🕊️ 結局、最後は司法なのだろうかー新型コロナワクチン集団訴訟について
コロナ禍とは一体何だったのだろう。
感染症との闘いだった。
それは間違いない。
医療従事者も行政も、多くの国民も、誰もが手探りだった。
だから私は、当時の判断を後から簡単に断罪するつもりはない。
しかし一方で、見過ごしてはいけない現実もある。
接種後に健康被害を受けた人たちがいる。
亡くなった方々がいる。
そして今、その遺族や後遺症患者たちが国を提訴している。
先日、東京地裁で行われた新型コロナワクチン被害集団訴訟*では、司法試験に合格し、司法修習を目前に控えていた26歳の青年のご両親が意見陳述を行った。
接種後に高熱や痙攣が出現し、急性散在性脳脊髄炎(ADEM)**が疑われた。懸命な治療が行われたものの、最終的に多臓器不全で亡くなったという。
もちろん、個別症例だけで因果関係を断定することはできない。
それを判断するのが裁判であり、医学であり、科学である。
しかし私が重く受け止めるのは別の部分である。
息子を失ったご両親は、その後何年も声を上げ続けている。
重い後遺症に苦しむ人々もいる***。
その存在自体は、誰にも否定できない。
元々健康な人を対象とする予防接種である以上、たとえ極めて稀な事象であっても、重篤な健康被害が疑われる症例は一例一例丁寧に検証されなければならない。
本来であれば、こうした事例は冷静に検証されるべきである。
ベネフィットはどれほどあったのか。
リスクはどれほどあったのか。
年齢別ではどうだったのか。
基礎疾患の有無で違ったのか。
接種回数による差はあったのか。
その検証が十分に行われ、その結果が国民に開示される。
民主国家とは本来そういうものである.
医学に絶対はない。
重要なのは、利益と不利益の両方を見ることである。
私はどんな医療介入も、
「誰にとって、利益が上回るのか」
という視点で評価すべきだと思っている。
だからこそ必要なのは検証である。
もし行政が十分な検証を行わないのであれば、最後に残るのは司法なのであろう。裁判には時間がかかる。数年かかるかもしれない。
それでも司法には一つの重要な役割がある。
それは記録を残すことである。
何が起きたのか。
何が分かっていて、何が分かっていなかったのか。
情報提供は適切だったのか。
救済は十分だったのか。
その全てが法廷で検証される。
これはワクチン賛成か反対かという話ではない。
国家が行った大規模な医療政策を、後世にどう検証するのかという話である。
同じ過ちを繰り返さないために、そして未来の感染症対策をより良いものにするために、私たちは賛否ではなく、事実と記録に向き合わなければならない。
それこそが民主主義の成熟であり、国家の責任なのだと思う。
<脚注>
*本訴訟は、新型コロナワクチン接種後に死亡または健康被害を受けたと主張する人々やその遺族が、国などを相手として提起している集団訴訟である。現在係争中であり、裁判所による最終判断は確定していない。
**急性散在性脳脊髄炎(ADEM)は、中枢神経系に炎症が生じる稀な疾患であり、感染症やワクチン接種後に報告されることがあるが、個別症例における因果関係の判断は慎重な検討を要する。
***日本では予防接種健康被害救済制度が設けられており、新型コロナワクチンについても接種後の死亡・障害等に対する救済認定が行われている。救済認定は因果関係を医学的に確定するものではなく、「否定できない」場合を含む行政上の救済制度である。










