🕊️ 結局、最後は司法なのだろうかー新型コロナワクチン集団訴訟について

 

コロナ禍とは一体何だったのだろう。

感染症との闘いだった。

それは間違いない。

医療従事者も行政も、多くの国民も、誰もが手探りだった。

だから私は、当時の判断を後から簡単に断罪するつもりはない。

 

しかし一方で、見過ごしてはいけない現実もある。

接種後に健康被害を受けた人たちがいる。

亡くなった方々がいる。

そして今、その遺族や後遺症患者たちが国を提訴している。

 

先日、東京地裁で行われた新型コロナワクチン被害集団訴訟*では、司法試験に合格し、司法修習を目前に控えていた26歳の青年のご両親が意見陳述を行った。

接種後に高熱や痙攣が出現し、急性散在性脳脊髄炎(ADEM)**が疑われた。懸命な治療が行われたものの、最終的に多臓器不全で亡くなったという。

もちろん、個別症例だけで因果関係を断定することはできない。

それを判断するのが裁判であり、医学であり、科学である。

 

しかし私が重く受け止めるのは別の部分である。

息子を失ったご両親は、その後何年も声を上げ続けている。

重い後遺症に苦しむ人々もいる***。

その存在自体は、誰にも否定できない。

元々健康な人を対象とする予防接種である以上、たとえ極めて稀な事象であっても、重篤な健康被害が疑われる症例は一例一例丁寧に検証されなければならない。

本来であれば、こうした事例は冷静に検証されるべきである。

 

ベネフィットはどれほどあったのか。

リスクはどれほどあったのか。

年齢別ではどうだったのか。

基礎疾患の有無で違ったのか。

接種回数による差はあったのか。

その検証が十分に行われ、その結果が国民に開示される。

民主国家とは本来そういうものである.

 

医学に絶対はない。

重要なのは、利益と不利益の両方を見ることである。

私はどんな医療介入も、

「誰にとって、利益が上回るのか」

という視点で評価すべきだと思っている。

 

だからこそ必要なのは検証である。

もし行政が十分な検証を行わないのであれば、最後に残るのは司法なのであろう。裁判には時間がかかる。数年かかるかもしれない。

それでも司法には一つの重要な役割がある。

それは記録を残すことである。

何が起きたのか。

何が分かっていて、何が分かっていなかったのか。

情報提供は適切だったのか。

救済は十分だったのか。

その全てが法廷で検証される。

これはワクチン賛成か反対かという話ではない。

 

国家が行った大規模な医療政策を、後世にどう検証するのかという話である。

 

同じ過ちを繰り返さないために、そして未来の感染症対策をより良いものにするために、私たちは賛否ではなく、事実と記録に向き合わなければならない。
それこそが民主主義の成熟であり、国家の責任なのだと思う。

 

<脚注>

*本訴訟は、新型コロナワクチン接種後に死亡または健康被害を受けたと主張する人々やその遺族が、国などを相手として提起している集団訴訟である。現在係争中であり、裁判所による最終判断は確定していない。

**急性散在性脳脊髄炎(ADEM)は、中枢神経系に炎症が生じる稀な疾患であり、感染症やワクチン接種後に報告されることがあるが、個別症例における因果関係の判断は慎重な検討を要する。

***日本では予防接種健康被害救済制度が設けられており、新型コロナワクチンについても接種後の死亡・障害等に対する救済認定が行われている。救済認定は因果関係を医学的に確定するものではなく、「否定できない」場合を含む行政上の救済制度である。

 

 

🕊️ 恋人同士は細菌も共有する
――恋愛医学研究家のドクターマナにとっては既知の所見です🤣

 

「恋人同士の口腔内細菌の44%が共通だった」

そんな研究がイタリアの研究チームから発表された*そうである。

 

ニュースによると、同居家族よりも恋人同士の方が口腔細菌を多く共有しており、その割合は約44%。
キスなどを通じて細菌が移動している可能性が高いという。

 

このニュースを見て、多くの人は驚くかもしれない。

 

しかし、恋愛医学研究家(自称)のドクターマナにとっては、これはさほど驚く話ではない。🤣

 

実は歯科や微生物学の世界では、

・虫歯菌は家族内で伝播する
・歯周病菌は夫婦で似てくる
・親子の口腔内細菌叢は近づく

ということは以前から知られていた。2000年前から言われていた**かもしれない。

 

2014年にはオランダの研究チーム***が、

「10秒のキスで約8000万個の細菌が移動する」

という衝撃的な研究結果を発表している。

 

つまり、恋人同士が細菌を共有するという事実自体は、それほど新しい話ではないのである。

むしろ今回の研究の面白いところは、最新の遺伝子解析技術によって、「どの程度似ているのか」を数字で示したことにある。

 

ところで人間は不思議な生き物である。

恋人同士になると、時間を共有し、空間を共有し、食事を共有し、価値観を共有し、そして細菌まで共有する。

考えてみれば当然かもしれない。

同じものを食べ、同じ空気を吸い、同じベッドで眠れば、体内の微生物たちも交流会を始めるのである。

 

私は以前から、人間は一人で生きているように見えて、実は巨大な生態系の一部なのではないかと思っている。

私たちの体には数十兆個の細菌が住み、腸内細菌は免疫や代謝に関わり、皮膚常在菌は肌を守り、口腔細菌は健康状態に影響を与える。

つまり、恋愛とは心だけの交流ではない。

体の中に住む微生物たちの交流でもあるのである。🤣

 

もっとも、だからといって「細菌が合うから相性が良い」のか、「相性が良いから細菌が似る」のかは分からない。

ここは今後の恋愛医学研究の重要課題であろう。🤣

 

もし将来、「結婚前にマイクロバイオーム相性診断」などというサービスが登場したら、

私は真っ先に取材に行こうと思う。

 

恋愛は化学であり、生物学であり、時に哲学でもある。そしてどうやら、細菌学でもあるらしい。🕊️

 

<脚注>

*Vitor Heidrich et al., “Strain transmission links human microbiomes along the oral-gut axis,” Cell Press Blue, 2026.
イタリア・フィジーの207世帯430人を対象に、口腔・腸内マイクロバイオームの菌株共有を解析した研究。共同生活者では腸内細菌株の約19%、口腔細菌株の約26%を共有し、恋人同士では口腔細菌株の共有率が平均44%に達したと報告されている。  

 

**「2000年前から」はドクターマナ的誇張表現である。実際には、虫歯菌 Streptococcus mutans の母子間・家族内伝播については1980年代から研究報告があり、1984年には家族内伝播、1985年には母子間の口移し伝播に関する論文が報告されている。  

 

***Remco Kort et al., “Shaping the oral microbiota through intimate kissing,” Microbiome, 2014.
21組のカップルを対象に、キスと口腔マイクロバイオームの関係を調べた研究。10秒間のキスで平均約8000万個の細菌が移動し、頻繁にキスするカップルほど唾液中の細菌叢が似ると報告された。

 

🕊️ 読み書きカクリツ
――AI時代の新しい教養

 

少し前、私は「これからは読み書きデジコンだ」というブログを書いた。AI時代には、文字を読む力や文章を書く力だけでは足りない。デジタル技術を理解し、情報を読み解き、AIを使いこなす力が必要になる。そう考えたからである。

しかし最近、その考えを少し修正しなければならないのではないかと思い始めている。もしかすると本当に必要なのは、

「読み書きデジコン」ではなく、

「読み書き確率」

なのかもしれない。🤣

 

AIが広がるにつれ、多くの人はAIの使い方を学ぼうとしている。

プロンプトの書き方。画像生成。動画生成。要約。翻訳。もちろんそれも重要である。

しかし本質はそこではない。なぜならAIは、本当の意味では「答え」を知っているわけではないからである。

AIは膨大なデータを学習し、「おそらくこうだろう」を計算している。つまりAIの正体は、巨大な確率計算機なのである。

 

例えばAIがこう言う。「この薬は有効です」統計学を知らなければ、「そうか。効くのか」で終わる。

しかし統計学を知っている人は違う。何%に効いたのか。誰に効いたのか。どのくらい効いたのか。比較対象は何か。絶対リスクはどうか。信頼区間はどうか。

そうした問いが自然に浮かぶ。

同じ情報を見ても、脳裏に浮かぶ世界が全く違うのである。

 

連日あふれんばかりの情報やデータが流れてくる。

新薬。ワクチン。予防医療。医療AI。健康政策。

どれも最終的には統計学の世界である。

ところが多くの人は、数字を見ることはできても、数字を読むことはできない。平均値を見ることはできても、その外側を知ることができない。

 

ここで面白いことが起きる。

AIは平均を学ぶ。AIは平均から予測する。だからAIは平均的な未来を語るのが得意である。

しかし人生は平均ではない。

統計学には「信頼区間」という考え方がある。多くの人はその範囲の中にいる。しかし必ず、その外側にいる人がいる。

 

ガリレオ、ニュートン、エジソン、キュリー夫人、ガンジー。

偉大なる科学者、発明家、芸術家、起業家、政治家。

歴史を動かしてきた人々の多くは、統計学的には外れ値である。

 

私は最近、あることに気がついた。

AI時代に統計学が必要なのは、平均になるためではない。
平均に支配されないためなのである。

AIが「95%の確率でこうなります」と言った時、
統計学は「残り5%がある」ことを教えてくれる。

そして歴史は時に、その5%によって動く。

 

ここで、もう一つ考えなければならないことがある。

これから先、人類はかつて経験したことのない時代に突入する。

 

AIは病気を予測する。
寿命を予測する。
犯罪を予測する。
学力を予測する。
成功確率を予測する。

 

未来予測の時代である。

パンドラの箱🗝️は、これから開かれるのだろうか。
いや、すでに開いている気もする。

 

人間が尊厳を持って自由に生きようとするならば、
私たちは確率そのものを理解しなければならない。

なぜなら、確率を知らなければ予測に支配される。
しかし確率を知れば、予測と共存できる。

 

95%を知りながら、
なお5%を選ぶ自由。

 

それこそが、人間だけに残された特権なのかもしれない。

 

AIは平均を語る。
統計学は確率を語る。
しかし人生は、ときにその両方を裏切る。

 

信頼区間の外側で、
なお美しく咲く花がある。

 

そして人間の自由とは、
その花を咲かせる力のことなのだと思う。🦊🌹✨

 

 

🕊️ 82%流産だったのか、それとも12.6%だったのか
――数字は時に私たちを惑わせる

 

最近、コロナワクチンと妊娠に関する議論の中で、

「実は流産率は82%だった」

という話を目にすることがある。

 

一方で、世界最高峰の医学雑誌の一つであるニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン(NEJM)には、流産率12.6%という数字が掲載されている。

 

82%と12.6%。

 

同じデータから、なぜこれほど違う数字が出てくるのだろうか。

私は医師として、この経緯を改めて調べてみた。

 

結論から言えば、

「82%も、そのままでは正しくない」
「12.6%も、そのままでは正しくない」

のである。

 

問題は分子ではなく、分母なのである。

 

2021年、CDCの研究グループは、妊娠中にmRNAコロナワクチンを接種した女性を追跡したデータをNEJMに報告した。

その中で、妊娠転帰が判明していた827例のうち、104例が自然流産であったため、

 

104÷827=12.6%*

 

という数字が示された。

ところが、この論文に対して統計学的な疑問が投げかけられた。

 

なぜなら、827例の中には妊娠後期に接種した女性が数多く含まれていたからである。妊娠後期の女性は、そもそも妊娠初期の流産を経験することはない。

 

そのため、

「流産リスクを評価する分母に後期妊婦を大量に含めるのは適切なのか」

という批判が起きた。

 

そこで一部の研究者や論者は、妊娠初期・中期の女性だけを対象に再計算した。

 

その結果、

104÷127=81.9%

という数字が導かれた。

 

そして、この数字がSNSなどで

「実は82%流産だった」

という形で広がっていったのである。

 

しかしここにも大きな問題がある。

127人という分母もまた適切ではなかったのである。

なぜなら、その時点では妊娠継続中の女性が多数存在していたからだ。

 

例えば100人の妊婦さんがいたとする。

流産した人が10人。

出産まで到達した人が10人。

残り80人はまだ妊娠中。

 

この段階で結果が分かった20人だけを取り出して計算すると、

10÷20=50%

となってしまう。

しかし実際には100人中10人であり、

流産率は10%である。

 

つまり、妊娠継続中の人を分母から外してしまうと、流産率は極端に高く見えてしまうのである。その後、CDCは追加解析を行い、妊娠初期の女性を対象により適切な統計手法で再評価した。

その結果は、おおむね13〜14%前後であり、一般に知られている自然流産率の範囲内と報告された。

 

少なくとも現時点では、

「ワクチン接種によって流産率が80%を超えた」

という証拠は存在しない。

一方で、

「最初の12.6%という数字だけで安全性が十分証明された」

とも言い切れない。

 

実は、この出来事から学ぶべきことは明快である。
数字は、分母の取り方によって、まったく違う顔を見せる。そして私たちは、自分の信じたい結論に都合の良い数字だけを拾い集めがちである。

反対派は82%に飛びつく。

推進派は12.6%に飛びつく。

しかし本来の科学とは、そのどちらでもない。

数字がどのように作られたのか。

どんな限界があるのか。

 

いずれにしても、この議論から私たちが学ぶべきことは少なくない。年齢、基礎疾患、感染状況、流行株、そして個人の価値観によって、利益と不利益のバランスは変化する。

 

年齢別死亡率はどうだったのか。
重症化予防効果はどの程度だったのか。
絶対リスクはどれくらいだったのか。
副反応はどうだったのか。

 

さらに長期的な影響については、今なお議論が続いている。

私はこうした検証は続けるべきだと思っている。

しかし同時に、日本では十分な長期追跡やデータ公開が行われているとは言い難い現実もある。

 

だからこそ大切なのは、限られた情報の中でも、自ら情報を集め、利益とリスクを比較し、自分自身で考え、自分自身で決めることである。

 

医療とは本来、誰かに正解を与えてもらうものではない。

自ら理解し、選択し、その結果を引き受ける。

 

そして私はこれからも、常に検証する側でありたいと思う。🕊️

 

<脚注>

*実は、自然流産は決してまれな出来事ではない。妊娠が確認された後でも、一般に10〜20%程度は流産に至るとされる。

  1. Shimabukuro TT, et al. Preliminary Findings of mRNA Covid-19 Vaccine Safety in Pregnant Persons. New England Journal of Medicine, 2021.
    v-safe妊娠レジストリ3958人のうち、解析時点で妊娠転帰が判明していた827例について報告。妊娠喪失115例、うち自然流産104例、12.6%という数字が示された。 
  2. Zauche LH, et al. Receipt of mRNA Covid-19 Vaccines and Risk of Spontaneous Abortion. New England Journal of Medicine, 2021.
    妊娠20週未満の接種者を対象に追加解析を行い、妊娠6週から20週未満までの累積自然流産リスクを14.1%、年齢標準化後12.8%と報告。 
  3. On Preliminary Findings of mRNA Covid-19 Vaccine Safety in Pregnant Persons. New England Journal of Medicine, 2021.
    Shimabukuro論文に対するCorrespondence。827例中104例、12.6%という表現について、妊娠時期別の分母設定をめぐる議論が行われた。 
  4. Bartoszek K, et al. Controversies around the statistical presentation of data on spontaneous abortion after COVID-19 vaccination in early pregnancy. 2022.
    初報論文における分母設定の問題を指摘し、700例の第3三半期接種者を除いた場合、104÷127=81.9%となることを示した。ただし、この数値自体も真の流産率推定としては限界がある。
  5. CDC. v-safe COVID-19 Vaccine Pregnancy Registry.
    v-safe妊娠レジストリは、妊娠前後または妊娠中にCOVID-19ワクチンを接種した人から健康情報を収集する任意参加型のレジストリである。

 

🕊️ 医療介入は誰のためにあるのか
――ベネフィットとリスク、その当たり前を忘れてはいけない

 

医療の世界には、昔から一つの原則がある。

「リスクがゼロだから使う」のではない。

「ベネフィットがリスクを上回るから使う」

という考え方である。

 

薬もそうだ。
手術もそうだ。
ワクチンもそうである。

どんな医療にも副作用や合併症の可能性は存在する。

だから本来問われるべきなのは、「危険か安全か」ではなく、「誰にとって利益が上回るのか」なのである。

 

ところが近年、この当たり前の議論が見えにくくなっているように感じる。

例えば新型コロナワクチンである。

 

2026年現在、日本でも世界でも接種対象は高齢者や重症化リスクの高い人へと絞り込まれつつある。

なぜか。

それは高齢者では重症化や死亡のリスクが高いためである。

 

同じ副反応リスクであっても、

90歳の高齢者と、
20歳の健康な若者では、

得られる利益が違う。

だからベネフィット・リスク比も変わる。

これは極めて当然の話である。

 

実はこの考え方は、新型コロナだけの話ではない。

現在議論されているRSウイルス母子ワクチンもそうである。

ベイフォータスのような抗体製剤もそうである。

HPVワクチンもそうである。

 

さらには今後登場するであろうAI設計ワクチンや遺伝子医薬品も同じである。

 

大切なのは、「予防だから善」でもなければ、「新しいから危険」でもない。

まず見るべきは、

その病気によるリスクはどれくらいか。

医療介入によってどれだけ利益が得られるのか。

そして医療介入そのものが生み出しうる害、すなわち医原病リスクはどの程度なのか。

この三つである。

 

近年の議論は、「打つか打たないか」という二元論になりすぎている。本来の医学はそうではない。

誰に利益があるのか。誰には利益が少ないのか。どこに不確実性が残っているのか。そこを冷静に見極める営みである。

 

健康な人に投与する予防医療であるならば、より慎重に。より透明に。より個別化して。それが本来の医学的態度ではないだろうか。

 

医療とは、何かをすることが善なのではない。

その人にとって本当に必要なことを選ぶこと。

時には積極的に治療すること。

時には予防すること。

そして時には、あえて何もしないことを選ぶ勇気。

そこから全ては始まるのである。🕊️

 

 

 

🕊️ 企業任せのAIで、本当に公益なデータは出てくるのか

 

今日のデジタルAI委員会の国会質疑で、少し気になる答弁があった。私は、AI開発におけるデータの扱いについて質問した。

論点は、AIの性能そのものではない。

 

ネガティブデータの扱いはどうなるのか。
企業や行政にとって不都合な情報が、きちんと残されるのか。

 

そこを聞いたつもりであった。

 

ところが、大臣から返ってきた答弁は、

「ネガティブなデータだけを除外すればAIの性能が落ちる。だから、そのようなことをする意味はない」

という趣旨であった。

 

ここには、少し齟齬があったのだと思う。
「データ」という言葉が、技術的な学習データの意味に受け取られたのかもしれない。しかし私が問いたかったのは、AIにとってデータが有用かどうかではない。
企業や組織にとって不都合な”情報”が、本当に表に出てくるのか、ということである。

 

企業が自らデータを管理し、自ら提供し、自ら評価する仕組みであれば、企業にとって都合の悪い情報が出にくくなるのは当然である。これは、技術の問題ではなく、統治の問題である。

 

たとえば、あるシステムで事故が起きた。
あるAI判定で不利益を受けた人がいた。
ある医療データの活用で、偏りや差別的結果が生じた。

 

そのような情報が、企業側の判断だけで整理され、加工され、報告されるとしたら、国民は何を信じればよいのだろうか。

必要なのは、信頼ではなく、検証可能性である。

 

 

第三者が確認できること。
データの選定過程が記録されること。
除外されたデータの理由が説明されること。
不利益事例や事故情報もきちんと報告されること。
企業にとって都合の悪い情報こそ、監督機関が確認できること。

 

それがなければ、AI開発は「公益のため」ではなく、「事業者の都合」に流れていく危険がある。

 

私はAI活用に反対しているわけではない。むしろ、医療、介護、防災、行政において、AIは大きな可能性を持っていると思っている。だからこそ、慎重になるべきなのだ。

 

AIは、誰の利益のために作られるのか。
そのデータは、誰が選ぶのか。
不都合な情報は、誰が検証するのか。

企業任せのAI開発で、本当に国民のためのAIになるのか。

 

この問いを避けたまま、AI時代の制度設計を進めてはならないと思うのである。🕊️

 

 

🕊️ AI主権という新しい課題
――Anthropic騒動が日本に問いかけるもの

 

この数日、アメリカで興味深い出来事が起きた。

米国のAI企業Anthropic(アンソロピック)が開発した最新AIモデル「Fable 5」「Mythos 5」に対し、米政府が国家安全保障上の理由から外国人による利用停止を命じたのである。Anthropicはこれを受け、世界中の利用者に対するアクセスを停止した。日本の利用者も例外ではなかった。(Reuters)

 

日本では「AIが突然使えなくなった」というニュースとして受け止められている。しかし、アメリカで議論されている本質は少し違う。

米政府は、これらのAIが高度なサイバー能力を持ち、外国の軍事・情報機関に利用される可能性を懸念している。つまり、AIを単なるソフトウェアではなく、半導体や軍事技術と同様の戦略技術として扱い始めたのである。

 

興味深いのは、アメリカ国内でも賛否が大きく割れていることだ。サイバーセキュリティ業界の有力者らは、今回の規制は過剰反応であり、むしろ防御技術の発展を妨げると批判している。一方で政府側は、AI能力そのものが国家安全保障上の管理対象になるという立場を崩していない。

 

私が注目したのは別の点である。

 

今回、日本政府も日本企業も、日本の利用者も、何も決めることができなかった。

米政府が決める。
米企業が従う。
日本はその結果を受け入れる。

ただそれだけであった。

 

これはAIの性能の問題ではない。

主権の問題である。

 

近年、欧州では「ソブリンAI(Sovereign AI)」という言葉が盛んに使われるようになった。AIを利用するだけではなく、自国のデータ、自国の法制度、自国の監査能力の下でAIを運用するという考え方である。今回の出来事は、その議論が決して机上の空論ではなかったことを示しているように思える。

 

もっとも、私は「だから国産AIだけでやるべきだ」と言いたいわけではない。現在のAI開発には莫大な資金と人材が必要であり、日本単独で世界最先端を維持することは容易ではない。

 

しかし同時に、日本には世界でも類を見ない資産がある。

医療データ。介護データ。高齢化社会の知見。防災データ。AI時代において、これらは石油以上の価値を持つかもしれないのだ。だからこそ重要なのは、技術を借りることがあっても、主権まで手放してはならないという大原則である。

 

データを誰が管理するのか。
誰が監査するのか。
誰が利益を得るのか。
誰が最終的な決定権を持つのか。

AI時代の国家戦略として、避けて通れない課題なのである。

 

Anthropic騒動は、一企業のトラブルなどではない。

AI時代において、国家とは何か。
主権とは何か。

そのことを私たちに静かに問いかけているように思うのである。🕊️

 

 

🕊️ フランス式に帰る? イギリス式に帰る?
――別れの挨拶という文化

 

フランス語に面白い表現がある。

filer à l’anglaise 直訳すると、「イギリス式に立ち去る」。

sans dire au revoir――さよならを言わずに。と言う感じ。

つまり、別れの挨拶をせず、そっとその場を後にすることである。ところが面白いことに、英語には逆の表現がある。

French leave――フランス式に帰る。

意味は全く同じだ。

どうやら人類は昔から、自分たちが黙って帰るのではなく、隣国の人がそうするのだと思いたいらしい。

 

もっとも、二十年以上フランスで暮らした私の印象では、フランス人はむしろその逆である。こっそり帰るなんてことは至難の業だし、そもそもその必要性があまりない。

彼らは実によく喋る。

アペリティフ(グラス片手に)で何時間も喋る。

食事中も喋る。

デザートを食べながら喋る。

カフェ一杯でも喋る。

帰ると言ってからも喋る。

コートを着てからも喋る。

玄関で喋る。

階段で喋る。

そして別れたはずなのに、また道端で喋っている。

本当に帰る気があるのか疑いたくなるほどである。🤣

 

フランスには、

Partir, c’est mourir un peu.(去ることは、少し死ぬことである)という言葉がある。

別れを惜しむ文化なのかもしれない。

あるいは、人との時間を大切にする文化なのかもしれない。

 

考えてみれば、「さようなら」を言うという行為は、案外エネルギーがいる。あの方にもご挨拶しなくちゃ。あちらにもお礼を言わなくちゃ。そう思っているうちに、別の話が始まる。また誰かに呼び止められる。気がつけば、帰るタイミングを失っている。

だからホストにだけお礼を言って、そっと帰る。

騒がず、目立たず、ひっそりと。それは無礼なのではなく、自分のエネルギーを守るための選択だという考え方もある。

 

もっとも、その逆もある。「あの方にもご挨拶しなくちゃ」

そう思って他の人との会話に興じていたら、気がつけば、お目当ての方がいない。結構な喪失感である。

 

社交性にも、いろいろな形がある。それもまた一つのスタイルであり、美学なのだろう。大切なのは、長くその場にいることではないのかもしれない。お互いを尊重しながら、無理なく付き合える距離感を見つけること。

 

別れ方ひとつにも、その人の人生観が垣間見える。

 

気がついたら、いなかった。

そうか。

帰ったのか。

いや、もしかすると、最初からそこにいなかったのかもしれない。🤣

 

人生には、時々そんな人がいる。

長いこと親しくしていた気がする。

何度も会った気がする。

たくさん話した気がする。

しかし振り返ると、まるで夢の中の登場人物のように、ふっと消えてしまう。

住所も知らない。

電話番号も残っていない。

共通の知人もいない。

あの人は本当に存在したのだろうか、とさえ思うことがある。

 

人生とは案外、そんなものなのだろう。🤣

 

だから私は、filer à l’anglaise という言葉が嫌いになれない。

それどころか訳もなく愛おしく思えてくるのである。🕊️

 

 

🕊️ スマホは出生率を下げたのか
――官能経済という視点

 

米国で興味深い研究が発表された。

スマートフォンの普及が出生率低下の大きな要因になった可能性があるというのである。

研究者らは、iPhoneが発売された2007年以降、スマートフォンへのアクセスが早かった地域ほど出生率が大きく低下したことを報告*している。

 

もちろん、出生率低下の原因は一つではない。

住宅価格の高騰、教育費の負担、晩婚化、女性の社会進出、避妊技術の進歩等、さまざまな要因が複雑に絡んでいる。

だから私は、この研究が「スマホが少子化の原因だ」と証明したとは思わない。しかし、別の意味で非常に興味深いと思った。

 

研究者たちはこう仮説を立てている。人々は対面で会う代わりに、スマートフォンの中で時間を過ごすようになった。

恋人と会う代わりにSNSを見る。

友人と語る代わりに動画を見る。

寂しさを埋めるために画面を開く。

その結果として、人と人との身体的接触や対面交流が減ったのではないかというのである。

 

私はこの記事を読みながら、ふと自分が以前より考えている「官能経済」**という言葉を思い出した。経済というと、お金やモノの話だと思われがちである。

しかし人間が本当に求めているものは何だろう。

 

触れること。語り合うこと。笑うこと。恋をすること。抱きしめること。誰かと同じ景色を見ること。

本来、人間の幸福はそうした感覚の積み重ねの中にある。

ところが現代社会は、その多くをデジタル化してきた。

会話はメッセージになり、恋愛はアプリになった。

娯楽は動画になり、仕事はオンライン会議になった。

便利になったことは間違いない。

 

私自身も毎日AIと会話している。

しかし、人間は画面の中だけでは生きられない。

AIと会話はできても、AIと温泉には入れない。

AIと議論はできても、肩を抱いて笑うことはできない。

少なくとも今のところは。

 

もしこの研究が正しいなら、私たちが失っているのは出生率だけではない。

人と人が触れ合う文化そのものなのかもしれない。

少子化対策というと、お金の話になりがちである。

もちろん経済支援は重要だ。

しかし同時に、人と人が自然に出会い、語り合い、恋をし、家族をつくる。そんな社会そのものを取り戻さなければ、本当の意味で出生率は回復しないのではないだろうか。

 

豊かさの本質とはGDPの大きさではなく、

どれだけ人と人が触れ合えるか。

どれだけ人生の官能を取り戻せるか。

どれだけ幸福を感じられるか。

 

AI時代だからこそ、人間にしかできないことの価値は、むしろ高まっていくのだと思う。

なぜなら私たちは、永遠ではなく、一度きりの人生を生きているのだから。🕊️

 

<脚注>

*米ミドルベリー大学のEzekiel Hooper氏、Caitlin Knowles Myers氏らは、iPhone発売後のモバイルブロードバンド普及状況と出生率の変化を分析し、スマートフォンへのアクセスが早かった地域ほど出生率低下が大きかったとする研究結果を報告している。ただし本研究は現時点ではNBER(全米経済研究所)のワーキングペーパーであり、査読前の研究である。
Hooper E, Myers CK. Broadband, Smartphones, and Fertility: The Impact of the iPhone Rollout on U.S. Birth Rates. NBER Working Paper, 2026.

 

**ここでいう「官能経済」とは、性的な意味ではなく、五感、身体感覚、人との触れ合い、自然、食、旅、美、ぬくもりなど、人間が生きている実感を得る経験に価値を置く考え方である。デジタル化やAI化が進む時代だからこそ、数値化しにくい感覚的な豊かさを社会や経済の価値として捉え直す必要がある、という問題意識を含む。

 

 

🕊️ ダウン症は治せるようになるのか
――余分な染色体を取り除いた日本の研究が問いかける未来

 

昨年2月、日本の研究チームによる興味深い研究成果が報告された。

三重大学の橋詰良太郎博士らの研究グループが、ダウン症候群の原因となる余分な21番染色体を、ゲノム編集技術CRISPR-Cas9を用いて細胞から除去することに成功した*というのである。

ニュースの字面だけを追うと、「ダウン症が治った」「ダウン症がなくなる」と受け取る方もいるかもしれない。

しかし、まず大切なのは、この研究は現時点では患者さんの治療ではなく、培養細胞を用いた研究段階であるということだ。

 

それでもなお、この研究は極めて重要な意味を持っている。

なぜなら、人類はこれまで、ダウン症候群に対して症状を支えることはできても、原因そのものを取り除くことはできなかったからである。

 

ダウン症候群は、21番染色体が通常2本のところ3本存在することで起こる。

およそ700人に1人の割合で生まれるとされ、知的発達の遅れや先天性心疾患などを伴うことがある。

今回の研究では、その余分な1本だけを狙い撃ちし、正常な2本は残したまま除去することに成功した。

まるで、本棚に間違って3冊入っていた同じ本のうち、余分な1冊だけを抜き取るような作業である。

しかも、余分な染色体が除去された細胞では、過剰に働いていた遺伝子の発現が正常化し、細胞機能も改善したという。

これは単なる技術的成功ではない。

 

「染色体異常そのものに介入できる可能性」を示したのである。

しかし、ここから先は慎重に考えなければならない。

まず、この技術が実際の患者さんに使えるようになるまでには、多くの課題が残されている。

 

余分な染色体だけを完全に除去できるのか。他の染色体に予期しない影響はないのか。長期的な安全性はどうなのか。

動物実験や臨床応用までには、まだ長い道のりがある。

 

そしてもう一つ、より大きな問題がある。

もし将来、染色体異常や遺伝病を修正できるようになったら、私たちはどこまでそれを許容するのだろうか。

筋ジストロフィーを防ぐ。重い先天性疾患を防ぐ。多くの人は賛成するだろう。

では、身長を高くする。筋力を強くする。記憶力を高める。知能を高める。

ここまで行ったらどうだろうか。

 

近年、国会では「ゲノム編集ベビー」を禁止する法案も議論されている。実は、その背景にあるのは同じ問いである。

 

私たちはどこまで人間を設計してよいのか。

 

技術は間違いなく進歩する。

AIは膨大な遺伝子データを解析し、将来は遺伝子改変の候補まで提案するかもしれない。

しかし、「できること」と「やってよいこと」は同じではない。

 

私はゲノムに未来を見る医師として、この研究そのものは非常に素晴らしいと思う。難病や遺伝性疾患に苦しむ方々にとって、新たな希望になる可能性があるからだ。

一方で、人類は今、「病気を治す技術」を手に入れつつあるだけでなく、「人間を設計する技術」の入り口にも立っている。

 

だからこそ必要なのは、技術への恐怖でも、無条件の礼賛でもない。科学への敬意と、生命への謙虚さ。その両方なのだと思う。

 

昔の研究者が夢見た未来は、すでに始まっている。
しかし、その未来をどう使うかは、

”まだ”私たち自身が決めることができる。🕊️🧬🤖♨️

 

<脚注>

* Hashizume R, Wakita S, Sawada H, et al. Trisomic rescue via allele-specific multiple chromosome cleavage using CRISPR-Cas9 in trisomy 21 cells. PNAS Nexus. 2025;4(2):pgaf022. doi:10.1093/pnasnexus/pgaf022. 三重大学も同研究について、ダウン症候群の人由来の細胞から過剰な21番染色体を最大37.5%の頻度で除去したと発表している。