💯国家試験問題を、AIと一緒に解くということ

 

国家試験問題や最新論文の結果、専門科目問題を、AIとともに解く。

一部はクイズ形式で。

 

ここ数年、毎日というわけにはいかないけれど、断続的に──

気づけば 1000問近く、この作業を続けてきた。

同時に見てきたのは、AIの進化そのものだった。

 

Chappyの初期(GPT-3.5の頃)から。最初は、正直ツッコミどころも多かった。でも、問いを重ね、文脈を与え、議論を続けるうちに、「これは単なる検索装置ではないな」と感じる瞬間が増えていった。

 

👁️‍🗨️政治の世界に入って、一度やめた理由

 

昨年2月末から、政治活動を本格的に始めた。

正直に言えば、勉強量がまったく別次元だった。当選後は、正真正銘異次元に突入した。

法律、制度、財政、行政文書(アナログ)、会議資料(アナログ)……

医師としての勉強とは、脳の使う場所が違う。

(そして、どれも“人の命”に直結する重さを持っている。)

 

そのため、国家試験問題や論文をAIと解く習慣は、しばらく中断せざるを得なかった。「今はそっちじゃない」

そう思ったのも事実。

 

🗣️それでも、政治の現場で気づいたこと

 

ところが、政治の世界に身を置いて、

思いがけず強く感じたことがある。

専門性というのは、やはり宝だということ。

そして、経験こそが最大の財産だということ。

 

他党のドクター議員と話す機会が増えた。

内科、外科、基礎系──

専門は違っても、そこには 共通言語 がある。

 

その共通言語が、議論をどれだけ速く、どれだけ深くするか。

「少しでも医学的な糸口を共有できるかどうか」で、

議論の質がまったく変わる。

これは、今までの人生でも感じてはいたが、

政治の世界でも同様であった。

 

🏥だから、医学の勉強を再開する

 

というわけで、年の初めからまた、医学の勉強をしっかり再開する。たとえ臨床現場に立つ時間が限られていても、たとえ机上の勉強が中心になろうとも。医学は、離れると鈍る。

でも、続けていれば、必ず身体のどこかに残る。

 

そして今は、AIという大変に心強い 「第二の視点」 がある。

 

🔬皮膚科の問題で、はっきり見えたこと

 

今回、過去にスキップした問題の中に、たまたま自分の専門である皮膚科の問題が出てきた。

 

皮膚科専門医なら、画像を見た瞬間に「これだ!!」とピンとくる。でも、正解率は 約30%

 

多くの医者の卵や、他科の医師が、

  • もっと悪性のものではないか

  • 他に頭に浮かぶ鑑別診断が気になる

と迷い、外していく。

 

ここに、皮膚科標榜科の怖さがある。

そしてその怖さは、最終的に 患者さんの不安や、不要な侵襲として返ってくることがある。

 

🕳️「見える診療」の落とし穴

 

皮膚は、見える。

写真にも残る。

だから「医者なら普通に診られる」と思われやすい。

 

でも実際には、

  • 構造を見る目

  • ダーモスコピーや顕微鏡などミクロの読み

  • 汚さとリスクの区別

  • 経過を含めた判断

これらは、経験の積み重ねでしか身につかない。

「見えているつもり」が、いちばん危ない。

 

🤖だからこそ、AIは“補助の眼”として使うべき

 

ここで大事なのは、AIに診断を任せることではない。

そうではなく、専門医の眼を、補助するためのAIとして使うこと。特に、

  • 非皮膚科医が最初に触れる場面

  • 健診

  • 在宅医療

  • 地方や人手不足の現場

ここで「これは皮膚科紹介レベルかどうか」を仕分けるだけで、

医療の質は大きく変わる。

特徴量がはっきりした病変は、むしろAIが得意な分野でもある。

 

💻専門医 × AI = 誤診を減らすための二重知性

 

AIは万能ではない。

そして敵でもない。

専門性と経験を軽くするものではなく、

それを広げ、支える道具として使う。

 

国家試験問題をAIと解く、という一見ささやかな作業の中に、

これからの医療のヒントが、たくさん詰まっている気がしている。

また少しずつ、続けていこうと思う。

 

🐤「正解率30%だった皮膚科問題の正体」はまたいつか。

 

🍮「別腹」は本当に生理現象か?——日本人と欧米人の“甘味設計”の違い

 

年の初めは、甘くスウィーツなお話しで。😋

 

「別腹には科学的根拠がある」

そんな記事を最近、目にした。

 

確かに、甘味刺激が脳の報酬系を活性化し、満腹中枢とは別の回路が働く——

その説明自体は、脳科学的にも一定の説得力がある。

 

でも、私は読んでいて、少し違和感を覚えた。

日本人の“別腹”は、欧米人のそれと同じなのだろうか?

そして、そもそも——日本人は、本当に「別腹」が必要なのだろうか?

 

🍓欧米では「デザートがないと食事が終わらない」

 

フランス、イタリア、アメリカ。

どの国でも共通して感じたのは、デザートが出ないと「食事が未完」になる人が多いということだ。

 

特に男性に顕著で🤣、

「甘いもので締めないと、食事をした気がしない」

という感覚が、かなり一般的に見える。

 

これは単なる嗜好というより、食事の構造そのものがそう設計されているのだと思う。

 

🍶日本料理は「最初から甘味を織り込んでいる」

 

一方、日本料理はどうだろう。

 

煮物、照り焼き、すき焼き、酢の物、卵焼き。

これらの多くに、みりん・砂糖などの甘味要素が入っている。

 

しかもそれは、

「デザート的な甘み」ではなく、

旨味・塩味・酸味と重なった、構造としての甘みだ。

 

つまり日本料理では、

甘味は「最後に足すもの」ではなく、

途中で段階的に満たされていくものなのである。

 

🍒だから日本人は「デザートがなくても終われる」

 

日本人が

「別にデザートなくてもいいかな」

と思えることがあるのは、意志の問題でも、我慢でもない。

 

すでに食事の中で、甘味が“充足”しているからだ。

 

味覚記憶、満足感、報酬系刺激——

その“満たされ方”が、欧米の「最後に甘味で完結する」構造とは違う。

 

🍰「別腹」は文化依存の現象でもある

 

別腹を「人類共通の生理現象」として語るのは、少し乱暴だと思う。

正確には、別腹が強く必要になる食文化がある

 

欧米料理は、

前菜→主菜→デザート、という流れで、甘味が後半に集中する。

 

日本料理は、

食事全体に甘味を分散させ、途中で小さく満足を積み上げる。

 

この違いが、

「別腹が必要かどうか」

の体感差を生んでいるのではないか。

 

🧪科学は大事。でも文化を抜きに語れない

 

科学的説明は大切だ。

ただ、人間の食行動は、文化と設計を抜きに語れない。

 

「別腹がある/ない」ではなく、

どの文化が、どこで甘味を満たす設計になっているか

そこを見るほうが、よほど本質的だと思う。

 

🍱日本人は「別腹」ではなく「余韻」で終わる

 

日本料理の食後に残るのは、

ドカンとした甘さではなく、余韻——

「もう一口はいらない」という静かな満足感だ。

 

それは“別腹”というより、

すでに満たされている感覚なのかもしれない。

 

※なお、糖質摂取と抗老化・肥満・糖尿病などの健康影響は重要な別論点なので、ここでは切り分ける。必要なら次回、科学的に整理して書きたい。

 

🪭年末年始のご挨拶”昭和オマージュ版”

 

”お正月”を挟むこの時期、ふっと思い出す光景があります。

小学生の頃、父や母と一緒に障子貼りをした年の暮れ。

書き初めをして、まだ原っぱの残る道を走って、父と凧揚げをした。

 

母とは羽子板。草笛を吹いたり、ぺんぺん草で遊んだり、

花の冠を作ったり。

 

テレビは、ドリフ。

(あの「8時だョ!」の笑いは、

家の空気ごと明るくしてくれました。)

そして「笑点」に、サスペンス劇場。

お正月特番と映画三昧の、あの“ゆる〜い幸福”が、

今も体のどこかに残っています。

 

母がこの6月に旅立ってから、

私の中で幼い頃の記憶が、すっと一本の線に収まった気がしています。

原風景が固定化された――そんな感じです。

「心配する命が一つ減った」と気づいたとき、

言葉にならない切なさと、形容しがたい解放感が同時に来ました。

人は、こういう感情をどう扱えばいいのでしょう。

 

皆、どこから来て、どこへ行ってしまうのか。

永遠の問いを、年の暮れにまた考えています。

 

それでも、今生でご縁のある人たちは奇跡の確率だと思う。

どうぞこれからも、よろしくお願いします。

 

みなさま、佳いお年をお迎えください。

(喪中につき、新年のご挨拶は控えさせていただきます。)

 

♨️温泉大国・日本が「湯治大国」になり損ねている理由

――欧州のテルマール文化と、日本の秘湯のあいだで

 

私は自他共に認める、温泉フリークである。

フランスに住んでいた頃も、週末になると隣国まで含めて温泉巡りをしていた。

ドイツのバーデンバーデン、イタリアのモンティカティーニテルメ、ベルギーのSpa(スパ)、アンドラ公国のCaldea(カルデア)、アイスランドのブルーラグーンetc(場所は違えど、最近のヒットはマレーシアのイポーにあるベンジャランリトリート)

いま思えば、あれは半分「旅」で、半分「臨床の勉強」だったのだと思う。

 

欧州には、温泉療法(フランスでは cure thermale)や海洋療法(タラソテラピー)が、制度として根を張っている。フランスの健康保険制度上、温泉療法は観光というより「療法」として整理され、全国に 89の温泉地(stations thermales) と 108の温泉施設(établissements thermaux) が位置づけられている。 また、医師の処方を前提に条件を満たせば、原則 18日間(連続) の温泉療法が保険適用となり得る。

 

フランスでは、医師の処方があり条件を満たせば、約3週間の温泉療法が保険適用になり得る。たとえば化粧品でも有名なアベンヌやラ・ロシュ=ポゼは、アトピー性皮膚炎や乾癬など慢性皮膚疾患を意識した温泉療法の文脈で語られることが多い。  

それは、気分や流行ではなく、体系化された「療法」だ。

 

イタリアやドイツも似た構造を持つ。

ただし、欧州の温泉療法は飲泉やハイドロテラピー(物理刺激によるリハビリ・循環改善)などが中心で、日本人がイメージする「温泉に浸かって整う」スタイルとは少し趣が違う。湯温もぬるめで、長期滞在の“治療プログラム”として設計されていることが多い。

 

♨️日本の温泉は、世界でも稀な「浸かる文化」を持っている

 

一方で火山国日本の温泉は、そもそも資源としての質が異様に豊かだ。

泉質のバリエーション、湧出量、そして“浸かる”ことを生活文化として持っている国は、実はそこまで多くない。

 

私自身、温泉好きが昂じて温泉療法医の資格も取り、秘湯を巡り、今回、温泉議連にも入った。

だからこそ、強く思う。

 

――日本の温泉は、湯治でいける。普通にいける。

なのに、それを「制度」にまで落とし込めていない。

ここが、惜しすぎる。

 

🐤秘湯に浸かりながら、あらためて思うこと

 

そしていま私は、秘湯に浸かりながら、同じことを考える。

医師偏在問題も、地方創生も、福祉と医療の連携も、その解決のキーの1つは、この”温泉医療”かもしれない。

 

メタケイ酸系のやわらかい湯と、重炭酸系の湯を試し、血行が上がる感覚、筋緊張がほどける感覚、そして“鎮静”が入る感覚を、身体で確認する。とくに、慢性の筋肉のこわばりが軽くなるのが早い。単に「温めた」だけでは説明しきれない軽快さがある。

外気の冷たさが自然のマッサージになる。

(このあたりは、あくまで個人の体感として、でも還暦を超えた臨床医として誠実に書いておきたい。)

 

🏥これは贅沢の話ではなく、「医療設計」の話だ

 

温泉を“娯楽”として扱い続ける限り、湯治は制度にならない。

しかし温泉を“療法資源”として捉えるなら、一気にレベルアップする。

  • 慢性疼痛

  • 皮膚疾患(炎症性・バリア障害)

  • 睡眠障害

  • 自律神経の乱れ

  • うつ・不安の周辺症状(※ここは慎重に扱うべきだが、現場感は強い)

  • リハビリ・フレイル予防

こうした領域は、薬だけで解決しない。

そして医療費の増大が問題になるほど、“薬以外の手段”を制度として持つ国が強い

 

欧州はそこを先にやった。

日本は歴史も資源もあるのに、設計が遅れている。

 

🍊もったいない、で終わらせないために

 

日本の温泉は、その源泉、水質、環境、世界的競争力を持つ。

観光としてではなく、「療法として」出せる。

しかも、日本はすでに文化として“浸かる”をDNAに持っている。これが強い。

 

あとは、制度設計と、エビデンスと、運用だ。

「できるかどうか」ではない。

“やる気があるかどうか”なのだ。

 

私は温泉フリークとして、そして温泉療法医として、

この国の温泉資源が“未来の医療”に変わっていく道筋を、現場の言葉で書いていきたい。

 

(続)

 

🧑‍🏫教師が壊れていく国で、教育の未来は語れない

――日本の学校が抱える「構造的な疲弊」

 

近年、小学校教員を中心に、精神疾患による休職が高止まりしているという報道が続いています。忙しさ、業務量、人手不足。表面的には、そうした言葉で語られがちですが、私はこの問題の本質は、もっと深いところにあると感じています。

それは、「教師の役割が、無限に拡張されすぎている」という構造です。

 

🇯🇵日本の教師は、何でも屋になりすぎている

 

日本の学校では、教師が担う役割があまりにも多い。

  • 勉強を教える

  • 生活指導・しつけ

  • 給食・掃除の管理

  • 部活動の指導

  • 保護者対応

  • 家庭内トラブルへの介入

  • 地域問題の調整役

これらが「善意」や「責任感」によって、教師個人にのしかかっています。そして問題なのは、

👉 「やらない」という選択肢がほぼ存在しないこと。

真面目で優しい人ほど、「自分が引き受けなければ」と思い、限界を超えてしまう。これは個人の資質の問題ではなく、制度が人を壊す設計になっているのです。

 

🇫🇷フランスでは、これはあり得ない

 

合理主義のフランスでは、

  • 教師の仕事は「教えること」に限定される

  • しつけは家庭の責任

  • 掃除や給食は専門職

  • 部活動は地域やクラブの仕事

  • 保護者が学校に過度に介入することは少ない

教師は専門職として明確に線引きされています。だからこそ、教師は授業の質に集中でき、「教師が精神的に壊れていく」という事態は、日本ほど頻発しません。

 

🇺🇸アメリカはどうか?

 

アメリカもまた、日本とは違います。確かに、地域差や学校差は大きいですが、

  • 教師の業務範囲は契約で明確

  • 学校カウンセラーやソーシャルワーカーが常駐

  • 家庭問題は学校外の専門職が対応

  • 教師が抱え込むことを前提としない

一方で、成果主義・訴訟リスクという別のストレスはあります。

しかし少なくとも、「教師が何でも背負う構造」ではありません。

 

🇯🇵日本独特の「境界なき親切」

 

日本の学校現場を追い詰めているのは、私は「境界線の崩壊」だと思っています。

  • 子どもが困る前に先回りする

  • 保護者の要望を断れない

  • どんな問題も「学校が何とかすべき」という空気

これは一見、優しさに見える。

けれど実際には、教師の心をすり減らし、子どもの主体性も奪う。「不親切」は、冷たさではありません。

あえて手を出しすぎないこと。やりすぎないこと。別の専門家に任せる勇気も必要です。

境界線とは、自身の安全装置でもあります。

 

🧑‍🎓少子化の時代に、これは致命的

 

いま日本は、少子化の真っただ中にあります。量ではなく、質こそが国の未来を左右する時代です。

その中で、

  • 教師が疲弊し

  • メンタルを壊し

  • 現場から去っていく

これは、国家として非常に危険な兆候です。

教員を増やせば解決する問題ではありません。役割設計そのものを見直さなければ、同じことが繰り返される

 

📕教育は「気合」ではなく「設計」

 

教師のメンタル不調は、努力不足でも甘えでもありません。

善意に依存する制度は、必ず破綻します。

必要なのは、

  • 教師の役割を明確にすること

  • 学校が抱え込まない構造を作ること

  • 家庭・地域・専門職との再分業

  • 「助けを求めること」が評価される文化

教育は、精神論ではなく、設計の問題です。

 

🧑‍🏫教師が守られない国で、子どもは守れない

 

教師が安心して働ける環境なくして、子どもの健やかな成長はありません。優しい人ほど倒れていく構造を、「美談」にしてはいけない。

 

教育は、国家の根幹です。だからこそ今、冷静に、構造から考え直す時期に来ているのだと思います。

 

 

📃「シュレッダー国家」と、診断を奪われる人たち

——DX後進国の“紙の闇”は、氷山の一角

 

共同通信の報道で、目を疑う話が出てきた。

障害年金の審査において、医師が記した判定結果が、職員の判断で破棄され、別の医師に“やり直し”が依頼されていた、という。

 

制度の話として、とても重要なのはここだ。

誰が、何を根拠に、何を破棄し、何を再評価したのか。

その履歴が、検証可能な形で残っているのか。

そして、もし残っていないなら——この国の“審査”は、すでに審査ではない。

「記録できない裁量」は、都合よく真実を変えられるカメレオンボックスだ。

 

📄紙は「手段」なのに、紙が「権力」になる

 

紙の運用が怖いのは、紙そのものが悪いからではない。

紙は、痕跡が消せる。

そして「消せる」ものが制度の中心にあると、必ずこうなる。

  • いつ、誰が、何を、どう判断したのか

  • その判断の前提が何だったのか

  • 途中で介入があったのか

  • 介入が正当だったのか

これが、あとから追えない。

追えないものは、検証できない。

検証できない制度は、必ず疑念を生む。

 

さらに悪いのは、疑念が生まれた瞬間に、当事者が救済されにくくなることだ。

障害年金とは、本来、生活の土台を支える制度だ。

それが「運用の都合」で揺らぐなら、国は人を支える資格を失う。

 

🧩「なぜ、そんなことが起きるのか」という構造の話

 

ここで大事なのは、個人の善悪を断定することではない。

むしろ、“断定できない設計”になっていること自体が危険なのだ。

 

紙で「破棄」や「差し替え」ができる状態だと、動機はたった一つに限られない。

たとえば——

  • 制度防衛型:支給の増減が制度全体の“見え方”に影響し、運用側が「整合性」を優先してしまう

  • コスト圧型:どこかで“抑制圧”が働くと、現場が「厳しめが無難」と学習してしまう

  • KPI/組織論理型:本来は個別判断のはずが、組織の均し(ばらつき抑制)が正義になってしまう

何が当てはまるかは、外側からは断定できない。

だからこそ必要なのは、“推理”ではなく検証可能性だ。

いつ、誰が、どの根拠で、何を差し替えたのか。

このログが残っていない制度は、いずれ必ず社会の信頼を失う。

 

🧊“氷山の一角”に見えるのは、構造が同じだから

 

私はこういう話を聞くたびに思い出す。

過去にも、国家機密レベルの「紙の名簿」が複数の移動の中で紛失した、というようなニュースがあった。

意図的かどうかは分からない。だが、分からないこと自体が問題だ。

 

噂レベルでも「FAXで届いたものが…」という話が飛び交うのは、紙の運用が、もはや“信頼”を支えられない状態に来ているからだ。

 

断言できるのは、これだけ。

紙中心の制度は、真面目な人ほど疲弊し、不正な人ほど得をする。そして最終的に損をするのは、声の小さい国民だ。

 

🤖DXとは「便利」だけではない

 

DXは、“検証可能性”のインフラだ。

DXが必要なのは、格好をつけるためでも、効率化のためでもない。

本質は以下、

  • すべての判断に、タイムスタンプと責任主体を紐づける

  • 改ざん・破棄ができない形でログを残す

  • やり直しが必要なら、理由と手続きを記録する

  • 第三者が監査できるようにする

これができて初めて、制度は「恣意」から「手続き」に戻る。

 

障害年金のように、人生を左右する領域で、「シュレッダー」という単語が出てくること自体が、もう時代遅れでは済まない。

 

🗣️言いたいのは、断罪ではない

 

——「再発防止を設計しろ」ということ

 

誰かを悪者にして終わる話ではない。

制度は、設計の勝負だ。

現場の誰かの善意や努力に依存した瞬間、制度は必ず壊れる。

 

だから、問いはこれだけでいい。

  • 破棄・差し替えが可能な運用になっていなかったか

  • その裁量は、誰が、どの根拠で持っていたのか

  • 記録は残るのか、残らないのか

  • 残らないなら、なぜ残らない設計なのか

  • 明日からどう直すのか

この国は、紙で未来を失っている場合ではない。

救われるべき人が、救済の手前で消えていく構造を、これ以上放置してはいけない。

 

Chappy画伯のイラスト。さてあなたは”おかしなところ”を幾つ発見できた?

 

👶「発達障害」と呼ぶ前に──睡眠・身体・環境という“複合要因”の話ーーそして、AIが最も力を発揮する領域について

 

こんな記事を読みました。

「集団行動が苦手と言われた子どもが、お風呂で睡眠が改善したら落ち着いた」

 

このエピソードは、とても示唆に富んでいます。

けれど、ここで思考を止めてはいけません。

 

「発達障害ではなかった」

「お風呂が万能だった」

 

──そんな単純な話では、まったくないのです。

 

🟥 発達特性も、睡眠不足も「単独原因」はほぼ存在しない

 

発達障害的な行動。

睡眠不足。

集中力低下。

情緒不安定。

 

これらは、ほぼ例外なく“複合要因”です。

  • 発達特性があり、睡眠が浅くなる場合もある

  • 睡眠不足が続き、発達障害“っぽく”見える場合もある

  • 耳鼻科疾患(慢性副鼻腔炎、巨大扁桃、鼻閉)で眠れないケース

  • 皮膚疾患やかゆみで夜間覚醒するケース

  • 偏食によるミネラル不足が、睡眠と行動の両方に影響するケース

  • ストレスや感覚過敏が絡むケース

原因と結果は、一方向ではありません

ぐるぐると相互に影響し合っています。

 

だから私は、

”今後「睡眠障害外来」を標榜できるようになる”

という発想は、どれほど短絡的で危険かを国会でも強調しました。それは医療ではなく、思考停止です。

 

🟦 お風呂は“治療”ではなく「介入の一手」

 

今回のケースで有効だった「お風呂」は、あくまで 生活介入のひとつ。体温リズムを整え、自律神経を落ち着かせ、入眠を助けただけ。

しかしそれが、睡眠 → 日中の覚醒 → 行動 → 評価、という連鎖を改善した。

 

つまり「どこに介入すると全体が動くか」を見抜けたことが、最大のポイントなのです。

 

🟨 大人にも、まったく同じことが起きている

 

これは子どもの話に見えて、実は大人でも“あるある”。

  • 「メンタルの問題」と言われていた人が、実は睡眠時無呼吸

  • 「発達グレー」とされていた人が、慢性鼻閉+鉄欠乏

  • 「更年期うつ」と言われていた人が、睡眠と腸の問題

ラベルを貼る前に、全体を見立て直す力が必要なのです。

 

🤖 そして、ここでAIが本領を発揮する

 

こうした

  • 各診療科にまたがる

  • 原因と結果が循環する

  • パラメーターが多い

複合要因の問題

正直に言います。

 

👉 ここは、AI診断補助がめちゃくちゃ向いている領域です。

 

症状、生活習慣、既往歴、検査値、環境要因を、同時に俯瞰し、パターンとして可視化できる。

これを

  • 「使える医師」

  • 「使えない医師」

で、診療の質に雲泥の差が出るのは、もはや火を見るより明らかです。🤣

 

AIは医師を置き換えません。けれど、

AIと組めない医師は、

複雑化した現代医療から、静かに取り残されていく。

 

それだけの話です。

 

🟥 単純化は、医療でも政治でも、必ず歪む

 

発達障害。

睡眠障害。

医療DX。

 

どれも「一言で説明できる話」ではありません。

だからこそ私は、これからも「効いた・効かない」「ある・ない」ではなく、

「なぜそうなっているのか」を語り続けたいと思っています。

 

皮膚も、睡眠も、発達も、政治も。

単純化すると、必ず歪む。

でも、ちゃんと見て対処すれば、ちゃんとほどける。

 

──そのための知性と道具は、

もう私たちの手の中にあるのです。

 

 

🎤 「認知症が最大死因」ニュースで、最初に私が“もやっ”とした理由

――死因統計は、国が違えば“別の言語”である

 

世界のニュースで、オーストラリアが「認知症が最大の死因になった」と公表した、という話を見た。

がんでもなく、心疾患でもなく、認知症。

 

最初に湧いたのは、驚きというより、正直こういう感覚だった。

「え? 認知症が死因? それってどういう意味?」

医師の感覚では、認知症は“心臓を止める病気”ではない。

実際の現場で、亡くなる直前に起きているのは――

  • 誤嚥性肺炎

  • 感染症

  • 脱水

  • 栄養失調

  • 転倒・骨折からの合併症

などのことが多い。だから、直感的には「死因は肺炎とか感染症では?」と思う。この“もやっ”は、たぶん医療者なら自然な反応だと思う。

 

🪦死因は、医学的事実というより「統計のルール」で決まる

 

でも調べていくうちに、見えてきた。

同じケースでも、国が違えば「どれを死因として記録するか」のルールが違う。

つまり――

 

死因統計は、国が変わると“別の言語”になる。

 

ある国では「直接の死因(肺炎など)」が前に出やすく、

別の国では「死に至る連鎖の“根本原因”(基礎死因)」をより重視して記録される。

たとえば、認知症 → 嚥下障害 → 誤嚥 → 肺炎 → 死亡、この流れを、「肺炎」を死因として前面に出す集計もあれば、「連鎖の出発点(基礎死因)として認知症」を死因として前に出す集計もある。

 

どちらが間違い、ではない。

“何を死因と呼ぶか”の優先順位が違うだけなのだ。

 

🌏 だから、各国の死因ランキングは“直接比較が無理”

 

ここが今回の結論。

死因統計は、ルールが違えば結果が変わる。

つまり「認知症が最大死因になった」というニュースを、

そのまま日本と直接比較して「日本はやはり違うよね」と言うのは危険。同じ現実を見ていても、数え方が違えば順位はひっくり返る。統計は“客観”に見えて、実は「定義」と「制度」に強く依存する。

 

🇯🇵 じゃあ日本の“最新”はどうなっているか(2024年の確定数)

 

ここで一度「日本の公式統計」に戻る。厚生労働省の2024年(令和6年)人口動態統計(確定数)では、死因順位は次の通り。

  • 第1位:悪性新生物(がん)…23.9%

  • 第2位:心疾患(高血圧性を除く)…14.1%

  • 第3位:老衰…12.9%

    (参考:第4位は脳血管疾患)

少なくとも、日本の“公式な死因ランキング”の表面では、「認知症が1位」という景色にはなっていない。

 

🪭それでも私が感じた「もう一段深い話」

 

話しはここで終わらない。

がんや心疾患治療の向上、体力・栄養状態の改善などで“すぐ死なない”人が増え、超高齢まで生きる人が増えた結果、最後に残りやすいのが「脳機能の崩壊」――認知症だ。

つまり、認知症が第一位に来るのは単に死因の言い換えではなく、「私たちは長生きに成功した。でも、最終章の設計はできているのか?」という問いでもある。

 

🎍そして、日本でも起こりうる

 

私はこう思う。

日本でも、ある日突然「死因1位:認知症」が出現する可能性は十分ある。それは“認知症”自体が急増したからではなく、統計のルールや記載の文化が変わった瞬間に“見える化”されるから。

今まで「肺炎」「老衰」として数えられていたものの一部が、

“連鎖の根本原因(基礎死因)”として認知症に集計されるようになれば、順位は簡単に変わる。

 

実際、オーストラリアでは統計局(ABS)が、2024年の死因として認知症(アルツハイマー病を含む)が9.4%で第1位になったと公表している。

 

📈最後に:数字を比べる前に、定義を比べたい

 

このニュースで私が得た学びはシンプルだ。数字は嘘をつかない。でも、数字の“作り方”は国によって違う。

だから、死因ランキングを見て何かを語るなら、まず比べるべきは「順位」ではなく「定義」だと思う。

 

そして、もし認知症が死因トップになる社会が来るなら、私たちは医療の勝利の先にある「尊厳」「介護」「終末期」「家族の負担」を、正面から設計し直す必要がある。

 

――長生きできることと、幸せに生き切れることは、同じではないのだから。

 

※脚注(※ややこしいけど示唆が強いので置いておく)

「日本でも“認知症が死因1位”になり得る」という話は、公式統計とは別に、慶大医学部と米ワシントン大学IHMEがGBDデータを用いて1990〜2021年の日本の健康状態を解析した研究報道でも出ている。そこでは2021年に“アルツハイマー病を含む認知症”が主要死因の第1位になったと記載されている(ただしこれは“人口動態統計の順位”そのものではなく、GBD枠組みの推計・再配分を含む集計である点に注意)。

 

📈「統計学的思考が不可欠」

──それでも、今それ“だけ”では間に合わない

 

毎日、山のように届く新聞、日報、会報誌、専門誌。

アナログではあるけれど、私はなるべく目を通し、時事の論点を拾うようにしている。

 

今回、目に留まったのが『日本時事評論』に掲載されていた

「政策立案には統計学的思考が不可欠」

「文理を問わず、大学入試で数学を必須に」

という論考である。

 

内容は興味深く、問題提起としても真っ当だ。

日本社会における「統計学的思考の脆弱さ」については、私自身これまでのブログでも何度も取り上げてきたテーマでもある。

 

ただ、今回あらためて読みながら、ひとつ強い違和感も同時に覚えた。それは、方向は正しいが、時間軸が合っていない、という点だ。

 

🖊️統計学的思考は「必要条件」だが「十分条件」ではない

 

まず大前提として確認しておきたい。政策立案や行政判断において、

  • データを読む力

  • 数字の裏にある前提条件を疑う力

  • 相関と因果を区別する力

これらが不可欠であることに、異論はない。

統計学的思考は、間違いなく必要条件である。

しかし、それだけを強化すれば政策が良くなるかと言えば、答えはNOだ。

 

実際の政策現場で問題になるのは、「計算ができないこと」よりも、

  • 何を測るべきかを定義できていない

  • その指標が、現場の行動をどう歪めるかを想像できていない

  • 外れたときに、検証して修正する仕組みがない

という、そもそも論。問いの設計・因果の理解・意思決定の構造にある。

 

統計はあくまで道具だ。

大前提である“問い”が誤っていれば、どれほど精緻な統計も、誤った結論を導く。

 

これはAIの活用法でも同じである。

AIは超知性に見えるが、目的関数と評価軸が出力を規定する。

つまり導き出される答えは、常に“真理”ではない。

AIは「答えを出す装置」というより、前提を増幅する装置でもある。

 

たとえば評価軸が「安心設計80%」に固定されていれば、

“不確実だが魅力的な提案”は最初から弾かれる。

 

🔤「英語的思考力」という、もう一つの基盤

 

ここで私が重要だと考えるのが、いわゆる「英語的思考力」だ。

これは語学としての英語ではない。

  • 結論を先に置く

  • 根拠と前提条件を明示する

  • 反証可能性を残す

  • 条件が変われば結論も変わることを前提にする

こうした論理の組み立て方である。

 

ここで一つだけ、政策に直結する基礎体力を挙げるなら、

“数(count)”と“量(amount)”を混同しないこと。

この一線を守れるかどうかで、議論の質は大きく変わる。

 

統計学を必修にしても、この思考様式が弱いままでは、

数式を暗記し、試験のために解き、現実の意思決定には使われない——

という結果になりかねない。

 

📕教育改革は必要だが、「それを待つ時間」は日本にはもうない

 

大学入試で数学を必須にする。長期的には一定の意味はあるだろう。しかし冷静に考えれば、制度改正が社会の意思決定層に届くには時間がかかる。

少なく見積もっても10年以上、現実にはもっとかかる。

 

一方で今この瞬間にも、

デジタル政策、医療データの利活用、AI・DX関連予算、社会保障・財政運営は、現役の官僚・政治家・行政幹部によって決められている。

 

つまり日本はいま、完全に”急性期”にある。

この状況で「まずは教育から」という未来志向型処方箋だけでは、残念ながら間に合わない。

 

🎓いま優先すべきは「現役層の再教育」と「中枢の補強」

 

考えうる優先順位は、次の通りだ。

  1. 現役の政策決定層への短期集中トレーニング

     - 因果推論

     - 政策評価

     - 統計の読み方(使い方ではなく、騙されない読み方)

  2. 省庁横断の少数精鋭チームの常設

     - 統計・推論・データガバナンスを担う中枢機能

  3. 成果を可視化する制度設計

     - KPI

     - DX決算書のような形で、進捗と失敗を公開する仕組み

教育改革は必要だ。

だがそれと同時に、今動いている中枢神経をどう立て直すかが急務なのである。

 

教育か、現役か、という二項対立ではない。

両方やる。ただし順番を間違えない。

 

統計を学ぶ前に、問いを整えよ。

問いを誤った社会に、正しい数字は存在しない。

 

「痛いコスメ」は、なぜ何度も流行るのか

――スピキュール、発酵、そして“皮膚という臓器”の話

 

ここ最近、美容業界で再び勢いを増しているのが

スピキュール(微細棘)×発酵×皮膚常在菌という流れです。

韓国、そしてフランス。

いずれも美容感度の高い市場で、

• 「菌を殺さない」

• 「刺激=悪ではない」

• 「皮膚は“鍛えられる”臓器である」

という考え方が、静かに、しかし確実に主流になってきています。

この流れ、私にとっては“新しい”というより、懐かしい”。

 

★実は昔からあった「痛いコスメ」

 

今は「最先端」のように語られるスピキュールですが、

エステ業界ではかなり昔から存在していました。

• 海綿由来

• 海藻系

• 天然ミネラル棘

名称は違えど、

「微細刺激で皮膚の新陳代謝を整える」という発想自体は、決して新しくありません。

 

私自身、約5年前、韓国発のスピキュール系ブランドのコンサル(PR)に関わっていました。

そのとき、研究者に真っ先に聞いたのが、こんな質問です。

 

 • 棘って形状的に横倒しになりやすいはずなのに、なぜ角層に刺さる?

 • 過剰刺激にならない塩梅は、どうやって決めている?

 • 毎日使っていい刺激?皮膚は順応する?それとも壊れる?

 

この時点で確信したのは、スピキュールは「魔法の美容成分」ではなく、皮膚に“反応”を起こすテクノロジーだということでした。

 

★スピキュールが“効く”理由(ただし条件付き)

 

皮膚は、ただのうす〜いラップではありません。

ラップの部分は、皮膚の最表面のいわゆる”肌”と呼ばれる角層になります。

実際は皮下組織(脂肪)まで含められる人体で一番重い大事な臓器、最前線で免疫を担当し、感覚器でもあり、情報処理系を担ってます。ここに微細な刺激が入ると、皮膚は「異物刺激」として反応します。

 

• 角層の“整え直し”が進む(ターンオーバーが体感される)

• 「何かを入れた」より「動いた」感が出る

• 使い方次第で、肌の“鈍さ”が取れて見える

 

つまりスピキュールは「何かを入れる」より「皮膚を反応させる」技術。

 

これは、

・ピーリング

・ダーマローラー

・マイクロニードル

と同じ構造です。

 

ほどほど(中庸)が大事。

「やりすぎ」は、必ず毒になる。ここが一番大事。スピキュールが“痛いコスメ”である以上、地雷もある。

 

 • 棘が強すぎる/頻度が高すぎる

 • 乾燥が強い/バリアが壊れている(アトピー素因・炎症中など)

 • 施術後(レーザー・ピーリング後)に勢いで重ねる

 • 「効かせたい欲」で摩擦や追い刺激を入れる

 

この条件が重なると、美肌ではなく慢性炎症ルートに入ります。

 

赤み・ヒリつき・ざらつき・色素沈着……美容って、簡単に“医療案件”になる。

 

スピキュールは

✔ 効く人には効く

✖ 肌質によっては安全ではない

“医療寄りの美容”だと理解して使うべきです。

 

★では、なぜ「発酵×常在菌」と組んで再ブームなのか?

 

理由はシンプル。

1. 殺菌・防腐しすぎた時代への反省

2. マイクロバイオーム(皮膚常在菌)が一般に浸透した 

3. 「優しすぎる美容」への物足りなさ

4. SNS時代、体感があるものが勝つ(ピリピリ=効いた気がする)

 

そしてもうひとつ、人間の脳は痛みと効果を結びつけやすい。

だから「痛いコスメ」は何度でも流行る。名前を変えて、何度でも。これは心理学的にも、非常に強い。

 

★内面美容・腸皮膚連関の視点から

 

私がずっと言い続けていることがあります。

皮膚は、第二の脳

触れば、すぐに反応する

そして腸とも相関する

(腸よりデリケートです)

 

スピキュールというか、これはコスメ全体に言えますが、“合うかどうか”は、肌質(DNAと気候などの環境要因)だけではなく

 

• 腸内環境

• 睡眠

• ホルモン

• ストレス

 

すべてと連動しています。

 

つまりこれはコスメ単体の話ではない。

 

★「痛いコスメ」は流行る。でも、答えではない。

 

スピキュールは

✔ 使いどころを選べば、非常に面白い

✖ 乱用すれば、確実に皮膚を壊す

そして、

また数年後、別の名前で“再発見”されるでしょう。

 

美容業界も一種モードと似ている。

いつもそうやって回っています。🤣

 

大切なのは、

流行を信じることではなく、”自分自身の肌質”を理解すること。

私はこれからも、

「効く・効かない」ではなく

「なぜそうなるのか」を語っていきたいと思っています。

 

★美容オタクぴよこ🐤のまとめ

 

• スピキュールは“新しくない” 歴史はある

• 刺激は情報、だが毒にもなる

• 皮膚は臓器、扱うのには知性が要る

• 美容は、政治と同じ

 👉 単純化すると、必ず歪む