🕊️ <コロナ&ワクチン検証⓾>
科学は「異論」を失ったのか──Nature誌に現れた静かな警鐘

 

近年、「科学を信じろ」という言葉を、私たちはあまりにも頻繁に耳にするようになった。

 

もちろん、科学は重要である。人類は科学によって感染症と闘い、寿命を延ばし、苦痛を減らし、数えきれない恩恵を受けてきた。ワクチンもまた、その歴史の中に位置づけられる大きな成果の一つであることは間違いない。しかし、私は最近、ある違和感を覚えている。

 

科学とは、本来、「信じる」ものだっただろうか。

 

むしろ科学とは、疑い続けること。検証し続けること。そして、自らが間違っている可能性を、最後まで手放さないことではなかったか。

 

歴史を見れば、それは明らかである。医学の常識は、時代とともに何度も書き換えられてきた。かつて当然とされた治療が、後に有害とされた例は少なくない。昭和の健康常識が、今では非常識になっていることもある。栄養学に至っては、卵は悪者になったり名誉回復したり、脂質は敵になったり味方になったり、まるで時代ごとに裁判を受けているようである。おそらく、そこにはゲノム、腸内細菌、生活環境、社会背景など、複雑な個人差が関わっているのだろう。

 

だからこそ、私は盲信を避けたい。医学に身を置いてきた者として、むしろ「常に疑う」姿勢こそが、科学への敬意だと思っている。

 

そんな中、非常に興味深い論考が、Nature Reviews Immunologyに掲載された。タイトルは、

 

“Freedom of scientific inquiry: reclaiming space for controversy”
──「科学的探究の自由──論争のための空間を取り戻す」

 

著者は、免疫学者のAkiko Iwasaki氏である。
ここで重要なのは、著者が決して“反ワクチン”の立場ではないという点だ。むしろ彼女は、ワクチンが人類にもたらしてきた恩恵を明確に認め、COVID-19ワクチンについても、多くの命を救ったという前提から論を始めている。その彼女が、あえてこう問いかけているのである。

 

私たちは、「異論を議論する空間」を失いつつあるのではないか、と。

 

パンデミック以降、世界は急速に分断した。感染対策も、ワクチンも、マスクも、社会活動の制限も、本来は冷静に効果と限界を検証すべき政策課題であったはずだ。しかし現実には、議論はしばしば二項対立に落ちていった。賛成か、反対か。科学か、陰謀論か。専門家か、素人か。味方か、敵か。

SNSはこの構造をさらに加速させた。短い言葉が拡散し、怒りが可視化され、疑問を呈するだけで陣営を決められてしまう。複雑な現象を複雑なまま考える余白が、急速に失われていった。

 

そして科学の世界ですら、“anti-vax”“stay in your lane”“専門家に任せろ”という言葉が、議論を閉ざす合言葉のように使われる場面があった。

 

もちろん、誤情報は問題である。人の命に関わる医療情報において、不正確な情報が拡散することには注意が必要である。だが、誤情報への対処と、正当な疑問の封殺とは、まったく別のものである。

 

本来、科学とは、仮説を立て、観察し、検証し、反証されれば修正する営みである。ところが、いつしか「現在のコンセンサス」が、“絶対に触れてはいけない教義”のように扱われ始めた。

 

これは、極めて危険な変化である。

 

なぜなら、科学は「一度決まった正しさ」によって進歩してきたのではないからだ。科学は、むしろ「修正される力」によって進歩してきた。

 

天動説から地動説へ。
瘴気説から細菌説へ。
胃潰瘍はストレスだけではなく、ピロリ菌が関与するという発見へ。そして、医学の多くの分野で、かつての常識は何度も書き換えられてきた。

 

科学の偉大さとは、間違わないことではない。
間違いを認め、修正し、前に進めることにある。

 

今回の論考で特に注目すべきは、著者が「PVS(post-vaccination syndrome)」、すなわちワクチン接種後症候群について言及している点である。

 

著者は、これを断定的には語っていない。原因は未解明であり、定義もまだ定まっていない。症状も多様であり、一つの明確な疾患概念として整理されているわけではない。むしろ、異質性の高い症候群として慎重に扱っている。

 

しかし同時に、著者は重要なことを述べている。それは、この問題を議論すること自体が、社会的にも学術的にも困難になっているという点である。

 

一部の人々は、COVID-19ワクチン接種後に、長期にわたる多臓器症状、倦怠感、神経症状、Long COVID様の症状を訴えている。中には、長期間、在宅生活や寝たきりに近い状態を余儀なくされる人もいるとされる。

 

もちろん、それらすべてについて、ワクチンとの因果関係が確定しているわけではない。ここは、厳密に言わなければならない。

しかし、因果関係が確定していないことと、検討対象から外してよいこととは、まったく違う。

 

むしろ、分からないからこそ、検討しなければならない。
分からないからこそ、記録しなければならない。
分からないからこそ、長期に追跡しなければならない。

 

ここに、科学の本来の姿がある。

 

実際、COVID-19ワクチン後の心筋炎、心膜炎、アナフィラキシー、血栓症、ギラン・バレー症候群などは、すでに医学的に認識された副反応として整理されている。つまり、「ワクチンに副反応があり得る」と言うこと自体は、もはや陰謀論でも反科学でもない。

医療である以上、利益とリスクの両方が存在する。
それは薬でも、手術でも、再生医療でも、癌免疫療法でも同じである。

むしろ医療の信頼は、リスクを隠すことによってではなく、リスクを正面から説明することによって成り立つ。

 

癌免疫療法を考えれば分かりやすい。免疫チェックポイント阻害薬は、がん治療に大きな革新をもたらした。しかし同時に、免疫関連有害事象という重篤な副作用も知られている。肺炎、大腸炎、内分泌障害、肝障害、神経障害。これらは決して軽い問題ではない。

 

だが、だからといって、癌免疫療法そのものを否定するわけではない。効果があるからこそ、副作用も正確に把握する必要があり、それで患者を守れる。患者を守れるからこそ、その医療は信頼される。

 

もし癌免疫療法の副作用について語っただけで、「反がん治療派だ」とラベルを貼られるなら、その分野の医学は健全に発展しないだろう。

 

ワクチンについても、本来は同じはずである。

 

ところが、COVID-19ワクチンをめぐっては、副反応や長期症状について語ること自体が、時に政治的・社会的な意味を帯びてしまった。研究者や医師の中には、このテーマに触れることを避けた人もいたのではないか。

 

なぜか。

研究費から外されるかもしれない。
キャリアに傷がつくかもしれない。
同僚から距離を置かれるかもしれない。
SNSで攻撃されるかもしれない。
“反ワク”という一言で、自分のこれまでの仕事まで否定されるかもしれない。

 

そうした恐怖が、静かに研究者を沈黙させてきた可能性がある。

私はここに、非常に大きな問題を見る。

 

科学が恐怖によって沈黙し始めたとき、そこで検証が止まる。検証が止まれば、誤りは修正されない。誤りが修正されなければ、信頼は失われる。

 

そして皮肉なことに、異論を封じて「科学への信頼」を守ろうとする態度こそが、結果として科学への信頼を損なうことになる。

 

人々は、完璧な答えを求めているわけではない。少なくとも私はそう思う。

 

人々が本当に求めているのは、誠実さである。
分かっていることは分かっていると言う。
分からないことは分からないと言う。
過去の判断に誤りがあれば、それを認める。
そして、次に同じ過ちを繰り返さないための仕組みをつくる。

 

これこそが、科学と政治の接点である。

 

科学とは、“完全に分かった後”に始まるものではない。
むしろ、“まだ分からない”という地点から始まる。

 

その意味で、今回のNature Reviews Immunologyの論考は、単にワクチンについての論考ではない。科学が、自らの自由を取り戻せるかどうか。医学が、政治的な圧力や社会的な同調から距離を取り、再び「問い」を発する力を持てるかどうか。
そのことを問う、静かな警鐘である。

 

本当に科学を尊重するなら、疑問を封じてはいけない。
本当に医療を信頼するなら、副作用を語れる場を失ってはいけない。
本当に国民を守るなら、「なかったこと」にするのではなく、記録し、検証し、学習する国家でなければならない。

 

医学とは、命を扱う営みである。だからこそ、そこに必要なのは、権威への服従ではなく、誠実な検証である。

そして政治とは、社会がその検証を可能にするための器を整える仕事である。

 

「間違っていたかもしれない」と言えること。
「まだ分からない」と言えること。
「だから調べよう」と言えること。

 

その小さな自由を失ったとき、科学は静かに硬直する。
そして硬直した科学は、人を守る力を失っていく。

 

本当に危険なのは、間違うことそのものではない。

 

「間違っているかもしれない」と言えなくなること。
「問い」を発した人を、ラベルで黙らせること。
そして、検証されるべきものが、検証されないまま時間の底に沈んでいくこと。

 

科学に必要なのは、信仰ではなく、常に疑い続ける勇気である。

 

【参考・出典】

 

※1
Akiko Iwasaki, “Freedom of scientific inquiry: reclaiming space for controversy,” Nature Reviews Immunology, Published online: 1 May 2026.
https://doi.org/10.1038/s41577-026-01306-1
本文で触れた「論争的テーマについても理性的議論の空間を維持すべき」という主題、およびPVS(post-vaccination syndrome)への言及は本論考に基づく。 

 

※2
Yale News, “Immune markers of post-vaccination syndrome indicate future research directions,” 19 February 2025.
https://news.yale.edu/2025/02/19/immune-markers-post-vaccination-syndrome-indicate-future-research-directions
PVSについて、少数の人がCOVID-19ワクチン後に慢性的症状を訴えていること、今後の研究課題として免疫学的解析が進められていることを紹介している。 

 

※3
U.S. FDA, “FDA Approves Required Updated Warning in Labeling of mRNA COVID-19 Vaccines Regarding Myocarditis and Pericarditis,” 25 June 2025.
https://www.fda.gov/vaccines-blood-biologics/safety-availability-biologics/fda-approves-required-updated-warning-labeling-mrna-covid-19-vaccines-regarding-myocarditis-and
mRNA COVID-19ワクチン後の心筋炎・心膜炎リスクについて、特に12〜24歳男性で観察リスクが高いことを踏まえ、添付文書等の警告表示更新を公表している。 

 

※4
U.S. CDC, “Coronavirus Disease 2019 (COVID-19) Vaccine Safety,” updated 31 January 2025.
https://www.cdc.gov/vaccine-safety/vaccines/covid-19.html
COVID-19ワクチン安全性に関するCDCの整理。心筋炎・心膜炎など、ワクチン後に報告される有害事象について説明している。 

 

※5
European Medicines Agency, “Safety of COVID-19 vaccines.”
https://www.ema.europa.eu/en/human-regulatory-overview/public-health-threats/coronavirus-disease-covid-19/covid-19-medicines/safety-covid-19-vaccines
EMAは、COVID-19ワクチンの安全性について、既知の副反応の多くは軽度・短期的であり、重篤な副反応は非常にまれとしつつ、合理的可能性がある副反応は製品情報に反映すると説明している。 

 

※6
Kristýna Faksová et al., “COVID-19 vaccines and adverse events of special interest: A multinational Global Vaccine Data Network cohort study of 99 million vaccinated individuals,” Vaccine, 2024.
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0264410X24001270
99百万人規模の多国間解析。心筋炎、心膜炎、ギラン・バレー症候群、脳静脈洞血栓症など、事前設定された安全性シグナルを確認し、追加検証が必要なシグナルも提示している。 

 

 

🕊️ “早く見つける”は、本当に正義なのか

ー偽陽性社会と医療の構造

 

最近、ある医療関係者と話していて、改めて強く感じたことがある。それは、「偽陽性問題は、想像以上に大きなモンスターである」ということだ。

医療において、「早期発見」は長く正義とされてきた。病気は早く見つけた方がいい。検査は多い方が安心。異常は早めに拾った方がいい。もちろん、それ自体は間違いではない。

 

実際に、早期発見によって救われる命はある。がん検診によって治療可能な段階で病気が見つかり、命をつないだ人もいる。乳がん、大腸がん、子宮頸がんなど、科学的根拠に基づいて推奨されている検診があることも事実である。もちろん私は、検診そのものを否定したいのではない。ただ...

 

“より早く見つけること”は、常に人を幸せにするのか。
“異常を拾うこと”は、常に医療の勝利なのか。

ここに、現代医療が避けて通れない大きな問答がある。

 

🔸「異常」と「病気」は同じではない

 

まず確認しておきたい。

“異常が見つかること”と、“健康ではないこと”は、必ずしも同じではない。

検査には、必ず誤差がある。本当は病気ではないのに、「異常かもしれない」と判定されることがある。これが偽陽性である。

すると何が起きるか。

再検査。精密検査。生検。CT。MRI。通院。経過観察。

そして何より、「自分は病気かもしれない」という不安が始まる。

 

医療者側から見れば、たった一項目の軽い異常かもしれない。
「よくあることです」「念のためです」「大きな心配はいりません」そう説明することも多い。

だが、受け取る側にとっては違う。

検査結果の一行が、その人の人生の空気を変える。

朝起きた瞬間から、頭の片隅に不安がいる。旅行の予定も、仕事の予定も、家族との会話も、どこか色が変わる。医学的には一つの所見でも、人生に与える影響は小さくない。

 

🔸偽陽性は「医療費」だけの問題ではない

 

偽陽性の問題は、精神的負担だけではない。それは巨大な医療資源の消費にもつながる。

米国では、マンモグラフィーにおける偽陽性と乳がんの過剰診断に関連する医療費だけで、年間約40億ドルに上るとの推計がある。これは2015年にHealth Affairsに掲載された研究である。 

もちろん、この数字だけをもって「乳がん検診は無意味だ」と言うのは乱暴である。

実際、米国予防医学専門委員会、USPSTFは2024年に、40歳から74歳の女性に対し、2年ごとの乳がん検診を推奨している。一方で同じ勧告の中で、偽陽性、追加検査、侵襲的手技、過剰診断、過剰治療といった害も明記している。 

つまり、重要なのは単純な二分法ではない。

検査は善か悪か。早期発見は正義か欺瞞か。そういう話ではない。本質は、利益と不利益をきちんと比較しているか、ということである。

 

🔸過剰診断という静かな問題

 

ここで近年、世界的に議論されているのが「過剰診断」である。

過剰診断とは、放置していても生涯症状を起こさず、命にも関わらなかったかもしれない病変を、検査によって「病気」として見つけてしまうことである。

米国国立がん研究所、NCIも、過剰診断を、マンモグラフィーやPSA検査などのスクリーニングによって、症状を起こさないまま終わった可能性のあるがんを発見することとして説明している。そこには不安や不要な治療という害も伴う。 

見つかった瞬間、人は患者になる。ラベリングされる。

手術。薬。通院。経過観察。保険。家族への説明。人生設計の変更......だが、その介入が本当に寿命を延ばしたのか。生活の質を高めたのか。本人の幸福に資したのか。

それは、実は簡単には答えられない。

 

🔸“検査万能主義”とラテンの人々

 

アメリカは、この問題を見直している。一般住民に対する一律の健康診断について、Cochrane Reviewは、診断数は増える一方で、総死亡率、がん死亡率、心血管死亡率の低下は示されなかったと報告している。これは非常に重い指摘である。

「検査すればするほど健康になる」
「異常を拾えば拾うほど寿命が延びる」

そう単純には言えないということだ。

 

もちろん、症状がある人、リスクが高い人、家族歴がある人、既往歴がある人に必要な検査を行うことは重要である。また、日本でも厚生労働省や国立がん研究センターは、科学的根拠に基づき、利益が不利益を上回るがん検診を推奨している。だが、それと、健康な人に対して際限なく検査項目を増やすことは別問題である。

 

そして興味深いのは、長寿国は必ずしも「検査大国」ではない、という点である。

 

例えば、フランス、スペイン、イタリア。これらの国々は、日本ほど「一律健診文化」が強くない。もちろん必要な検査や、推奨されるがん検診は存在する。かかりつけ医制度は確かに日本より浸透しているかもしれない。

いずれにせよ、日本のように、毎年大量の項目を測定し、“異常の芽”を広く拾い続ける文化とは少し異なる。

 

むしろ彼らは、
よく食べる。
人と長く話す。
よく歩く。
家族と過ごす。
太陽を浴びる。
人生を味わう。

 

そうした「生活そのもの」を健康の土台としている側面が強い。

それでも、平均寿命や健康寿命は世界でも上位であり、日本との差は“劇的”というほどではない。

これは極めて示唆的である。

つまり、人間の健康とは、“どれだけ多く測定したか”だけでは決まらない可能性がある、ということである。

 

日本型の医療文化は、「異常を早く見つけ、管理する」方向へ進化してきた。一方、ラテン文化圏には、「多少の揺らぎを抱えながら、生を楽しむ」という思想がどこかに残っている。

もちろん、どちらが完全に正しいという話ではない。

日本の医療は、多くの命を救ってきた。清潔さ。几帳面さ。早期発見。制度設計。それらは世界に誇るべき強みでもある。

 

だが一方で、“測定され続ける人生”が、人間を本当に幸福にするのかという問いも、これから避けて通れなくなる。しかもそれは、個人の不安や時間の問題にとどまらない。限られた医療資源や医療費を、どこに振り向けるべきなのかという、社会全体の問題でもある。
健康とは、異常値を減らすことなのか。それとも、多少不完全でも、笑い、食べ、愛し、人とつながりながら生きることなのか。
医療が高度化する時代だからこそ、私たちは「何のために健康でいたいのか」を、もう一度問い直す必要があるのだと思う。

 

🔸「安心」は、時に依存を生む

 

人は、不安になると、「何か対策を立てたくなる」ものだ。

検査を受ける。数値を測る。異常を探す。そして、“予備軍”という言葉が増えていく。

境界型。軽度異常。リスク群。前段階。すると今度は、
「では、どう介入しますか?」
という市場が始まる。薬。サプリ。アプリ。継続モニタリング。追加検査。予防プログラム。

気がつけば、人は「健康になる」ためではなく、
“異常を管理し続ける”方向へ誘導されていく。

ここに、現代医療の静かな構造がある。

不安が検査を生み、検査が異常を生み、異常が介入を生み、介入が市場を生む。そして一旦できた市場は、さらに不安を必要とする。

 

🔸本来の予防とは何か

 

もちろん、予防そのものを否定するつもりはない。本当に必要な検査はある。救命につながるスクリーニングもある。高リスクの人に対する早期介入が、人生を守ることもある。

だが、本来の予防とは、過剰に測定し続けることではないはずである。

よく眠る。身体を動かす。食事を整える。人と関わる。自然に触れる。ストレスを減らす。孤独を避ける......

結局、人間の身体は、こうした極めて古典的な営みの上に成り立っている。どれほどAIが進歩しても、どれほどウェアラブルが精密になっても、人間が生き物であるという事実は変わらない。

 

🔸偽陽性社会が奪うもの

 

偽陽性問題が深刻なのは、それが単に「余計な検査が増える」という話にとどまらないからである。

人の時間を奪う。心の平穏を奪う。家族の会話を変える。医療費を増やす。医療者の労力を消耗させる。本当に医療が必要な人へのインフラを圧迫する。

そして、不安とストレスは、それ自体が身体に影響を与える。

健康になるために検査を受けたはずなのに、検査によって不安が増え、生活の質が下がり、医療への依存が深まる。それでは本末転倒ではないか。医療は、人を安心させるためにある。だが、設計を誤れば、医療は人を“不安の管理”へと閉じ込めてしまう。

 

🔸AI時代だからこそ、問い直すべきこと

 

ここから先の医療は、おそらく「病気を治す医療」だけではなく、「リスクを予測し、管理する医療」へ向かっていく。

AI。ウェアラブル。連続モニタリング。ゲノム解析。行動データ。予測医療。技術はさらに進歩するだろう。

私は、その可能性を否定しない。むしろ、正しく使えば、医療はもっと個別化され、不要な検査や不要な介入を減らせるはずだと思っている。だが、その時代だからこそ、私たちは一度立ち止まる必要がある。

“早く見つける”ことは、本当に常に正義なのか。
見つけたあと、人は本当に幸せになるのか。
その検査は、誰のために行われているのか。
その不安は、医学的に必要な不安なのか。市場が作った不安なのか。

健康は確かに宝である。だが、健康を守るために、どこまで時間とお金と心を差し出すのか。

そもそも人生の目的は、検査値を整えることなのか。
それとも、限られた時間を、自分らしく生きることなのか。

 

🔸一律検査から、賢い個別化へ

 

これから必要なのは、
一律に測る医療から、意味のある人に、意味のある検査を届ける医療へ移行すること
である。

リスクの高い人には、しっかり検査を届ける。
症状のある人には、迅速に医療につなげる。
科学的根拠のある検診は、適切な年齢と間隔で受けられるようにする。
一方で、利益が不確かな検査を不安に乗じて広げることには、慎重であるべきだ。昔ながらの養生を大切にする道もある。自分の身体の声を聞き、異常を感じたら行動するという、野生の知性もある。
あるいは最先端の個別化医療によって、ゲノムデータや生活データから、自分に本当に必要な検査だけを選ぶ未来もある。

 

いずれにしても、皆が同じように、同じ頻度で、同じ検査を受け続けることの意味を再考する時期に来ているのではないだろうか。

医療は、人を守るものである。だからこそ、医療が人を不安に閉じ込めるものになってはいけない。

 

早く見つけること。
測ること。
管理すること。
介入すること。

 

そのすべてが、本当にその人の人生を豊かにするのか。
ラテンの国々が思い出させてくれるように、人は、健康になるためだけに生きているのではない。生きるために、健康でありたいのである。

 

その境界線を、私たちは見失ってはいけないのだと思う。

 

<脚注>

  1. Ong MS, Mandl KD. National Expenditure for False-Positive Mammograms and Breast Cancer Overdiagnoses Estimated at $4 Billion a Year. Health Affairs. 2015;34(4):576-583.
    マンモグラフィーにおける偽陽性および乳がん過剰診断に関連する米国年間医療費を約40億ドルと推計。
  2. Krogsbøll LT, Jørgensen KJ, Gøtzsche PC. General health checks in adults for reducing morbidity and mortality from disease. Cochrane Database of Systematic Reviews. 2019; Issue 1: CD009009.
    一般成人への健康診断は、新たな診断数を増やす一方で、総死亡率・がん死亡率・心血管死亡率を低下させる効果はほとんど、または全く認められなかったとするレビュー。
  3. U.S. Preventive Services Task Force. Breast Cancer: Screening. Final Recommendation Statement. 2024.
    40〜74歳女性に2年ごとの乳がん検診を推奨。一方で、偽陽性、追加検査、侵襲的手技、過剰診断・過剰治療などの害も明記している。
  4. National Cancer Institute. Definition of Overdiagnosis.
    過剰診断とは、症状を起こさなかった可能性のある病変をスクリーニングで発見することと説明。
  5. 厚生労働省・国立がん研究センター「がん検診」関連資料。
    日本では、利益が不利益を上回る科学的根拠のあるがん検診として、胃がん、大腸がん、肺がん、乳がん、子宮頸がん検診が推奨されている。

 

🕊️ 読み書きデジコン♪──AI時代の「新しい識字率」

 

最近、私は半ば冗談のように、こう言っている。

「これからは、読み書きデジコンだ」と。

 

“デジコン”とは、デジタルコンピテンシーの略である。EUではすでに、DigComp(Digital Competence Framework)という形で、国家レベルの教育指標として整備が進められている。

だが、日本ではまだ、「パソコンが使える」「アプリが使える」程度の理解に留まっていることが多い。しかし、本質はそこではない。AI時代に必要なのは、単なる操作能力ではないのである。

 

近代国家は、「識字率」によって成立した。

文字が読める。契約書が読める。新聞が読める。法律が読める。

それによって、人々は初めて“市民”になった。

逆に言えば、読み書きのできない人々は、知らぬ間に支配され、誘導され、搾取される側に回った。だからこそ、近代国家は義務教育を整備した。

読み書きそろばん──それは教養以前。国家の基盤だったのである。

 

では、AI時代の「識字率」とは何か。私は、それがデジタルコンピテンシーだと思っている。

 

情報を読み解く力。

データを疑う力。

AIを使う力。

AIを盲信しない力。

アルゴリズムに操られない力。

フェイクを見抜く力。

そして、自ら問いを立てる力。

つまり、「考えるための基礎体力」である。

 

いま、日本ではAI活用が進み、ウェアラブル端末が進み始めている。だが、国民側に“読み解く力”がなければ、どうなるか。

便利になるのではない。

よくわからないまま管理される身体、管理される生活になる。

これは非常に大きな問題である。

 

そして面白いことに、AIはこの問題をさらに加速させる。

AIは、使える人には“知性の外骨格”になる。だが、使えない人には、ただのノイズになる。けれどもさらにカオスなのは、“使っているつもりで、実は使われている”状態である。🤣

 

検索結果。おすすめ。広告。SNS。短尺動画。アルゴリズム。

人間の欲望と注意力は、静かに最適化され始めている。

しかも、多くの人は、それに気づいていない。

 

だから私は、本気で思っている。

これから必要なのは、

「読み書きそろばん」

ではなく、

「読み書きデジコン」

なのだと。

 

もちろんそれは子どもだけではない。

むしろ大人である。

社会人である。

政治家である。

医師である。

官僚である。

そして、私たち国民一人一人である。

 

AI時代。国家の差とは、中枢のAIの性能差だけではない。
国民一人一人が、情報を読み、データを疑い、AIを使いこなせるか。その「理解力の総量」こそが、国家の未来を分ける。
私は、そう感じている。

 

 

🕊️ 国家が学習できない国──AI時代、日本はどこへ向かうのか

 

最近、私は半ば冗談のように、こう訴えている。

「もう、ハンコや印鑑証明とか、化石だよ」

すると皆笑う。
だが、私はかなり本気である。

 

今、世界はAIによって急速に変わり始めている。しかも、それは単なる便利ツールの話ではない。国家の構造そのものが変わる時代である。

 

医療。行政。教育。国防。金融。物流。

 

すべてが、「データをどう蓄積し、どう学習し、どう意思決定につなげるか」という競争に入りつつある。

つまり、AI時代の本質とは、“学習速度”なのである。

 

アメリカがAI分野で先行している理由。
中国が猛烈な勢いで追い上げている理由。

もちろん、人口や資本の差も大きい。だが本質は、「失敗を高速で学習できる構造」を持っていることだ。

 

失敗する。データ化する。共有する。修正する。

これを猛烈な速度で回している。まさに、ディープラーニング的な社会構造である。

 

一方、日本はどうか。

 

データは、省庁ごと。自治体ごと。病院ごと。企業ごと。分断されている。いわゆる“データサイロ化”である。

デジタル庁創設以降、改善への取り組みは進んでいる。しかし現場レベルでは、依然としてシステム断絶や非互換性が数多く残っている。

 

私は医師として、この異常さを長年感じてきた。電子カルテは十分に標準化されていない。病院間連携も限定的である。自治体ごとにシステム仕様も異なる。

 

しかも、医師法第24条では、カルテ保存義務は原則5年とされている。この規定の起源は戦後まもない時代に遡る。

 

もちろん、現代では実際にはより長期間保存される例も多い。
しかし制度設計そのものは、AIやゲノム解析、大規模データ連結を前提とした時代のものではない。

これでは、国家として経験を蓄積しにくい。

つまり、「検証」が難しくなるのである。

 

例えば、ある薬の副作用。ある予防政策。ある健康施策。

本来なら、長期データを統合し、解析し、改善しなければならない。だが、データが繋がっていない。

すると、十分な検証が困難になる。

 

そして日本社会は、時に、“検証より空気”で進んでしまう危うさを抱える。

 

これは、単なるDXの遅れではない。国家が、“学習できない”という問題なのである。しかも、AI時代において、これは致命的になりうる。

例えば、高度AIを用いたサイバー攻撃。クロードミュトスだけではない。すでに世界では、AIを活用した攻撃・防御技術の高度化競争が始まっている。

 

仮に、次世代AI群が、リアルタイムで攻撃と学習を繰り返してきたらどうなるか。相手は、秒単位で進化する。

 

こちらは、会議。稟議。押印。FAX。🤣

 

遅すぎる!

冗談のようだが、構造としては、まだ本当にそういう部分が残っている。

 

だから私は、AI推進派である。

それは単なる流行ではない。安全保障でもある。医療安全でもある。国家運営そのものの問題だからだ。

 

しかし同時に、“単なるAI礼賛”でもない。AIだけで社会を回せば、一種、「痛みは減ったが、喜びも薄い社会」になる危険がある。

人間性の喪失。感情の平板化。過度な最適化。それもまた危険である。

 

重要なのは、AIを人間の代替として使うのではなく、“人間の神経系の補助”として使うことだ。異常を検知する。繋げる。記憶する。学習する。国家全体の神経網としてAIを活用する。

その上で、最後の判断は、人間が持つ。

 

私は時々、昭和という時代を思い返す。

 

不便だった。
非効率だった。
貧しさもあった。
理不尽も多かった。

 

だが、人間同士には熱があり、夢があった。

 

今、日本は、その“人間らしさ”を失うことを恐れるあまり、逆に、学習そのものを止めてしまっている部分があるようにも見える。セキュリティや管理国家への不安もあるのだろう。

 

だが、AI時代に学習を止めた国家は、静かに沈む。AIを世界一使う国を本気で目指すなら、まずは足元を固めよ。

統一電子カルテも、データ連結も、行政DXも、本来は単なる効率化ではない。国家が、未来に向けて経験を蓄積できるか。そのための基盤なのである。

 

その設計を間違えれば、人間性を失うかもしれない。逆に、うまく使えば、人間をより深く理解する時代へ進める可能性もある。

いずれにせよ使わない手は、ない。

 

今、日本は、その分岐点に立っている。

 

 

🕊️ 逸脱を許す国、秩序の国
──なぜ日本には、イーロンマスクは生まれないのか

 

アメリカという国を見ていると、ときどき不思議な感覚に襲われる。なぜ、ああいう人間が現れるのか。

イーロン・マスク。
宇宙をやり、電気自動車をやり、AIに踏み込み、既存産業を次々と揺らしていく男。単なる天才ではない。単なる起業家でもない。むしろ、巨大な合理性をまとった“逸脱者”である。

 

だが興味深いのは、その逸脱が、社会から排除されるどころか、国家の構造の中で、結果的に機能しているという事実だ。

ここに、アメリカという国の本質がある。

 

■ 天才は「個人」ではなく、「構造」で生まれる

 

よく、「アメリカには天才が多い」と言われる。だが、それは半分しか正しくない。正確には、天才が、生き残れる。そういう構造が存在している、ということだ。

 

アメリカでは、失敗しても再挑戦できる。異端が、完全には排除されない。官と民が行き来し、大学と軍と企業と資本が、一本の線のようにつながっている。

つまり、点ではなく、流れが存在している。

 

その流れの中で、ときに常識外れな人物に、資本と機会が与えられる。イーロン・マスクは、突然変異ではない。あの国の構造が、ああいう人間を育て上げるのである。

 

■ 日本は、「秩序」を守る国である

 

では、日本はどうか。日本にも、優秀な人材はいる。教育水準は高い。技術者は勤勉で、真面目で、丁寧だ。

だが、多くは、ある地点で止まる。

理由は単純である。逸脱が、許されにくい。

出る杭は打たれる。前例が重視される。失敗は履歴書に残り、組織の空気が個人を規定する。

そして何より、日本という国は、「挑戦」よりも、「管理」が上手い。もちろん、それは悪いことばかりではない。

空気を読み、協調し、大きな破綻を避ける。その感覚が、この国の治安や秩序を支えてきた。世界を見渡しても、日本ほど「安全に暮らせる国」は、そう多くない。

 

だが同時に、その美徳の裏側で、 “逸脱による飛躍”は起きにくくなる。

 

これは、産業構造だけの問題ではない。教育そのものが、「正解に近づく人間」を育てる方向に設計されている。

失敗しないこと。空気を読むこと。減点されないこと。

日本では、優等生が好まれる。

 

■ 国家は、「狂気」に賭けられるか

 

ここで重要なのは、国家の役割である。アメリカは、すべてを国家が設計するわけではない。むしろ逆だ。

国家は土台を作る。そして、その上で民間の狂気に賭ける。

DARPA。NASA。巨大ベンチャー資本。それらが結びつき、「失敗してもいい。やってみろ」という空間を成立させている。

国家は、狂気を管理するのではない。時に、その狂気に未来を賭けるのである。

 

■ だが、“逸脱”は、光だけではない

 

もちろん、この構造は万能ではない。

 

逸脱を許す社会は、時に、とてつもない革新を生む。だが同時に、社会そのものを揺さぶる存在も生み出す。

ここだけの話――その延長線上には、トランプ現象のようなものも存在しているのだろう。

つまりアメリカは、「天才」も生むが、「極端」も生む。

秩序よりエネルギーを優先する社会は、爆発力と引き換えに、不安定さを抱え込む。

コインの裏表のようなものだ。

 

■ 問題は、「人材不足」ではない

 

よく、「日本にはイーロン・マスクのような人材がいない」と言われる。だが、それは違う。

問題は、そういう人間が、生き延びられない。そこにある。

もし同じような逸脱者が日本にいたとしても、途中で潰される。空気を読まされる。リスクを取れなくなる。

そして気がつけば、“普通の優秀な人”へと整えられていく。あるいは日本を飛び出してしまうであろう。

それで社会に現れないだけなのかもしれない。

 

■ 必要なのは、「秩序」と「逸脱」の両立

 

結局のところ、この問題は一つに集約される。国家は、逸脱を許すのか。それとも、整えるのか。

秩序だけでは、革新は生まれない。しかし、逸脱だけでも社会は壊れる。

必要なのは、秩序と逸脱を、同時に内包する設計思想なのである。

 

さらに言えば、これは経済や産業だけの問題でもない。

 

日本社会には、長く「一億総中流」と呼ばれた感覚があった。極端な突出よりも、皆が大きく外れず、同じ方向を向くことに安心を見出す文化である。もちろん、それは戦後日本の安定や治安、均質な教育水準を支えた。

つまり日本は、成功よりも、“大失敗しないこと”を重視する社会なのである。

 

そこでは、確率論的に大きなリターンを狙う発想よりも、リスクを均し、未来を予測可能に保とうとする力が働く。

 

だが、本来、革新とは予測不能な場所から現れる。

 

確率を学ぶとは、単に数字を扱うことではない。不確実性を引き受ける覚悟を持つことである。そして、その覚悟なしに、“次の時代”を生み出すことは、おそらくできない。

 

イーロン・マスクの是非は、ここでは問題ではない。彼のような存在が現れること自体が、その国の構造を映している。アメリカは、逸脱を“使う”国である。日本は、逸脱を“整える”国である。

では、これからの時代に必要なのは、どちらか。

答えは、おそらく単純ではない。

だが、少なくとも一つだけ、はっきりしている。

 

この“風の時代”において、
管理だけでは、未来は生まれない。
ときに未来は、秩序の外縁からやって来る。

 

 

 

🕊️ 血圧という“数値”の正体──測る医療と、自分の身体を取り戻すということ

 

昭和の開業医だった父と母は、どちらも高血圧だった。西洋医学信奉、薬信奉がより強かった時代である。

母はよく言っていた。

 

「あなたも私たちの子供だから、きっと高血圧になるわね。でも大丈夫。今は副作用の少ない良い薬があるから」

だが、反抗児だった私は、内心こう思っていた。

 

「いやいや。ずっと薬を飲み続けるなんて絶対嫌だ。」

そもそも母の料理は味が濃い。
感情の起伏もかなり激しい。

 

ならば薬に頼る前に、 “自分で調整する方法”を探したい。

そんな思いが、後のフランス生活や自然療法への関心にもつながっていったのかもしれない。

 

さて、健康診断や外来で血圧を測ると、思ったより高く出て驚くことがある。「高血圧ですね」と言われ、そのまま薬の話になる――そんな経験をした方も少なくないだろう。

医療機関で測る血圧は、高めに出やすい。いわゆる白衣高血圧*である。慣れない環境、緊張、頭に血が昇る感覚。それだけで血圧は簡単に上がる。つまり――“その瞬間の反応”を、“日常の状態”として扱ってしまう可能性がある。深呼吸を数回して、再度測ると大抵落ち着く。

 

一方で、最近は少し面白いことができるようになっている。ウェアラブル機器や家庭用血圧計によって、自分の日常の中で血圧を観察することが可能になってきた。

朝は少し高い。食後は少し落ち着く。緊張すると上がる。リラックスすると自然に下がる。

見ていると、だんだん分かってくる。

血圧とは、“固定された数値”ではなく、“揺らぐ反応”なのだ。

(そして、これが意外と面白い🤣)

 

ここで重要なのは、自分の身体の“傾向”を知ることである。

どんなときに上がるのか。どんなときに下がるのか。

それが見えてくると、

・深呼吸をする
・睡眠を整える
・少し歩く
・ストレスを減らす

といった、シンプルな調整ができるようになる。

自分でコントロールできる感覚が生まれる。

 

もちろん、すべてを自己管理だけで解決できるわけではない。

明らかに高血圧が続く場合や、脳卒中・心疾患リスクが高い場合には、医療介入が必要になることもある。降圧薬によって脳卒中や心血管イベントが減少することは、多くの研究で示されている。

しかし一方で、 “下げれば下げるほど良い”という単純な話でもない。特に高齢者では、めまい、転倒、倦怠感、腎機能低下など、“下げすぎ”による問題**も指摘されている。

つまり――最適な血圧は、年代、人によって異なる。

 

近年、日本では血圧基準がさらに厳格化される流れが続いている。その背景には、「早期発見・早期介入」という考え方がある。だが、ここで少し立ち止まりたい。欧米では、一般住民への一律健診について、「病気の発見は増えるが、総死亡率の低下には必ずしも結びつかない」とする研究***も積み重ねられている。

つまり、 “測れば測るほど健康に近づく”とは限らない。

 

そしてもう一つ、見逃せない構造がある。基準値が厳しくなればなるほど、「患者」は増える。

130/80を超えた瞬間に“高血圧予備群”****として扱われ始めれば、それまで普通になんら支障なく生活していた人まで、“病気予備軍”として扱われるようになる。

人は、指摘されると不安になるものだ。

「何とかしなければ」そうして検査が増え、薬が増え、医療介入が広がっていく。気がつけば、中年以降は“数種類の薬を飲んでいるのが普通”という空気さえ漂い始める。

 

血圧は、敵ではない。身体が、その時々の状況に応じて調整している、ひとつの生体反応である。

だからこそ私は、こう考えている。薬は、最終手段である。

まずは観ること。
知ること。
整えること。

 

・食生活を整える
・適度に身体を動かす
・よく眠る
・人と関わる
・少し力を抜く

本来の予防とは、“過剰に管理すること”ではない。生活の中で、自然に整えていくものである。

 

数値は、人を助ける。だが時に、人を不安にもする。

大切なのは、数値に支配されることではなく、数値を理解し、自分の身体調整能力を取り戻すことなのかもしれない。

 

<脚注>

*「白衣高血圧」とは、医療機関での測定時に緊張などで血圧が高くなる現象を指す。家庭血圧との乖離が問題となることがある。

**降圧薬は脳卒中や心血管イベントを減少させる効果が示されている一方、高齢者では過度の降圧による転倒・倦怠感・腎機能低下などが指摘されている。

***一般住民への定期健康診断については、欧米の大規模レビュー(コクランレビュー等)で、「病気の発見や診断数は増えるが、総死亡率低下への明確な効果は限定的」とする報告がある。

****血圧管理の最適値は年齢・基礎疾患・フレイルの有無などによって異なり、「万人に共通の理想値」が存在するわけではないと考えられている。

 

 

🕊️ 時間を飲む──お茶と老いの哲学

 

緑茶、ウーロン茶、紅茶。
まるで別の飲み物のように感じている方も多いのではないだろうか。

 

だが実は、これらはすべて同じ葉からできている。

 

🍃 チャノキ

 

同じ植物。違うのは、ただ一つ。

 

🌓 “時間の扱い方”である。

 

 

摘みたての葉をすぐに加熱し、酸化を止めれば緑茶になる。
少しだけ時間を置き、部分的に酸化させればウーロン茶。
しっかりと時間をかけて酸化させれば、紅茶になる。

 

同じ葉が、
時間の経過によって、香りも色も、味わいも、まったく別のものへと変わっていく。

 

 

つまり、お茶とは

 

🍃 「時間を飲んでいる」ものなのだ。

 

 

緑茶には、若々しさがある。
紅茶には、深みと丸みがある。

 

その違いは優劣ではない。

 

🌙 変化の過程そのものである。

 

 

ここで、少しだけ話を広げてみたい。

 

人の身体もまた、時間の中で変化していく。
若さから成熟へ、そして老いへ。

 

この変化に対して、私たちはつい「抗うべきもの」と考えがちである。

 

しかし、本当にそうだろうか。

 

 

お茶は、酸化すればするほど価値が下がるわけではない。
むしろ、時間を経たことでしか生まれない香りや味わいがある。

 

人もまた同じではないか。

 

🦉 変化そのものに価値があるのではないか。

 

 

もちろん、健康を守ることは大切である。
身体を整え、心を整え、できるだけ良い状態で歳を重ねる。

 

それは否定されるものではない。

 

だが一方で、

 

🌕 すべての変化を“異常”として扱う必要はないのではないだろうか。

 

 

緑茶のままでいることだけが正しいわけではない。
紅茶になることが劣っているわけでもない。

 

それぞれに、それぞれの意味がある。

 

 

お茶を一杯飲むとき、
ほんの少しだけ思い出してみてほしい。

 

これは、ただの飲み物ではない。

 

🪐 時間そのものを味わっているのだと。

 

 

そして私たち自身もまた、
その時間の中にいる存在であることを。

 

 

🕊️ RSウイルス新ワクチンのもう一つの論点──費用はどこまで拡張されるのか

 

前回は、RSウイルス新規薬剤の制度の構造と統計の見え方について述べてきた。しかし、もう一つ、避けて通れない現実がある。

それが、費用である。

 

今回念頭に置かれている抗体製剤、ベイフォータスは、日本においては1回あたり数十万円規模の薬価が設定されている。

もちろん、これは薬価であり、実際の公的調達価格は異なる可能性がある。また、対象も出生コホート全体ではなく、一定の条件で絞られることも想定される。それでもなお、一つの試算として考えてみる。

 

仮に、対象が広く設定された場合、年間出生数約80万人という母集団に対して、数千億円規模の公費投入となる可能性がある。

これは、もはや個別医療の話ではない。国家財政の設計に関わるレベルの意思決定である。

 

■ 費用対効果という、静かな論点

 

ここで重要なのは、単純な「高い・安い」だけではない。すでに見た通り、ベイフォータスの効果は、約25人に投与して、1人分の発症を防ぐ(NNT≒25)というスケールである。

このとき、1イベント回避に必要なコストは、数百万円から、条件によってはそれ以上となる可能性がある。

もちろん、重症化の回避、入院の減少、家族への負担軽減など、
金額だけでは測れない価値も存在する。だが同時に、限られた医療資源をどこに配分するのかという課題からは、逃れてはいけない。

 

■ 「拡張」は、常に静かに起きる

 

制度の拡張は、いつも穏やかな顔をしている。それは、

  • より安全に
  • より確実に
  • より多くを守るために

という、誰も否定できない美辞麗句とともに進む。

しかし、その裏側で、

  • 対象は広がり
  • 定義は緩やかに拡張され
  • 費用は累積していく

このプロセスは、善意の顔をしている分、気づかれにくい。

 

■ 本質は「意図」ではなく「設計」

 

ここで強調しておきたい。この議論は、誰かの善意や悪意を弾糾するものではない。医療現場も、政策担当者も、きっとそれぞれの立場で合理的に動いている。(と信じたい)

しかし、合理性の積み重ねが、全体として合理であるとは限らない。だからこそ必要なのは、

  • 対象の明確な線引き
  • 費用対効果の透明な評価
  • 長期データによる検証

という、制度設計そのものの精度である。

 

医療は、人を救うためにある。それは疑いようのない前提である。だが同時に、医療は社会の資源でもある。

その配分がどのように決まるのか。どのような論理で拡張されていくのか。それは、私たち一人ひとりの問題でもある。

 

赤ちゃんの風邪の重症化を防ぐための、非常に高価な“予防医薬品”。それは、本当にすべての子どもに必要なのか。

 

定期接種とは、どこまでを国家が推奨するという意味なのか。

そもそも、その評価は、後から確かめることができるのか。

検証可能な制度を作ることこそ、先決ではないのか。

 

そして私は、途方に暮れる。

 

 

🕊️ 認知症「4人に1人」という数字の裏側──“見つける医療”と予防の本質

 

最近、「65歳以上の4人に1人が認知症または予備軍」という記事を読んだ。確かに、数字としては事実*に基づいている。しかし、この表現には一つ、重要な前提が含まれている。

それは――認知症(約443万人)とMCI(約559万人)を合算しているという点である。

認知症は、日常生活に支障をきたす状態である。一方、MCIはその手前の段階、いわば“変化の途中”であり、必ずしも進行するとは限らない。実際には、元に戻る人、そのまま維持する人、進行する人が混在している。

 

では、日本は本当に認知症が多い国なのだろうか。

ここに、考慮しなくてはいけない一つの構造がある。

日本は、高齢化が進んでいるのはもちろん、医療アクセスが良く、何しろ検査やスクリーニングが普及している。つまり――「他国よりも見つけている国」でもある。特に後半のMCIについては、他国より広く拾い、ラベリングしている可能性**を考える必要がある。

 

本来、早期に気づくことには意味がある。だが、私はあえて言いたい。

 

「見つけたあと、どうするのか?」

 

“あなたは認知症予備軍かもしれない”そうラベリングされた瞬間、人は次に「何とかしなければ」と考える。そこで登場するのが、いわゆる政府推奨の“攻めの予防医療”である。

 

たとえば、近年注目されている新しい認知症治療薬***。確かに一定の効果は報告されている。しかし現時点では、進行をわずかに遅らせる程度にとどまるという評価が中心である。

しかもその多くは高額であり、広く適用されれば医療財政への影響は大きい。個人の安心と引き換えに、社会全体の負担が増える構造が見え始めている。

 

ここで率直に言ってしまえば――「少しだけ効くかもしれない高い薬」を前にして、人は“やらない選択”ができるだろうか。

 

……なかなか難しい。

 

これは、かなり強力なトラップである。

 

もし「予備軍」の段階から広く医療介入が行われるようになれば――個人の不安は軽減されるかもしれない。しかし同時に、医療は“制度としての重さ”(国民への経済的負担)を増していく。

 

人の名前が出てこない。
少し忘れやすくなった気がする。

それは本当に“病気”なのか。むしろ、人が年を重ねる中で自然に起きる変化なのではないだろうか。

 

そして、対策として行うべきことは何か。

・食生活を整える
・適度に身体を動かす
・よく眠る
・手を動かし、頭を使う
・人と関わり、社会とのつながりを保つ

これらは、診断の有無に関わらず、誰にとっても変わらない。

 

つまり――本来の認知症の予防とは、「診断によって変わるものではない」。

検査をし、リスクを可視化し、そして“何か対策をする”。一見すると合理的である。だが、ここで少し立ち止まろう。診断がついても、つかなくても、本質的な予防は変わらないのではないか。

そもそも、誰もが認知症予備軍なのではないか。

 

老いに伴う変化のすべてを医療の対象としたとき、
私たちは何を守り、何を失うのだろうか。

 

予防とは、本来、“過剰に管理すること”ではない。生活の中で、自然に整えていくものである。

 

科学は重要である。データもまた、欠かせない。しかし、 測れるものだけが真実という訳でもない。「4人に1人」という数字の向こうにあるのは、“どこまでを医療介入の対象とするのか”という選択なのかもしれぬ。

医療は人を守るものだが、解釈を広げすぎれば、人を縛るものにもなるのだ。

 

<脚注>

*厚生労働省研究班による最新推計では、2022年時点で65歳以上の認知症高齢者は約443万人、MCIは約559万人、合計約1002万人とされる。これは65歳以上人口の約27.8%にあたる。また同推計では、2040年には認知症約584万人、MCI約613万人、合計約1197万人に達すると見込まれている。
**WHOの2025年更新ファクトシートでは、2021年時点で世界の認知症患者は約5700万人、毎年約1000万人が新規発症するとされる。

**MCI(軽度認知障害)は国際的に用いられる概念であるが、診断基準や運用は国や医療文化により差があり、日本は比較的広くスクリーニング・ラベリングを行う傾向がある。

***新規抗アミロイド抗体薬(例:レカネマブ)は、臨床試験で認知機能低下の進行を統計的に有意に遅らせたが、効果は限定的であり、費用対効果や適用範囲について各国で議論が続いている。

英国の医療技術評価機関 NICE は、費用対効果の観点から、これら新規治療について慎重な評価を行っており、実臨床での位置づけは引き続き議論が続いている。

 

 

🕊️ 国政報告──この半年、そして四国を巡って

 

この半年間の活動について、四国での国政報告会を機に、あらためて皆様にご報告いたします。

徳島・愛媛・高知と巡り、各地でお話しする機会をいただきました。その中で見えてきたこと、感じたことを、ここにまとめます。

 

■ 所属委員会について

 

現在、私は4つの委員会に所属しております。

  • 行政監視委員会(理事)
  • 厚生労働委員会
  • デジタル・AI特別委員会
  • 情報監視審査会

なお、情報監視審査会については、内容すべてが機密事項であるため、詳細は申し上げられません。

 

■ 厚生労働委員会──医療の本丸にて

 

現在の最大の論点の一つは、医療政策全体の設計そのものにあります。
その中でも、コロナワクチンの検証と、予防医療のあり方は、象徴的な問題として浮かび上がっています。

今後、新規参入や定期接種化が進む流れの中で、その評価と監視は、より重要になってきます。

コロナワクチンですが、構造的に検証が困難な状態のまま、一時中止さえされずに進行している点には、論理的な整合性に大きな疑問が残ります。

特に国民の皆さんに知っていただきたい重要なことは、

  • 相対リスクと絶対リスクの違い
  • 各種データの扱い方
  • 整っていない長期的検証の仕組み

です。

 

カルテ保存が原則5年という状況で、母子ワクチンやHPVワクチンを推進することには、制度としての整合性に疑問が残ります。順番が逆であると言わざるを得ません。また、いわゆる「攻めの予防医療」についても、早期発見・早期治療の価値を否定するものではありませんが、それを“平均的に全員に適用する”ことは、時に過剰となり、むしろ人を苦しめる「責め」に転じる可能性があります。

 

医療の本質は何か。国民の健康を真に守ることとは?

 

この問いを、構造から見直す必要があります。さらに、終末期医療やACP(人生会議)についても、避けるべきテーマではなく、むしろ正面から議論すべき領域であると考えています。

 

■ デジタル・AI特別委員会──未来と制度の乖離

 

デジタル・AI分野では、現行制度との乖離が顕著です。昭和の制度と発想のまま、未来の社会を設計することはできません。

  • データのサイロ化
  • ベンダーロックイン
  • 省庁間の非連携

これらはすでに現実の問題となっています。「DX」「AI」という言葉だけが先行し、本質的な構造改革が伴っていない現状に、強い課題意識を持っています。

 

■ 行政監視委員会──責任とEBPM

 

行政においては、EBPM(エビデンスに基づく政策立案)が掲げられています。しかし現実には、

  • 短期間での人事ローテーション
  • 責任の所在の曖昧さ
  • 外部委託への依存

といった構造的課題があります。「エビデンスを回す」と言いながら、誰が責任を持つのかが不明確なままでは、本来の意味での政策評価は成り立ちません。

 

 

■ 自分自身の立ち位置

 

これまで私は、政治と無縁だった頃から

  • CBD(カンナビノイド)の有用性と世界の現状
  • 日本人の不眠具合と睡眠美容
  • 代替医療全般
  • セルフメディケーションのススメ
  • メディアリテラシー
  • 医療業界のデジタル化の顕著な遅れ

といった領域を発信してきました。

一見すると周縁に見えるこれらのテーマが、実は現在の医療・政策の課題と深く接続していることを、国政の現場で実感しています。

 

🔸 四国という土地

 

今回巡った四国は、思想の重層的な流れを感じさせる場所でした。

  • 坂本龍馬
  • 板垣退助
  • ジョン万次郎
  • 牧野富太郎
  • 正岡子規
  • 夏目漱石

外を知り、体制を変え、制度をつくり、そして自然や人間を見つめ直す。その通奏低音が、この土地にはあります。

 

自由とは、与えられるものではありません。叫ぶだけでも、手に入るものではありません。設計し、実装し、引き受けるものです。風光明媚な四国の地を巡り、あらためてそのことを実感しました。

今後も、現場に根ざしながら、国家の中枢神経系そのものに向き合ってまいります。