🕊️ 世界初、mRNAインフルエンザワクチン承認

――次に問われるのは、「技術」ではなく「検証」である

 

2026年8月、米国FDAは、モデルナ社のmRNA季節性インフルエンザワクチン「mFlusiva(mRNA-1010)」を承認しました。

世界初となる、mRNA技術を用いた季節性インフルエンザワクチンです。 

 

mRNAといえば、コロナワクチンです。

通常、新しいワクチン技術が一般に普及するまでには長い年月を要します。しかし、新型コロナでは世界的なパンデミックの中、mRNAワクチンは極めて短期間で実用化されました。

その後、日本では接種後死亡として報告された事例が2,000件を超えていますが、その大半は専門家評価で「γ(評価不能)」と整理されています。一方で、健康被害救済制度では1,000件を超える死亡一時金・葬祭料の認定が行われており、私は先日の国会で、この二つの制度が十分に突合・検証されていないことを問題提起しました。

コロナワクチンをめぐっては、体内分布、長期的な残存、免疫応答、そして市販後安全性評価などについて、現在も研究と議論が続いています。また米国では、政策決定や情報公開、製薬企業をめぐる司法手続も進んでいます。

そうした知見や教訓が、今回のインフルエンザmRNAワクチンの審査や承認後の安全性監視にどのように反映されたのか。

そこまで説明されて初めて、国民は安心して新しい技術を受け入れることができるのではないでしょうか。

 

さて。今回の治験の対象は50歳以上。

50〜64歳は通常承認、65歳以上は追加試験を条件とした迅速承認となりました。 

 

実は、このワクチンは一直線に承認されたわけではありません。

今年2月、FDAは一度、この申請に対しRefusal to File(申請受理拒否)という極めて珍しい判断を行いました。

理由は、比較対象(Comparator)の設定が「最善の標準治療を反映していない」というものでした。 

その後、追加の審査やFDA諮問委員会での議論を経て、最終的に承認へと至っています。 

 

臨床試験には約4万人が参加しました。

結果は、

  • 従来型インフルエンザワクチン群:約2.8%が発症
  • mRNAワクチン群:約2.0%が発症

と報告され、従来ワクチンに対して相対的に約26.6%高い有効性が示されました。 一方で、この試験には一つ注意点があります。

プラセボ群はありません。

比較されたのは、「mRNAワクチン」と「既存のインフルエンザワクチン」です。

つまり、この試験で分かるのは、「mRNAワクチンは従来ワクチンより優れているか」という点であり、「mRNAワクチンそのものがプラセボと比べてどの程度有効なのか」を評価した試験ではありません。

これは、すでに有効と考えられているインフルエンザワクチンが存在するため、プラセボ対照試験を行うことが倫理的に難しいという背景があります。

 

今回は約4万人を対象とした大規模試験ではあるものの、追跡期間は主として1シーズン、約6か月です。短期的な有効性や安全性の評価には有用ですが、稀な有害事象や長期的な影響については、この試験だけで結論を出すことはできません。だからこそ、承認後の継続的な検証が重要になります。

ちなみに、mRNAの最大の利点は“速く作れること”だとされています。しかし、今回承認されたワクチンは従来と同じ株選定スケジュールで評価されています

 

mRNAという技術は、今後インフルエンザだけではなく、RSVやCMVなど、さまざまな感染症へ応用されていく可能性があります。

だからこそ、コロナワクチンで得られた知見や課題が、どのように次世代のmRNAワクチンの審査や安全性評価に反映されたのか。その説明は、これまで以上に重要になると考えています。

新しい技術だからこそ、承認はゴールではありません。

 

承認後も長期にわたり検証を続けること。

そして、その結果を国民に誠実に説明し続けること。

さらに、相対リスクだけではなく、絶対リスクも併せて示し、一人ひとりが自ら利益とリスクを判断できる環境を整えること。

それこそが、次のパンデミックに向けた最大の備えになるのではないでしょうか。

 

 

🕊️ なぜEUはここまで個人情報保護に厳しいのだろう
――AI時代に問われる「信頼」というインフラ

 

個人情報保護法改正については、今でも事務所に多くの抗議のFAXやメールが届きます。それだけ国民の関心が高いテーマなのだと思います。

一方で、医療関係者をはじめ、さまざまな分野の方々にお話を伺うと、法改正の具体的な内容については、意外なほど知られていないことにも驚かされます。

そんな日本の現状を見ながら、私が以前から疑問に感じていることがあります。

 

なぜ、日本とEUでは、個人情報保護に対する考え方がここまで違うのでしょうか。

日本では、
「規制が厳しすぎる」
「厳しすぎるとデータ活用の妨げになる」
という声を耳にすることがあります。

しかしEUでは、GDPR(一般データ保護規則)のもと、重大な違反に対しては、2,000万ユーロ、または企業の全世界年間売上高の4%のいずれか高い方という、非常に厳しい行政制裁金が設けられています。

日本とは、あまりにも考え方が違います。

その背景には、「個人情報とは何か」という思想の違いがあるように思います。EUでは、個人情報は単なるデータではありません。人格や尊厳に関わる基本的人権の一部として位置づけられています。だからこそ、「漏えいしたら罰する」という発想だけではなく、「国民が安心してデータを預けられる社会をつくること」そのものが制度の目的になっています。

 

一方、日本では今回の法改正により、AIや統計解析など公益目的でのデータ利活用を進めるため、一定の場合には、これまでよりも個人データを利用しやすくする仕組みが導入されました。

私自身、公益につながるデータ利活用には賛成です。医療も、介護も、行政も、AIによって大きく進化する可能性があるからです。

ただし、ここには一つ、どうしても気になる点があります。

統計解析やAIモデルの学習そのものが目的であれば、原則として個人を直接識別できる情報まで必要なのでしょうか。

もちろん、異なるデータベースを結びつけたり、同じ人を長期間追跡したりする研究では、個人単位でのデータ突合が必要になる場合があります。実際、医療・介護・健診データを個人レベルで結びつけることで、新しい知見を得た研究もあります。

しかし、それと「誰であるかが分かる状態のデータを、そのまま分析に使うこと」は同じではありません。

必要なのはデータをつなぐことなのか。それとも、個人を特定できる状態まで保持することなのか。私は、この二つは丁寧に分けて議論する必要があると思っています。

だからこそ今回の改正についても、利活用を進めることだけではなく、なぜその識別可能性が必要なのか、どこまでなら匿名化・仮名化したデータで目的を達成できるのかを、国民にもっと分かりやすく説明する必要があったのではないでしょうか。

データを使いやすくする方向へ制度を動かすのであれば、それと同じだけ、「なぜそこまで必要なのか」という説明責任も重くなる。私はそう考えています。

そして、その一方で気になる現実もあります。

 

個人情報保護委員会の年次報告によれば、令和6年度には、事業者から報告された個人データ漏えい等の件数は19,056件。行政機関や地方公共団体を含めると、年間の漏えい等の報告は2万件を超えています。さらに、一件で5万人を超える個人情報が漏えいした事案も報告されています。

もちろん、その多くは誤送信や設定ミスなどのヒューマンエラーであり、すべてが悪質な事案ではありません。

 

しかし、AI時代になるほど、一度漏えいしたデータが持つ意味は大きく変わります。

個人情報は、もはや住所録だけではありません。

健康情報、購買履歴、位置情報、遺伝情報、行政データなど、多様なデータを組み合わせることで、一人ひとりの生活や健康状態、さらには将来のリスクまで推測できる時代になっています。

だからこそ、私が最も大切だと思うのは、「国民が安心して自分のデータを預けられる社会をつくること」です。

信頼がなければ、人はデータを提供しません。データが集まらなければ、AIも育ちません。

つまり、個人情報保護とデータ利活用は、対立する概念ではありません。

むしろ、強い信頼があるからこそ、強いデータ利活用が可能になる。私は、ここが日本の議論で見落とされがちな視点ではないかと感じています。AI時代の個人情報保護に必要なのは、「規制を強めるか、緩めるか」という二者択一ではありません。

どうすれば国民の信頼を得ながら、安全にデータを活用できる社会を築くのか。そこが、本質ではないでしょうか。

 

EUと日本の違いは、単に罰則の金額だけではありません。

その背景には、

「個人情報とは何か」
「国家は何を守るべきか」

という思想の違いがあります。

そして、もう一つ忘れてはならないのが、**データ主権(データソブリンティ)**という視点です。国民の重要なデータを、誰が保管し、誰が管理し、どの法制度の下で扱うのか。これは単なる技術論ではありません。AI時代には、個人情報保護と同時に、国家として重要なデータをどこまで自ら管理できるのかという視点も不可欠になります。

 

個人の権利を守ること。
公益のためにデータを活用すること。
そして、国家としてデータ主権を守ること。

この三つは対立するものではなく、本来は同時に実現すべきものです。AI時代に本当に求められるのは、国民が安心してデータを託せる「信頼のインフラ」を築くこと。

私は、その議論こそ、これからの日本に最も必要なのではないかと考えています。

 

 

🕊️ 技術は日本、実装はベトナム。

――AI健診で見えた、新しい医療のかたち

 

今回のベトナム視察で、とても印象に残ったことがあります。

それは、日本企業が開発したAIを活用した健診システムが、ハノイで実際に運用されていることでした。

 

現地日本大使館から、富士フイルムグループが展開するAI健診サービスについて説明を受けました。CTやマンモグラフィなどの画像診断にAIを活用し、2時間という短時間で問診、検査、その後の説明まで終了という、大変効率的な健診を目指す仕組みです。日本の技術が、ベトナムの医療現場で実際に動いている。

その話しは、とても印象的でした。

 

もちろん、日本でもAIは医療現場で少しずつ導入されています。

しかし今回私が肌で感じたのは、技術そのものよりも、「社会実装のスピード」の違いです。これは韓国のKIMESでも実感したのと同じです。

新しい技術をどう活用するか。

どうすれば患者さんに早く届けられるか。

その挑戦のスピードに、勢いを感じました。

 

一方、日本には日本の強みがあります。

安全性。

品質管理。

皆保険制度。

慎重な制度設計。

どれも世界に誇れるものです。

日本には世界トップクラスの技術がありながら、その技術が海外で先に広く活用される場面があることは、私たちが考えるべきテーマではないでしょうか。

 

今回の視察を通じて感じたのは、

技術を開発する力と、

社会に実装する力は、

必ずしも同じではないということでした。

何が障害になっているのか、法律の規制のためなのか、あるいは、戦略的に別の理由があるのか。今後探っていきたいと思います。

 

AI時代に必要なのは、新しい技術を生み出すことだけではありません。それを安全性を担保しながら、適切に社会へ届ける仕組みをどう作っていくのか。

その視点も、これからますます重要になると思います。

 

日本には、世界に誇れる医療技術があります。

だからこそ私は、その技術が最初に日本で十分に生かされ、自国民にも恩恵が届く国であってほしいと思います。

 

海外を視察すると、日本の強みも、課題も、どちらもよく見えてきます。そんなことを、ハノイの医療現場で考えました。

 

<ハノイ・フレンチ・ホスピタルの久保峻医師(右)と友成雅敏医師>

 

<Family Medical Practice Hanoi 日本人駐在医師、杉浦健太医師>

 


 

🕊️ 「効いた」と分かる医療、「数字でしか見えない医療」

――最後は、自分で考えるしかない

 

医学論文検索には終わりがない。特にコロナに関しては、ワクチン関連、感染後の心血管イベント、超過死亡、副反応、有効性。世界中から次々と新しい論文が出てくる。

そのたびに、「こちらが正しい」「いや、こちらだ」とそれぞれの立場で議論し互いを論破、を繰り返している。

もちろん、それ自体は科学的検証であり、避けられない論議である。しかし、その様子を見ながら、私は以前から少し違うことを考えてきた。

 

医療には、大きく二種類あるのではないだろうか。

一つは、

誰が見ても効果が分かる医療。

例えば麻酔。

手術中、眠って痛みを感じない。

例えば抗生物質。

炎症が改善する。

例えば鎮痛薬。

痛みが実感として軽くなる。

あるいは麻疹ワクチンのように、
歴史の中で劇的に患者数や死亡者数が減少したもの。

 

もちろん、それらにも副作用や限界はある。
しかし、多くの医師や患者が日常診療の中で
「効く」という実感を共有している。

 

一方で、
統計でしか評価できない医療もある。
これは決して特殊な医療ではない。
降圧薬も、脂質異常症治療薬(スタチン)も、糖尿病治療も、多くのがん検診もそうである。
ある患者さんには大きな利益がある。一方で、別の患者さんにはほとんど利益がないこともある。だから、一人の患者さんだけを診ても、その効果は分かりにくい。
集団として解析して初めて、その有効性や安全性が見えてくる*。

 

効果は数%であることもある。
ある集団では利益が認められる。
一方で、別の集団では利益が小さいこともある。

相対リスクは下がる。
しかし絶対リスクは小さいこともある。
論文によって結論も少しずつ違う。だから次々に新しい論文が現れ、専門家同士の議論が終わらない。それは、その医療が悪いという意味ではない。
現代医療の多くが、そのような統計医学の上に成り立っているからである。

 

こうした医療では、最後に重要になるのは、「誰が正しいか」ではなく、自分がそのリスクと利益をどう考えるか。もちろん、その判断は、できるだけ信頼できる科学的根拠に基づくべきである。
年齢。持病。生活環境。感染リスク。価値観。人によって答えは変わる。だからこそ、国が一律に決めるものではなく、十分な情報を公開し、国民一人ひとりが考えられる環境を整えること。
私は、それが行政の役割だと思っている。

 

最近では、感染症だけではない。他の医療介入、経済、戦争、エネルギー、AI。どの分野でも専門家同士が激しく議論している。

科学とは本来、「私が正しい」を証明するものではない。
仮説を立て、それを検証し、必要なら修正する。
どこまで分かっていて、どこから先はまだ分からないのか。
それを少しずつ明らかにしていくことではないのか。

 

AI時代になった今、専門家を盲信する時代は終わりつつある。
だからといって、専門家を否定する時代でもない。一次資料を読み、異なる意見にも耳を傾け、最後は自分の頭で考える。
その姿勢こそが、これからの時代に最も求められる「科学リテラシー」であり、「統計リテラシー」なのだと、私は思う。

 

<脚注>
サロゲートエンドポイント(代替評価項目):医療では、血圧やLDLコレステロール、抗体価などの「途中の指標」で効果を評価することがある。しかし、患者さんにとって本当に重要なのは、その数字ではなく、「健康に長く生きられたか」「重い病気を防げたか」という最終的な結果(ハードエンドポイント)である。だからこそ、統計を読むときには、「何を指標として評価している研究なのか」を確認することも重要である。

 

🕊️ 「有効性のデータは持っていなかった」

――では、日本は何を根拠に判断してきたのだろう

 

厚生労働省は現在、予防接種データベースとNDB(レセプト情報・特定健診等データベース)などの医療データを連結し、ワクチンの有効性や安全性を、より客観的に評価できる仕組みの整備を進めている。(第66回厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会令和8年7月23日)

 

今後の予防接種全体について、接種記録と医療情報を適切に結びつけ、接種した人と接種していない人で、その後どのような健康影響が生じたのかを比較・解析し、有効性や安全性を継続的に評価していこうという取り組みである。

私は、この方向性を高く評価したい。

予防接種行政が、ようやく「データをつなぎ、検証する」という時代へ進み始めたからである。

 

しかし同時に、いくつかの疑問が浮かぶ。

この新しい仕組みは、過去に遡って、新型コロナワクチンの検証にも使われるのであろうか。

そして、もう一つ。

なぜ、この仕組みはもっと早く整備されなかったのだろう。

 

新型コロナワクチンでは、日本でも極めて大規模な接種が行われた。

その間、安全性については、副反応疑い報告制度と健康被害救済制度という二つの制度が、それぞれ異なる目的で運用されてきた。そのこと自体には理由がある。
しかし、事実を総合的に検証するという観点からは、両者が十分につながっていたとは言い難い。

 

一方、厚生労働省の資料には、気になる記述がある。

「有効性評価については国として厚生労働省でデータを保持しておらず、研究者による研究結果を参考にしてきた」

審議会でも同様の説明がなされている。

私は、この一文で立ち止まった。

これは、新型コロナワクチンについても同じだった、という意味なのであろうか。

いずれにしても、日本の医療DXの遅れ、を免罪符にしてはいけない。

 

新型コロナ禍では、あれほど大規模な医療介入が行われたのであれば、本来必要だったのは、ワクチンを接種した人と接種していない人を可能な限り適切に比較し、その後の感染、重症化、入院、死亡、そして健康影響を継続的に追う仕組みがあってしかるべきであった。

 

さらに医療従事者向け先行接種もあった。当時、数万人を対象に接種後の健康状況調査が行われた。その調査は、接種後の症状や副反応を把握することが主目的であり、日本国内での有効性を長期的に比較・検証する仕組みとは性格が異なる。とはいえ、あの先行接種という貴重な機会を、どうして有効性の評価にもつなげる設計にしていなかったのか。

そもそも、有効性を国として継続的に評価するデータ基盤の整備が後手に回ったこと自体、私は大きな課題であったと思う。

 

私は、ワクチンに限らず、あらゆる医療介入について同じことを願っている。薬も。手術も。再生医療も。遺伝子治療も。AI診断も。新しい医療であるほど、継続的な検証が必要である。

 

この新しい仕組みが整うのであれば、新型コロナワクチンについても、本格的な検証が行われることを期待したい。検証できるようになったにもかかわらず、検証しない理由はない。

過去の経験を未来へ生かすためにも、科学として淡々と検証する必然性がある。

感染症は、これからも必ず人類の前に現れる。

その時、日本が、自国の個々のデータに基づいて判断できる国であってほしい。

そして次の世代には、
「なぜ、もっと早くつなげなかったのだろう。」
と、私たちと同じ問いを投げかけさせたくはない。

 

 

🕊️ 直美問題を考える②

昭和の制度で、AI時代の医療は守れるのか

 

私は「直美(ちょくび)」問題を、個人の問題として捉えていない。美容医療へ進む若い医師を責めたいわけでもない。
私自身も美容皮膚科に長く携わってきた一人であり、その魅力も、社会的役割も理解している。

問題は、個々の医師ではない。

制度設計である。

 

日本では、医師免許を取得すると、基本的にどの診療科でも自由に標榜することができる。

皮膚科を名乗る。
内科を名乗る。
外科を名乗る。

専門医資格がなくても、一定の条件のもとで診療科名を掲げることが可能な仕組みになっている。この自由標榜制は、医療の専門分化が現在ほど進んでいなかった時代に設計され、日本の医療を支えてきた制度でもある。もちろん、AIもなければ、ゲノム医療も、ロボット手術も存在しなかった時代である。

 

昭和の医療では、一人の医師が幅広い領域を診ることも珍しくなかった。情報は紙の教科書。診断は経験。患者さんも地域で完結する。だから、ある程度の自由度は合理的だった。

しかし令和は違う。

医療は高度に専門化し、知識量は指数関数的に増え、AIが診断支援を行い、遺伝子情報を踏まえた個別化医療が始まっている。

「専門性」の意味そのものが変わり始めているのである。

 

もちろん、自由標榜制には一定の利点もあった。とりわけ地域医療の現場では、限られた医師が幅広い診療を担うことで、医師不足を補ってきた側面がある。また、医師が新たな分野へ柔軟に挑戦できるという点でも、一定の役割を果たしてきたと言えるであろう。

しかし、専門分化が進んだ現在、こうした仕組みは主要な先進国では一般的とは言い難いものである。だからこそ、これまでの役割を認めつつも、この制度を今後もそのまま維持してよいのか、一度立ち止まって考える時期に来ているのではないだろうか。

 

たとえば患者さんは、「〇〇科」と看板があれば、その分野について十分な研修や経験を積んだ医師が診ている、そう自然に考える。しかし実際には、その背景はさまざまである。

もちろん、多くの先生方は真摯に研鑽を積み、責任を持って診療されている。

一方で、患者さんからは見えない部分もある。AI時代だからこそ、患者さんが安心して医療を選択できるよう、専門性の「見える化」をどう進めるか。その議論は避けて通れないだろう。

 

さらに、AIはこの議論を大きく変える可能性がある。

AIが画像診断を補助し、診療ガイドラインを瞬時に提示し、最新論文を要約してくれる時代。

医師の役割は、「すべてを知っている人」から、「AIを適切に使いこなし、患者さんに最適な判断を下す人」へと変わっていく。

患者さんだけが情報を持たない時代は、終わろうとしている。

AIによって、医療情報は誰もが瞬時に手に入れられる時代になる。情報の非対称性は、急速に小さくなっていく。

 

だからこそ、これから求められるのは、
単なる肩書きではなく、どのような研修を受け、どのような経験を積み、AIを含めた最新の医療をどう活用できるのか。

そうした能力が、これまで以上に重要になる。

 

私は、この問題を「直美問題」として終わらせたくない。問題にしたいのは、昭和につくられた制度で、令和、そしてAI時代の医療を支え続けられるのか。その一点である。

制度は、国民が安心して医療を受けられるように、時代とともに進化していくためにある。

そろそろ私たちも、制度そのものをアップデートする議論を始める時ではないだろうか。

昭和の制度を否定したいのではない。

令和の医療には、令和の制度が必要なのではないか。

 

 

🕊️ 直美問題を考える①
医学部卒業は、医師教育の卒業ではない
――医師の成熟と、社会的投資の行方

 

「直美」については、このブログでも何度か取り上げております。医学部を卒業し、初期研修を終えた直後から、美容医療の世界に進む若い医師たち。同じように、産業医や精神科などでも、専門研修を十分に経ないまま特定領域へ進むことを、揶揄的に「直産」「直精」と呼ぶことがあるようです。

私は、この問題を単なる若者批判として語るべきではないと思っています。若い医師が高収入を求めることも、働きやすい環境を望むことも、そのこと自体は個人の自由であります。問題は、現在の医療環境と制度設計との間にギャップが生じていることです。


美容医療そのものも、決して簡単な医療ではありません。高度な技術だけでなく、美的感覚や患者心理への深い理解も求められる分野です。健康な人に医療行為を行い、ときに不可逆的な変化を与える領域です。患者さんの期待は高く、結果は顔貌や身体だけでなく、自己像や社会生活にまで影響します。

だからこそ、本来は高度な判断力と成熟が求められる。

 

では、その成熟は、どこで育つのでしょうか。

医学部を卒業する時、多くの医師は24歳前後です。その後、初期研修を経て、さらに数年間の専門研修に進みます。この期間に学ぶのは、知識や手技だけではありません。

診断に迷う。
誤診をする。
うまくいかない。
合併症に直面する。
患者さんに厳しい言葉をかけられる。
自分の一言を後悔する。
先輩医師から叱責される。
他科に頭を下げて助けを求める。
自分の限界を知る。

そうした経験を何度も重ねながら、医師は少しずつ「医師らしく」なっていきます。専門研修とは、専門知識を学ぶ期間であると同時に、医師としての人格や倫理観を育てる期間でもあるのです。

 

ところが、そこを飛び越えて、若いうちから高収入を得て、「先生、先生」と呼ばれ、SNSでは人気や承認が数字として可視化される。
その一方で、指導医から厳しく指摘される機会や、失敗を振り返る文化、他科と連携する経験が乏しい環境に置かれたとしたら、どうなるでしょうか。

もちろん、直美であっても誠実で優秀な医師はいると思います。長い研修を積んでも、倫理観を欠く医師はいます。ですから、「直美だから悪い」と単純化するつもりはありません。

 

しかし、医師として成熟する機会が少ないまま、商業性の強い市場に入っていく構造には、明らかな危うさがあります。

問題は、若い医師個人の資質だけではありません。成熟する前の若者を、十分な指導も歯止めもない市場へ送り出してしまう制度そのものにあります。

 

私は、美容医療は、医学部を卒業してすぐに進む一般的な就職先ではなく、一定の臨床経験と専門研修を経てから進む、高度な専門領域として位置づけるべきだと思っています。

 

たとえば、独立して美容医療を行うためには、一定期間の基礎診療経験、指導医の下での症例経験、合併症対応や救急対応の研修、施術ごとの認定制度、といった条件を設ける。外科的施術、注入、レーザーなど、リスクに応じて段階的な資格要件を設けることも考えられます。

普通自動車免許を取った翌日に、大型バスを運転することはできません。しかし医師免許を持っていれば、専門的な研修がなくても、顔面への注入や手術を行うことができる。冷静に考えると、これはかなり不思議な制度です。

 

そして直美問題には、もう一つ見落としてはならない側面があります。それは、医師養成に投入された社会的資源の問題です。

医師一人を育てるためには、医学部での教育、大学病院の設備、指導医、初期研修病院、国や自治体の補助など、多くの公的資源が投入されています。医師免許は、本人の努力によって得る資格です。しかし、その教育環境は本人の学費だけで成り立っているわけではありません。

 

国が医学部定員を増やしてきたのも、地域医療や救急、産科、小児科など、国民に必要な医療を担う医師を確保するためでした。

ところが、初期研修を終えた医師が保険診療をほとんど経験せず、そのまま自由診療へ進めば、医師数は増えても、保険医療の担い手は増えません。

 

その分、現場に残った医師の負担は重くなります。

当直が増える。
時間外労働が増える。
燃え尽きる。
離職する。
病棟を縮小する。
診療科を維持できなくなる。

その不利益を最終的に受けるのは、国民です。

 

さらに、美容医療で感染、壊死、血管閉塞、視力障害などの重い合併症が起きれば、救急病院や大学病院、形成外科や眼科などが治療を引き受けることがあります。単なる美容的な修正は保険診療ではありません。しかし、病気やけがとしての治療が必要になれば、公的医療が関わる場合があります。

 

もし、利益は自由診療に入り、医師養成の費用は社会が負担し、重篤な合併症の救済は保険医療が担うという構造が生じているなら、これは単なる若者の進路選択ではありません。

医療人材という有限な公共資源を、社会全体でどう育て、どう生かすのかという政策問題です。

 

ただし現時点では、

直美医師が実際に何人いるのか。
そのうち保険診療へ戻った人は何%なのか。
どの診療科からどれだけ流出しているのか。
そのことで地域医療にどの程度の影響が出ているのか。
美容医療の合併症に公的医療費がいくら使われているのか。

こうした全国的な統計は十分ではありません。

だからこそ、感情論ではなく、まず実態を把握する必要があります。

 

医学部卒業は、医師教育の卒業ではありません。むしろ、そこからの数年間が、医師を医師にする。美容医療は「病気ではない人」を対象にするからこそ、医師としての成熟がより求められる。私はそう考えています。直美問題を、若者のモラルの問題だけに矮小化してはいけません。

社会全体で育てた医師という人材を、どのように国民の医療へ還元していくのか。

ということだと思います。

 

医師免許は個人の資格ですが、医師という人材は、社会全体で育てているのです。だからこそ、その人材をどう育て、どう社会へ還元していくのかは、一人の医師だけではなく、社会全体で考えるべきテーマなのだと思います。

 

 

🕊️ 日本には、世界に誇る社会的処方がある

 

「博物館浴」という言葉をご存じでしょうか。

近年、美術館や博物館で芸術や文化に触れることが、心身の健康やウェルビーイングにどのような影響を与えるか、研究が進められています。海外では、医療と美術館や地域の文化活動を結びつける取り組みも始まっています。WHOも、芸術が健康の増進や疾病の予防、治療の支援に果たし得る役割について、数多くの研究を整理しています。 

 

私は、この流れを心から歓迎しています。

薬だけではなく、芸術や文化、自然、そして人とのつながりを健康に生かす「社会的処方」は、これからの医療に欠かせない考え方だと思うからです。

しかし、その記事を読みながら、私は思わず膝を打ちました。

「日本には、もっとすごいものがあるではないか」

 

♨️


そう。🤣
それは温泉。

 

私は、こよなく温泉を愛しています。

国会の行政監視委員会でも、その魅力について語らせていただきました。半分本気、半分冗談のつもりでしたが、実は今、ますます本気になっています。

考えてみてください。

温泉には、身体を温める力があります。
関節や筋肉への負担を和らげる浮力があります。
そして、全身をやさしく包む水圧があります。

それだけではありません。

 

美しい景色。
虫の声、鳥の声、川の音。
山の幸、海の幸、土地の料理。
家族や友人、あるいは旅先で出会った人との語らい。

スマートフォンから離れ、時計を忘れ、ただ湯に身を委ねる。

病気のことも、仕事のことも、SNSのことも、ほんのひととき忘れることができる。

これは、まさにデジタルデトックスです。

 

私は、温泉こそ日本が世界に誇る、究極の社会的処方の一つではないかと思っています。

フランスでは、医師の処方など一定の条件のもと、温泉療養が公的医療保険の給付対象となっています。日本にも古くから「湯治」という、医療と養生、自然、食、地域文化を一体として捉える知恵がありました。 

 

社会的処方といえば、

ボランティア。
園芸。
運動。
博物館。
観劇や音楽鑑賞。
森林浴。

もちろん、そのどれも素晴らしい。

 

けれど温泉には、身体、心、自然、食、文化、そして人とのつながりを、一つの場所で包み込む力があります。

しかも、日本の温泉には、それぞれに湯治の歴史があり、文化があり、食があり、そこで暮らす人々がいます。温泉は地域を元気にし、文化を守り、観光を支え、人と人をつなぎ、そして心まで温めてくれます。地方創生にもつながる、まさに「おもてなしの国・日本」ならではの社会資源です。

 

AI時代になればなるほど、人は過剰な情報に疲れていきます。

だからこそ必要なのは、何も考えない時間。

何かを成し遂げるためではなく、ただ湯気の中にいて、少しずつ自分を取り戻す時間です。社会的処方とは、病気だけを見つめ続ける時間から、その人を一度解放すること。そして、その人が痛みや不安を忘れるほど、心を委ねられる時間を取り戻すこと。

私は、その最高の舞台の一つが、温泉だと思っています。

 

古びた木造旅館。
湯気の立つ共同浴場。
何百年も湧き続ける源泉。

これらは、単なる観光資源ではありません。湯治文化は日本が世界に誇るべき「健康インフラ」です。古びた温泉街は、過去の遺産ではなく、未来の医療資源なのですから。

 

 

🕊️ 一次資料を読むということ

――ファウチ日記が私たちに問いかけるもの

 

最近、米国でアンソニー・ファウチ博士の約1,100ページに及ぶ業務日誌(いわゆる “Fauci Diaries”)が公開*されました。少なくとも私が確認した範囲では、日本では大きく報じられていないようですので、あえてご紹介したいと思います。

公開したのは米上院国土安全保障・政府問題委員会のランド・ポール委員長です。この日誌をめぐっては、SNS上で様々な情報が飛び交っています。

「ファウチは最初から真実を知っていた。」
「国民を騙していた。」

そうした断定的な投稿も少なくありません。

しかし私は、まず一次資料を読むべきだと思っています。

 

なお、この日誌ですが、もちろん、ファウチ氏がランド・ポール委員長に自ら提出したものではありません。

報道によれば、ファウチ氏が政府機関のコンピューター上に保存していた記録を、米保健福祉省が抽出し、上院国土安全保障・政府問題委員会に提供したものであります。ランド・ポール委員長は、COVID-19の起源、武漢ウイルス研究所、機能獲得研究、EcoHealth Allianceなどをめぐり、保健福祉省やファウチ博士本人に対して、メール、メッセージ、通話記録を含む広範な資料の提出を求めておりました。したがって、これは秘めた日記が諜報活動で露呈した、と言う類のものでもありません。

公務中に政府のシステム上で作成・保存された記録が、政権交代後の政府内調査と議会調査によって掘り起こされたのです。

もっとも、ファウチ自身は、この日誌が公的発言と矛盾するとは考えていないかもしれません。むしろ、未知のウイルスを前に、複数の仮説を検討していた過程を示すものだという立場をとっているようです。

一方、ランド・ポール委員長は、そこに記された私的認識と、後の公的説明との間に看過できない隔たりがあると主張しております。同じ資料を見ながら、双方の解釈は大きく異なると言う話しです。

だからこそ必要なのは、冷静に日付を追い、原文を読み、その時点で何を知り、何を国民に説明したのかを、一つずつ照合することでありましょう。

 

今回、特に注目を集めている記述の部分

 

2020年2月8日の記録**です。

ファウチ氏は新型コロナウイルスについて、

“The case fatality rate*** may be more like 0.2–0.3% rather than 2.0%, suggesting that the overall clinical consequences of Covid-19 may ultimately be more akin to those of a severe seasonal influenza.”

(症例致死率は2.0%というより、0.2〜0.3%程度かもしれない。そうであれば、新型コロナの全体としての臨床的影響は、重い季節性インフルエンザに近い可能性がある。)

と記しています。(⁠Power Line)

 

この文章だけで何が言えるのか

 

ここは極めて慎重であるべきです。これは2020年2月8日時点での私的なメモです。世界中で情報が錯綜し、中国から届くデータも限られていた頃でした。つまり、これは「最終結論」ではありません。当時の推測であり、思考の記録です。

 

しかし、それでも一つの疑問は残ります。

ここで記されているのはCFR(症例致死率)であり、感染者全体を分母とするIFRではありません。2020年当時は軽症者や無症状感染者の多くが把握されていなかったため、仮にこの時点でCFRを0.2〜0.3%程度と推測していたのであれば、実際の感染者全体における致死率(IFR)はさらに低かった可能性も考えられます。

その後、ファウチ博士はテレビ出演や議会証言などで、新型コロナの危険性をより強く説明していくようになります。

 

2月8日の時点での私的評価と、その後の公的説明との関係はどう理解すればよいのでしょうか。多くの人が驚くのは自然な反応だと思います。この点こそ、現在アメリカ議会で議論されている論点の一つです。(⁠AP News)

 

科学は「途中経過」を含めて科学である

 

私は科学とは「常に正しい答えを知っていること」ではないと思っています。むしろ、仮説を立て、修正し、新しい証拠によって考えを絶えず変えていく必要があります。

だからこそ、初期の推測が後に変わること自体は、科学として不自然ではありません。

 

我々が知りたいのは、その時点で何を知っていたのか。なぜそのような判断をしたのか。どの時点で考えが変わったのか。国民への説明は十分だったのか。このプロセスを後世のために検証することです。

 

🇯🇵日本も同じではないでしょうか

 

日本でも、新型コロナ対応について様々な議論がありました。誰かを責めるためではありません。次のパンデミックで同じことを繰り返さないためです。

だから私は、日本でも一次資料を公開し、科学的に検証する文化がもっとしっかりと根付いてほしいと願っています。

科学に必要なのは、信仰ではありません。

透明性です。

そして、その透明性を支えるのは、一次資料を読み、自ら考える市民の存在なのだと思います。

 

<脚注>

*この業務日誌は、ランド・ポール米上院議員が2026年7月に公開した約1,100ページの記録であり、現在米国議会によるCOVID-19起源・政策決定過程の調査資料の一部となっている。 

 

**なお、この2020年2月8日の記述は、当時の私的な推測を記したものであり、その時点で確立した科学的結論を意味するものではない。一方で、この私的評価と後の公的説明との関係については、現在も米国で議論が続いている。 

 

 

🍉 この暑さは、本当に「根性」で乗り切るものなのだろうか

 

今年の夏は、正直、少し怖さを感じています。

「水分は取っていました」
「冷房も使っていました」
という患者さんが熱中症で運ばれてきているようです。

もちろん、熱中症対策は大切です。

水分。塩分。睡眠。冷房。どれも重要です。

しかし最近は、それらの対策をしていても倒れてしまう人が増えている印象があります。

 

つまり、「対策が足りない」のではなく、暑さの質、そのものが変わってきている。そんな時代に入りつつあるのではないでしょうか。

 

私は最近、熱中症の将来予測について調べてみました。

将来さらに暑くなるという予測は数多くあります。

一方で、「15年後に熱中症死亡が1万人になる」というような数字は、現時点では公的機関が示している標準的な予測とはかなり開きがあります。

数字だけが独り歩きするのは慎重であるべきでしょう。

しかし。だからと言って、「まだ大丈夫」とも私は思えません。

なぜなら、私たちはもう、自分の身体で変化を感じ始めているからです。

 

最近、高校生のお子さんを持つ友人から、こんな相談を受けました。

「部活動ではWBGT(暑さ指数)*や深部体温を測定しながら活動しているそうです。でも、少しでも活動を続けられるように、測定場所をできるだけ気温の低い場所に選ぶことがある、と子どもから聞いて、とても心配しています。実際に熱中症で倒れる生徒も出ています。ぜひ国会でも取り上げてください。」

もちろん、すべての学校でそのようなことが行われているとは思いませんし、現場の先生方も、生徒の安全と教育活動の両立に日々苦労されていることと思います。

しかし、この話を聞いた時、私は「現場の努力だけに任せる仕組み」そのものが限界に近づいているのではないか、と感じました。

 

ここで考えたいのは、対策を増やすことではなく、社会そのものを変えること。

例えば、甲子園。夏の部活動。真昼の屋外作業。建設現場。農業。配送。サマーイベント。

「昔からそうだから」という理由だけで続けてよいのでしょうか。

 

南ヨーロッパにはシエスタという文化があります。昼の危険な時間は休み、朝夕に働く。暑さと共存するために、社会の時間そのものを変えてきました。

日本でも、学校の時間、仕事の時間、スポーツ大会の日程、都市の設計、こうしたものを一度ゼロベースで見直す時期なのかもしれません。

 

医療とは、病気になった人を治療することだけではありません。

病気にならない社会を設計すること。それこそ、医療の上位概念です。

熱中症は、個人の努力だけでは防ぎきれない時代に入りつつあります。だからこそ必要なのは、「もっと水を飲みましょう」だけではなく、「この社会の仕組みで本当にいいのか?」という問いなのだと思います。

 

私はこれを、「社会的処方🌿」の一つとして考えています。

薬を増やす前に、社会を少し変える。

気候が変わったなら、生活も変える。

昔の常識を守ることより、命を守ることを優先する。

そんな柔軟さが、これからの日本には必要なのではないでしょうか。文明は、自然に勝つことで発展してきたのではありません。自然に適応して進化してきたのです。

今、私たちはもう一度、その知恵を取り戻す時代に来ているのかもしれませんね。

 

<脚注>

*WBGT(Wet Bulb Globe Temperature:暑さ指数)
気温だけでなく、湿度、日射・輻射熱、風などを総合して、人体が受ける暑熱負荷を示す指標。熱中症予防の目安として、学校、スポーツ、労働現場などで用いられている。なお、WBGTは人の「深部体温」を直接測定するものではない。