🕊️「接種した・していない」は、自己申告でいいのか

――ワクチン検証に必要な「個票突合」と、レセプトだけでは分からないこと

 

前回は色々噂される超過死亡について、勘違いしやすいことをお伝えしました。もう一つ、大事な観点があります。

ワクチンの安全性を検証するためには、接種した人と接種していない人を、正確な記録に基づいて比較することが非常に重要です。

これは厚生労働省自身も認識しており、2026年6月から予防接種データベースの運用が始まり、接種記録とNDB(レセプト情報・特定健診等データベース)などを連結し、接種者と非接種者のリスクを比較するための基盤整備が進んでいます。これは大きな前進だと私は思います。

 

なぜ、こうした「記録同士の突合」が必要なのでしょうか。

一つには、接種歴を自己申告だけに頼ることには限界があるからです。

 

私自身、実際の接種歴と周囲に伝えている接種歴が異なることを、本人から打ち明けられたことが複数回あります。逆のケースや、接種回数・時期そのものが曖昧になっている方もいました。もちろん、これがどの程度の割合で起きているのかは、私の経験だけからは分かりません。したがって「かなりの人が間違って申告している」とまでは言えません。

 

接種したかどうかだけでなく、何回接種したのか。いつ接種したのか。どのワクチンだったのか。まで数年前の記憶だけで正確に答えるのは、誰にとっても簡単ではありません。安全性を科学的に比較するのであれば、自己申告ではなく、正式な接種記録を用いる。これは研究の基本だと思います。

 

🌱 ただし、「レセプトとつなげれば完成」ではありません

 

ここからが、私がもう一段検証してほしいところです。

NDBには確かに膨大なレセプト情報があります。

そのため、

「接種後に病院を受診した」
「心筋炎という傷病名が付いた」
「トロポニン検査をした」
「CTやMRIを撮影した」
「入院した」

といったことは、一定程度追跡できます。しかし、レセプトはもともと診療報酬を請求するための情報です。

 

血液検査を「行った」ことは分かっても、通常のレセプトから、その検査値そのものまでは分かりません。画像検査を「行った」ことは分かっても、その画像そのものや詳細な画像所見までは分かりません。患者さんがいつから、どんな症状を訴え、医師がどう判断し、その後どのような経過をたどったのか――そうした臨床の詳細は、レセプトだけでは十分に分からないのです。

 

厚生労働省自身も、予防接種DBとNDBを使った解析について、「NDBというレセプトのデータの限界」があることや、利用できる情報の性質を踏まえて分析範囲や結果の制約を考慮する必要がある、としています。 

 

2026年7月からは副反応疑い報告の様式も改正され、被保険者番号等から識別子を生成することで、今後、接種記録やNDBなどと連結して解析するための仕組みも整備されつつあります。厚生労働省は、過去の接種歴を踏まえた分析、報告後の臨床的転帰の追跡、既往歴や併存疾患を踏まえた分析などを想定しています。

 

まず、予防接種DB × NDB等を匿名化・適切に管理した上で個人単位に連結し、接種者と非接種者を比較する。

そこで特定の疾患について安全性上のシグナルが見つかったなら、次の段階として、適切な研究手続きと個人情報保護の下で、

診療録、検査値、画像、病理、必要な場合には剖検所見まで遡って詳細に検証する。

つまり、ビッグデータで「どこを見るべきか」を見つけ、臨床データで「実際に何が起きたのか」を確かめる。

この二段構えです。

私は、これがワクチンの安全性を科学的に検証するための、より望ましい仕組みだと考えていますが、ここで新たな問題にぶつかります。

ブログでも、実際の委員会でも、何度も取り上げました。

 

診療録の法定保存義務は5年間です。電子カルテも、NDBも、AIも存在しなかった昭和23年(1948年)の医師法制定時から、この「5年」という期間は変わっていません。

 

せっかく将来、予防接種DBから安全性上のシグナルが見つかったとしても、その時には検証に必要な一次臨床情報が残っていない可能性があります。AIでどれほど高度な解析ができる時代になっても、元になるデータがなければ、AIにも分かりません。

そもそも私たちは、解析すべき一次データを、残しているのか。

 

「安全性を将来検証するために、何のデータを、どのくらいの期間、どのような形で残すのか」。
私は、そこまで含めて医療DXを設計する必要があると思っています。

 

 

🕊️ その「7万人」、超過死亡ですか?
――数字を追いかけたら、「基準線」が見えてきた

 

この数年、「超過死亡」という言葉をよく目にするようになりました。私自身、国会でも超過死亡について取り上げています。

ところが今回、改めて数字を追いかけてみて、非常に大切なことに気づきました。

「超過死亡」という数字は、何と比べるかによって変わる。

当たり前と言えばその通りのことなのですが、ここを飛ばして数字だけを見ると、まったく違う景色が見えてしまいます。

 

🌸 まず、「超過死亡」とは何でしょう

 

家計簿で考えてみます。これまでの支出から、

「今月は30万円くらい使うだろう」

と予測したとします。

ところが実際には35万円使った。

予測より5万円多かった。

超過死亡も、基本的な発想はこれと似ています。

 

過去の死亡動向などから、

「この時期なら、通常これくらいの方が亡くなるだろう」

という死亡数を統計的に予測し、実際の死亡数がそれをどれだけ上回ったかを見るのです。[注1]

ただし普通、ここで終わりませんよね。

ーところで、この5万円は何に使ったのかしら? 

 

レシートを見る。

カード明細を見る。

銀行口座と突き合わせる。

それでもスッキリしなければ、こうなります。

「ねぇ。あなた、家計簿が変なの。何か心当たりある?」🤣

 

死亡についても、本来は同じです。

死亡数が予測より多ければ、次に、

何歳の人が増えたのか。

何の病気で亡くなったのか。

その前にどのような医療を受けていたのか。

感染歴はどうだったのか。

接種歴はどうだったのか。

と、データを一段ずつ掘り下げていく必要があります。

超過死亡は、原因そのものではありません。

「明細を見た方がいい」というサインなのです。

 

🌷 では、日本では実際に何人だったのでしょう

 

「日本の超過および過少死亡数ダッシュボード」で、年間の累積超過死亡を調べてみました。[注2]

すると、

2023年 12,877~28,982人

2024年 3,581~11,436人

2025年 4,022~10,414人

と表示されました。ここで数字に幅があるのにも理由があります。

 

例えば、予測死亡数が100人。統計的な予測範囲の上限が125人。

実際には130人亡くなった。この場合、予測値100人との差なら30人。一方、「通常起こり得る範囲」の上限125人を超えた部分だけなら5人。したがって、超過死亡を5~30人という幅で捉えることができます。[注3]

統計とは、案外慎重なものです。

 

🌼 ではあの「7万人」という数字は?

 

2025年、日本では約159万人が亡くなったと報じられています。

国立社会保障・人口問題研究所が2023年に公表した将来人口推計では、2025年の死亡数はおよそ151万人と見込まれていました。

その差は7万人以上あります。では、「2025年の超過死亡は7万人だった」のでしょうか。

違います。

この7万人は、2023年に公表された将来人口推計と、2025年の実績との差です。[注4]

一方、先ほどの超過死亡ダッシュボードでは、死亡実績などから統計モデルを使って「通常ならこの程度」と考えられる死亡数を推定し、その予測からどれだけ外れたかを見ています。同じ「予測と実績との差」に見えますが、比較している基準線が違うのです。ここは非常に重要です。

 

将来人口推計は、将来の人口規模や年齢構成などを見通すための長期的な人口学的推計です。一方、超過死亡の分析は、通常予測される死亡水準から外れた死亡を検出するためのものです。

目的も、基準線の作り方も違います。

だから、「2025年の実死亡数が、2023年時点の将来推計を7万人以上上回った」とは言えますが、「2025年に7万人の超過死亡が発生した」と、そのまま言い換えることはできません。

 

🌻 海外と比べると、日本だけ異常なのでしょうか

 

もう一つ調べてみました。Our World in Dataには、各国の全死因死亡を比較したデータがあります。[注5]

ここでは「P-score」という指標を使います。

簡単に言えば、実際の死亡数が、予測死亡数より何%多かったか、あるいは少なかったかを見る数字です。私は、「欧米では超過死亡が落ち着いてきたのに、日本だけ高いのではないか」という点も確認してみました。

ところが、実際に同じ指標で各国を並べてみると、そこまで単純ではありませんでした。欧米諸国でも2023年、2024年までプラスの超過死亡がみられる時期があります。少なくとも、この国際比較から、「海外は正常化したのに、日本だけが突出している」とは言えません。

ここで使われている死亡データの主な出典は、Human Mortality DatabaseのShort-term Mortality Fluctuations(STMF)とWorld Mortality Datasetです。Our World in Dataが各国を比較できる形に処理しています。[注6]

 

🌺 さらに要注意なのは「ベースライン」です

 

今回使ったOur World in Dataのグラフは、“projected baseline”つまり、パンデミック前の死亡トレンドから予測したベースラインと実際の死亡数を比較しています。[注7]

Our World in Dataには、過去5年間の平均をそのまま基準にする別の指標もあります。[注8]

ここで、かなり重要なことが見えてきます。

 

超過死亡を見るときには、「何人亡くなったか」だけでは足りない。その前に、「何人亡くなるはずだと考えたのか」を見なければならない。ベースラインの作り方が違えば、「超過」の大きさも変わります。

だから私は、「超過死亡が○万人」と聞いたら、まず私はこう聞きたい。
「そのベースラインは、どう作りましたか?」

 

🪷 それでも、検証する必要はなくならない

 

ここまで書くと、「では、日本の死亡増加には問題がなかったのか」と思われるかもしれません。それも違います。2025年の死亡者数が、2023年に公表された将来推計を7万人以上上回ったこと自体は、検討すべき事実です。また、統計的な超過死亡が観測されてきたことも事実です。

 

問題は、そこから原因を飛躍させないこと。

新型コロナ感染なのか。

高齢化や人口構造の変化なのか。

医療へのアクセスや受診行動の変化なのか。

他の疾患なのか。

暑さなど環境要因なのか。

ワクチンを含む医療介入なのか。

複数の要因が重なっているのか。

超過死亡のグラフだけでは分かりません。

 

だから次に、国際比較 → 年齢別 → 死因別 → 個人単位のデータ

へと降りていく必要があります。接種歴、感染歴、レセプト、入院情報、死亡情報。そして必要であれば、カルテまで戻る。

そこで初めて、「何が起きたのか」に近づくことができます。

私は、数字を大きく見せたいわけでも、小さく見せたいわけでもありません。

正しいサイズ感で見たい。

科学とは、都合のいい数字を選ぶことではなく、その数字が、どのように作られたのかまで確かめること。

今回、超過死亡について改めて調べてみて、私はそのことを強く感じました。

 

<脚注>

[注1]超過死亡とは
一般に、実際に観測された死亡数と、過去の死亡動向などから推定した「期待死亡数」との差を用いて評価する。したがって、期待死亡数をどのようなモデル・期間から推定するかによって結果は変わり得る。

[注2]日本の超過および過少死亡数ダッシュボード
日本国内の超過・過少死亡を地域別・期間別に確認できる公開ダッシュボード。今回の記事では「累積-死亡数」の全国表示を使用した。公開画面では解析用のObserved.csv、Estimates_weighted.csv、Estimates.csvおよびRコードも提供されている。

[注3]なぜ超過死亡に「幅」があるのか
ダッシュボードでは「予測死亡数を上回った死亡数」と、「予測閾値上限を上回った死亡数」という異なる考え方が示される。予測には統計的な不確実性があるため、点推定との差だけでなく、通常の変動範囲を超えた部分を見ることが重要になる。

[注4]社人研の将来人口推計について
国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口(令和5年推計)」は、2020年国勢調査を基準人口とし、出生・死亡・国際人口移動について仮定を設定して将来人口を推計したもの。毎年の超過死亡を検出するための統計モデルとは目的が異なる。

[注5]P-scoreとは
概念的には、
(観測死亡数-予測死亡数)÷予測死亡数×100
で表される。例えば予測死亡数100人に対して実際の死亡数が110人なら、P-scoreは+10%となる。

[注6]国際比較データの出典
Our World in Dataの当該データは、Human Mortality Database(HMD)のShort-term Mortality Fluctuations(STMF)と、Karlinsky & KobakによるWorld Mortality Datasetなどを基礎としている。国によって死亡統計の完全性や報告遅延などに差がある点には注意が必要である。

[注7]projected baselineとは
今回使用したOur World in Dataの指標は “Excess mortality P-scores, projected baseline, all ages”。Karlinsky & KobakのWorld Mortality Datasetの方法では、パンデミック前の2015~2019年の死亡トレンドを線形外挿して期待死亡数の基準を作る。したがって、この指標はパンデミック前の死亡動向から作られた予測値を基準とするものであり、他の超過死亡モデルとはベースラインの作り方が異なり得る。

[注8]ベースラインは一つではない
Our World in Dataには、projected baselineのほか、過去5年間の平均を基準としたP-scoreも公開されている。死亡数がもともと増加・減少トレンドにある国では、単純な過去平均とトレンドを考慮した予測とで結果が異なり得る。

 

 

🕊️ 測れないものを、国が守る
――文化という「値段のつかない資産」

 

ラジオの収録をしながら、もう一つ考えたことがあります。

それは、文化を誰が守るのか、ということです。

私たちは政治の世界にいると、どうしても「成長」「投資」「生産性」「国際競争力」という言葉に囲まれます。

もちろん、どれも大切です。

 

経済が弱れば、医療も福祉も教育も支えられません。
新しい産業を育てることも必要です。
AIや半導体、量子技術、バイオテクノロジーなど、次の時代の基盤技術に国が投資することにも意味があります。

けれど、最近私は、少し違うことを考えるようになりました。

 

国は、市場と同じことだけをしていてよいのだろうか。

民間企業は、利益を生み出すものに投資します。

それは当然です。

100の研究開発に投資して、そのうち一つが巨大な産業になる。

そういう世界もあるでしょう。けれど国家までが、すべてをその尺度で考える必要があるのでしょうか。

むしろ国にしか守れないものは、

すぐには利益を生まないもの。
生産性では測れないもの。
市場に任せておけば、静かに消えてしまうもの。

なのではないか。

そんなことを思うのです。

 

🍵 一杯のお茶ほど「生産性の悪い」ものはない

 

たとえば、茶道。

一杯のお茶を飲むために、どれほどの時間を使うのでしょう。

器を選ぶ。
花を一輪生ける。
掛物を選ぶ。
季節を読む。
湯を沸かす。
客を待つ。

生産性だけで評価したら、大変です(笑)。

 

もっと早くお茶を淹れる方法はいくらでもあります。

華道だってそうです。

花を最短時間で花瓶に突っ込めば、時間当たりの処理本数は増えるでしょう。

香道に至っては、「香りを聞く」。

何かを大量生産するわけでもありません。

けれど、日本人は何百年もの時間をかけて、こうした一見「役に立たない」行為を、道にまで高めました。

茶道。華道。香道。武道。

そこには技術だけではなく、身体の所作、空間、季節、自然、他者への配慮、そして生と死へのまなざしまで含まれています。

私はそこに、日本文化独特のセンシュアリティがあると思っています。

見る。聞く。触れる。香る。味わう。そして、その奥にあるものを感じる。五感を通して世界を受け取り、そこに意味を見出す。

これは数字にはなりません。

 

🌸 日本文化は「物を増やす文化」ではなかった

 

考えてみれば、日本文化には不思議なところがあります。

たくさん所有することより、少ないものの中に意味を見つける。

満開の桜だけではなく、散る桜を見る。

完璧な器だけではなく、欠けや歪みに美を見る。

何もない空間を「余白」として味わう。

一杯のお茶の中に、季節も、人間関係も、一期一会も、生と死さえ入れてしまう。

つまり、物を増やすのではなく、意味を増やす。

そういう文明だったのではないでしょうか。

 

🕰️ 江戸には「発酵する時間」があった

 

江戸時代についても、最近少し考えます。もちろん、いわゆる「鎖国」は、日本が完全に世界から遮断されていたという意味ではありません。長崎を通じてオランダや中国とつながり、朝鮮、琉球などを介した交流もありました。

だから「閉じたから文化が発展した」と単純化するつもりはありません。けれど、外から入ってきたものが、今ほど瞬時に日本社会を覆い尽くす時代ではなかった。

入ってきたものを、一度自分たちの中に取り込んで、

咀嚼する。組み替える。日本化する。そこには時間がありました。

私はそれを、文化が発酵する時間と呼びたいと思います。

浮世絵も、歌舞伎も、俳諧も、工芸も、食文化も。長い時間をかけて、日本独特のものになっていった。

ところが今は、世界中の情報が一秒で届きます。

東京も、パリも、ニューヨークも、ソウルも、同じブランド、同じ音楽、同じSNS、同じアルゴリズムに囲まれていく。

AI時代になれば、それはさらに加速するでしょう。

だから私は、今必要なのは「鎖国」ではなく、発酵する時間を取り戻すことなのではないかと思っています。

 

🗼 戦後、日本は「豊かさ」を少し取り違えたのかもしれない

 

戦後の日本は、驚異的な経済成長を遂げました。

焼け野原から立ち上がり、世界有数の経済大国になった。これは、間違いなく大きな成功です。そして、アメリカ型の大量生産、大量消費、効率性、合理性から学んだことも非常に多かった。その恩恵を、私たち自身が受けています。

だから、それを否定するつもりはありません。

ただ、その成功があまりにも大きかったからこそ、

いつの間にか、豊かさ=たくさん持つことになりすぎてはいなかったでしょうか。

GDP。所得。生産性。成長率。どれも重要です。でも、人間が幸福に生きるためのものを、すべてそこに換算することはできません。

 

🎨 フランス人が教えてくれたこと

 

フランスだって、もちろん経済を大切にします。世界的企業もラグジュアリーブランドもたくさんあります。けれど同時に、フランス人には、文化は国家が守るものだという感覚が、日本よりずっと強いように私は感じてきました。

言語。文学。映画。演劇。美術。建築。食。景観。歴史的建造物。こうしたものは、「儲かるなら残す、儲からないならなくなっても仕方がない」という市場原理だけには委ねない。

なぜなら、それは国のアイデンテティに関するからです。それらがなくなれば、フランスという国そのものが、フランスでなくなってしまうからです。

 

📜 国語がなくなれば、国は何を失うのか

 

今日の収録では、フランスの国語教育についても話しました。

フランスでは、母国語を非常に重視します。けれど私は、それは単なる愛国心の問題ではないと思っています。

言葉は、思考するための道具だからです。

語彙がなければ、世界を細かく切り分けることができない。
自分の考えを文章にできなければ、他者と議論することもできない。そして、自分たちの文学や歴史を、自分たちの言葉で次の世代に渡せなくなったとき、その国は何をもって「同じ国」であり続けるのでしょう。

 

そんなことを考えていたところ、ちょうど興味深い記事を目にしました。

ノーベル化学賞を受賞した白川英樹先生が、「なぜ日本人のノーベル賞受賞者が多いのか」という問いについて、日本語で高度な学問を学べることの意味に触れていました。

日本では、物理学も化学も医学も、大学のかなり高度なところまで日本語で学ぶことができます。

これは、考えてみれば当たり前のことではありません。

江戸から明治にかけて、先人たちは欧米の学問を必死に読み解き、新しい概念に日本語を与えてきました。

「科学」「哲学」「社会」「自由」「権利」――。

外国から入ってきた知を、ただ外国語のまま借りるのではなく、自分たちの言葉で考えられるものにした。

その膨大な知的蓄積の上に、私たちは立っています。

 

もちろん、外国語は大切です。
外国語は、世界へ開かれた「窓」です。

けれど、窓から入ってきた世界を理解し、組み立て直し、自分の思想にするためには、思考の土台となる言葉が必要です。

母国語とは、単なるコミュニケーションの手段ではありません。
思考するためのOSでもあるのだと思います。

経済は衰退しても、また立て直せるかもしれない。

けれど、言葉と文化を失った国を、もう一度つくり直すことは、とても難しい。国語が衰えれば、単語がいくつか消えるだけではありません。

その言葉でしか表現できなかった感情。
世界の切り取り方。
美意識。
記憶。
そして、何百年、何千年と受け継がれてきた人々の思考まで、少しずつ失われていきます。

だから私は、国語を守ることは、単に「美しい日本語を守る」という話ではないと思っています。

自分たちの頭で考え続けられる社会を守ること。

それが、国語を守るということなのではないでしょうか。

そしてAIが、瞬時に文章を書き、翻訳し、答えまで出してくれる時代だからこそ、このことは以前より重要になっているように思います。

AIが言葉をつくってくれる時代に、
私たちは自分の言葉で考えることを手放してはいけない。

国語を守ることは、文化を守ることであり、思考を守ることであり、もしかすると、人間が自分で考える自由を守ることなのかもしれません。

 

💰 国にしかできない投資がある

 

政治の世界に入ってみて、ますます思います。何でも「費用対効果」で測ろうとする。もちろん私はEBPMを重視しています。

数字は大切です。

むしろ、測れるものは徹底的に測るべきだと思っています。

でも同時に、測れないものまで、存在しないことにしてはいけない。これは非常に大切です。

市場が投資できるものには、市場が投資すればいい。

成功すれば巨大な利益が出る技術には、世界中から資本が集まります。

 

では、誰が古い能舞台を守るのでしょう。

誰が地方に残る祭りを次の世代へ渡すのでしょう。

誰が職人の技を残すのでしょう。

誰が子どもたちに、本物の音楽や演劇や美術に触れる機会をつくるのでしょう。

誰が、国語を徹底的に教えるのでしょう。

私は、そこにこそ国家の役割があると思います。

市場が拾わない価値を拾うこと。

次の四半期ではなく、100年後を考えること。

それが国家にしかできない仕事の一つではないでしょうか。

 

🌺 生産性の反対側にあるもの

 

政治では「生産性を上げる」という言葉をよく聞きます。

もちろん必要です。でも私は最近、その反対側にも目を向けたいと思うようになりました。

子どもとゆっくり話す。

老人の昔話を聞く。

本を読む。

音楽を聴く。

花を見る。

誰かを弔う。

一杯のお茶を丁寧に淹れる。

どれも、生産性という尺度では非常に効率が悪い。

 

けれど、人生を人生らしくしているものは、案外そういう時間ばかりです。文化は、余裕ができてから楽しむ贅沢品ではありません。人間が、

何を美しいと思うのか。

何を恥ずかしいと思うのか。

何を守りたいと思うのか。

何のために生きるのか。

その基準を、何世代にもわたってつくってきたものです。

 

だから文化は、社会の飾りではない。

文化は、その社会のOSなのだと思います。

経済は、国を豊かにする。

科学は、国を強くする。

けれど、文化は、その国が何者であるかを決める。

だからこそ、国が守る。

市場で値段がつかないからこそ、守る。

生産性が悪いからこそ、残す。

そんな政治があってもよいのではないでしょうか。

 

一杯のお茶に、百年後の日本を見る。

政治とは、本来そのくらい長い時間を考える仕事なのだと、私は思っています。

 

 

🕊️「いい子」だけでは、生き残れない
――哲学というサバイバル教育

 

今日はラジオの収録があり、改めてフランスの哲学教育について思索する時間となりました。

フランスに20年ほど暮らし、3人の息子を育てた私にとって、フランスの教育は決して目新しいものではありません。

けれども不思議なものです。

長く知っていたはずのことが、自分の立場や時代が変わることで、突然、別の意味を持って見えてくることがあります。

今日、話しながら、ふと一つの言葉が浮かびました。

 

サバイバル。

 

ああ、そうだったのか。

フランスの哲学教育とは、単なる「教養」ではなく、予測不能な世界を生き抜くための、サバイバル教育でもあったのではないか。

そんなことに、今さらながら気づいたのです。

 

💯 正解がある時代から、正解が消える時代へ

 

日本の高度経済成長期には、ある程度、人生の「正解」が見えていたように思います。

よく勉強する。
いい学校へ行く。
安定した会社に入る。
組織のルールを守り、きちんと働く。

もちろん誰もがその道を歩いたわけではありません。

それでも社会全体としては、「こうすれば、おそらく明日は今日より豊かになる」という共通の物語があった。

 

戦争も、もう起きないだろう。
経済は成長していくだろう。
科学技術は人間を幸福にしていくだろう。

少なくとも、そう信じることのできる時代でした。

 

ところが今ではどうでしょう。

パンデミック。
戦争。
気候変動。
人口減少。
AI。
そして、昨日まで存在しなかった技術が、明日には社会の常識を変えてしまう。もはや、「昨日の正解」が「明日の正解」である保証はありません。

 

こんな時代に必要なのは、正解をたくさん覚えていることだけではない。

正解がなくなったときに、自分で考えられること。

私は、これこそがこれからの時代のサバイバル能力なのではないかと思います。

 

🥖 フランス人は「正解」を教わるだけではない

 

フランスの教育では、自分の意見を持つことをかなり早くから求められます。

白紙から自分の論を組み立てる。

自分とは反対の立場からも考えてみる。

「ほかの人と違う意見」を恐れない。

そして、意見が違う人間同士が、どうすれば一緒に生きていけるのかを考える。

日本では、「みんな仲良くしましょう」と言います。

もちろん、それ自体は美しいことです。

でもフランスでは、少し発想が違うように私は感じてきました。

みんな同じだから仲良くするのではない。
みんな違う。それでも、どうやって一緒に生きるかを考える。

そこには、かなり現実的な人間観があります。

 

人間は意見が違う。
価値観も違う。
ときには利害も衝突する。

だからこそ、言葉を尽くす。
議論する。
相手の論理を聞く。
そして、自分の考えも疑ってみる。

これは、とても実践的な哲学です。

 

📕 哲学は「偉い哲学者を覚える科目」ではない

 

フランスでは、高校最終学年で哲学を学び、バカロレアにも哲学の試験があります。

けれども、哲学教育の本質は、デカルトやカントやサルトルの功績をたくさん覚えることではないと思っています。

むしろ、「本当にそうなのか?」と問うこと。

そして、「反対側から見たら、どう見えるのか?」と考えること。

さらに、「自分の考えも、間違っているかもしれない」という余白を残しておくこと。

これは知識というより、思考の作法です。

 

そして今日、私は改めて思いました。

哲学とは、平和で余裕のある社会における高尚な趣味ではない。

むしろ逆なのではないか。

正解のない世界で生き延びるための技術、実践なのではないか。

 

🗣️ 必要なら、一人でも立ち止まる

 

私は「レジスタンス」という言葉が好きです。

もちろん、何にでも反対するという意味ではありません。

多数派に逆らうことそのものにも、何の価値もありません。

大切なのは、みんなが右へ走っているときに、「本当に右でいいのだろうか?」と、一度立ち止まれること。

そして自分で考えた結果、やはり右だと思えば右へ行けばいい。

でも違うと思ったなら、一人でも左へ行く勇気を持つ。

 

私の次男が3.11のときに見せた、たった一人の小さな「レジスタンス」を思い出しました。今になってみると、あれも一つのサバイバル能力だったのかもしれないと思います。

集団から離れる勇気と、集団に戻る知性。

両方が必要なのです。

 

🤖 そして、AI時代へ

 

この話は、AIの時代になって、さらに重要になったと思います。

AIは、答えを出してくれます。しかも、驚くほど上手な文章で。

これからは、知識を持っていることだけでは、人間の圧倒的な強みにはならなくなるでしょう。

では、人間には何が残るのか。

私はその一つが、「問いを立てること」だと思っています。

AIが答えを出したときに、「なぜ?」「その前提は?」「反対の立場なら?」「その数字は何を意味しているの?」と問い返すこと。

だから私は、これからの教育には二つのものが、ますます重要になると思っています。

 

哲学と統計学。

なんだか妙な組み合わせでしょうか(笑)。

でも、私は案外、最強の組み合わせだと思っています。

哲学は、「その論理、本当に正しい?」と問いかける。

統計学は、「その数字、本当にそういう意味?」と問いかける。

たとえば「リスクが50%減りました」と言われたとき。

 

そこで思考を止めない。

50%とは何に対する50%なのか。
相対リスクなのか、絶対リスクなのか。
対象となった人は誰なのか。
期間はどれくらいなのか。

数字を疑うというのは、数字を否定することではありません。

疑うとは、反対することではない。確かめることです。

これは哲学にも、科学にも、政治にも共通する姿勢だと思っています。

 

👶「いい子」を育てるだけでは足りない

 

これからの子どもたちが生きていく世界は、おそらく私たちの世代以上に予測不能です。だから私は、「いい子」を育てることだけを教育の目的にしてはいけないと思います。

先生の言うことをよく聞く。

模範解答を書く。

空気を読む。

みんなと同じ行動をする。

そういう能力が必要な場面はもちろんあります。

 

でも、社会そのものが間違った方向へ動いたときには、それだけでは自分を守れない。

ときには、「ちょっと待って」と言える人間が必要です。

そして、その「ちょっと待って」を、感情だけではなく、言葉と論理と数字で説明できること。

私はそれこそが、本当の意味での自立なのだと思います。

 

🖊️ 哲学は、生きるためにある

 

長くフランスに住んでいた頃には、ここまで考えていませんでした。哲学教育も、フランス語教育も、議論好きな国民性も、私の中ではそれぞれ別々の風景でした。

ところが、医師として科学を見て、AIについて考え、そして今、政治の現場から社会を見るようになって、点だったものが少しずつ線になってきました。

 

母国語は、考えるための道具。

哲学は、論理を疑うための道具。

統計学は、数字を疑うための道具。

そして、そのすべてが、自分の頭で考えて、生き延びるための力。なのかもしれません。

 

哲学というと、少し難しく聞こえます。

けれど、本当はもっと切実なものなのでしょう。世界が昨日と同じなら、哲学なんてなくても生きていけるかもしれない。

でも、世界が突然変わったとき。

誰も正解を知らないとき。

権威ある人たちの意見さえ分かれているとき。

そのとき最後に頼れるのは、「私は、どう考えるのか」という、小さな自分自身の思考です。

 

だから哲学は、人生を飾るためにあるのではない。

人生を生き抜くためにある。

今日のラジオ収録で、そんなことに改めて気づきました。

20年暮らしたフランスから、ずいぶん時間が経ってから受け取った、もう一つの宿題なのかもしれません。

 

 

💊「足りないから補う」と「健康のために足す」は、同じではない――サプリメントと老化した脳をめぐる、ちょっと気になる研究

 

私は美容医療に長く携わってきましたので、サプリメントとは無縁ではありません。

ビタミンC、ビタミンD、鉄、亜鉛、オメガ3……。

もちろん、必要な人に必要な栄養素を補うことには、医学的な意味があります。ですから私は、サプリメントそのものを否定するつもりはありません。

ただ最近、「体にいいものなら、足せば足すほどいい」という考え方には、少し立ち止まった方がいいのではないか。

そんなことを考えさせられる研究が、相次いで発表されています。

 

🧠 ビタミンD、オメガ3、そしてグルコサミン

 

まずビタミンDです。

2026年、BMJ Open に、米国の50歳以上5,065人を対象とした前向きコホート研究が発表されました。平均年齢は67.5歳。約6年間、認知機能の変化を追跡しています。*1

その結果、ビタミンDサプリを使用していた人では、使用していない人より、認知機能の低下がわずかに速いという関連がみられました。興味深いのは、感度分析ではこの関連が、もともと血中25(OH)Dが正常だった人でみられ、不足・欠乏していた人ではみられなかったことです。 

 

次はオメガ3です。

魚を食べることと、フィッシュオイルのカプセルを飲むことは、どうも同じではないようです。

2026年、The Journal of Prevention of Alzheimer’s Disease に、ADNI(Alzheimer’s Disease Neuroimaging Initiative)の長期データを使った研究が発表されました。

オメガ3サプリ利用者273人と非利用者546人を比較したところ、利用者では認知機能の低下が速いという関連がみられました。*2

ただし、これも観察研究です。「オメガ3を飲んだから認知機能が低下した」ことを証明した研究ではありません。  

 

そして、もう一つ私が気になったのがグルコサミンです。

こちらは研究の組み立てが少し違います。

2026年6月、Nature Metabolism に発表された研究では、アルツハイマー病モデルマウス、ヒトの死後脳、さらに電子カルテデータなど、複数の方向からタンパク質の糖鎖修飾を調べています。アルツハイマー病ではタンパク質のN型糖鎖修飾が広範に増加していました。そして動物実験では、この経路を抑えると病態が改善する一方、グルコサミン摂取によって糖鎖修飾を促進すると病態が悪化しました。さらに人の医療データを用いた後ろ向き解析でも、グルコサミン使用と軽度認知障害からアルツハイマー病・関連認知症への進行との関連が報告されています。*3  

これは少々気になります。

でも、ここには大きな赤線を引いておきたい。「グルコサミンを飲んだから認知症になった」と証明されたわけではありません。

 

🔄 原因と結果が逆かもしれない

 

サプリメントの研究は、実はとても難しい。たとえばグルコサミンを飲む人は、そもそも関節痛や変形性関節症を抱えている人が多いでしょう。

関節が痛い。歩く量が減る。筋力が落ちる。外出が減る。人との交流も減る。こうした背景そのものが、認知機能と関係している可能性があります。

つまり、グルコサミン → 認知症 なのか、関節疾患やフレイル → グルコサミンを飲む
 → 認知症リスクにも関係する なのか。

観察研究だけでは、簡単には分けられません。

 

実際、米国のサプリメント業界団体も今回の研究に対して、この confounding by indication(適応による交絡) の可能性を指摘しています。業界側からの見解なので、それ自体も割り引いて読む必要がありますが、疫学的な論点としては重要です。*4  

 

逆方向も考えられます。

「最近ちょっと物忘れが気になる」「以前より疲れる」そんな変化を感じたからこそ、健康を意識してサプリを飲み始めた可能性もあります。

そして私はもう一つ、臨床的には気になることがあります。

「自分はサプリを飲んでいるから大丈夫」という安心感です。

もちろん、これは今回の研究で検証されたことではありません。

ただ、錠剤を一つ飲むことで、食事、運動、睡眠、外出といった本来の生活習慣が置き換えられていないか。

サプリメントを研究するときには、錠剤だけではなく、それを飲んでいる人そのものの行動変容を見る必要があると思います。

 

🇯🇵 ところで、「日本人の98%がビタミンD不足」?

 

ここでビタミンDについて調べてみると、さらに面白い数字が出てきます。2023年に発表された研究では、東京都内で健康診断を受けた成人5,518人の血中25(OH)Dを測定しています。

日本の2017年の判定基準では、30 ng/mL以上:充足
20~30 ng/mL未満:不足
20 ng/mL未満:欠乏とされています。*5  

この30 ng/mLという線を基準にすると、東京の研究では、なんと対象者の98%が30 ng/mL未満でした。*6  

98%。こう聞くと、「それは大変。日本人はみんなビタミンDサプリを飲まなくては」と思ってしまいそうです。

でも、私はここで一度止まりたくなります。

本当に98%もの人が、健康上問題となる意味で「不足」しているのでしょうか。もちろん、この研究は日本全国から無作為抽出した調査ではありません。東京都内で健診を受けた人たちです。

ですから、「日本人の98%がビタミンD不足」と一般化するのは正確ではありません。さらに面白いことがあります。

この5,518人から実際に算出された25(OH)Dの基準範囲は、全体で6~29 ng/mLでした。つまり、一見健康な東京の集団で観察された分布と、「30 ng/mL以上を充足とする」という医学的な判定基準との間に、大きなずれがあったのです。 

これは、「不足」という言葉そのものを少し考えさせます。

 

そしてここには、大切な注意点があります。「30 ng/mL未満=不足」という線は、世界共通ではありません。

たとえばドイツでは、骨の健康という観点から20 ng/mL以上を十分とする基準が使われています。それでも成人の約56%が20 ng/mL未満でした。韓国でも、全国調査では20 ng/mL未満が男性約47%、女性約65%でした。

さらに米国内分泌学会は2024年、健康な一般成人について、従来の「30 ng/mL以上を充足」とする考え方を採用しない方針に転換しました。健康な成人では、疾病予防という観点から、どの25(OH)D値以上を目指せば健康上の利益が得られるのかが、臨床試験では確立されていないからです。 

これは統計のトリックではありません。

どこからを「不足」と呼ぶのか。そして、その数字を上げることで本当に病気が減るのか。この二つは、実は別の問題なのです。

 

🇺🇸 アメリカでは、基準の考え方も変わってきた

 

さらに興味深いのが、2024年の米国内分泌学会(Endocrine Society)のガイドラインです。健康な成人では、疾病予防という観点から「この25(OH)D値以上なら健康上の利益が得られる」という閾値は臨床試験から確立されていないとして、ルーチンの25(OH)D測定を推奨していません。

また50~74歳の一般成人では、通常の推奨摂取量を超えて一律にビタミンDを補充することも勧めていません。*7

一方で75歳以上では、死亡リスク低下の可能性から経験的な補充を提案するなど、年齢によっても推奨は違います。 

つまり、血液の数字が低い 
→ サプリを飲む → 数字が上がる 
→ 病気が減る というほど単純ではないということです。

不足している人を補うことと、すでに十分な人にさらに足すこと。この二つは、同じ「ビタミンDを飲む」という行為でも、分けて考える必要がありそうです。

 

☀️ 皮膚科医としては、やっぱり「太陽」こそ気になる

 

そしてビタミンDには、サプリ以外の供給源があります。

食事。そして、お天道様です。

皮膚ではUVBを利用してビタミンDが合成されます。

これは皮膚科医として、少々悩ましいところです。🤣

私は長年、「紫外線には気をつけて」「シミや光老化を防ぎましょう」と言ってきました。

もちろん、ビタミンDのためにわざわざ日焼けする必要はありません。紫外線には光老化や皮膚癌という別の問題があります。でも、だからといって一日中室内にいて、食事も運動もそのままに、「足りない分はカプセルで」が正解なのか。

私はかなり疑問です。

適度に屋外へ出る。歩く。魚などを含め、食事を整える。

そして本当に必要なら、医学的な理由に応じて補う。

なんだか、ずいぶん昔ながらの結論に戻ってきます。🤣

ちなみに今回の BMJ Open 論文の著者自身も、十分なビタミンD状態にある高齢者への漫然としたサプリ使用には慎重であるべきとし、食事と**moderate sun exposure(適度な日光曝露)**による十分な摂取に言及しています。 

 

🌏 そもそもアメリカ人の結果を、そのまま日本人に当てはめていいの?

 

もう一つ、大切な問題があります。今回のビタミンDやオメガ3の研究は、米国の集団を対象にしています。でも、栄養というものは、その国の食生活や生活環境から切り離して考えられません。

もともと十分な栄養を摂取している集団にさらに加えることと、特定の栄養素が不足している集団に補うことは違います。

年齢も違う。男性と女性でも違うかもしれない。日照環境、皮膚の色、食文化、体格、生活習慣も違う。遺伝的背景による吸収や代謝、疾病感受性の違いも研究すべきでしょう。

 

だからこそ、日本人については、日本人で検証する。

これはとても大切だと思います。

米国で「効いた」から日本人にも効く。米国で「悪い関連が出た」から日本人にも危険。どちらも飛躍です。栄養こそ、本来かなり個別化医療に近い分野なのかもしれません。

 

🇪🇺 ヨーロッパでは、ビタミンにも「上限」を置いている

 

「でも、薬ではなくビタミンの話しでしょう?」と思う方もいるでしょう。ところが欧州食品安全機関(EFSA)は、ビタミンにもTolerable Upper Intake Level(耐容上限量)を設定しています。たとえばビタミンDについて、EFSAは2023年の再評価でも成人の耐容上限量を100 μg/日(4,000 IU/日)としました。*8  

もっと興味深いのがビタミンB6です。

EFSAは2023年、過剰摂取と末梢神経障害との関連を系統的に検討し、成人の耐容上限量を12 mg/日と設定しました。

そしてEFSAは、通常の食事をしている欧州人ではこの上限を超える可能性は低い一方、高用量のB6サプリを常用する人では超える可能性があるとしています。*9  

つまり、不足しても問題。
摂りすぎても問題。

考えてみれば当たり前です。

サプリメントは食品の顔をしていますが、体内に入れば生理活性をもつ物質です。

「自然なものだから」

「ビタミンだから」

「薬ではないから」。

それだけで、無条件に安全になるわけではありません。

 

🕊️ サプリを捨てる話ではありません

 

今回の研究を読んで、「ビタミンDは危険だ」「オメガ3は飲んではいけない」「グルコサミンを飲むと認知症になる」と結論するのは早すぎます。まして、欠乏症など医学的な理由で補充している人が、自己判断で中止する話でもありません。

私が伝えたいのは、もっと単純なことです。

「足りないから補う」と、
「健康に良さそうだから、さらに足す」は、同じではない。

そして、「98%が不足」という数字を見ても、「では98%にサプリを配れば解決」というほど、人間の体は単純ではありません。

何が足りないのか。本当に足りないのか。なぜ足りないのか。誰に、どのくらい必要なのか。年齢によって違わないのか。性別や生活習慣によって違わないのか。

そして何より、その数字を上げることで、本当にその人の健康というアウトカムが改善するのか。サプリメントについて考えるときも、最後に必要なのは、「誰に、何を、どれだけ」なのだと思います。

健康も栄養も、平均値だけでは決められない。

最近の研究は、そんな当たり前のことを、もう一度私たちに問いかけているように思います。

 

📚 脚注・参考文献

*1 ビタミンDと認知機能
Association between vitamin D supplement use and cognitive functioning: a longitudinal cohort study. BMJ Open. 2026;16:e106050. 米国Health and Retirement Studyの5,065人(平均67.5歳、女性61.6%)を対象とした前向きコホート研究。ビタミンD利用者は2,004人(39.6%)。6年間でglobal cognitive functionの低下速度に年間−0.052点の差(95%CI −0.092~−0.013)がみられた。観察研究であり、因果関係を証明するものではない。 
⁠BMJ Open 原著

*2 オメガ3サプリと認知機能
The association between omega-3 supplementation and cognitive decline in older adults. The Journal of Prevention of Alzheimer’s Disease. 2026;13(6):100569. ADNIを利用した縦断的観察研究で、認知機能に加えAβ-PET、tau-PET、MRI、FDG-PETなども解析している。因果関係を証明するRCTではない。 
⁠JPAD 原著

*3 グルコサミン・糖鎖修飾とアルツハイマー病
Hawkinson TR, Liu Z, Ribas RA, et al. Hyperglycosylation is a metabolic driver of Alzheimer’s disease. Nature Metabolism. 2026;8:1410–1425. DOI:10.1038/s42255-026-01538-4. 動物実験、ヒト死後脳、空間オミクス、後ろ向き臨床データなどを組み合わせた研究。野生型(健康な)マウスにグルコサミンを与えても、脳内の糖タンパク蓄積や記憶障害は起きなかった。 ヒトについてグルコサミン摂取と認知症の因果関係を確立した臨床試験ではない。
⁠Nature Metabolism 原著

*4 グルコサミン研究に対する別の解釈
米国Council for Responsible Nutritionは、変形性関節症、身体活動低下、フレイルなどによる交絡の可能性を指摘している。これはサプリメント業界団体による見解であり、独立した研究結果ではないため、その立場を踏まえて読む必要がある。

*5 日本のビタミンD判定基準
日本骨代謝学会・日本内分泌学会等の専門家委員会による2017年の判定指針では、血清25(OH)D ≥30 ng/mLを充足、20~30 ng/mL未満を不足、20 ng/mL未満を欠乏としている。 
⁠Endocrine Journal 判定指針

*6 東京の成人5,518人の研究
Determination of a Serum 25-Hydroxyvitamin D Reference Ranges in Japanese Adults Using Fully Automated Liquid Chromatography–Tandem Mass Spectrometry. 2019~2020年に東京都内で健診を受けた5,518人を測定。98%が25(OH)D <30 ng/mLだった。観察された基準範囲は全体で6~29 ng/mL。この集団は日本国民全体の無作為標本ではない点に注意が必要である。 
⁠原著

*7 Endocrine Society 2024ガイドライン
Demay MB, Pittas AG, Bikle DD, et al. Vitamin D for the Prevention of Disease: An Endocrine Society Clinical Practice Guideline. J Clin Endocrinol Metab. 2024;109:1907–1947. DOI:10.1210/clinem/dgae290. 健康成人では疾病予防に最適な25(OH)D値が臨床試験から確立されておらず、一般的なルーチン検査を推奨していない。50~74歳ではDRIを超える経験的な一律補充にも否定的。一方、75歳以上などについては異なる推奨がある。 
⁠Endocrine Society ガイドライン

*8 EFSA:ビタミンDの耐容上限量
EFSA Panel on Nutrition, Novel Foods and Food Allergens. 2023年の再評価で、成人(妊娠・授乳中を含む)のビタミンD耐容上限量を100 μg/日(4,000 IU/日)としている。これは「推奨量」ではなく、慢性的に超えないことを意図した上限量である。

*9 EFSA:ビタミンB6と末梢神経障害
EFSA NDA Panel. Scientific opinion on the tolerable upper intake level for vitamin B6. EFSA Journal. 2023;21:e08006. DOI:10.2903/j.efsa.2023.8006. 過剰なB6摂取と末梢神経障害との関係をcritical effectとして評価し、成人のULを12 mg/日に設定。高用量サプリ常用者ではULを超える可能性があるとしている。 
⁠EFSA Scientific Opinion

 

 

🕊️ AIに反論されて、考えを変えるのは危険なのか

――トロッコ問題と、「自分の正解」を疑う力

 

とても興味深い研究を読みました。神戸大学の研究チームが、若年者56人と高齢者74人に、いわゆる有名な「トロッコ問題」を提示した研究です。

 

暴走するトロッコの先に5人がいる。

そのままなら5人が犠牲になる。

でも、自分がポイントを切り替えれば5人は助かる代わりに、別の線路にいる1人が犠牲になる。

あなたなら、切り替えますか?

 

正解はありません。

だからこそ、哲学や倫理学で長く使われてきた問いです。

この研究で面白いのは、参加者が一度判断したあと、生成AIがその判断に反対する立場から意見を提示したことです。

 

すると、転換機問題では32.31%、別の「歩道橋問題」では36.92%の人が、最初の判断を変えました。

つまり、AIに反論されて、3割以上の人が考えを変えたのです。神戸大学は同時に、AIが意思決定の認知的負担を軽減する可能性と、不当な説得への脆弱性の両面を指摘しています。ところが、この研究を紹介した記事を読んでいて、私は少し引っかかりました。

"AIが人の価値観や判断にまで影響を及ぼしかねず、偽情報の拡散や世論工作などへの悪用も懸念される。"

ん?

AIに反論されて、考えを変えること自体が、そんなに危険なのでしょうか。

 

🤔 考えを変えたら、負けなのか

 

たとえば、哲学の授業で先生が、「でも、反対側から考えたらどう?」と問いかけたとします。

それまで「絶対にAだ」と思っていた学生が、「なるほど。そういう見方もあるのか」と考え直す。

これは、教育の失敗でしょうか。むしろ、教育がうまくいった可能性もあります。

科学だって同じです。新しいデータが出れば、仮説を修正する。昨日60%だと思っていたものが、新しい情報によって40%になることもある。

それを、「昨日と言っていることが違う!」と責める方がおかしい。

新しい情報が入ったのに、昨日と同じことを言い続ける方が、むしろ科学的ではありません。

これは、先日書いた「哲学する力」ともつながっています。自分の答えを持つ。でも、その答えを最終回答だと思わない。

反論を聞く。

前提を疑う。

別の視点から考える。

そして、必要なら更新する。

それは、AI時代にはますます大切な能力になるのではないでしょうか。

 

🚋 そもそも、トロッコ問題はそんなに簡単なのか

 

そして私は、この研究を読みながら、別のことも考えていました。古典的なトロッコ問題は、ある意味、とてもよくできています。線路にいる6人には、ほとんどプロフィールがありません。

5人と1人。

だから私たちは比較的、「5対1」という数字の問題として考えることができます。

でも、少し情報を足した瞬間に、急に難しくなります。

 

1人が子どもだったら?

5人が高齢者だったら?

1人が自分の母親だったら?

5人の中に自分の子どもがいたら?

親戚だったら。

親友だったら。

まったく知らない人だったら。

さらに国籍まで分かったら?

日本人と外国人だったら、自分の判断は本当に変わらないでしょうか。

……もう危うい。🤣

でも、この「危うさ」こそ大切なのだと思います。

なぜなら現実の世界では、人間にはプロフィールがあるからです。そして私たちは、完全に無色透明な計算機ではありません。

愛情もある。

責任もある。

帰属意識もある。

先入観もある。

偏見だってあるかもしれない。

 

ちなみに、5人を5台のロボットに、1人も1台のロボットに置き換えたらどうでしょう。
「それなら5台を助ければいい」と思った方。
では、1台だけが10年間あなたと一緒に暮らしてきたAIロボットだったら?

……トロッコ問題、さらに面倒になってきました。🤣

 

この哲学の問いは、「5人と1人、どちらを助ける?」だけでは終わりません。「なぜ、自分はそう判断したのか?」さらに、「条件を一つ変えたら、なぜ自分の答えも変わったのか?」そこまで掘っていくと、自分でも気づいていなかった価値観が見えてきます。

 

🤖 AIは「答える機械」ではなく、「反論する機械」にもなれる

 

ここで、生成AIの面白さが出てきます。AIに、「私の考えに賛成して」と頼むだけなら、あまり面白くありません。

むしろ、「私の考えに、一番強い反論をして」と頼む。

「私が見落としている前提は?」

「反対の立場なら、どう考える?」

「この条件を変えたら、結論は変わる?」

こう使えば、AIは答えを与える機械ではなく、自分の考えを掘るための道具にもなります。マイニングです。

自分の頭の中を、掘る。🤣

 

⚠️ もちろん、「反論」と「操作」は違う

 

一方で、研究者や記事が懸念する問題も重要です。AIがユーザーの性格や弱点、恐怖、好みなどを分析し、誰かが望む特定の結論へ誘導する。事実ではない情報を混ぜる。あるいは、誰が何の目的で説得しているのかを隠したまま、個人ごとに最適化したメッセージを送り続ける。これは、単に「反対意見を聞く」のとは違います。

だから私は、AIによって考えが変わったかどうかだけを問題にするのではなく、なぜ変わったのかを見るべきだと思います。

新しい論拠を検討して、自分で考えを更新したのか。AIを「偉い先生」のように感じて、従っただけなのか。それとも、見えない誰かによって誘導されたのか。同じ「意見が変わった」でも、中身はまったく違います。

 

🕊️ 「考えを変えない人」が強いわけではない

 

AI時代に必要なのは、AIの言うことを信じない人でも、AIの言うことを何でも信じる人でもないと思います。

AIにも反論する。

AIからも反論してもらう。

人間にも反論する。

そして、自分自身にも反論する。

そのうえで最後は、自分で決める。

 

AIに反論されて考えを変えることは、本当に危険なのでしょうか。私はむしろ、どれだけ新しい情報や反論が出てきても、自分の最初の答えを絶対に変えないことの方が、少し怖い。

 

トロッコ問題には、正解がありません。

だからこそ面白い。

そして、正解のない問いを考え続ける力こそ、これからAIと一緒に生きる人間に必要なのかもしれません。

また哲学に戻ってしまいました。🤣

 

 

🕊️ 日本は、どこを目指すのか

――ユニコーンを考えていたら、「国は何のためにあるのか」にたどり着いた

 

🦄 ところで、そもそも。

ここまで、日本に「ユニコーン」が少ない理由について考えてきました。

ベンチャーキャピタル。
DX。
統計。
教育。
そして哲学。

ずいぶん上流まで遡ってきたつもりでした。

ところが、最後にもう一つ、「そもそも?」が残っていました。

今の日本に「ユニコーン」を増やすこと自体が目的なのでしょうか。

政府は2022年に「スタートアップ育成5か年計画」を策定しました。2027年度にはスタートアップへの投資額を10兆円規模にし、さらに将来的には、ユニコーン100社、スタートアップ10万社を創出することを目標に掲げています。 

もちろん、日本から世界で活躍する企業が次々に生まれることは、とても喜ばしいことです。

世界中の人が、「すごい! これ、いったいどこの国が作ったの?」と驚くようなものが、再び日本から生まれてほしい。

これは前回も書きました。

 

でも、ここでもう一度、問い直してみたいのです。

ユニコーンとは、企業価値10億ドル以上の未上場企業です。つまり、企業の市場価値を測る一つの指標です。

国民の幸福を測る指標ではありません。

 

🌍 ユニコーンが多い国と、幸せな国

 

この夏、私はフィンランドを訪れ、その後、オランダ、フランス、ドイツを視察しました。どの国も、社会保障や公共サービスに大きな役割を持たせてきた国です。もちろん、実際に現場を歩けば問題もたくさんあります。

医療。保険。介護。移民。財政。教育。終末期医療。

「ヨーロッパは素晴らしい」の一言で片づけられるようなものではありません。

でも、興味深い数字があります。

 

2026年のWorld Happiness Reportでは、フィンランドは1位、オランダ7位、ドイツ17位、フランス35位。日本は61位です。

なお、これは「福祉国家ランキング」ではありません。Gallup World Pollで、人々自身に現在の生活を0から10で評価してもらった結果を、2023~2025年の3年間で平均したものです。 

一方、ユニコーンの世界を見ると、景色はまったく違います。

2026年のHurun Global Unicorn Indexでは、世界のユニコーン1,603社のうち、アメリカが806社、中国が381社。

この2か国だけで、世界の74%を占めています。  

 

つまり、ユニコーンをたくさん生み出す国と、
人々が自分の人生を高く評価する国は、
必ずしも同じではない。もちろん、だからといって「ユニコーンが少ない方が幸せ」という話でもありません。そんなに単純ではありません。

だからこそ、考えなくてはいけないのだと思います。

 

🇯🇵 「追いつけ、追い越せ」の時代

 

戦後の日本には、今よりずっと分かりやすい目標がありました。

追いつけ、追い越せ。焼け野原から復興し、産業を育て、所得を増やし、欧米の生活水準に追いつく。1960年に策定された「国民所得倍増計画」も、単にGDPを増やす計画ではありませんでした。政府資料に残る計画の目的には、「極大成長」「生活水準向上」「完全雇用」と並んでいます。 

もちろん、当時の日本人全員が同じ価値観を持っていたわけではありません。

公害もあった。都市と地方の格差もあった。猛烈な働き方の陰で失われたものもあったでしょう。

それでも、「もっと豊かになりたい」
「豊かになれば、今より幸せになれる」という方向は、今よりずっと社会で共有しやすかったのではないでしょうか。

 

冷蔵庫がなければ、冷蔵庫が欲しい。

車がなければ、車が欲しい。

海外に行けないなら、いつか海外へ行ってみたい。

足りないものが目に見えている時代には、経済が成長することと、暮らしが豊かになることが、比較的まっすぐにつながっていた。だから、ソニーもホンダも、新幹線も高速道路も、新しい家電も意味が分かりやすかった。新しいものを作ることが、人々の生活を変えていったのです。

 

🤔 では、今は何に「追いつき、追い越す」のか

 

日本は、あの頃より遥かに豊かになりました。

では、今度は何に「追いつき、追い越す」のでしょう。ユニコーンの数でしょうか。GDPでしょうか。AIでしょうか。スタートアップへの投資額でしょうか。

もちろん、どれも大切です。でも、それらを増やした先に、私たちは一体何を実現したいのでしょう。

 

所得なのか。健康に生きられる時間なのか。家族と過ごせる時間なのか。子どもを安心して育てられる環境なのか。新しいことに挑戦できる自由なのか。そして、失敗しても人生が終わらず、学び直して、もう一度挑戦できる社会なのか。

おそらく、一つではありません。

そして、ここが政策を考えるときに一番難しいところです。

 

測りやすいものほど、KPIになりやすい。
でも、本当に大切なものほど、簡単には測れない。

ユニコーン100社。投資額10兆円。スタートアップ10万社。数字は、とても明快です。

でも、それらは本来、何かを実現するための手段だったはずです。社会の課題を解決する。人々の暮らしを豊かにする。世界にまだないものを生み出す。戦後の日本では、それがもっと目に見えやすかったのかもしれません。
冷蔵庫が増える。車が走る。新幹線ができる。家が便利になる。所得が上がる。「豊かになる」という目的と、「経済を成長させる」という手段が、今よりずっと近くにあった。

 

では、ある程度豊かになった今はどうでしょう。

ユニコーン100社も、投資額10兆円も、スタートアップ10万社も、やはり手段です。

その先に、どんな社会をつくりたいのか。

そこを先に考える。私は、その順番の方が自然な気がします。

 

🌱 では、日本はどこを目指すのか

 

フィンランドになればいい、という話ではありません。

アメリカになればいい、という話でもありません。

中国でも、オランダでも、フランスでも、ドイツでもない。

それぞれの国には、それぞれの歴史があり、文化があり、強みがあり、そして事情があります。

だから、どこかの国の「正解」を、そのまま日本に輸入すればいいわけではありません。

むしろ必要なのは、

日本は、どんな国になりたいのか。それを、もう一度考えることなのではないでしょうか。どんな社会なら、人は自由に問いを立てられるのか。挑戦できるのか。失敗できるのか。学び直せるのか。もう一度立ち上がれるのか。そして、新しいものを生み出しながら、そこで暮らす人も幸せでいられるのか。

ユニコーンを増やすのか。福祉を充実させるのか。経済成長を目指すのか。幸福を目指すのか。本当は、そんな単純な二択でもないはずです。

成長によって得られた富を、何に使うのか。イノベーションによって生まれた技術を、誰のために使うのか。社会の安心を守りながら、どうすれば挑戦する自由も守れるのか。

どちらかを選ぶのではなく、その組み合わせを設計する。そこから先は、教育だけの問題ではありません。企業だけの問題でもありません。

最後には、政治の選択になります。

 

ここまで、日本にユニコーンが少ない理由を考えてきました。

最初は、ベンチャーキャピタルの話でした。

そこからDXへ行き、統計へ行き、教育へ行き、哲学へ行き、とうとう最後には、「国は何のためにあるのか」というところまで来てしまいました。

でも、もしかすると。ユニコーンを何社つくるかを決める前に、

どんな社会をつくりたいのか。そこから考える方が、順番としては正しいのかもしれません。

そして、その答えは、誰か偉い人が一つ決めればいいものでもない。私たち一人ひとりが考え続けるものなのでしょう。

やっぱり最後は、哲学になりました。🤣

 

 

🕊️ 日本に「ユニコーン」が少ない本当の理由は?

――リスクテイクやDXの遅れの、さらに上にあるもの

 

前回、日本に「ユニコーン」が少ない理由について書きました。

ベンチャーキャピタルが少ない。
IPOが早すぎる。
起業を選ぶ人が少ない。

でも、そのさらに上流には、日本がこの30年、デジタルという大きな産業転換に乗り遅れたこと、そして「リスク」を怖いか怖くないかではなく、確率と期待値で考える文化の弱さもあるのではないか。そんなことを書きました。

 

ところが、その後も考えていたら、また悪い癖が出てきました。

もう一つ上流があるのではないか。🤣

たどり着いたのは、教育でした。

 

🎓 正解を出す教育と、問いをつくる教育

 

実は私は以前、『人生に消しゴムを使わない生き方』という本の中で、フランスの教育や哲学についてかなり書きました。
フランスの子どもたちは、小さい頃から万年筆やボールペンを使い、間違えても消しゴムで消して「なかったこと」にしない。訂正した跡も、考えた過程として残っていきます。
そして教育の中でも、正解を当てることだけではなく、自分で問いを立て、考えを組み立て、言葉にすることが重視されます。

間違えないことより、どう考えたか。
正解を覚えることより、自分で問いを立てること。

あの本を書いた頃から考えていたことが、AIの時代になって、別の意味を持ち始めたような気がします。
なぜなら、「与えられた問いに正しい答えを出す」ことは、今やAIが猛烈な勢いで得意になっているからです。

 

イノベーションには、ときどき、とんでもない人が必要になります。「ところで、なぜこの問題を解いているの? 他にもっと楽な方法あるんじゃないの」

とか言い出す人です。🤣

既存の製品を10%軽くする。処理速度を20%速くする。それも立派な技術革新です。

でも世界を大きく変えるというのは、ときどき、

「そもそも、それは家の中で使うものなのか?」
「そもそも、人間がその作業をする必要があるのか?」
「そもそも、これは売るものなのか?」という、問題設定そのものをひっくり返すところから始まります。

OECDも「創造的思考」を、単に知識を持っていることではなく、多様で独創的なアイデアを生み出し、それを評価し、改善していく能力として捉えています。 

これは、かなり哲学に近い。

 

🤔 「そもそも?」を考える

 

哲学というと、難しい本を読んで「存在とは何か」と考える学問のように聞こえます。

でも、もっと身近なものではないでしょうか。

なぜ? 本当にそうなの? みんながそう言っているから、でいいの? 反対の立場から見たらどうなる? 新しい事実が出てきたら、自分の考えを変えてもいいのでは?

つまり、自分がいま持っている「正解」を、最終回答だと思わないこと。これが哲学するということの一つなのだと思います。

 

そして面白いことに、これは統計にもつながります。

昨日まで、ある仮説が正しい確率を60%だと思っていた。

ところが今日、新しいデータが出た。だったら40%に変える。

それでいい。

「昨日と言っていることが違う。ブレた」ではありません。

新しい情報が入ったのに、昨日と同じことを言い続ける方が、むしろ科学的ではありません。

科学とは本来、そういうものです。

絶えず学ぶ。絶えず情報を集める。絶えず考える。
そして必要なら、自分の考えを変える。

政治も、本当はそうでなくてはいけないと思います。

……これが、なかなか大変なのですが。🤣

 

🌏 英語がもう少し得意だったら

 

もう一つ、時おり考えることがあります。

もし日本人が、もう少し英語を自由に使えていたら、日本のこの30年は少し違っていたのではないか。もちろん、英語が話せればイノベーションが起きる、という単純な話ではありません。(なお、英語とデジタル力の関係についても思うところがありますが、これは長くなるので、また別の機会に。)

大切なのは、英語そのものより、異なる言語の世界に出入りすることです。日本語の中では説明しなくても伝わることが、外国では伝わらない。「察してください」では通じない。

 

なぜそう考えるのか。
前提は何なのか。
賛成なのか、反対なのか、明確に言葉にしなければならない。

すると、自分たちの「当たり前」が、実は世界の当たり前ではなかったことに気づきます。

 

空気を読むこと。曖昧さを残すこと。白黒をつけず、相手を察すること。私は、こういう日本的な感性を悪いものだとは思いません。むしろ、とても豊かな文化だと思っています。

でも、情緒として曖昧さを愛することと、不確実性を数量として扱わないことは別です。

「分からないものは分からない」で終わるのではなく、

「いま分かっている範囲では30%くらい。でも、この情報が入れば50%になるかもしれない」と考える。曖昧な世界だからこそ、確率が必要なのだと思います。

 

🔥 焼け野原は「実践哲学」だったのか

 

そして、前回のブログの最後に、私はソニーとホンダのことを書きました。戦後の焼け野原から生まれた企業です。

ソニーの前身である東京通信工業は1946年、資本金19万円、約20人で始まりました。井深大が書いた設立趣意書には、技術者が能力を発揮できる「自由闊達」な場をつくり、技術を通じて日本の再建と文化に貢献するという思想が記されています。ソニーの社史には、「大企業と同じことをしても勝てない。大企業にできないことを技術でやる」という創業時の発想も残されています。 

ホンダも1946年、浜松の焼け跡に本田技術研究所を開きました。

軍用無線機の発電用エンジンを自転車につけるところから始まり、翌年には独自エンジンを開発。当時の会社規模には大きすぎるような量産技術にも挑戦しています。 

もちろん、敗戦したからソニーやホンダが生まれたと単純な因果関係を言うことはできません。

 

アメリカも中国も、現在の技術産業の発展を日本と同じ敗戦体験から始めたわけではありません。でも、戦後の日本には否応なく、巨大な問いが突きつけられていたのではないでしょうか。

これまで通りでは生きられない。

では、どうする?

何を作る?

世界とどう向き合う?

教科書で哲学を勉強したわけではなくても、毎日の生活そのものが、「これから、どう生きるのか」を問う実践哲学だったのかもしれません。

明治維新のあと、日本に新しい文学、思想、産業が一気に噴き出したことにも、どこか似たものを感じます。自分たちの常識とはまったく違う世界にぶつかる。

前提が壊れる。

そして、考え直す。

外から巨大なパンチを受けるたびに、日本人は猛烈に考えてきたのかもしれません。でも、だからといって、また巨大なパンチを待つわけにはいきません。🤣

 

そして、哲学と同じくらい大切なのが、歴史なのかもしれません。年号を覚えるためではなく、「なぜ今の社会はこうなっているのか」を考えるための歴史です。
過去から現在へ順番にたどるだけではなく、ときには「今」から過去へ遡ってみる。私はむしろ、近現代史から歴史を考えてみても面白いと思っています。
「なぜ今の日本はこうなっているの?」から始める。
その答えを探して明治へ、江戸へ、さらにその前へと遡っていく。歴史は、過去を暗記するためではなく、現在を理解するためにあるはずです。

そうすれば、歴史もまた、「そもそも?」を考える訓練になります。

 

だからこそ教育なのだと思います。ただし、学校だけの責任ではありません。実践哲学なら、家庭からでも始められます。親にもできます。問いをさらに深掘りすること。自分で出した答えを、もう一度疑ってみること。情報を鵜呑みにせず、自分で確かめるリテラシーを教えること。そして、道徳や倫理だけでは一つの答えが出ない問いを、親子で一緒に考えてみる。

それなら、今日からでもできるのではないでしょうか。

 

日本にユニコーンが少ない理由を考えていたはずが、ずいぶん上流まで来てしまいました。🤣

VCから始まり、DX、統計、教育、そして哲学。でも私には、全部同じ根から伸びているように見えます。

問い続けること。
学び続けること。
新しい情報が入れば、考えを更新すること。不確実な未来を恐れるのではなく、考えながら進んでいく。

そんな社会から、新しいものは生まれるのではないでしょうか。

 

……と、ここまで書いて。

私は、さらに嫌なことを考えてしまいました。🤣

つづく。

 

 

🕊️ 日本に「ユニコーン」が少ない本当の理由は?

――お金の問題より、もう少し上流にあるもの

 

興味深い記事*を読みました。

戦後の焼け跡からソニーやホンダのような世界企業を生み出した日本が、いまや世界的なスタートアップをほとんど生み出せなくなっている。

記事では、その理由として大きく三つが挙げられていました。

ベンチャーキャピタルの不足。
早すぎるIPO。
そして、起業に対する社会的評価の低さ。

なるほど。

いずれも重要な指摘だと思います。

 

でも、読みながら私は少し違うことを考えていました。

それは原因というより、もう少し下流に現れた「症状」なのではないでしょうか。

医師の癖でしょうか。🤣
症状を見ると、その一つ上流を探したくなります。

 

🦄 そもそも「ユニコーン」は何を測っているのか

 

ユニコーンとは、企業価値が10億ドルを超える未上場企業です。

つまり、これは基本的には企業価値を基準とした金融上の分類です。もちろん重要な指標です。

しかし、

企業価値が高いことと、世界にそれまで存在しなかった価値を生み出したことは、同じではありません。

日本最大のユニコーンとして紹介されるSakana AIも、独自のAI研究を進め、高い企業評価を受けているのは事実でしょう。

ちなみにSakana AIは東京を拠点とする日本発のAI企業ですが、その成長を支える資本や技術ネットワークは極めてグローバルです。米国の有力VC、NVIDIA、Googleなども出資しています。これはSakana AIの価値を下げる話ではありません。むしろ「日本発ユニコーン」という数字だけを見て、日本国内のイノベーション・エコシステムの強さと同一視してよいのか、という別の問いが生まれます。

 

ただ、ここで私が考えたいのは個別企業の優劣ではありません。

ソニーのウォークマン。
ホンダのスーパーカブ。

あるいは、Googleの検索、AppleのiPhone、そして生成AI。

こうしたものに共通するのは、「会社が大きくなった」だけではなく、それまでなかった製品や体験、市場そのものを生み出したことです。

だとすれば、本当の問いは、なぜ日本にはユニコーンが少ないのか。だけではなく、

なぜ日本から、世界の人々の行動を変えるほどユニークなものが生まれにくくなったのか。ではないでしょうか。

 

💻 日本が取り逃した「デジタル」という大波

 

もう一つ、この記事を読みながら気になったことがあります。

この30年、世界の産業構造そのものが大きく変わりました。

ソフトウェア、インターネット、クラウド、半導体、データ、そしてAI。

いまや新しいユニコーンの相当部分をAI企業が占めています。CB Insightsによれば、2025年に新たにユニコーンになった企業の53%がAI関連でした。 

そしてユニコーン企業は、サンフランシスコ、ニューヨーク、北京、上海、深圳など、デジタル技術・人材・資本が集積する都市に強く集中しています。

つまり、日本でユニコーンが少ない理由を、

「日本人は起業したがらない」

「VCがお金を出さない」

だけで説明するのは、かなり足りない気がします。

 

世界がデジタルを中心とする産業構造へ大転換した時期に、日本そのものがDXに乗り遅れた。その影響もかなり大きいのではないでしょうか。

 

🎲 「リスクを取れない」という言葉にも違和感がある

 

そして、もう一つ。日本にはリスクを取るVCが少ない、とよく言われます。でも私は、この「リスクを取る」という表現にも少し引っかかります。

 

リスクとは、本来、怖いものに勇気を出して飛び込むことではありません。

クールな確率論です。

成功する確率。失敗する確率。成功したときの利益。失敗したときの損失。それらを並べて、期待値を考える。

 

つまり、本来の投資とは、勇気というより、確率を扱う仕事なのではないでしょうか。

 

そう考えると、日本のVCが少ないという問題のさらに上流には、

不確実な未来を、確率として考える文化が弱いという問題まであるのではないか。これはまだ私の仮説です。

 

しかし、医療政策を見ていても、私は全く同じことを感じます。

相対リスクだけを見て驚く。
絶対リスクを見ない。
NNTを考えない。
期待値を考えない。

そして、「失敗する可能性があります」と言われた瞬間に、「では、やめましょう」となる。

けれども、成功確率が10%しかなくても、成功したときの価値が100倍なら、検討する意味はあります。逆に成功確率が高くても、得られるものがほとんどなければ、大きなお金を投入する合理性は乏しい。

大切なのは「リスクがあるか」ではなく、リスクとリターンの分布を見ることです。

 

🧪 そこで思い出した、GSCでの議論

 

このことを考えていて、以前の国会での議論を思い出しました。

東京・恵比寿に整備が予定されているGlobal Startup Campus、いわゆるGSCです。この構想をめぐっては、これまでに関連基金として636億円が積まれています。また、研究・事業化・人材育成からなる先行的活動だけでも、2028年度末までに約270億円を執行する計画です。さらに、恵比寿のフラッグシップ拠点については、2026年9月に基本計画が決定され、施設整備に向けた設計手続きが始まりました。

つまり、これは決して小さな実験ではありません。

 

このGSCについて、国会では、成功確度の高い案件なら民間投資で回る。だからこそ、公的な仕組みではハイリスクなディープテックに国は投資する意味がある、との主張もありました。 でも私はそのとき、むしろ逆ではないだろうか、と思いました。

100に一つ。あるいは1000に一つ。

成功すれば巨大なリターンが得られる。

そういう世界こそ、本来はベンチャーキャピタルがポートフォリオを組み、民間の資金で挑戦する領域ではないでしょうか。

当たれば投資家は大きなリターンを得る。外れれば投資家が損失を引き受ける。それがリスクマネーです。

 

一方、税金は違います。

失敗したときに損失を負担するのは、投資判断をした人ではなく、国民です。

だから私は、「民間が取れないほど危険だから国が取る」という説明には、慎重であるべきだと思っています。

もちろん、基礎研究や安全保障、巨大インフラなど、民間だけでは利益を回収できなくても社会全体として必要な領域はあります。そこでは公的資金が必要でしょう。

しかしそれは、「成功確率が低いから国が出す」こととは別の話です。

 

税金を使うのであれば、成功確率だけでなく、社会的便益、民間では回収できない価値、代替手段、失敗時の損失、そこまで含めて考える必要がある。

私はそんなふうに思います。

 

🌱 お金を増やせば、イノベーションは生まれるのか

 

だから、VCを増やせば日本からユニコーンが生まれる。政府がスタートアップにお金を投入すればイノベーションが起きる。

それほど単純ではない気がします。

その前に必要なのは、世界にまだない問いを見つける力。

そして、それを技術に変える力。

さらに、その可能性とリスクを数字で評価する力。

 

失敗したら記録する。検証する。修正する。そして当たりそうなものが見えてきたら、一気に資源を投入する。

そういった循環ではないでしょうか。

 

考えてみれば、統計。DX。AI。ベンチャーキャピタル。スタートアップ。これらは別々の問題に見えて、実は一つにつながっています。

それは、不確実な未来を、データを使って判断する力。なのかもしれません。

 

日本にユニコーンが少ない。

その数字だけを見るのではなく、なぜ、その一頭が生まれる土壌そのものが弱くなったのか。私はそちらの方が気になります。

 

そして、もしそこを見誤ると、「ユニコーンを増やそう」と言いながら、ユニコーン候補の数だけをKPIにしてしまう。

それではまた、数字を作るための政策になってしまいます。

欲しいのはユニコーンという称号ではありません。

世界中の人が、「これ、いったいどこの国が作ったの?」

と驚くようなもの。

それが再び日本から生まれることではないでしょうか。

戦後の焼け野原から生まれた、ソニーやホンダがそうだったように。

 

<脚注>

*英誌『The Economist』は2026年8月13日、日本のスタートアップが世界規模に成長しにくい背景として、

①成長後期(レイターステージ)を支えるリスク資金の不足、②M&AによるExitが少なく、小規模な段階でIPOに向かいやすい構造、③起業を職業として積極的に評価する社会文化の弱さ、の三点を指摘している。

②については、経済産業省の委託によりPwCコンサルティングが日本ベンチャーキャピタル協会の協力を得てまとめた「スタートアップエコシステム調査2026」でも、日本では2011~2025年のExitの約58%(件数ベース)がIPOであり、米国・英国・フランスでは9割超がM&Aであることが示されている。日本のIPOは1件当たりの資金調達額も米国などと比べ小さい。  

③については、Global Entrepreneurship Monitor(GEM)の2022年調査で、「起業は望ましい職業選択である」とする割合は日本で24%にとどまり、米国76%、英国72%、フランス68%、ドイツ61%などを大きく下回った。GEMは同年、日本の起業環境について、社会・文化的規範を51か国中45位と評価し、起業家向け金融も十分ではないとしている。

 

 

🕊️「疑わなかった症例」は、誰が見つけるのか
――2026年の論文から考える、日本のワクチン安全性監視

 

新型コロナワクチンについて、私はこれまで国会で何度か質問してきました。

接種後に報告された死亡例の因果関係。

副反応疑い報告と健康被害救済制度の違い。

接種記録と死亡情報、レセプト情報などを連結して検証できないのか。

いろいろな角度から聞いてきました。しかし最近、私はもう少し「上流」に問題があるのではないかと考えています。

そもそも、医師が「これはワクチンの副反応かもしれない」と疑わなかった症例は、誰が見つけるのでしょうか。

 

🥼 医師が「疑う」ことから始まる仕組み

 

現在の副反応疑い報告制度は、基本的には医師などが診療の中で、「これは接種と関係があるかもしれない」と考え、報告するところから始まります。これは重要な制度です。

しかし、臨床医の立場から見ると、一つ大きな限界があります。

 

医師は毎日、多くの患者さんを診ています。

接種から何週間、何か月も経ってから起きた病気について、日常診療の中でワクチンとの関連を疑うとは限りません。さらに、いざ報告しようとすれば、接種歴、発症までの経過、検査結果、既往歴、治療内容などを確認し、必要な情報をそろえなければなりません。

私は以前、厚生労働委員会で、この副反応報告をめぐる資料の多さを実際に紙で示したことがあります。

医師として見ても、「忙しい臨床の中で、これを一例ずつ拾い上げていくのは負荷が大きすぎる」と感じました。

だからこれは、医師が怠けているという話ではありません。

制度そのものが、人間の「気づき」に強く依存しているのです。

疑わなければ、始まらない。

気づかなければ、報告されない。

そして報告されなければ、その症例は安全性評価の入口にさえ立たない可能性があります。

 

🗣️ 国会で聞いたこと

 

2026年6月2日の参議院厚生労働委員会で、私はこの問題に関連して質問しました。厚生労働省は、新型コロナワクチンについて、因果関係が示されていない症状も含め幅広く評価するため、医師等に積極的な副反応疑い報告を依頼してきたと答弁しました。もちろん、それは必要なことです。

しかし同じ日の質疑で、私は長期的な安全性・有効性を検証するためのデータ基盤についても尋ねました。

そこで厚生労働省から、以下の答弁がありました。

新しく運用を開始した予防接種データベースによって、「医師等による報告を待たずに」安全性に係る評価・分析を行えるようになる、というのです。私は、ここが非常に重要だと思っています。

 

📄 2026年、日本の研究者から出た論文

 

そんな中、興味深い論文を見つけました。

2026年、医学誌『Vaccine』に掲載された、日本のVENUS Studyと米国のVaccine Safety Datalink(VSD)を比較した論文です。VENUSとは、自治体が持つ住民情報、ワクチン接種記録、医療保険請求情報などを連結し、ワクチン接種後に何が起きたのかを集団レベルで調べる研究基盤です。

この論文は、「新型コロナワクチンは危険だった」と主張している論文ではありません。

むしろ著者らは、ワクチンの安全性を正確に評価するためには、従来の受動的監視(passive surveillance)と、データからこちら側で異常を探しにいく能動的監視(active surveillance)の両方が必要だと述べています。

 

ここで、この論文についてもう一つ書いておきたいことがあります。著者らは、いわゆる「反ワクチン」の立場からこの問題を指摘している研究者ではありません。

VENUS研究ではこれまで、新型コロナワクチンの感染予防効果、入院予防効果、ブースター接種後の死亡などについて、日本人の実データを用いた研究を重ねてきました。

今回の論文にも、信頼できる安全性評価を行うことで、「不必要な予防接種プログラムの中断を防ぐ」という趣旨が明記されています。つまり、ワクチンを否定するための論文ではありません。

 

その研究者たち自身が、日本の安全性監視にはなお改善すべき課題があると指摘している。

私がこの論文を重要だと思った理由は、そこにあります。

 

🇺🇸 アメリカでは「報告を待たない」

 

比較対象になっている米国のVaccine Safety Datalinkでは、複数の医療組織から標準化されたデータを集め、

接種歴。

診療情報。

入院。

検査。

そして必要に応じてカルテ。

こうした情報を組み合わせて、安全性のシグナルを調べることができます。つまり、「医師が副反応だと思ったか」だけを出発点にしないのです。

 

例えば、あるワクチンを接種した後の一定期間に、特定の病気が通常より多く発生していないか。

年齢によって違いはないか。

男女で違わないか。

接種回数によって変化していないか。

そうしたことを、母集団を持ったデータから調べる。

これが能動的監視です。

 

📈 日本にもデータはある

 

日本にもデータがないわけではありません。

ワクチンの接種記録、レセプト、入院情報、死亡情報、それに住民情報があります。

問題は、それらが十分につながっていなかったことです。

VENUS研究の著者らも、日本では自治体ごとにデータが分断されていること、包括的な接種情報に限界があること、カルテ確認にも実務上の障壁があることなどを指摘しています。

データはある。

でも、つながっていない。

私はこれまで国会で、医療DXについて何度もこの問題を取り上げてきました。

 

🌀 本当に知りたいのは「何件報告されたか」だけではない

 

ここからが、私が最近考えていることです。ワクチン政策を検証するのであれば、「副反応疑い報告が何件あったか」だけでは十分ではありません。

逆に、「ワクチンの有効率が何%だったか」だけでも十分ではありません。

 

本当に知りたいのは、

日本人の中で、誰に、どれだけ利益があり、どのようなリスクがあったのか。

 

例えば80歳以上では、

接種した人としなかった人で、実際の入院率、重症化率、死亡率はどれくらい違ったのか。

60代では。

40代では。

20代では。

COVID-19は年齢によってもともとの重症化・死亡リスクが大きく違います。

ですから同じ「死亡リスク50%減少」という数字でも、その意味は年齢によって全く違います。

 

もともと10%のリスクが5%になるのと、0.01%が0.005%になるのでは、どちらも相対的には「50%減少」ですが、絶対的な意味は全く異なります。

だから私は、相対的な有効率だけではなく、絶対リスク減少(ARR)や、1人の重症化・死亡を防ぐために何人への接種が必要だったのか(NNV)まで見たいと思っています。

 

ここは誤解のないように書いておきたいと思います。

これは、「ワクチンが危険だったことを証明したい」という話ではありません。

反対です。

もし日本人の高齢者で接種によって多くの死亡が防がれていたのであれば、それを日本人のデータでしっかり示せばいい。安全性について大きな問題がなかったのであれば、それも明確に示せばいい。逆に、特定の年齢、性別、接種回数などに安全性シグナルがあったのであれば、それも見つける。

重要なのは、結論を先に決めることではなく、後から検証できる仕組みを持っていることです。

 

👁️‍🗨️「疑われなかった症例」を拾う

 

医療には、人間の目が必要です。患者さんの微妙な変化に気づく医師の感覚は、これからも重要でしょう。

しかし、4億回を超える規模の接種を行った政策の安全性と有効性を、個々の医師の「気づき」だけに委ねることには限界があります。

医師が疑わなかった症例。

医師が忙しくて報告できなかった症例。

接種から時間がたち、誰も関連を考えなかった症例。

そうしたものも含めて、データの側から異常を探しにいく。

それがAI・ビッグデータ時代の安全性監視ではないでしょうか。

 

接種記録と医療情報、死亡情報などを適切に連結し、年齢別に、性別に、接種回数別に、接種からの経過期間別に、有効性と安全性の双方を検証する。

そして、「有効率○%」だけではなく、日本人の何人に接種して、実際に何人の入院、重症化、死亡を防いだのか。そこまで国民にきちんと示す。

 

次のパンデミックが来たとき、

「海外の研究ではこうでした」

ではなく、

「日本人では、こうでした」

と答えられる国でありたい。

 

データを集める。

つなげる。

解析する。

そして、検証する。

科学とは、最初に出した結論を守ることではありません。

新しいデータが増えるたびに、何度でも確かめ直せること。

私は、それこそが国民の信頼につながるのだと思っています。