」は自動的に与えられるものではなくなった。

 

だからこそ、これからの医療に必要なのは、見えない信頼に依存することではなく、信頼を支える構造を設計することである。

 

医療とは、技術であると同時に、人間の営みである。
それは、疑うためではない。
より深く、信頼するためにある。

 

人は、完全ではない。
だからこそ私は、
その弱さも含めて支える医療でありたいと願っている。

 

 

🕊️ 「日出づる国」とは何か──辺境マウントと文明の視点

 

ロシアのプーチン大統領が、「自国こそが日出づる国である」と発言したという。日本のさらに東にはニュージーランドがあり、さらにその東にはロシア極東がある――
だからロシアこそ“最も東の国”だ、という理屈である。

 

なるほど。
だが、この議論には一つ、決定的な視点の欠落がある。
それは――「日出づる国」という言葉の起源である。

 

この言葉の背景には、古代東アジアの世界観がある。
当時の東アジアでは、大陸王朝を中心に世界を捉える秩序感覚があり、周辺の国々はその方角や距離によって位置づけられていた。その視野の中で、日本は東方、すなわち太陽が昇る方向にある国として意識された。しかし重要なのは、日本が単に「東の果て」と見られたことではない。

 

むしろ日本は、その視線を受け止めながらも、
自らを「日出づる処」と表現した。

そこには、他者の世界観に従属するだけではない、
静かで、しかし確かな自己認識があった。

 

そう考えると、今回の発言はどこか微笑ましくも見えてくる。

「もっと東にあるから我々こそが日出づる国だ」

それは言い換えれば、

「我々の方が、より辺境である」😤

という、少し奇妙な誇りの表明でもある。

 

さらに話をややこしくする存在がある。
それが、キリバスである。

 

この南太平洋の島国は、1995年、日付変更線を東にずらした。
その結果、ライン諸島の一部は、世界で最も早く新しい日を迎える場所となった。

つまり現代においては、「最も早く朝を迎える国」はキリバスとも言えてしまう。

 

では、「日出づる国」とは何なのか。

 

地理的な最東端か。
時間的に最も早く朝を迎える場所か。
それとも、文明の中での位置づけか。

 

答えは、おそらくこうである。

「日出づる国」とは、座標ではなく視点である。

 

どこから世界を見るのか。
その中心をどこに置くのか。

その問いの中で初めて、「東」は意味を持つ。

 

地球は丸い。
東へ進み続ければ、やがて西に至る。その中で「最も東」を争うことは、どこかで必ず循環に飲み込まれる。

だからこそ、この議論の本質は、地理ではなく、世界観の問題なのである。

 

つまり「日出づる国」とは、
大陸から与えられた呼び名というより、
古代日本が東アジアの秩序の中で、
自らの立ち位置を言語化した言葉である。

 

ならば日本は、どうあるべきか。

「最も東」である必要はない。
「最も早く朝を迎える」必要もない。

ただ――
どこにあっても、光を失わぬこと。

 

その姿そのものが、
「日出づる国」と呼ばれてきた理由なのかもしれない。

 

 

🕊️ 米上院で何が起きているのか──「安全性シグナル」と、置き去りにされた人々

 

2026年4月、アメリカの議会で、極めて重要な論点が提示された。ロン・ジョンソンが主導する上院常設調査小委員会において、COVID-19ワクチンの安全性監視に関する内部資料と証言が公開されたのである。それは、単なる暴露話ではない。
議会という、最も公的な場で提示された問いである。

だが同時に――それはまだ「確定した結論」ではない。

しかし、あえて言いたい。

 

問題は、“結論が出たかどうか”ではない。 各所で、声が上がり始めているという事実である。

 

■ 問題の核心:「安全性シグナル」は存在したのか

 

議論の出発点はシンプルだ。
接種後の有害事象に、異常な偏りはあったのか。

提出資料では、複数の解析により、以下のようなシグナルが示唆されている。

  • 心筋炎・心膜炎
  • 血栓性イベント
  • 神経系異常(ベル麻痺など)
  • 突然死・心臓関連死

ここで強調しておきたい。

いくつかはまだ、「因果関係が確定した副作用」ではない。

だが同時に――「何も問題がなかった」と言い切れる状態でもない。

 

■ シグナルとは何か──

 

科学の世界では、シグナルとは結論ではなく、むしろ入口である。そして、もう一つ忘れてはならない視点がある。シグナルは、“声なきデータの叫び”でもある。そこには、

  • 説明できない症状に苦しむ人
  • 医師に「関係ない」と言われた人
  • データにも物語にもならなかった人

が含まれている可能性がある。科学は冷静であるべきだが、冷淡であってはならない。

 

■ 今回の本当の論点──「扱い方」

 

今回上院が問題にしているのは、シグナルの存在そのものではない。それをどう扱ったのかである。

  • 検出されていたのか
  • 共有されていたのか
  • その後どう判断されたのか

このプロセスが問われている。そしてここに、科学と政治の境界線が現れる。

 

当局の立場は理解できる。FDAは、「シグナルは因果関係ではない」と繰り返している。だが―― “結論が出るまで待つ”という判断も、また一つの選択である。

なぜならその間に、

  • 接種は続き
  • 新たな症例は積み重なり
  • 個々の苦しみは“統計の外側”に置かれていく

からである。

実際、心筋炎の問題*は象徴的である。当初は限定的な扱いだったものが、時間とともにリスクとして認識され、最終的には警告表示が更新された。

ここにあるのは、シグナルが、“後から現実になる”という事実である。

 

🇯🇵 日本はどうか──もっと静かに、もっと深く見えなくなる

 

日本では、議論はさらに見えにくい形で進んでいる。

  • 副反応疑い報告はある
  • 救済制度もある

だが同時に、「γ=評価不能」という箱に、大量の症例が収められていく。そして、

  • カルテ保存5年
  • データの分断
  • 長期追跡の欠如

これらによって、検証そのものが不可能になる構造が、すでに出来上がっている。これは「隠蔽」よりも、ある意味で深刻である。最初から、“分からないように作られている”からだ。

 

この問題は、ワクチン是非の問題ではなく、もっと根源的で、そして重い。

「疑問が生まれたとき、その声は拾われるのか」

「検証される前に、忘れられていないか」

 

アメリカでは今、議会という場で問いが立てられた。それはまだ道半ばである。だが、問いが立ったという事実は、希望でもある。私は、医師として、そして一人の人間として、“説明できない苦しみを抱えた人”の側に立ちたい。

 

科学は重要だ。
だが、科学は人のためにある。

 

検証できない国家に、医療を語る資格はあるだろうか。
データにさえ現れない痛みを、無かったことにしない社会。

それこそが、これから必要な医の倫理である。

 

<脚注>

*FDAは2025年6月25日、ファイザー社のComirnatyおよびモデルナ社のSpikevaxについて、心筋炎・心膜炎リスクに関する警告表示の更新を求めた。

そこでは、mRNAワクチン接種後の心筋炎・心膜炎リスクは、12〜24歳の男性で最も高いと明記されている。さらに、2023〜2024年型mRNAワクチン接種後1〜7日の心筋炎・心膜炎の推定発生率は、6か月〜64歳全体で100万回あたり約8例、12〜24歳男性では100万回あたり約27例とされた。

つまり、当初は限定的に扱われていたリスクが、時間とともにより具体的な形で公式文書に反映されたのである。

 

🕊️ 知性ある野生──センシュアルから予防医療へ

 

10年以上前、パリのマダムの恋愛について書いた本、いわゆる「パリマダ」を執筆したとき、私は一つの言葉に強く惹かれていた。

 

センシュアル。

 

セクシーとも違う。日本語では「官能」と訳されることが多いが、その意味は、はるかに広く、深い。

それは単なる肉体的魅力ではない。感覚の解像度であり、世界との触れ合い方そのものに関わる言葉である。

私は当時、それをこう解釈した。

 

「知性ある野生」

 

洗練されながらも、失われていない本能。
理性に覆われながらも、なお息づく身体の感覚。

パリのマダムたちは、それを自然に体現していた。

 

あまりにこの言葉に惹かれた私は、続けて「生涯男性現役ーセンシュアルエイジング」に関する本も書いた。
しかし、こちらは「パリマダ」ほど話題にはならなかった。
時代が少し早すぎたのかもしれない。あるいは、私の説明が少しマニアックすぎたのかもしれない。🤣


いま思えば、私はずっと、

身体と感覚、老いと欲望、

そして人間の“野生”について考えてるのが何より好きだったのだと思う。

 

そして今回、ふと二つの言葉が降りてきた。

「野生」と「予防医療」

一見すると、この二つは対極にあるように見える。だが本当にそうだろうか。そう問いかけた瞬間、ある違和感とともに、一つの構図が立ち上がってきた。

 

現代の医療は、「測る」方向へと進んでいる。その延長線上にあるのが、ウェアラブルデバイスである。一見するとそれは、人間を常時観察し、数値で把握するための装置にも見える。

実際、使い方を誤れば、人は数字に支配され、身体の声よりもデータに従う存在になりかねない。

だが――本質はそこではない。

ウェアラブルとは本来、失われつつある身体感覚を取り戻すための“補助線”であるべきだ。ここで問題になるのは、「使うか使わないか」ではない。

“誰が主導権を持つのか”である。

 

いま政府が進めようとしている「攻めの予防医療」は、早期発見・早期介入という点では合理的である。だがその設計思想の奥には、人間を常に測定し、常にリスクとして扱う視点がある。

それは極端に言えば、人間を“標準化された管理対象”へと近づける発想でもある。

健康であることそのものよりも、「測定できること」「管理しやすいこと」が優先されるとき、身体は静かに、外部の論理へと委ねられていく。

 

一方で、同じ「測る」という行為でも、主導権が自分にある場合、その意味はまったく変わる。

自分の眠りを知る。
自分のリズムを知る。
自分の違和感に気づく。

それは、管理ではない。再び身体とつながる行為である。つまり――同じウェアラブルでも、それは監視の道具にもなれば、“知性ある野生”を取り戻す装置にもなる。

 

ただし、ここで一つ付け加えておきたい。

本来、人間はそれらをテクノロジーなしでもやってきた。

季節に合わせて食を変え、体調に応じて休み、違和感を頼りに生きてきた。いわゆる江戸時代の養生の知恵などは、まさにその集積である。

だからこそ、すでに自分の身体と深くつながっている人は、そのまま進めばいい。無理に測る必要は、まったくない。

 

ちなみに私はというと、
最新テクノロジーは基本、何でも試してみるタイプである。

複数のウェアラブルをつけて観測することもあるが、それはあくまで「試行」であって、正解だとは思っていない。

真似をする必要も、まったくない。

 

クロード・レヴィ=ストロース の言う「野生の思考」は、世界を関係性として捉える知性であった。そしてその視点は、量子力学的でもある。

観察とは支配ではなく、関係であり、
測定とは分断ではなく、接続である。

人間の身体もまた、同じである。

 

だからこそ、これからの医療に必要なのは、「測るか、感じるか」という対立ではない。

測ることで、感じる力を取り戻すこと。そして、他者に委ねる身体から、
自ら調律する身体へと戻っていくこと。

ウェアラブルは、監視装置にもなり得る。
だが同時に、それは人間が失いかけた“野生の勘”を呼び覚ます装置でもある。その分岐点は、ただ一つ。

 

主導権が、どこにあるか。

問題は、テクノロジーではない。

それを使うのが、
国家なのか、医師なのか、
それとも――自分自身なのか。

 

 

🟣 古今東西縦横無尽の哲学カフェ 第二十一回:クロード・レヴィ=ストロース

── 野生の思考──「未開とは、未完成ではない」

 

🪶「野生の思考(La pensée sauvage)は、
文明に劣るものではない。」

 

 

【レヴィ=ストロースって誰?】

 

レヴィ=ストロース(1908年–2009年)は、

フランスの人類学者。

 

🔸 南米の先住民社会を研究し、
🔸 神話・親族・言語の構造を分析し、
🔸 「構造主義」という思考を確立した。

だが──
彼の本質は、単なる学者ではない。

人間の“思考そのものの構造”を見抜いた人である。

 

📖【野生の思考とは何か】

 

レヴィ=ストロースは言う。

「未開」と呼ばれる人々は、未熟なのではない。

彼らは、別の方法で、世界を理解している

のである。

それが──

野生の思考(パンセ・ソバージュ)

それは、

  • 科学のように分解する思考ではなく
  • 世界を丸ごと関係性として捉える思考

つなぐ思考である。

 

 

💥【“合理性”の幻想】

 

現代社会は、自らを「合理的」と信じている。

だが、レヴィ=ストロースは問いかける。


「本当にそうか?」

私たちは、

  • 数字
  • データ
  • 科学

で世界を理解しているつもりで、
実は“自分たちの前提”の中でしか考えていない

のではないか。

 

 

🌞【レヴィ=ストロースが教えてくれる視点】

 

✔︎ 思考には“優劣”ではなく“様式”がある
✔︎ 合理性は一つではない
✔︎ 人間は、思っているほど自由には考えていない

 

 

🌸【私がレヴィ=ストロースに惹かれる理由】

 

医療も、政治も、AIも。

現代は「データの時代」である。

だが同時に、

“データでしか考えられない時代”

にもなっている。

ここに、私は違和感を覚える。

 

例えば、

  • 医療では、数値で人を判断する
  • 政策では、統計で人を捉える

だが人間は、本来それだけではない。

感情、関係性、文脈、文化

それらが絡み合って、はじめて“人”になる。

 

レヴィ=ストロースは言う。

「思考とは、世界との関係そのものだ」

 

📣【結びに──野生という知性】

 

レヴィ=ストロースが遺したものは、

理論ではない。
分類でもない。

人間の思考には、もう一つの可能性があるという視点

である。

私たちは、進歩したのかもしれない。
だが同時に、

何かを切り捨ててきたのではないか。

 

“野生”とは、未熟ではない。それは、失われつつあるもう一つの知性である。

 

測る医療は必要である。だが、感じる身体を失ってはならない。

 

 

🕊️ ワクチンではないものまで“予防接種”にするのか

──RSウイルス対策、制度拡張の違和感

 

厚生労働省が、また一つ静かな一歩を踏み出した。それは小さな制度変更に見えて、実は非常に大きな意味を持つ。抗体製剤を、予防接種法に組み込む。つまり、ワクチンではないものを、「ワクチンと同じ枠組み」で扱おうという話である。

 

■ 何が起きているのか

現在、日本ではすでに、妊婦へのRSウイルスワクチン(アブリスボ)が定期接種として始まったばかりである。これは母体に接種し、その抗体を胎児へ移行させるという設計だ。ところが今回、さらに新生児・乳児へ抗体を直接投与する抗体製剤(ベイフォータス)これを予防接種として扱えるように法改正するという。

整理するとこうなる。

  • 妊婦に打つ(母体→胎児)
  • 赤ちゃんに直接打つ(抗体そのもの)

二つのルートが、同時に制度化されようとしている。

 

■ 相対評価と絶対評価の“ズレ”

ここで、いつもの話になる。数字は語る。だが、すべては語らない。たとえば抗体製剤ベイフォータス。

  • 相対リスク減少:約75%
    → 非常に強く見える

しかし絶対で見ると、

  • 発症率:5.0% → 1.2%
  • 差:3.8ポイント

つまり、約25人に投与して、1人分の発症を防ぐというスケール感である。一方、妊婦ワクチン(アブリスボ)は、

  • 絶対差:0.7〜1.3ポイント
  • NNT:77〜143程度

となる。ここから何が言えるか。相対で見れば、どちらも“よく効いている”。
絶対で見れば、意味は全く違って見える。

そして政策は、この“見え方”の上に作られる。

 

■ 問題は「どちらが正しいか」ではない

ここで議論を間違えてはいけない。

これは

  • ワクチンが良いか悪いか
  • 抗体薬が優れているかどうか

そういう話ではない。問題は、もっと構造的である。なぜ、同時に二つの制度を走らせるのか。

 

■ 補完か、置き換えか、それとも…

厚労省の理屈は、おそらくこうだろう。

  • 妊婦接種にはタイミングの制約がある
  • 早産や未接種妊婦のケースをカバーできない
  • だから乳児への直接投与も必要

医学的には理解できる。だが政策としては、問いが残る。

  • これは補完なのか?
  • 将来は置き換えるのか?
  • 両方打つのか?(二重投与の回避は?)
  • 誰に、どの条件で使い分けるのか?

この線引きが、現時点では語られていない。

海外でもベイフォータス(一般名:ニルセビマブ)は“RSV immunization”として導入されつつある。しかし多くの国では、ワクチンと抗体薬を概念上は区別しつつ、対象者を整理している。

 

■ さらに重要な問題──検証できるのか

そして、ここが最も重要である。対象は、妊婦と新生児。すなわち、最も長期的な影響を見なければならない領域。

にもかかわらず、

  • カルテ保存は5年
  • データ連結は不十分
  • 長期追跡の制度設計は未整備

この状態で、制度だけが先に拡張されていく。

 

■ 結論

今回の本質は、薬の良し悪しではない。制度の順番が逆になっていることだ。本来はこうであるべきだ。

  1. 長期データを取れる仕組みを整える
  2. 検証可能な設計をつくる
  3. その上で制度を拡張する

だが現実は、制度 → あとから検証になっている。科学とは、本来暫定的なものである。だからこそ、検証できる形で残すことが、最低限の倫理である。

 

🕊️
ワクチンか、抗体薬か。その議論の前に、「それを、後から検証できる国なのか」この問いに、まだ答えはない。